矢口博士と弁慶号。 MISATOは、美里?
その3
矢口博士は、その犬を弁慶号と名付けた。
矢口博士は、その弁慶号という犬を子犬の頃から飼っていた。
矢口博士は、有名な学者であるが、研究所に、研究者たちご留守のときは、この弁慶号という犬が、唯一の家族であった。
そして、矢口博士と二人っきりのときには、この弁慶号という犬が、矢口博士の世話をした。
弁慶号は、極めてよく訓練されたシープドッグであった。
シープドッグが、羊飼いに代わって、羊の群れを自在に操るように、弁慶号は、思いのままに矢口博士のことを操ることができた。
弁慶号は、「ワン」と矢口博士に吠えて、朝、昼、晩の時間を知らせた。そして、用意された食事を矢口博士がきちんと取っているかチェックすることも忘れない。
矢口博士は、弁慶号を自分の話し相手として好んだ。
研究所の研究員や、研究室の出入りの業者たちは、矢口博士が弁慶号に自分の研究内容や、最新の研究を噛みしめるようなゆっくりとした口調で、講義しているというか話して聞かせているのを目撃した。
そして、矢口博士は授業は、どうもこの犬の弁慶号、しっかりと理解しています、その話に、ついていけてますという表情で聴いているのを多くの人が目撃している。
ところで、弁慶号の矢口博士に対する献身的な行動は、一方的なものではなく、弁慶号はこの献身的な行動に対する代償として、十分な時間を取った散歩に連れていくことを矢口博士に要求した。
* *
「これは、とんでもない事態である。人類の叡智を、人類の知恵を絞って、とにかく全力でことに当たらないと後悔することになる」
ところで、矢口博士は、このところ、この世界に起きつつある異変に最初に気づいた人物であった。
矢口博士は、様々な資料や書物を世界中から取り寄せた。資料は、日々研究室に運び込まれていた。資料は、様々な時代の、様々な国の言葉で書かれていた。そして、矢口博士の研究所の研究員たちも、様々な言語の文書の解読に参加した。
矢口博士は、日夜それらの書物や資料を読み込み続けた。
そんなある日、愛犬の弁慶号と散歩中の矢口博士は、一枚の不思議な写真に出くわした。
最初に、写真を見つけたのは矢口博士の愛犬弁慶号であった。
矢口博士は、散歩中の弁慶号が、道端に落ちていたそよ写真に興味を持ったらしく、写真に歩み寄り、クンクンとその写真の匂いを嗅いでいる。
矢口博士が、その写真を拾い上げると、弁慶号は愛おしそうに、写真を見上げ、視線をその写真に、向けていた。
とある時代の、とあるアルバムから抜け落ちた1枚の写真が時を超えて、歴史を超えて、矢口博士と弁慶号が歩く、その足元に舞い落ちていた。
その写真の意味を悟った矢口博士ではあったのだが、写真とのあり得ない出会いということを穏やかな心で受け入れた。
矢口博士は、その写真を拾い上げた。
「MISATOさん、こういうことがあっても、ことさら不思議ということでもないのです」
矢口博士は、視線の向こうの誰かに向かってつぶやいた。
その4
しかし、矢口博士に何が起こったというのだろうか。
矢口博士は、愛犬、弁慶号をつれての散歩から帰宅すると、突然高熱に冒され、
それから意識を失い、そして、そのまま意識を取り戻すことはなく、ベッドで、ただただ眠り続けているのだ。
矢口博士は、世界の各地で起きている理解を超えた出来事の発生を予言した人物である。世界を襲う超常的な現象は、常人の理解を全く超えているものなのだ。
ということで、世界は、矢口に頼るしか道はなくなってしまっている。
われわれは、今世界で起きている超常現象になんとか対応するべきなのだが、その対応法を見つけるべく、矢口博士を中心とする研究員チームが結成されてこの頻発する世界規模の超常現象対応するプロジェクトがようやく軌道に乗り出したところなのである。
ということで、われわれは、考えたくはないのだが、矢口が死んでしまうようなことになったら、世界に襲いかかる超常現象に対応するための術をなくしてしまうかもしれない。
その時、われわれの世界に何が起こるのか。われわれは、最悪の事態を念頭においておのおのの道を行くべきなのかもしれない。
* *
前回、矢口博士が突然の、そして謎の病におちたことについて書いたのだが、良かったことには、矢口博士は、病から回復することができた。そして、矢口博士が職場に、研究所に復帰できたのは、われわれには朗報であり、希望の光が再び差してきたように思えた。
しかし、今となって考えるに、矢口博士の復帰は、本当の不幸の始まりであった。
その5
矢口博士は、ある日、愛犬、弁慶号を連れて、散歩に出て、散歩から宿舎に戻り、矢口博士は、直ぐに発熱して、数日間寝込んでしまった。
矢口博士の容態は、深刻であって、最悪の事態も予想された。
しかし、矢口博士は、ギリギリの所から奇跡の回復を果たし、研究に復帰した。
この世界から多くの優秀な研究員が参加する研究は、矢口博士の存在なくしては成立しえないものであったので、矢口博士の復帰は、最初は、この研究の関係者を初めとして多くの人が大いに喜んだ。
世界中の人間は、矢口博士がどんな人物かハッキリ知らないとしても、矢口博士の研究の内容がどんなものであるのか知らないとしても、ぼんやりとではあるが、「世界の命綱」であり、自分たちの将来の生活が矢口博士が率いるチームの研究に掛かっていることは、感じていた。
矢口博士が研究に復帰して、その最初の日に、研究所の研究員や出入りの業者、矢口博士に接触する人は、たちまち、矢口博士に何か重大な異変が生じていることを感じ取った。
矢口博士の異変はウワサとなって、直ぐに、研究所の隅から隅にまで伝わった。
矢口博士の異変による最大の被害者は、矢口博士の最大の理解者の一人(?)であった矢口博士の愛犬の弁慶号であった。
矢口博士は、研究に復帰の日の朝、研究所に現れると、研究所を勝手気ままに闊歩する大型犬を見つけた。
矢口博士は、復帰の所長命令の第1弾として、この大型犬の研究所からの排除を命じた。
矢口博士にいちばん身近に接していた愛犬の弁慶号に矢口博士は気づかなかったのだろうか。
弁慶号の一件は、研究所の人々を大いに驚かせた。
矢口博士は、かっては自分の愛犬として、自分の身内のように大切に飼っていた弁慶号を役所に引き渡し、処分してしまうように命じたのである。
研究員の美里が、弁慶号を矢口博士の怒りから守ってやるために、急いで、弁慶号を研究所から連れ出した。
その6
おしゃべりで、温厚で、動物好きな矢口博士は、研究所において、人の輪の中心に常にいた。矢口博士を中心に、様々な議論がなされ、それが記録され、研究の推進力となり、展開力となった。
矢口博士がリーダーをつとめる研究のチームであれば、どんな難問でも解決出来ないことはない。研究所の研究員たちは、密かに自信を持っていた。
しかし、それはもう過去のことである。矢口博士が病に倒れる前のことである。
そして、今、研究員たちの無前提の信頼が、少し前までは確かに存在していた矢口博士への信頼が失われつつあった。
研究員たちは、口には出さないが、同じ形の不安が、研究員たちの心の中に育ちつつあった。
(わたしたちは、正しかったのかと言えるのか?)
(矢口博士は、私たちの救世主。私たちが直面している危機から、私たちを救い出せる唯一の人。そう思ってしまっていた、私たちは、正しかったのか?)
(迫りくる破局に備えるために、矢口博士を信頼して、矢口博士を疑うこともなく、巨大な権力と権限を矢口博士に引き渡した。その判断を、下したのは誤りだったのではないか?)
矢口博士は、すでに、自らが望めば、世界の人々の上に独裁者として君臨できるほどの巨大な権力を獲得していた。
そして、日が経つにつれて、研究所の人たちが考えている最悪の事態が、確実に現実のものとなっていった。
矢口博士は、研究所の所長室に閉じこもった。
矢口博士は、一日中所長室に閉じこもって、人が所長室に入ることを強く拒んだ。
矢口博士は、研究所の外の何者かと頻繁に連絡をとり、独断で沢山の契約を結び、さまざまな人に、独善的な命令を出し始めた。
あやしげな人物が、矢口博士の所長室に出入りするようになった。
人々は、心底恐怖し、困ってしまった。
しかし、もはや矢口博士を止めることはできなかった。
少なくとも、この国のあらゆる権力が矢口博士の元に引き渡されてしまっていた。