口
「酷い子」と社は落ち着いた口調で少女の背中を目で追った。「私から逃げられると思うのかしら?」と独り言で言うと、彼女の長い黒髪が生き物の様に伸び、地面を蛇の様に這って少女を追いかけ始めた。少女は、振り向くこともなく必死に境内の外に向かって走った。しかし、地面を這う髪の毛は、異様に早く少女の後を追いかけ、とうとうその細い足首に髪の毛が絡みついた。少女は思い切り地面に前のめりに倒れると、小さい手に掴まれていた白い面が地面にカランと落ちた。
少女は、髪の毛に引っ張られ、ずるずると社の方にたぐり寄せられていった。身をくねらせ足にからみついたものを取ろうとして、それが社の髪の毛であることを知ると、大きな悲鳴をあげ指で地面をひっかき、何か掴めるものがないかと、必死で手探りをした。しかし指は空を掴むばかりで、一瞬何かを掴み体がピンと張るのを感じたが、手にした小さな枝は、たちどころに折れた。あとは、地面をひっかくしかなかった。
「助けて!」少女の声が闇の中に何度も響き渡った。どうした?という男の声が闇の中で応じたが、その応えは近くから聞こえたものではなかった。少女の体は、土の上をすべるように引きずられ、あっという間に社の足下まで運ばれた。
「酷い子」社はそういうと、少女の顔を両手で挟んで持ち上げた。「私は、香ちゃんを殺していないわ。私の中に入っているだけ」すると、社の顔は、少女の顔に変化して、にこりと笑った。「あら、礼香ちゃんおひさしぶり」と小さい口がかつて聞きなじんだ声色で少女に話しかけた。「わたしは、此処にいるわよ。いっしょに遊ぼうよ」
そして、顔は再び社のものに戻った。
「いやだぁ、助けて!!」少女の悲鳴が絶頂に達し、社はそれを面白そうに笑うと。「あなたもここに来ればいいわ」と優しい声色で誘った。
社は、笑いながら顔を右に向けた。そして普通止まる筈の首の回転はそのまま続き、とうとう頭がぐるりと180度回転して、後頭部が少女の方を向いた。そのあまりの不気味さに、少女は声を失った。歯の根が合わさらない。寒気が押し寄せてきた。
「生きが良くて美味しそう」聞いたことのない重く低いひび割れた声がした。そして、がくがく震える少女の顔を両手で掴んだまま、頭を左右に振って髪の毛を左右に開いた。
すると後頭部の長い黒髪の間から、とてつもなく大きな口が、口だけが現れた。口は、大きく開くとぱくりと少女の頭をそっくり、口の中にいれ、暴れまくる少女の手足をものとせず、白い歯を閉じた。
「どこだぁ」と男の声がするが、まだ遠い。
少女の、首から上はすっかり、大きな口の中におさまり、首から下は、ばったりと地面に落ちた。大きな口は、その端から血を流しながら数回咀嚼を繰り返し、ごっくんと頭を飲み込むと、地面に落ちた胴体を両手で掴み、蛇が大きな獲物を丸呑みするようにその小がらな頭の無い体を口の中に押し込んだ。いくらなんでも入りそうにも無かったが、口は左右に大きく裂けるように開き、少女の体に合わせるように、頭全体がぷっくりと膨れ上がった。社は両手で小さい体を口の中奥深くへとさらに押し込んでいった。社の頭も喉も風船の様に膨らみ、社はうぐっうぐっと辛そうな音を鳴らした。
その大きな喉の膨らみは胸を通って腹に及んでゆき、ゆっくりと、しかしスムーズに膨らみは移動していった。
やがて少女の体はすっかり社の腹の中に収まってしまった。一旦はぷっくりと膨れた腹だったが、みるみる内にそれは元の様にしぼんでいった。
「おーいどこだ」という声がやっと近づきつつあった。すでに少女の姿は、そのかけらさえ無く、地面を湿らせた血だまりだけが残っているだけだった。後頭部の口は大きく長い舌を伸ばすと、その血だまりを砂ごと舐めとった。最期にげっぷをすると、少女の衣類が口から、吐きだされた。
やがて首が、ぐるりと回ると、顔が向東野 礼香のものに変わっていた。そして体もいつの間にか小さい子どものに体型に変わっていた。社だったモノは、ぶかぶかになった服を脱ぎ捨てると、吐き出した服に着替えた。そして返り血を浴びた社の服を丸めて、後頭部の口に放り込み、地面に坐って泣き出した。
ようやく、男の声が近づき、少女の側にやってきた。
「どうしたの?」
「白い面をかぶった、ブギーマンに追いかけられたの」と少女は泣きながら訴えた。その泥だらけの手の指す方向に、社の白い面が残されていた。
「もう大丈夫だよ」と男は少女をなだめると、警察に連絡をするためにスマホを操作しはじめた、髪にかくれた少女の後頭部の口が、にやりと笑った。