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聖羅  作者: 水綺はく


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9/30

すっからかん

 「あれが結衣ちゃんの働いているビル?」

 「そうよ。…こじんまりとしているでしょう。」

 「こじんまり…?」

 文房具屋に向かう道のりで自分の働いている会社を通り掛かった私はオフィスを指して聖羅に話した。

 「結衣ちゃんはどんなお仕事をしているの?」

 私の手を握る聖羅が目をぱちくりさせながら尋ねる。

 私は少しの間、黙って、自分の仕事内容を思い出しながら聖羅にもわかる言葉を探した。

 「うーん……お客さんから電話で話を聞いて問題を解決したり、アドバイスする仕事かな…」

 「ふーん…その仕事は楽しいの?」

 …楽しい。聖羅の無知な言葉に真実を話すべきか戸惑った。

 でも聖羅はもう大人の年齢なのだから話すべきなのかもしれない。

 聖羅の手を握りながら彼女の目を見つめた私は慎重に言葉を選びながら話した。

 「聖羅、お仕事はね、楽しいだけじゃ出来ないの。楽しいこともあるし、辛いこともあるし、退屈なこともあるの。でもそのお陰で今、私は聖羅と一緒に生活出来ているから辛いことも退屈なことも乗り越えられるの。」

 聖羅は私の言葉にキョトンとした顔で首を傾げて、「ふーん…なんだかよく分からないなぁ…」と返した。

 それから満面の笑みで、

 「でも結衣ちゃんが幸せなら聖羅はなんでもいいよ!」と言った。

 聖羅の言葉に私はなんだか胸が痛くなって苦笑して彼女から目を逸らした。

 彼女の私へと向ける純粋な感情が私の過去を焙り出して罪悪感を加速させる。

 本当はこんな大人になりたくなかった。

 二人で道を歩いていると銀行の無人ATMが目に入った。

 そこでハッとする。

 そうだ!私は聖羅の夢を叶えるのが目的だったのだ。聖羅がデザイナーになるために学校に通わせる必要があった。

 来年の春に聖羅が専門学校に入学するためには入学金の準備をしなくてはいけない。

 「聖羅、ちょっとここで待ってて。」

 ATM前で足を止めた私は聖羅を置いて小走りで自動ドアを抜けた。

 現在の貯蓄を確認するために財布から通帳を出して通帳記入を選択した。薄い通帳がATMの中へと吸い込まれていく。

 記入している機械音がしばらく流れてようやく吐き出された通帳を手に取って残高を確認する。

 一番下に記載された最終残高が五百三十円となっていた。

 「え!?どうして…?」

 思わず声が出る。二年前まで三百二十三万円あったはずの貯金がほとんどなくなっていた。

 これでは聖羅の入学金はおろか、二人の生活費ですら危うい。

 一体、何故?

 私は一体何にお金を使ったというのだろうか…

 今まで無駄遣いせず、真面目に生きていたはずだったのに…消えたお金の原因を思い出すことが出来なかった。

 こんなはずじゃなかったのに…思い出せ、消えたお金のありかを思い出さないと……

 「結衣ちゃーん‼︎」

 通帳を見つめたまま張り詰めていると背後から明朗な声が聞こえた。

 ハッとして振り向くと開かれた自動ドアの先で聖羅が微笑んでいる。

 太陽の光が彼女の輪郭をなぞっていて優しい栗色の髪がより一層輝いていた。

 「結衣ちゃん、早く、早く‼︎」

 聖羅に急かされた私は慌てて思い出すことを止めて通帳を鞄の中に突っ込んだ。

 「うん、ごめんね。もう行けるから…」

 彼女のそばに駆け寄ると彼女は私の手を掴んで握った。

 聖羅のひんやりとした掌が私の地肌に伝わる。

 私の掌は夏の暑さで熱を帯びていた。

 「懐かしいね。」

 前を向いて歩く聖羅がふと思い出したように呟いた。

 「昔よくこうやって二人で手を繋いで近所の道を歩いたりしたね。」

 彼女の言葉で幼い頃の記憶を断片的に思い出した。

 そう言えば手を繋ぎながらよく二人で近所の公園までの道のりを歩いていた。

 聖羅は時折スキップをしたり、私の手を握ったまま急に走り出したりして困惑させる時があった。

 私自身も気になるものがあると急に足を止めて彼女を困惑させたまま別のことに集中し出す時があった。

 ガラス集めなんかもその中の一つだ。

 私はガラスの破片などが落ちていると拾い集めて家に持って帰る癖があった。

 さまざまな色をしたガラスが光に当たってキラキラしているのが綺麗で地面に落ちていると衝動的に拾い上げてしまうのだ。

 六才の時だった。聖羅と歩いていた私はコンクリート路に落ちたガラスの破片を見つけると彼女の手を引っ張って、それを掴もうと手を伸ばした。

 「結衣ちゃん、どうしたのぉ?」

 聖羅が首を傾げて尋ねる。

 私はそのまま腰を下ろして小さな豆粒ほどの大きさのガラス片を親指と人差し指で掴もうとした。するとその瞬間、人差し指から突如、赤い液体が現れた。

 驚いた私はガラス片から慌てて手を引っ込めると咄嗟に立ち上がった。

 人差し指を見つめると腹の部分が鋭利なガラス片で切れて赤黒い鮮血が流れていた。

 血を見慣れていない幼い私は思わず恐怖で硬直してしまう。

 「結衣ちゃん、大丈夫?」

 聖羅が心配そうに顔を覗き込んだ。

 「あれ⁇結衣ちゃんの指から血が出てる!」

 流血に気づいた聖羅が血が出ている私の右手を掴んだ。

 「結衣ちゃん、可哀想…」

 憐れむ彼女の横で私は今にも泣き出しそうだった。

 痛みよりも指から流れる赤黒い血が恐かった。

 聖羅は私の手を引っ張って自らの方へと寄せると流血を静かに見つめたまま私の人差し指を口の中に含んだ。

 私の指先が彼女の口の中の粘膜に包まれる。

 生温かくて柔らかな感触だった。

 私は自分の指先が彼女の中へと収まっているのをただ呆然と眺めていた。

 聖羅は私の指先を優しく吸い上げると口からそれを出して元の位置へと戻した。

 「ほら、血が止まった。もうこれで大丈夫!」

 聖羅の言葉通り、人差し指に流れていた血が止まっていた。

 残っていたのは聖羅の柔らかな舌先の感触と粘膜の温かみだけだった。

 指先が彼女の艶やかな唾液で覆われて外気に触れるとスースーする。

 「聖羅…ありがとう…」

 驚きながらも聖羅に感謝すると彼女は顔をくしゃくしゃにして笑った。

 あの時、私は初めて聖羅が自分よりも遥かに大人な女性に見えたのだった。

 聖羅は時折、私が考えつかないような突拍子もないことをする。


 「結衣ちゃん、見て!金色の絵の具が売っているよ‼︎」

 文具店に着くと目をキラキラと輝かせた聖羅が声を上げた。

 「買ってあげようか?」

 沢山の絵の具が並べられたコーナーで目移りする彼女に尋ねると彼女は首を横に振って、

 「ううん、いらない。聖羅が欲しいものは他にあるから。」と答えた。

 それから何かを探すように辺りをキョロキョロし出した聖羅は何かを見つけると、あ!と声を出して急に私の手を引っ張った。

 「結衣ちゃん、こっちこっち!!」

 ぐいぐいと進む聖羅に絆されながら前を歩くとカレンダーが置かれたコーナーに辿り着いた。

 カレンダー?

 首を傾げると聖羅が私の手を離して物色し出した。

 「聖羅、これが欲しい!!」

 わずか数十秒で即決した聖羅がA2サイズのカレンダーを掲げて強請るように私の目を見る。

 彼女の手には人気のクマのキャラクターが描かれたカレンダーが掲げられていた。

 「いいけど…」

 別に構わない。なんでも買ってあげると言ったのだからカレンダーくらい買ったって構わない。

 でも何故?

 聖羅がカレンダーを欲しがる意図が理解できなかった。

 てっきり絵の具やクロッキー帳など、彼女が大好きな絵を描くことに関わる物を欲しがると思っていたからカレンダーを求めるのは意外だった。

 「やったー!じゃあ、早くレジに行こう‼︎」

 嬉々とした声を上げる聖羅がカレンダーを抱えて再び私の腕を引っ張る。

 「…え?もうお会計するの⁇他に何か欲しいものは」

 驚く私の言葉を遮るように聖羅は、「いいの、いいの!」と言ってレジに並ぶ。

 「聖羅が一番欲しかったのはこれだから。」

 会計を終えると彼女は袋に入ったカレンダーを覗いて満足げな表情を見せた。

 それから真っ直ぐ家に帰るように促してきた。

 聖羅の考えていることが理解できない私は彼女がぶら下げた買い物袋を見つめながら、本当にこんなものでよかったのかと首をひねった。

 帰路につくとエアコンのスイッチを入れる私のそばで聖羅が椅子の近くの壁を指して、「ここ!」と叫んだ。

 「結衣ちゃん!ここにカレンダーを飾って‼︎」

 促された私は不思議に思いながらも慌てて引き出しから画びょうを取り出してカレンダーを壁に飾った。

 六月の日付までカレンダーをめくると一月から五月までの紙をゴミ箱に捨てた。

 「今日は六月の何日ぃ?」

 「今日は六月の十九日だよ。」

 聖羅に優しく教えると彼女がわかるように黒マジックで日付に印をつけた。

 「結衣ちゃん、ありがとう!」

 まるで花が咲いたように笑う聖羅はゆっくりとカレンダーに歩み寄って印がつけられた部分に手を置いた。

 「なんだか短いなぁ…」

 しみじみと声を出す聖羅に、え?と聞き返した。

 短い?

 「聖羅、短いって何のこと…?」

 私が訪ねている途中で彼女はそっぽを向いて、「おしっこしたい!」と言いながらトイレへと走って行った。

 トイレの扉が閉まる音を聞きながらカレンダーの日付を静かに眺める。

 あと十日ほどで七月なのか…梅雨明けまであと一ヶ月を切っている。

 それにしては最近の週末はよく晴れているなあ。来週末も晴れるのだろうか…

 ぼんやりと考えていると玄関横の扉からトイレの流れる音が聞こえた。



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