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聖羅  作者: 水綺はく


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8/30

存在する二人

 「結衣が聖羅に飛べるおまじないを掛けてあげる。」

 口を半開きにして呆然とする幼い聖羅に私は熱い抱擁をした。

 そして耳元で再び囁く。

 「結衣はね、もう既に飛んだことがあるの。…大丈夫、簡単よ。」

 体を離すと窓が開け放たれたベランダを指して言った。

 「あの植木鉢を登って飛び出してごらん。そしたら体が急に浮いてくるから。」

 我ながらなんと口八丁なのだろうか。

 己の醜悪さに戦慄した。あの時の私はどのような顔をしていただろうか。きっと悪どくて醜い顔だったに違いない。

 何も知らない聖羅が私の手を掴んで微笑む。

 「うん、分かった!…じゃぁ、結衣ちゃんも聖羅が飛んだら一緒についてきてね!!」

 聖羅の笑顔は聖羅の母にそっくりであった。

 彼女の笑顔はまるで聖母のように神々しい。

 ただ、あの時の私にその笑顔は通用しなかった。

 自分の惨めさと自信の無さが良心を蝕んでいて、自分のこと以外、何一つ考えられないようになってしまっていたのだ。

 私から離れた聖羅がベランダへと向かう。

 裸足のまま、プランターをよじ登る彼女の後ろ姿を見つめているとようやく少しだけ現実味を帯びて冷静さを取り戻してきた。

 止めて…止めて…!今ならまだ間に合う…聖羅を止めて…!!

 幼い私に必死に呼びかける。

 心臓の鼓動が高鳴っていた。

 そうだ…あの時、私は…冷静になって彼女を止めようとした。

 でも恐くなって何も言葉を発せなくなってしまったのだ…

 丁度、このときだ。

 聖羅が手摺りに片足を掛けて振り向いたときだ。

 「結衣ちゃん見ててー!聖羅、飛ぶからー!!」

 満面の笑みの聖羅がベランダに足を掛けたまま、前のめりに体を倒した。

 その瞬間、私はようやく彼女を止めなければと声を発した。

 「聖羅!!」

 名前を叫んだ瞬間、それに反応した聖羅の足が滑って体が手すりの外へと落ちていった。

 私は悲鳴を上げて両手で顔を覆う。

 それからすぐに両手を離して恐る恐る目を開けると、さっきまでそこにいた聖羅は忽然と姿を消していた。

 慄く私は思わずゆっくりと後退りする。

 平穏な静けさを纏うベランダの景色はさっきまでの出来事を感じさせなかった。

 奥の方から聖羅の母がトイレを流す音が聞こえた。

 そして淡々とトイレのドアが開く音が聞こえる。

 後退していた私は聖羅が気に入っていたリカちゃん人形の頭が踵に当たったことでどうにか足を止めた。

 立つすくむ幼い私の意識のそばで現在の私が何度も叫ぶ。

 聖羅…!聖羅…!聖羅!!



 「…聖羅!聖羅ぁ!!」

 叫んでいると遠くから誰かの声が聞こえた。

 「…結衣ちゃん、結衣ちゃん!!」

 私の名前を呼んでいる…

 ハッとして目を開けると目前に月明かりに照らされた聖羅の顔が映った。

 大人になった聖羅が私を覗き込んで不安げに名前を呼んでいる。

 「結衣ちゃん!どうしたの?」

 目を見開いた私は身体を起き上がらせた。

 反動で体を後ろに引いた聖羅が、そっと私の手を握る。

 「すごく悲しそうだったよ。…大丈夫?」

 聖羅の冷たい手の感触が私の地肌に直接伝わる。

 心配する聖羅の顔を見ると私は彼女に勢いよく抱きついた。

 「聖羅…!生きていたのね…!よかった…!!」

 本当によかった。

 混沌とした意識の中で何度もその言葉を発した。

 呆然としていた聖羅はやがて私を包み込むように抱きしめて囁いた。

 「結衣ちゃん、聖羅はいつもここにいるよ。」

 彼女の声が頭の中でこだまする。

 ’’聖羅はいつだって結衣ちゃんのそばにいるよ,,

 彼女の胸の中で涙がとめどなく溢れる私は彼女の淡色のパジャマを濡らす。

 声を上げて嗚咽しながら何度も何度も彼女の名前を呼んだ。

 「聖羅…聖羅…!!」

 名前を呼び続けないと不安になる病気にでもかかってしまったかのようだ。

 そんな姿を落ち着かせるように聖羅は私を抱きしめながら何度も返事をしてくれた。

 「結衣ちゃん、なぁに?」

 ’’聖羅はここにいるよ,,

 その晩はそのまま聖羅の胸の中で泣き疲れて眠りについた。


 再び眠りから目を覚ましたのは朝だった。

 目を開けると椅子に座って頬杖をついている聖羅の姿が目前に映った。

 彼女の横顔が窓から通る朝日に照らされて神々しい。

 卓上にはガラスのコップが一つ置かれていて中には水がなみなみと入っていた。

 聖羅はそのコップを見つめたまま静かに座っていた。

 起きあがろうとすると布団が擦れる音がして、それに気づいた彼女が私を見る。

 「…おはよう。」

 泣き腫らしたせいで重い瞼を持ち上げながら遠慮がちに挨拶すると聖羅はニッコリと微笑んで、

 「おはよう、結衣ちゃん!」と返事した。

 そして思い出したように、あ!と叫ぶと、

 「今日は約束の日だよ!お出かけの日!!聖羅、ずっとちゃんと大人しくしていたでしょう?だから約束通り文房具屋さんに行こう⁉︎」と強請った。

 私は慌てて時計の針を見る。

 時刻は午前九時を過ぎていて、既に文房具屋が営業している時間だった。

 久しぶりにこんなに遅くまで寝たなぁ…

 仕事の影響で八時前には目が覚める習慣となっていたが今朝は全く目が覚めなかった。

 こんな時間まで眠りこけたのは学生時代以来かもしれない。

 「結衣ちゃん、早く早く!!」

 「あ、うん。ごめんね…」

 急き立てる聖羅に私は慌てて布団から離れてキッチンに向かった。

 「その前に朝ごはんを食べてからね!」

 椅子に座る聖羅に向かって呼びかけると彼女は機嫌良く手を上げて、はーい♪と言った。

 私は冷たい水で顔と手を洗って冷蔵庫に向かうと卵を四つ出してフライパンに火をつけた。

 今朝の朝ごはんもやはりスクランブルエッグとトーストだ。

 今日はそれに牛乳を足そう。コップになみなみと注いだ牛乳でパサパサのトーストを胃袋に流し込むのだ。

 本当はフレンチトーストを作って彼女に食べさせたかったのだけど、この様子ではフレンチトーストよりも文房具屋へ早く連れていった方が喜びそうだ。

 私はポップアップトースターにコンセントを挿すと聖羅に向かって叫んだ。

 「聖羅!冷蔵庫の上にある袋から食パンを二枚取って!!」

 私の要求に聖羅はご機嫌な声で、はーい♪と言って椅子から立ち上がった。

 袋に入った食パンを二枚取り出すと、こっちへと持ってきた。

 「ここに一枚ずつ入れて。」

 私の言葉に聖羅は大人しく食パンを二枚、トースターに入れると教えた通りに焼き上げのスイッチを押した。

 一緒に暮らしてから聖羅は私の教え全てに対して従順だ。

 そしてまるでスポンジの如く吸収して覚えていく。

 言動は幼くても私よりも遥かに優秀な気がした。

 今からでもやりたいことをさせたらすぐに習得するのではないか…

 聖羅のやりたいこと…そうだ!

 「結衣ちゃん、これ食べたら文房具屋さんだからね!」

 ハッとしていると聖羅が再び催促した。

 私は強く頷いてフライパンに卵を割り入れた。

 ーー大人になったらデザイナーになって可愛い洋服をいっぱい作るの!!

 四歳の頃の聖羅の笑顔がフラッシュバックする。

 そうだ…聖羅には夢があった。

 ファッションデザイナーの夢を叶えるのはきっと今からでも遅くはない。

 聖羅はまだ二十六歳だ。正確には今年で二十七歳になるが、私の年齢に比べたらまだ若い。

 今からでも十分巻き返しが出来る気がする。

 そうだ…そのために…私が聖羅の夢を叶える手伝いをしよう!!

 それが私に出来る最大限の贖罪だ。

 聖羅の夢が叶ったら聖羅は幸せに違いない。そうすれば私も幸せになる。

 彼女の幸福が私の幸福に繋がるのだ。

 出来上がったトーストとスクランブルエッグを皿に乗せると冷蔵庫から牛乳を取り出してコップになみなみと注いだ。

 テーブルに朝ごはんを並べると私はそれをほとんど口にせずにスマホ画面を開いた。

 スマホで都内にファッションデザイン科がある専門学校を調べて、より家から近い学校の入学金を調べた。

 すると学校のホームページに入学金は百五十万円と表記されていた。

 百五十万円…私なら今すぐにでも出せる金額だった。

 学生時代から貯めた貯蓄が三百万円以上あるのだ。

 流石に全部使うのは危険だが、半分となれば簡単に出せる。

 聖羅の食事が済んだところを見計らうと一足先に身支度を整えた。

 「結衣ちゃん、朝ごはん食べないのぉ?」

 心配する聖羅をよそに私はクローゼットの引き出しから預金通帳を取り出して残高を確認する。

 何故か最終残高の日付が二年前の日付になっていたが、その時点で三百二十三万円と表記されていた。

 入学金には十分な数字だ。

 私は日頃から食事も質素で服や化粧品に散財する癖もなかった為、貯蓄は倹約しなくても自然と貯まっていった。

 一年以上前ということはさらにここから一年間の貯蓄も加わるはずだ。

 そうなれば入学金はおろか、聖羅の学費と生活費全てを賄えるかもしれない。

 私は脳内で夢を叶えた聖羅の姿をイメージした。

 ファッションデザイナーになっていきいきとした聖羅の姿だ。その隣にはまだ見ぬ彼女の恋人が寄り添って彼女をサポートしている。

 夢を叶えて愛する人と結ばれる…まさに完璧な幸せだ。

 聖羅にはそうなる素質がある。

 鞄の中に通帳を仕舞って聖羅の方を見る。

 丁度、パジャマから洋服に着替え終えたところだった。

 鏡の前で彼女の寝癖を整えると私も髪を一つに縛って聖羅に言った。

 「さぁ!行こう!!」

 数時間前の悪夢を忘れるほどに気分は爽快だった。



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