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聖羅  作者: 水綺はく


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7/30

眠りの中で

 聖羅と再会した金曜日からまるまる一週間が過ぎた。

 仕事帰りにヒールをカツカツと鳴らしながら橋を渡ると、酒場の「蝶々」から看板の灯りがついているのを確認した。

 足を止めて横開きのガラス戸を見つめると中から一瞬、お客さんの笑い声が聞こえた。

 西澤さんの笑い声だろうか。重なるように女性の笑い声も聞こえた。きっとママの笑い声に違いない。

 その声を確認すると再び前を向いて帰り道の方へと歩き出す。

 毎週金曜日、必ず通う行きつけの「蝶々」に行きたい気持ちはあったが、それ以上に私の帰りを待っている聖羅の存在が心掛かりだった。

 彼女が来て一週間が経過しても私の記憶は未だに混乱したままだ。

 聖羅が存在していること自体が心に引っかかったまま、私の頭の中を掻き乱している。

 ここ一週間、何度も聖羅の存在を信じては疑って…と繰り返してきた。

 私の頭がおかしくなっているだけかもしれないと思っても目の前の事実を受け入れることは容易じゃない。

 それでも信じざるを得ない証拠が私の記憶と一致して本物の聖羅であることを証明する。

 私のおかしい記憶は彼女との最後の日だけだ。

 私と聖羅の最後の記憶だけが互いに食い違っている。

 その事実を彼女に話す勇気が出ない。

 とても恐ろしくて話すことなんて出来るはずがない。

 無意識に足を早めてアパートへと向かっていた。

 アパートに着くと二階のベランダに明かりがついているのを確認する。

 そのまま階段を上って自宅の玄関の鍵を開けた。

 ドアノブを回して扉を開けると、その音に反応したのか、聖羅が玄関の少し先で立ったままお出迎えした。

 黒いヒールに乗った脚がパンパンに浮腫んでいて、疲労しきった顔になっているであろう私と目を合わせて、

「結衣ちゃん、おかえり!」と満面の笑みを見せた。

 その笑顔に安堵して思わず小さなため息が漏れた。

 「ただいま。」

 靴を脱いで家の中へと入ると冷蔵庫を開けて昨日買っておいた夕飯の材料を確認した。

 調理の準備をしていると聖羅が滔々と喋り出す。

 「今日はね、ずっと一人で絵を描いたりお昼寝したりしていたの。絵はなんだか久々に描いた気がして凄く不思議な感覚だったなぁ…すごく久々な気がしたんだけど描いてみたら手が勝手に動いて覚えていたの。それでね、やっぱりお絵描きって楽しいなって思ったんだ。女の子の絵を描いたんだけどカラフルなビーズがいっぱい付いた洋服を着せたの!」

 朗らかな聖羅に対して疲労しながら料理のことを考えていた私は正直、彼女の話を真摯に聞くことが出来なかった。

 かろうじて出来たことは相槌を打つことだけで、彼女の話は私の耳をBGMのように通り過ぎていった。

 「ほら、結衣ちゃん見て!聖羅が描いた絵!!」

 コンロに火を点けてフライパンに油を引いていると彼女が開いたスケッチブックを私の目の前に見せてきた。

 冷蔵庫に入っていた鰯をフライパンにニ匹乗せてから顔を上げて、その絵を確認する。

 聖羅の描いた絵を見た瞬間、思わず絶句した。

 顔と体の大きさがアンバランスな少女の絵…忘却していた記憶を鮮明に呼び起こすほどの衝撃で懐かしさに捉われる。

 聖羅の絵だ…目の前に映るのは紛れもなく幼い竹内聖羅が描いていた絵と全く同じだった。

 当時のものと比較する為の現物が手元になくても、絵を見た瞬間に蘇った懐かしい気持ちが聖羅本人の絵であることを証明していた。

 目の前にいる彼女を決して偽物だと思っていたわけではないが…にわかに信じがたい事実が露呈したことによって、いよいよ自分の記憶を疑わなければいけないことになった。

 私の記憶は一体どこまでが妄想で偽造されているのだろうか…?

 でも、もしもあの記憶が嘘なのであれば私はようやく救われることになる。私も聖羅も救われる。

 私が自分でタチの悪い妄想をつくり上げていたのだとしたら…二人の未来は今から明るくなるはずだ。

 「結衣ちゃん、どうしたの?」

 スケッチブックを下ろして顔を覗き込む聖羅にハッとして考えていたことを止める。

 「…なんでもない。」

 彼女に力なく微笑んでから目を離すとフライパン上でジュージューと音を立てる鰯をフライ返しでひっくり返した。

 焼かれた鰯の身体は黒くなっていて瞳の色は白く褪せていた。

 二匹の鰯が同じ色味でフライパン上に縦に並んでいる。

 鮮やかさを失った二つの死体だ。

 それらを別々の皿に引き上げると今晩のおかずが出来上がった。

 そこに長ねぎの味噌汁と白米を茶碗によそって卓上に置くと何事もなく呼び掛けた。

 「聖羅、ご飯にしよう。」

 聖羅が椅子に座って私も席に着く。

 それから昨日と同様に食事をして、洗い物をして、彼女をお風呂に入れた。

 聖羅がお風呂からあがると交代で私がお風呂に入る。

 数日前までは一人で髪の毛を上手く洗えなかった聖羅もやり方を教えるとすぐに吸収して昨日から一人でも洗えるようになった。

 まだ髪は一人で乾かせない為、ドライヤーを使う時だけは側に立ってやり方を教えながら一緒にやっている。

 聖羅の髪が乾いたら私はようやくお風呂に入ることが出来た。

 お風呂から上がってパジャマに着替えると聖羅が既に布団の中で眠りについていた。

 昼寝を沢山したと言っていたのに彼女は布団の中で丸まって寝息を立てている。

 そばに寄ってその寝顔を見つめていると安堵感と共に眠気が襲ってきた。

 電気を消して彼女が空けた布団のスペースに入ると、タオルケットを半分ずつ掛けて彼女と共に眠りについた。



 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 気がつくと私は実家の階段の前に立っていて、目の前には五階から覗く寂れた集合団地の景色が広がっていた。

 「…結衣ちゃん、結衣ちゃん!」

 名前を呼ばれて横を向くと幼い聖羅が顔を覗き込みながら、どうしたのぉ?と尋ねてきた。

 「…ううん!なんでもない。」

 幼い私の声が耳元に響いた。

 「じゃぁ、こっちへ来て!」

 そう言って階段を上る聖羅の後を身体が勝手についていく。

 顔が熱い…泣いちゃダメだ…!

 頭の中でもう一人の私の心の声が木霊する。

 どういうことだろうか…足元を見ると私の足は小さく、七歳の時に履いていたボロボロの青いスニーカーが目に映った。これは当時、兄のお下がりだったものだ。

 嗚呼、そうか。ようやく納得した。

 きっと私の意識は聖羅と過ごした幼い頃の記憶に戻っているのだ。

 これはいつの記憶だろうか…もしや、あの思い出さないように蓋をしていた記憶だろうか……

 聖羅に誘導されて階段を上ると我が家と同じ色の扉が目に入った。

 「ママー!帰ってきたよー!!」

 扉をノックして、聖羅が叫ぶ。

 まだ幼い聖羅は鍵を持たされていない為、家に帰る時はいつもこのようにしていた。

 数十秒の間の後、玄関の鍵が開く音が聞こえて扉が開かれた。

 「おかえり。…あら、結衣ちゃん、いらっしゃい。」

 聖羅の母が笑顔で迎える。

 「…お邪魔します。」

 家の中に入ると聖羅の母はいつも通り私を手厚くもてなした。

 葡萄ジュースにチョコレートとアイスクリームまで出して、好きなだけ遊んでね。と笑顔だった。

 私は聖羅と会う直前の自分の母の顔を思い出して同じ子を持つ母でありながら雲泥の差があると感じた。

 この家に来る前に私は我が家で母と喧嘩をしたのであった。

 喧嘩は些細なことで、手伝いを頼む母に面倒臭がった私が歯向かったのである。

 母は鬼の形相で私を叱りつけ、仕舞いには私の頬を平手打ちした。

 「あんたは本当に駄目な子だね!」

 頬を抑えながら涙する私をよそに母は家事を続けた。

 しばしの間、大人しくして涙を鎮めた私は逃げるように我が家を出て聖羅と落ち合ったのであった。

 「ママー!聖羅ね、このチョコレートよりも白いチョコレートが好きなのに何でないの⁉︎」

 数時間前の頰が痛む私の横で聖羅が不服そうな声を上げた。

 「あら、ホワイトチョコレート買うの忘れてたわ。また明日、買ってくるから今日は普通のチョコレートで我慢しようね。」

 彼女の我が儘に彼女の母は笑顔で応える。

 これが我が家であったら、我が儘言うな!と大喧嘩になっていたであろう。

 おやつに飽きた聖羅はいつも通り私が持っていないおもちゃたちを広げて私に微笑んだ。

 「結衣ちゃん、何して遊ぶ?」

 丁度その時だった。聖羅の母がトイレに入っていく姿が目に映った。

 私はその姿を見届けるとベランダの方を一瞥した。

 いつもは閉まっているベランダが開け放たれている。

 聖羅の母はベランダに並べられたプランターに水をあげようとしていたのだ。

 ベランダの端に水がなみなみと入ったジョウロが置かれていた。

 私は聖羅の耳に手を当てて、優しく囁いた。

 「じゃあ、結衣と一緒に空を飛ぼう。」

 数秒間、静まった聖羅が首を傾げて私に尋ねる。

 「空…⁇空なんて飛べるの⁇」

 半信半疑な様子だった。そんな彼女の手を握って私は彼女を真っ直ぐ見据えた。

 「聖羅なら飛べるよ。結衣が聖羅に飛べるおまじないを掛けてあげる。」

 私は当時、年齢の割に狡猾なところがあった。

 よこしまな考えが私に嫉妬心を生み出して狡猾な人間に仕立て上げたのだ。

 でも、だからと言って彼女を殺したかった訳ではない。

 ほんの少しだけ痛い目を見て欲しかっただけだ。

 別に、彼女を殺そうと思っていた訳ではない…



かなり遅くなってしまいました…

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