羨望と嫉妬
「聖羅ちゃん、聖羅ちゃん!」
同じ団地に住む子たちが何度も彼女の名前を呼んでいたことを思い出す。
男の子も女の子も同じ団地に住む子供たちはみんな仲が良くて私も例外なくそうであった。
学校が終わればランドセルを家に置いて近所の子たちと年齢差など関係なく遊んでいた。
共に遊ぶ仲間たちはその時によってメンバーが違ったが、いつもいる子たちもいた。
その中に新しく引っ越してきた聖羅がいつの間にか溶け込んでいたのだ。
誰が仲間に入れたのかすら分からない。
私は彼女の明るく無邪気な笑い声が耳に入って初めて彼女を認識したのだった。
彼女は気がつけば当たり前かのように私と同じグループでみんなと一緒に走り回っていた。
そんな彼女に対して特別な感情を抱くことなどなかった。
聖羅も私に対して特別興味などなさそうにしていた。 私達は各々、別の子たちと話をしていたし、最初は目を合わせることもほとんどなかった。
憎しみは特別な感情を抱かなければ生まれないが、無関心は何も生み出さない。私は聖羅が他の子に向ける笑顔を通りすがりの通行人のように時折、眺める程度だった。
そんな私達が仲良くなった切っ掛けはほんの些細な出来事だった。
ある日、集まるメンバーの元へ聖羅が一枚の絵を持ってきたのだ。
「ねぇ、みんな見て!これ、聖羅が描いたの‼︎」
彼女はそう言って満面の笑みで切り離したスケッチブックの絵を見せてきた。
絵の中には男の子なのか女の子なのかも分からないほどにぐちゃぐちゃの人間が一人描かれていて、顔も体も非常にアンバランスな絵だった。
「なんだ、この絵!すっげー下手じゃん‼︎」
一人の男の子が聖羅の絵を指して声を上げるとその場にいた子たちが一斉に笑い出した。
それに気分を良くした彼がさらに馬鹿にする。
「男なのか女なのかも分かんねぇじゃん‼︎」
彼の言葉とみんなの笑い声が児玉する。
聖羅はさっきまでの自信に満ち溢れた笑顔から絶望するような哀しい顔になって自らの絵を引っ込めて隠した。
己の評価と他人の評価が相違していることに生まれて初めて気付いたのだろう。
恥ずかしさと同時に絶望して自信を失くす聖羅はまるで私自身を見ているかのようだった。
それは他者に触れるまで気づかない感情だ。
私も他者に触れるまでは自分は歌が上手いと思っていたし、顔も誰よりも可愛いと思っていた。
賢くて、兄弟に囲まれた自分の生活は何一つ不足ないと思っていた。
誰かに指摘されるまでその自信は打ち砕かれずに幻想を抱かせる。
それが初めて人に知らされて感想を述べられたことによって自分は世界一ではないのだと知るのだ。
もっと恵まれて、もっと可愛くて、もっと才能がある人たち。彼らを見て絶望を覚える。
一瞬で希望の光が消えて真っ暗になる瞬間を幾度となく経験してきた。だから私は聖羅のその姿を見ていられなかった。
聖羅を揶揄った男子と一緒になって笑っていた子たちが散り散りになった後、私だけ聖羅の元を離れずに彼女の側へと寄った。
自らの絵を見つめる聖羅の顔を覗くと彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
私は聖羅の絵に手を伸ばして、そっと紙の表面を優しく撫でた。
切り離されたスケッチブックの表面はサラサラとしていた。
そのまま聖羅の横顔を覗き込むと慰めるように囁いた。
「聖羅ちゃんの絵は聖羅ちゃんしか描けない特別な絵だね。私は好きだよ。」
私の声に顔を上げた聖羅と目が合った。
ガラス玉のように美しい彼女の瞳から一雫の涙が頬を伝う。
悲しい顔をした聖羅に向けて柔和な笑みを浮かべて頷くと、彼女は何かから解き放たれたかのように止め処なく涙を溢れさせて嗚咽した。
その全てを受け入れるかのように彼女の髪に触れて頭を撫でた。
あの時、私は何故あのようなことをしたのだろう。
同情で思ってもいないことを口にして味方になることは正しかったのだろうか。
私はただ自分がされたかったことを彼女に行って心の中の空白を埋めようとしたかっただけに過ぎない。
別に彼女と特別親しくなりたい訳じゃなかった。
まだ幼かったから優しい言葉を並べて厳しい現実から逃げ出したかっただけなのに…
この日を境に聖羅は私に対してすこぶる懐き始めて、私のことを特別視するようになった。
私がみんなの元へ来るとすぐさま隣に来て、側を引っ付いて離れなかった。
私が言った意見は全て賛同して、側を離れると他の人に私の所在を聞いて探し出すほどの気に入りようだった。
そんな聖羅が向けてくる好意を内心、鬱陶しいと感じていた。
彼女のことは嫌いではないが彼女とだけ一緒にいるのではなく、他の子とも仲良しでいたかったのだ。
正直、元から仲良くしていた子たちの方が聖羅よりも馬が合ったというのもあって聖羅としか話さないというのは負担が大きかった。
聖羅はそんな私の気持ちを知ってか知らずか時折、私の気を引くためにあれやこれやと試行錯誤するようになった。
近所の原っぱで四葉のクローバー探しを皆で行った時、一番初めに四葉のクローバーを見つけたのは聖羅だった。
真夏の灼熱の太陽下で汗だくになっていた私は皆と一緒になって大量の三つ葉を掻き分けて必死に四葉のクローバーを探していた。
そこに後から加わった聖羅がすぐさま一枚のクローバーを見つけ出したのだ。
探し始めてすぐに「あった!!」と声を上げた聖羅は汗一つかくことなく、綺麗に四枚の葉がついた緑色の植物を掴んでみんなの前に見せた。
「えぇ!早い!!」
「聖羅ちゃん、俺にも見せて!!」
皆が汗をかきながら色めきだって口々に羨む中、私は聖羅の顔を直視することが出来なかった。
こめかみから頬を伝って滴り落ちる汗が地面の土をポツポツと濡らす。
夏になると私の身体はいつも汗臭くて蒸れた臭いがする。
一方の聖羅はいつも身体から出る汗の量が少なくて、彼女の汗は私と違って水のようにサラサラで潮水に石鹸水を混ぜたような香りがした。
さっきから三十分以上かけて探しても見つからなかったクローバーを十分足らずで見つけた聖羅が握りしめている。
悔しさと虚しさで彼女を直視することが出来なかった。
聖羅の方を無視して何事もなかったかのように下を向いて大量の雑草を掻き分け続けていると真下の手元が誰かの影で暗くなった。
ゆっくりと顔を上げると、ほんのりと汗をかいた聖羅が私の目の前に立っていた。
聖羅は優しく微笑んで目の前にさっき採ったばかりの四葉のクローバーを差し出した。
「これ、結衣ちゃんにあげる‼︎」
曇りなき眼差しで明朗な声だった。
「え!?いいの?」
咄嗟に尋ねると聖羅は笑顔でこくりと頷いた。
あの時、聖羅が私にクローバーを差し出す意図をしっかりと理解していた。
聖羅は少しでも私に好かれたいと思っていたのだ。
たった一度、味方になっただけのことなのにそこまで必死に好かれようとするなんて不思議だった。
ただ、彼女が私に向けるあからさまな優遇に私は優越感を覚えた。誰かに一方的に好かれることが私にとって聖羅が人生で初めての相手だったからだ。
好かれようとあれやこれや様子を窺って特別扱いされることはとても気分が良かった。
私は聖羅に優遇されることに悦楽してどんどんと彼女との交流を深めていった。
しかし彼女と過ごす時間が長ければ長いほど、彼女が同じ団地に住んでいながら私とは家庭環境が異なることに気がついた。そのことを羨むと同時にそれが当たり前かのように過ごす彼女を憎らしく感じた。
そう言った気持ちに拍車をかけるようになったのは彼女の家にお邪魔するようになってからだ。
初めて聖羅の家にお邪魔した時の衝撃は未だに忘れることが出来ない。
聖羅の家は我が家と間取りが同じはずなのに置いてある家具がまるで違っていた。
私の家よりも三倍は大きいテレビがシックな木目調のテレビ台の上に聳え立ち、横には私が欲しくて欲しくてしょうがなかったのに買ってもらえなかったリカちゃん人形と色とりどりの着せ替えセットが飾られていた。
我が家のテレビ台はガラス戸に兄たちが貼ったり剥がしたり…を繰り返した戦隊ヒーローのシールが無数に並んでいて見るからに汚いテレビ台となっていた。
テレビ横には兄たちが愛用していた怪獣の人形が並んでいて、時折その怪獣たちがこっちを睨んでいるように錯覚して嫌だった。
「結衣ちゃん!これで遊ぼう‼︎」
聖羅がそう言って自らの子供部屋でおもちゃ箱を開いて見せてきた。
おもちゃ箱の中には動いて鳴く猫のぬいぐるみやアクセサリーを作れる子供向きの機械など私が欲しくても買ってもらえないような道具たちがぎっしりと詰まっていた。
「わぁ!すごい!!」
思わず声を上げておもちゃ箱の中身を凝視していると聖羅の母親が中へと入ってきて二人分のオレンジジュースとショートケーキに大きなクッキー缶まで用意してもてなしてくれた。
「いつも聖羅ちゃんと仲良くしてくれてありがとうね。」
そう言って微笑む聖羅の母は目元が聖羅にそっくりでまるで聖母のようだった。
面食らう私の横で聖羅がさも当たり前かのようにケーキを口に運ぶ。
花柄のお皿に乗ったショートケーキを光り輝く宝石でも眺めるかのように見つめた。
我が家では私か兄の誰かが誕生日でない限り、ケーキが出ることなどありえなかった。
兄の友人が我が家に遊びにきてもポテチか、せいぜい近所のスーパーで買ったお得用のミニバームクーヘンの袋詰めがいいところだった。
この子は私が持っていないものを全て持っている。
聖羅の人生が喉から手が出るほど欲しかった。
きっと彼女はこれからも私が経験しないような数段上の人生を歩んでいくに違いない。
彼女の生活が心底、羨ましかったのと同時に自らの置かれた環境の貧しさが露呈して惨めに思えた。
非常に惨めだった。
どうして私の環境と聖羅の環境はこんなにも違うのか。
同じ地域で同じ団地に住んでいるのにどうして?
自分が惨めだと思えば思うほどに聖羅の存在が遠くなっていくようだった。
遅くなりました…
またしばらく時間が掛かりそうです…




