耳奥で笑う声
「パパに今日はカレーだよって言ったら喜ぶかなぁ?」
背後から小さな女の子の声が聞こえてきた。
「さあ、どうだろう…パパはカレーよりもシチューの方が好きだからなぁ…」
次に聞こえたのは女性の声だった。
ポストの前に立っていた私は大助も私のアパートでカレーを作った時、シチューの方が好きだと言っていたことをふいに思い出す。
振り返ると見知らぬ髪の長い女性が小さな女の子と手を繋いでこちらへと向かってきていた。私は小さな女の子の顔を見た瞬間、直感でこの子は大助の子だと思った。
甘え上手なのが容易に想像できる小さな子犬のような瞳…あの瞳は大助と同じだ。
心臓が止まりそうになって息を呑む。私は咄嗟に団地から離れて目の前にある公園の看板の後ろに隠れた。そっと顔を出して親子の後ろ姿を眺める。髪の長い女性とおかっぱ頭の小さな女の子…お母さんはパンパンになったエコバッグを肩に掛けていて、女の子は小さな箱入りのお菓子を一つ、手に持っていた。
お母さんがポストを開ける。そのポストはさっきまで私が見ていた「大山」と書かれたところだった。
あの人が大山さん…。まさか、そんなはずない、いや、でもあの子は…あの子のあの顔は間違いなく…心臓が早鐘を打って嫌な予感が襲い掛かる。すると二人の側に一人の男が近づいてきた。淡いブルーのシャツにデニムを履いた男。
近くで見なくても分かった。服装も髪型も、姿形も全てを知り尽くしていた。視線の先で親子と一緒に話すその男は紛れもなく大助だった。
私の頭の中は金槌で撃たれたような衝撃が走って狼狽える。
大助がいる…喜ばしいことのはずだった。でも彼は小さな女の子の手を握って髪の長い女性と三人で階段を上って消えて行った。大助は本当の大助の家へと帰っていった。
じゃあ、私は…??騙されて捨てられた私はどこに帰ればいいのだろう。
私は大助から全く愛されておらず最初から孤独だったんだ。
求められることの喜び…私は大助といる瞬間が幸せだった。でも全部、嘘だった。真っ赤な嘘だった。端から私は金目当てだけの存在だったのだ。
看板の後ろに隠れたまま彼らに声を掛ける勇気すら湧かなかった私は悲嘆にくれて立っているのがやっとの状態だった。
やがてゆっくりとゆらゆらと幽霊のように歩きながらその場を離れると疲労で疲れ切った足を無理やり動かしながら電車に乗って帰路についた。
家に帰ると私のワンルームアパートは当然の如く誰も居らず、薄暗い部屋はシーンと静まり返っていた。
私はそのまま手を洗うことすらせずに椅子に座る。二つ置かれた椅子はいつも大助が右側に座る癖がついていた為、私は無意識に左側に座る癖がついていて、こんな時でも左側に座っていた。
椅子に座った私は何をするわけでもなくただじっとテーブルの木目を眺めていた。暖かな色合いの木目を眺めていると数ヶ月前にこのテーブルで料理を並べて二人で食事をした記憶が蘇った。
私は大助の為にホワイトシチューとシーザーサラダを作ってパン屋さんで買ったフランスパンと一緒に並べた。
大助は好物のシチューを口にすると何度も美味しいと言って平らげてくれた。
数ヶ月前まで私の幸せは確かにここにあった。ここにあったはずだった。
階段から踏み外して転げ落ちた未来など想像できないほどの慎ましい幸福が存在していた…。
それなのに…
喪失感から猛烈な悲しみに襲われた私は突如頭を抱えて嗚咽した。悲痛な声を上げて絶望に満ちた涙を流す。
悲しくて、苦しくて、痛くて、今の私には絶望しかなかった。
絶望…この先の人生、何一つ上手くいかないのだと信じ切った私の頭上にはその二文字がゆらゆらと危うげに揺れていた。
私を惑わす二文字。その二文字が私から生きることへの気力をみるみると吸い上げていく。
絶望を纏った私を三日月が静かに見下ろしている。
自分を愛すことも出来ず、惨めな私はビルの屋上で手摺りに足を掛けて今まさに飛び降りようとしている。
下を見ると涙が垂れ落ちてしまうから顔を上げて三日月と対面する。
ゆっくりと体を前に倒すと突然、聖羅のことを思い出した。
聖羅は空を飛べると信じて飛び降りたのだ。
私に騙されて、ベランダから飛び降りて死んだ。
「聖羅、ごめんなさい。」
消え入るような声で呟くと体を思い切り前に倒した。手を離すと一瞬だけ身体が軽くなって宙に浮いたような感覚になる。それからものすごいスピードで急下降していき、気を失った。
そこから先の記憶はない。
現実的な記憶は何もなく、自分がどうなったのかも目を覚ますまで分からなかった。
ただ目を覚ますまで私は長い長い夢を見ていたようだ。
長い長い嘘のような夢を見た。
この夢は私が聖羅との未来を望んだ妄想に過ぎなかったのだろうか。
大人になった聖羅の美しい顔、冷たい手の感触…あれも全部、妄想だったにしてはあまりにもリアルで本当だったと信じたくなってしまう。
本当だったと、確かに聖羅は存在して私を見ていたと信じてしまいたい。
「お医者さんがね、脳にも異常がないからリハビリすれば無事に退院できるって…本当に一生目覚めないんじゃないかって思ってたから…」
病室で上半身を起こしたまま窓の外を眺める私の側で母が声を詰まらせる。
私は窓の外で青空の下、揺れるモンシロチョウを目で追っていた。可憐な姿をした蝶は優雅で何にも囚われていないように空を舞う。まるで聖羅のようだ。
「あっ、そうだ!来週末にお兄ちゃんたちがお見舞いに来るって言ってたわよ。連絡、来てない⁇」
母に言われてスマホ画面を開くと着信が複数件、入っていることに気がついた。
「お父さんももう少しで来れるって言っているんだけど…ちょっと電話してくるわね。」
そう言って母が病室から離れていく。
スマホ画面の着信を確認すると電話は父、母、二人の兄からと「蝶々」の店の電話番号が載っていた。
ママ、マスター、由紀ちゃん、啓太くん…みんなの顔が順番に浮かび、最後に啓太くんの顔を思い出すと胸が苦しくなった。
みんな、長らく会っていないはずなのに私にはついこの間まで側にいたように感じる。
私は夢の中で啓太くんが聖羅と仲良くしている姿に嫉妬して罪悪感に駆られて、愛の告白をされて、そこから逃げ出した。
夢の中の話とはいえ、また同じ過ちを犯したくはない。
意を決して「蝶々」の電話番号に発信ボタンを押す。
時刻は夕方の十七時過ぎ…ちょうど店が始まったばかりの時間だ。
仕事中で忙しいかもしれない…でもどうしてもみんなと話をしたかった。
私は今、生きているんだよ。何も知らないであろうみんなにそれを伝えたかった。生を実感したかった。
絶望したけれど、私の未来はまだ何もわからないけれど、生きている。
あの世で出会った聖羅によって生かされている。そんな気がする。
「もしもし…」
複数回のコール音が終わると食器と食器がぶつかり合うカチャカチャとした音を背景に男の人の声が聞こえた。その声の主が啓太くんであることを一瞬で理解すると心臓の鼓動が高鳴った。
でもなんて言えばいいのだろう…言葉が詰まって何も出てこない。
すると背後から微かにママの声が聞こえた。
「ちょっと!何勝手に出てるの⁉︎お客さんからの電話は勝手に出ないでって言ってるでしょう⁉︎」
「うん、でも…結衣さんからかもしれないじゃん…」
啓太くんの言葉に胸がじんわりと熱くなって目が潤む。
「あの…結衣です…。」
必死に泣くのを抑えながら答えるとしばしの沈黙の後、「…え?マジで?」と気の抜けた反応が返ってきた。
「うん、あのね、色々あって全然連絡出来なくて…」
「……知ってる。店に来るお客さんから噂で聞いた。」
「そっかぁ…噂って広まるの早いもんね…」
「うん。」
「……でも私、生きてます。死んでません。」
「そうみたいだね。これが幽霊じゃなければ。」
私は思わずクスッと笑う。
「やめてよ〜縁起でもない。」
耳奥で聖羅の笑い声がこだまする。
“結衣ちゃん、結衣ちゃん!”
彼女の無邪気な声が頭の中で響き渡った。
「退院したら店に行くから…ママとマスターにもよろしく言っておいて。」
「わかった。…でもその前に病院に会いに行ってもいい?」
「面会できるのなら来てもいいけど…」
「うん、どこの病院?」
「えっとね…あっ待って!お母さんとお父さんが来ちゃった!またあとでかけ直す!」
「あっ待って!僕の携帯番号教えるから掛け直すならそこにして!」
そう言って啓太くんが私に携帯番号を教えた。私はその番号をスマホ画面に登録する。
登録が完了すると私は連絡帳にまだ大助の番号が入っていることに気がついて削除した。
メッセージアプリの友達リストからも削除して、あんなに依存していた彼は呆気なく他人になった。
“聖羅はいつだって結衣ちゃんのそばにいるよ”
聖羅の笑顔が再び私の中で蘇る。私の大切な人。
一生、忘れない人。
「誰と電話していたの?」
父を連れて戻ってきた母に尋ねられた私は、友達〜と言って適当に流した。
窓の外を見るとさっきまでゆらゆらと宙を泳いでいたモンシロチョウはいなくなっていた。
だいぶ時間掛かったけど無事に完結出来ましたぁぁぁ(泣
また次の話のシナリオ完成したら投稿しまーす。




