裸ん坊は笑う
ユニットバスの曇りガラスの先でシャワーの音が聞こえる。
その音をバックに大きな水の塊が地面に叩きつけられる音が何度も何度も響いて、部屋で夕飯の支度をする私の耳に入った。
雨に濡れた見知らぬ女性を保護したのは良いが、これからどうするべきか。
まずは彼女から色々と事情を聞かなければならない。
どこから来たのか。何があったのか。居住地や身元が分かれば助かる。しかし…
-----私、自分の住む場所がないの。
一人ぼっちで雨に打たれながら当然のような口調で話した彼女。
身なりからして、とてもホームレスには見えなかった。
年齢は分からないが家出少女にも思えない。
女子大生にしては顔つきも骨格も大人びている。
幼いのは言動だけだ。
放つ言葉だけが幼くて、あとは大人の女性だ。
まるで中身は子供のまま身体だけが大人に成長してしまったような人だ。
「ねぇ、着替えはどこ〜⁇」
ユニットバスから扉の開く音と同時に彼女の声が轟いた。
お椀に湯を注いで即席味噌汁を作っていた私は慌ててクローゼットから普段、自分が着ている部屋着を出してユニットバスに向かう。
シャワーの音が終わって静まり返ったユニットバス内で彼女が裸の状態で髪を拭いていた。
その姿を見て、やはり大人の女性だと理解する。
ユニットバスに籠った湿気が解き放たれて私の髪を湿らせた。
彼女は体を隠す動作も見せずに両手で優雅に髪を拭きながら、「ありがとう。」と笑った。
私はその笑顔に見覚えがあった。
正確には笑顔だけではなく、話し方や動作にも見覚えがあった。
話し方や動作が幼少期に親しくしていた友人の竹内聖羅にそっくりだ。
栗色の細い髪も茶色いガラス玉のように輝く瞳も聖羅そのものだ。
聖羅が大人になっていれば、こんな顔になっていただろう。
でも、まさか、そんなことはあり得ないから、似ている人が世の中に存在しているのだと思った。
これで年齢が私よりも2歳下だったら聖羅と同い年で双子かドッペルゲンガーなのではないかと疑ってしまう。
聖羅が生きていれば、目の前にいる彼女のように美しい容姿だったに違いない。生きていれば。
「お腹空いた?」
部屋着に着替える女性に尋ねると彼女は頷いて、「お腹空いた。」と返した。
「大したものじゃないけど食べて。」
部屋に向かう彼女から濡れたバスタオルを受け取ってテーブルに乗った食事を指す。
「わぁ!ご飯だ!」
洗濯機にバスタオルを放り込むと少し先で彼女が嬉々とした声を上げた。
テーブルの上にはカット野菜を炒めて味付けしたものと茶碗に入った白米を置いていた。それから熱湯が中途半端に入った即席味噌汁のお椀だ。
「ねぇ!お姉さん!スプーンないの⁉︎これじゃ食べられないよ!」
テーブルに置かれた箸を掴んで彼女が不服を唱える。私は慌てて引き出しからスプーンを出して彼女に差し出した。すると彼女は満足げな顔で、「ありがとう。」と言ってスプーンを受け取った。
椅子を引いて席に着く彼女の側でさっきと同様に即席味噌汁に湯を注ぐ。それを彼女に差し出すと私も隣に座った。
彼女は私の横でスプーンの音をカチャカチャと立てながら野菜炒めを食べている。
私も野菜炒めを口に入れながら彼女に何を聞こうか考えた。
何から質問すればいいのか分からない。
彼女の存在があまりにも謎で、どこから聞けばいいのか分からなかった。
ひとまず彼女を刺激しないように鼻息を窺うことにした。
「……塩っぱくない?」
野菜炒めを頬張る彼女を横目でチラッと見た。
彼女は満足げな様子で、「美味しい!」とご機嫌に応える。
「…そう。」
食事を進める彼女の横で私の箸が止まる。
次は何を訊くべきか頭の中を整理していた。
ぐるぐるとまわる頭の中を落ち着かせて知りたいことを一つ一つ整理した。ゆっくりと順番に訊く必要があるからだ。まるで迷子センターで幼児を預かる窓口にいる感覚だ。
「さっき、自分の住む場所がないって言っていたよね?…どうしてないの?」
優しい口調で彼女に借門した。それに反応するように彼女のスプーンを動かす手が止まった。思わず緊張で唾を飲み込む。
咀嚼を止めた彼女が私の目を見て首を傾げた。
「分からない。」
それはとても間の抜けた返答だった。
呆然とする私に彼女は目尻を下げて白い歯を見せる。
「…分からない?」
聞き返すと彼女は威勢よく、うん!と返事した。
「全然、覚えていないの!なんで自分があそこにいたのか…どこから来たのか…全く分からない!」
潔く話す彼女は自分が記憶を失くしていることを全く気にしていない様子で食事を続ける。
平然とした様子で白米を口に運んで味噌汁を啜る彼女の姿に、呆気に取られた。
覚えていないって…それって記憶喪失ってこと⁉︎
むしゃむしゃと食べる彼女の隣で私は箸を止めたまま、その横顔を眺めている。
記憶喪失だとしたら何故?いつから彼女はそうなったのか…?
目立った外傷は見えないが、どこかで頭を打ったのだろうか…それとも何かショッキングな出来事が起こって一時的に記憶を失っているのだろうか…?
どちらにせよもしも彼女の家族が捜索願いを出していたとしたら一刻も早く彼女を警察に届けなければいけない。それとも先に病院へ連れて行くべきか。
そうだ!病院なら…!
はっとした私は彼女に保険証を持っていないか尋ねた。
すると彼女は再び首を傾げて、「ほけんしょうって何?」と聞き返す。
「うーん…じゃあ、何か、自分のことがわかるものは持ってない?運転免許証とかパスポートとか!」
そんなものは持っていないに違いない。何故なら彼女の着ていた白いワンピースはポケットがついていなかったからだ。
ポケットのついていないワンピースに手ぶらで座っていた彼女が保険証やパスポートを持っているはずがないと冷静に考えれば分かることだが、慌てていた為に思考力が低下していた。
「名前とか年齢とか住所が分かる身分証明書があれば良いんだけど…」
説明すると彼女が声を上げて、「そんなの必要ないよ!」と反論する。
「住所は分からないけど…昔、住んでいた家なら絵に描けるし、名前も年齢も証明しなくても言えるもん!」
自信満々に述べる彼女に思わず頭を抱えた。
「うーん…そういうことじゃなくて…」
苦悩する私に対して息つく暇もなく彼女が喋り出した。
「名前は竹内聖羅!歳は26歳、今年のクリスマスイブで27歳になるの!」
「待って待って、今メモ取る…から…」
慌ててメモ用紙を取ろうとして立ち上がった時、聞き流すようにして入った言葉に耳を疑った。
慌てて振り向いて彼女の顔を見る。目と目が合った瞬間、彼女は柔和な笑みを浮かべていた。
「今、何て…?」
心臓の鼓動が速くなっていく。目を見開いて問いかける私に彼女が再び口を開いた。
「竹内聖羅って名前なの。」
微笑む彼女に対して私の体が一瞬で硬直した。
嘘だ…そんなはずがない…だって彼女は…
彼女が口にしたありえない名前に衝撃が走った。
納得出来ない私の頭の中に幼い時の竹内聖羅が浮かぶ。
そんなはずがない…ただ…
ガラス玉のように丸くて茶色い瞳、細い栗色の髪…
あの時の竹内聖羅と、今、目の前にいる大人の彼女の顔が重なり合う。するとその姿が完全一致した。
誕生日も年齢も話し方さえも私の知っている聖羅と同じだ。
「聖羅…」
久しぶりにこの名前を口にした瞬間、思わず涙が溢れそうになった。その衝動を抑えるかのように彼女から視線を逸らす。
そんな私を聖羅が柔らかい声で、「あなたは?」と尋ねた。
逸らした視線を再び彼女に向ける。
心臓の音が耳の奥まで響いていた。
「私の名前は…」
跳ね上がる心拍数に目眩すら覚える。
私の名前を聞いたら彼女はどんな反応をするだろうか。考えただけで恐ろしい。私はそれだけ彼女に悍ましい言動をしたのだ。
今、微笑んでいる彼女だって私の正体を知ったら、きっと激しく憤るに違いない。
それでも、私はこれ以上、彼女に嘘を吐けない。
「…雨音結衣。」
口を開いた私の顔は酷く緊張していて強張っていたに違いない。
喉がカラカラで声が若干、しゃがれていた。
口内が乾燥して自分の名前を出すのがやっとのことだった。
「あまね…ゆい…」
私の名前をなぞるように口にする聖羅。
その間、私の脚は震えが止まらず、今にも崩れ落ちそうだった。
恐い。私自身も彼女もただ全てが恐い。
「ゆい…結衣ちゃん…結衣ちゃんだ‼︎」
何かを思い出したかのように聖羅が声を上げる。
まるで太陽ように光り輝く瞳で満面の笑みだった。
嬉々とした声と同時に立ち上がった彼女が勢いよく私に抱きついた。
彼女の体重と勢いで私の身体は後ろにのけぞって反射的に片足が後ろに動く。
ぎゅっと抱きつく彼女が私の肩に顔を埋めた。
その為、彼女がどんな表情をしているのか私には何も見えなかった。
行き場を失った両手は彼女に触れて良いのか分からずに離れて固まっている。
私はまるで石像のように身動き一つすることもなく茫然自失していた。
「結衣ちゃん…久しぶり。会いたかったよ、ずっと。」
耳元で聖羅が優しく囁く。
私は瞳をゆっくりと閉じて大人になった彼女の声をじっくりと聞いた。
成長した彼女の声は幼い話し方とは対照的に大人びていた。
それが彼女の存在をさらに実感させる。
彼女と再会した衝撃が私の冷静さを欠いて思考力を低下させていた。
時間がなくて更新が遅いですが、着々と書いています…。
大体、1〜2週間に一度のペースになるかと思います…
週一で更新したいのですが、しばらくは厳しいかと思われます…。




