暗転の前兆
大助と出会っておよそ半年が経った頃、私は二十八歳の誕生日を迎えた。
私の住むワンルームアパートの片隅でスーパーの惣菜とカットケーキを並べると大助はろうそくを一本立てて部屋の明かりを消した。そのろうそくを私が吹き消すと彼は、おめでとう〜!と言って拍手をした。再び部屋の明かりを点けるとTシャツに短パン姿のラフな格好をした笑顔の大助がいて、もしも二人で一緒に暮らしたらこんな風なのかなと想像を掻き立てられた。
贅沢なものは何一つないけれど赤の他人が作ったナムルと寿司はそれなりに美味しくて、ケーキはクリームが脂っこくて甘過ぎたけれど隣に大助がいるからホテルの高級ケーキよりも幸福な味がした。
狭い部屋で食事をして、シャワーを浴びて、単調なセックスをして眠りにつく…全てが平坦な流れは人によってはつまらないだろうが私にとってはこの上ない幸せだった。
もっと上を求める人もいるが、この程度で満足できる人もいる。私はまさにそれだった。
あとは婚姻関係という確かなものを手に入れれば私の幸せは揃ったも同然だ。
ただそれに関しては不安な点がいくつかあった。それは大助の警戒心の強さだ。デートはいつも私の家かラブホテルで未だに彼の家に行ったことがなく、私が家に行きたいと伝えると、他人に家の中を見られるのがダメなんだ…という理由で何回も断られた。最初の頃はいずれ打ち解けたら連れて行ってもらえるだろう…と楽観的に捉えていたが、交際して半年以上が経っても大助の家に対する警戒心は解けなかった。
それだけではなく、最も不思議だったのは彼の金銭面だ。
「大助…?どうしたの⁇」
いつも二人で行っているラブホテルの精算機の前で財布を持った大助が戸惑いの表情を浮かべる。
「いや…ごめん、今、千円しかなくて……」
「…え?また⁇」
大助の言葉に私は目を丸くして困惑した。
大助は何故かいつもお金がない。製薬会社で正社員として働いているならばそこまで生活に困るほどではないはずなのに財布の中はいつも千円札しか入っておらず、一万円札が入っているのを見たことあるのは数える程度だ。
「…しょうがないね。私が全部払うから。」
彼が金欠で払えない度に私はそう言って財布からお金を出す。そんな日々が繰り返されていた。
「ねぇ、大助…どうしていつもお金がないの?」
ホテルから出た帰り道、大助と歩く私はついに彼に疑問を尋ねた。すると彼は突如、立ち止まって目を潤ませながら躊躇いがちに、「…話がある。」と言った。私は首を傾げながらも頷いて私達は私の住むアパートに向かうことになった。
「話って一体何⁇」
まさか別れ話なのではないかと気が気ではなかった私は家に入ると神妙な面持ちの彼の側に寄って、すがるように目を見つめた。
私は優しくてカッコいいのに安心感がある大助が大好きでずっと一緒にいたいと思っていたから彼に見放されるのだけは避けたかった。
大助は椅子に座って跪く私の手を取って握ると今にも消えてしまいそうな声で、実は…と重い口を開いた。
大助が始めた話…それは今から三年前のことだった。
「宮城で夫婦仲良く暮らしていたはずの父さんが突然、蒸発したんだ。」
大助のお父さんは仕事を一ヶ月前に退職して携帯も解約してわずかな現金だけを持って行方不明となった。
突然の出来事に大助も大助のお母さんも激しく動揺して眠れない日々が続いたらしい。それでも二人は必死にお父さんの行方を探して三ヶ月後にようやく目撃者を見つけて話を聞くことが出来たと言う。だけど目撃者の話はとても残酷なものだった。
大助のお父さんは自分よりも二十以上、若く見える女性と手を繋いで歩いていたと言う。そしてその女性のお腹は大きく膨らんでいてお父さんはそのお腹を愛おしげに見つめて撫でていたそうだ。
大助とお母さんがその話を聞いた翌日、お母さんが二階から飛び降り自殺を図った。お母さんはコンクリートの地面に頭を強く打って脳死状態となったそうだ。
彼のお母さんは今でも仙台の病院で喋ることも体を動かすことも出来ないまま二度と帰ってこない夫の帰りを待っている。そして大助だけが取り残されたまま現在を生きている…。
大助の話を一通り聞いた後、私はなんて言葉を返せばいいのかわからなかった。
暗く虚ろな目をして話す彼の手をただ強く握り返すことしか出来なかった。
大変だったね、辛かったね、苦しいね…どの言葉も経験していない私が口にするには相応しくない気がして言葉が出てこない。
「ごめん、重い話して…」
戸惑う私に大助が苦しそうに微笑んだ。私は必死に首を横に振って言葉を発せない代わりに大助の手を強く握った。
大助は私なんかの比じゃない苦しみを背負っている。
私が聖羅を失ったのは罪を犯した人間が後悔する自業自得なものだ。それに対して彼の苦しみは被害者側の苦しみだ。
被害者は加害者よりも苦しいに違いない。同じ苦しみを背負うならば私もそちら側になりたかった。
それでね…と大助が徐に口を開いた。
「…実は母さんの入院費が月に三十万円以上掛かってるんだ。そのお金を僕が毎月、全部払ってるんだけど…もう限界で…」
大助が突然、目頭を押さえて鼻を啜り出した。顔はくしゃくしゃになって悲痛な表情で今にも泣き出しそうだ。
「母さんが死ぬ前に僕が先に死んでしまいそうだ…もうこれ以上は無理なんだ…」
私から手を離して顔を両手で覆った大助がしゃくり上げる。
私は立ち上がると大助を自分の胸の中に抱き寄せた。
大助は泣きながら私の身体にしがみつくと、ぽつりと呟いた。
「結衣、別れよう。」
あまりにも突然の言葉に私は一瞬、耳を疑う。
慌てて大助を引き剥がして彼の表情を見つめた。
大助はついさっきまでの涙から一転して冷静な顔で私を見据えていた。
「僕の人生はもう終わりだ。僕は結衣を支えるどころか、自分の生活ですらままならない。風呂無しのアパートでどれだけ生活を切り詰めても借金が膨らむばかりだ。こんな人間がそばにいても結衣は迷惑だろう。僕はもう死ぬしかないんだ。だから結衣…最期に言わせてほしい…幸せに出来なくてごめんね。願わくばもっと結衣と幸せな時間を過ごしたかった。」
大助はそう言い終えると私から手を離してゆっくりと立ち上がった。
彼は私の横を通り過ぎて静かに玄関先へと向かう。
私は突然の出来事にパニックになって頭が混乱していた。
私達はついさっきまで唇を重ねて身体を交わらせてベッドの中で幸せの余韻に浸りながら微笑み合っていた。まさか別れを告げられるなんて思わずに彼からの愛を言葉や身体で受け取っていた。
それがただ一つ、お金の問題で引き裂かれるなんて…愛し合っているのにそんな理不尽なことがあるだろうか。
お金さえあれば私達はこんなに苦しい別れを強いられないで済んだのに…
「大助、いや!行かないで‼︎別れたくない‼︎」
私が叫ぶと大助が振り返った。そして私の方へと駆け寄って勢いよく抱きついた。
大助の胸の中で彼の体温と匂いを感じる。まだ夏なのに彼の少し冷たい身体からボディーソープと汗が混ざった匂いがする…私はこの匂いが大好きで嗅ぐたびに愛おしさを覚えた。
大助が私の前からいなくなる…それは彼の発する言葉、声、眼差し、面影、匂い、思想…全てが失われるということ…。
一年前まで私は大助の存在すら知らずに生きていた。
でも今の私には大助のいない未来なんて想像がつかない。大助がいる人生しかもう私は幸せを感じられない。
大助を失うことは自分の幸せを失うも同然だ。
もう聖羅の時みたいに大切な人を見殺しになんてしたくない。
そう!聖羅…‼︎私にとって大切でかけがえのなかった存在…あの時のように私はまた大切な人を蔑ろにするというのか……‼︎
大助の背中に両手を添えると、そっと目を閉じた。そして彼の全てを感じながら目を開けると大助に伝えた。
「大助、大丈夫、安心して…私、大した額じゃないけれど口座に三百万あるの。その貯金と私が給料から生活費を抜いた金額を毎月使えば、まだいくらかお母さんを支えることが出来るんじゃないかな。副業が出来るかは上司の許可が降りないとダメだけど…とりあえずは私の貯蓄でお母さんを助けたい。」
私が言い終えると大助は少しの間、硬直していた。
そして、やがて私を引き離した大助は心配するように私の顔を覗き込んだ。
「結衣、そんな…それだと結衣が…大丈夫なのか?」
大助の問いに私は大きく頷いてニッコリと微笑んだ。
「大助とお母さんの支えになりたいの。だから大助は何も気にしないで。」
貯金なんていくらあっても私には意味などない。そんなものよりも大助を失うことの方が遥かに辛く苦しい。
私の言葉に大助は安堵のため息を漏らすと床に崩れ落ちた。
「あぁ…‼︎良かった、本当に…結衣、ありがとう…ありがとう…‼︎」
顔を両手で覆って泣きそうな声で感謝する大助のつむじを見下ろしながら私は初めて今まで自分が真面目に働いて貯金をしてきたことを誇りに思った。




