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聖羅  作者: 水綺はく


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26/30

好転の兆し

 大助と再会を果たしたのは連絡先をもらった二週間後のことだった。

 彼は高価なレストランでのディナーを提案したが、私はそれを断って安価なファミレスで食事をすることになった。

 子連れから学生まで幅広い年齢層で賑わうガヤガヤした店内で私と大助は初めて向かい合って話をする。

 「結衣さんに言われてあの後、病院に行ったら軽い捻挫でした。湿布を貼って安静にしていたから今はほとんど痛みはありません。」

 「そうですか…それなら良かったです。早く完治するといいですね。」

 私の言葉に大助は嬉しそうに頷く。それから私達はお互いのことについて話をした。

 大助は偶然にも私が一人暮らしする家の隣町に住んでいて、あの日は友人と鍋を囲んで年越しをする為に出向いていたそうだ。年齢は私よりも四つ上で一人っ子、実家は宮城の仙台にあるそうだ。

 仕事は家の最寄駅から三つ先の駅にある製薬会社で経理の仕事をしている。

 「毎日サービス残業が多くてくたくたですよ〜」

 そう言って控えめに笑う彼は目尻が下がって犬のような愛らしさがあった。年上なのになんだか母性本能をくすぐられる表情や話し方をする。

 「そうなんですね。私も前の仕事は事務だったんですけどサービス残業が多くて大変だったから半年前に今の仕事に就いたんです。」

 ドリンクバーでもらったストローの紙屑で手遊びをしながら節目がちに答えた。彼の顔を直視すると顔が赤くなるのが自分でもわかったからそれを隠す為だ。

 「今の仕事は何なんですか?」

 「化粧品会社のコールセンターです。残業はたまにあるけど前の仕事に比べたらだいぶマシです。」

 「そっか…それならよかった。まだ若いんだから早く帰って彼氏と遊びに出かけたいよね。」

 「!?…そんな彼氏なんていません!」

 彼に誤解されたくない私は慌てて顔を上げて否定した。すると目尻を下げた彼の優しい目と合った。

 私の顔はたちまち上気して思考力と判断力を停止させた。心拍数が上がり、冷静さを失って動揺する私は咄嗟に目線を逸す。逸らした先にさっきから一口も喉に通っていないウニのクリームパスタが目に映った。パスタによく絡んだクリームが時間の経過を表すように乾燥している。

 「そっか〜彼氏いないんだ…ごめん、僕、今、浮かれてる。なんだか嬉しくて…」

 彼の言葉に私は思わず顔を上げた。すると彼は照れくさそうに視線を逸らしてストローの紙屑で手遊びを始めた。

 彼の前にはクリームあんみつが置かれていて夜九時なのに食事は摂らないみたいだ。

 ーー正月太りで…ダイエットしているんだけど甘いものはやめられないね。

 さっき二人でメニューを見ている時に気恥ずかしそうに鼻を掻いてそう言っていた。

 クリームあんみつは綺麗に食べられていて中身は空っぽになっている。

 「…あ!趣味はなんかある?」

 私が恥ずかしさで何も返せずにいると沈黙を破るように彼が尋ねた。

 趣味…昔はあったけれど今の私には何もない。

 「……なんだろう。掃除とか洗濯はするけど、それは趣味っていうよりもただの家事って気がするし、あとはボーっとテレビを観たりとか…。私、何かに夢中になったりとか長らくなくて…だから、たまにそういう人を見ると羨ましく思ったりします。私はただ毎日をなんとなく生きているだけだから…お金が貯まっても使わなくちゃ意味がないのに退屈して、自分から楽しみを見つけようとしない…ダメな人なんです。」

 私の(つたな)い言葉を彼は笑みを浮かべながら優しい相槌を打って聞く。

 彼のその優しさに私はもっと話を聞いて欲しいと願った。

 「ダメなんかじゃないよ。趣味を持っているから偉いとかじゃないんだから…きっと雨音さんってすごく真面目で純粋な人なんだね。雨音さんにもいつかきっと我を忘れるほどに夢中になれるものに出会えるよ。」

 優しい言葉を掛ける彼に私の胸の奥の何かが熱くなっていく。まるでジェットコースターのように乗ってしまったら後戻りできない感情がふつふつと湧き上がっていった。

 「…私、もう帰ります。」

 突然の私の言葉に大助がきょとんとした顔でこちらを見る。

 立ち上がった私はお酒を飲んでいるわけでもないのに身体が火照っていて、きっと顔は真っ赤になっていたに違いない。

 この人と話していると身体が熱くなって思考が停止して自分を見失ってしまう。そんな自分がみっともなくて恥ずかしくなって逃げるように彼のそばから離れようとした。

 「待って!」

 鞄を持って店を出ようとする私の腕を大助が掴む。私が驚いて飛び上がると彼は申し訳なさそうに、ごめん…と言って、そっと手を離した。そして切り替えるように真剣な顔になると私にこう言った。

 「このまま終わらせたくないんだ。嫌じゃなかったら、また僕と会って欲しい。…ダメ?」

 懇願(こんがん)するようにちょっと甘えた子犬のような目を私に向ける。

 私の母性本能はたちまちくすぐられて心臓がキュッと締め付けられた。彼は歳上らしい姿から子犬のような表情、仕草までコロコロと変えてくる。そんな彼の切り替えの速さに私の脳みそは銃で打たれたように感覚を麻痺されて大量のアルコールを摂取した時のような思考回路になった。

 「はい。」

 イエスマンの(ごと)く頷く私に彼は安堵の笑みを浮かべる。その笑みにまた私の胸がすんっと熱くなった。

 私は大助に一目惚れをしたのだ。

 今まで誰かをかっこいいと思ったことはあっても自分から行動を起こせず何も起こらなかった。

 私の交際はいつも受け身で相手が積極的に動いて成り立つものだった。

 今回もそうだ。でも今回だけは今までの交際とは決定的に違うものがあった。

 それは彼が私の理想の男であるということだ。ここまで理想的な男性と交際をしたことなんてなかった。だから私は完全に浮かれて、恋そのものを全力で楽しんだ。

 毎日、メッセージのやり取りをして、仕事終わりには彼から電話が掛かってくることもあった。

 デートを何回も重ねて春が目前の頃には身体も重ねて交際に発展した。

 「いつか結衣と結婚したい。こんなに誰かを愛しく思ったの初めてだ。」

 土曜日の昼下がりのラブホテルで裸同士で抱きつく私の耳元で大助が囁いた。男の性行為前の言葉は信用できないけれど、行為後の言葉は信憑性があるように感じた。

 「…私も大助とずっと一緒にいたい。結婚したい。」

 彼に甘えるようにぎゅっと抱きつくと彼も抱きしめ返して私の頭を優しく撫でた。

 「いつかしよう。愛してるよ。」

 彼の囁きを聞きながら私は自分がこんなに幸せでいいのだろうかと思った。

 こんなに甘くて幸福で、いいのだろうか。

 沼地から引き摺り出されたように地上の煌びやかさが眩しい。初めて経験するこの上ない幸せに世界の全てが美しく見える。

 私なんかがこんなに幸せでいいのだろうか?



 「あら、そう…結衣ちゃんにもとうとう春が来たのね…。」

 仕事帰りに「蝶々」に立ち寄ってママに大助との交際を話すとママはしんみりとした様子で話を聞いていた。

 「おめでたいことじゃないか!結衣ちゃんもいつかはお嫁さんにいっちゃうんだもんな…」

 いつもニコニコしているマスターもどこか寂しげに話す。

 「そんな…お嫁さんだなんて!まだ気が早いですよ‼︎」

 お嫁さんという言葉に気恥ずかしさと嬉しさが込み上げて顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。

 「え⁉︎嘘でしょ⁉︎…まさか結衣さん、その人と結婚する気なの⁉︎」

 さっきから隣で黙って話を聞いていた制服姿の由紀ちゃんが目を丸くして椅子から立ち上がって声を上げる。

 私は由紀ちゃんの顔を見ながら自分が今、とてつもないものを手に入れようとしていることに気がついた。

 結婚…それは私にとって幼少期からの強い憧れだった。けれどキラキラ光るシルバーリングの夢は歳を重ねていくにつれて錆びていき、絶望へと変化していった。

 それが今、突如として眼前に輝いて現れた。この状況で浮かれない人間などいないだろう。

 生きることに後ろめたさを覚えている私でも本当は誰かと幸せになりたいと強く願っていたのだ。

 「うーん…まだわからないけど私もいい歳だからね。彼も歳上だし、その可能性はあるかもね。」

 自分で言いながら口角が上がっていくのがわかった。幸せな話をすると自然と口角が上がっていくものだ。

 結婚しても幸せになれるとは限らないのに人々はその二文字に憧れ、飛びついていく。私も例外なくそんな人間だ。

 いつまで経っても恋愛に夢を見る。街を歩く女性と同じように私も心の中に夢見る少女が存在していた。

 「そっかぁ〜でも結衣さんが結婚したら悲しむ男子もいるんじゃないかなぁ。例えば歳下でまだお金がなくて養えなくて、二階に住んでるような人で…」

 由紀ちゃんが喋っているとママが突如、由紀‼︎と声を上げて(たしな)めるような視線を送った。すると由紀ちゃんは機嫌を損ねたように目を閉じて喋るのをやめた。

 私はその様子を首を傾げて眺めていた。



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