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聖羅  作者: 水綺はく


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25/30

転落の瞬間

  「償う?結衣ちゃんは聖羅のこと何もわかってないんだね…」

 真っ暗な空の下、聖羅が呆れたように冷たく笑う。

 私は聖羅に見放された気がして身体中がひんやりとした。今にも泣きそうだ。

 「ねぇ、聖羅の最後のお願い、聞いてくれる?」

 小首を傾げて尋ねる聖羅に私は(わら)にもすがるような思いで頷く。

 「…よかった。結衣ちゃんなら聖羅の言うことは絶対に聞いてくれると思ってた。」

 そう言って屋上の手摺(てす)りに手を掛けた聖羅は優しく懇請(こんせい)した。

 「結衣ちゃん、ここから飛び降りて。」

 柔和な笑みを浮かべる聖羅。私は恐怖よりも悲しみが勝ってじわじわと涙が溢れてきた。

 聖羅は私のことが嫌いだったのだ。本当は私のことが憎くて憎くて仕方がなくて、必死にそれを隠しながら関わっていたのだ。でも当然の報いだ。私は彼女を騙して殺したのだから彼女が私を恨むのは至極、当然のことではないか…。それを勘違いして愛されているなんて思い込んでいたのは私の身勝手だった。

 「聖羅…ごめんなさい。」

 初めて赦免を()うのではなく、謝罪をした。彼女の目を真っ直ぐ見て心から思っていることを言えた。それは今、自分の最期を理解しているからだ。

 すると聖羅は柔和な笑みを崩して顔を歪めると静かに頷いた。

 ずっと笑っていた聖羅の大きな瞳から大粒の涙が溢れる。

 私は聖羅のそばに近寄って彼女の泣き顔を見ながら決意すると屋上の手摺りに足を掛けた。下を見るとコンクリートの地面が見える。あそこで頭を打ったら、きっと即死だ。一瞬の出来事だろう。

 死ぬことは恐いけれど、それ以上にこの幸福な生活を手放すことが辛く悲しい。

 聖羅と再会して(つむ)いだ日々。私のことを好きだと言ってくれた啓太くん、優しいマスターとママ、厳しいけれどよく見てくれて本当は優しい山田先輩、嫌いだけど憎みきれないお母さん、お父さん、お兄ちゃんたち…。死んだら全部失う。

 過去も現在も未来も全部、失う。

 全部、全部、消えて失くなる。

 私はずっと恐かった。聖羅から全てを奪われることが恐かった。それが今、現実になろうとしている…

 片脚を掛けたまま落ちないように押さえていた手を離そうとした瞬間、背後から強い力を感じた。下を見ると腹部に細い腕が巻き付いている。

 「私、結衣ちゃんと出会ったこと後悔してない。結衣ちゃんのこと恨もうとしたけど無理だった。…結衣ちゃんのことがそれくらい大好き。」

 驚いて振り向くと上目遣いで見つめる聖羅と目が合った。

 目を真っ赤にして涙を流しながら聖羅が笑っていた。

 巻き付いた腕が離れると彼女は静かに、バイバイ。と言って私の背中を強く押した。

 私の体は手摺りから離れて真っ逆さまに落ちていく。光のようなスピードで落ちていく。

 (あらが)うことができないこの感覚…初めてのものではなかった。

 一瞬だけ映った屋上では聖羅が手摺りから前のめりになって私の姿を眺めていた。どんな表情をしているかはとても見えない。

 そのまま私の意識は遠くにいって失った。そこから先のことは何一つ覚えていない。



 深い眠りについたように意識を失っていて、死んだかどうかを考えることすらなかった。

 この空白の間、自分がどうなっていたのかなんて知らない。

 目を覚ました時にまず視界に入ったのは虫食い天井だった。トラバーチン模様の天井がここは自宅ではないこと物語る。

 真っ白な蛍光灯が眩しくて目を細めながら横を向くと心電図モニターに一定のリズムを刻んだ心拍数が映し出されていた。

 体には真っ白な布団が掛かっていて腕には点滴の管が刺さっている。

 足には包帯がぐるぐるに巻き付けられていた。

 私はなぜ自分がこのような状態なのか理解出来なかった。

 ただ聖羅と再会するよりも前のことを思い出してようやく状況を理解した。

 私は失敗したのだ。

 弱くて脆くて考えすぎて悩みすぎて重い私は、諦めたのに失敗した。

 失敗したから、こんなに長い夢を見ていたのだ。

 でも夢にしてはあまりにもリアルで、夢ではなかったと願いたくなる。

 目を覚ました私は現実世界に引き戻されて、同時に失っていた記憶も取り戻した。

 本当は失っていたのではなく、私自身が思い出したくなかっただけなのかもしれない。それを聖羅は理解していたのだろうか。

 人は出会う人によって人生が大きく変わる時がある。

 聖羅と出会った時がそうであったようにあの男と出会った時もそうだった。

 鳥島大助と出会ったのはクリスマスを通り過ぎた大晦日直前の冬だった。

 実家に帰省する為、久方ぶりに地元へ戻った私は荷物が重いと言う理由でタクシーを拾った。タクシーに乗り込もうとした瞬間、背後から男の叫び声が聞こえた。

 「そこのお姉さん!」

 振り向くと見知らぬ男性が私に向けて微笑みかけている。

 直感で年上なのは分かったが目元が子犬のように愛くるしくて爽やかな見た目をしている。

 服装はネイビーのチェスターコートに黒のタートルネックを合わせてスキニーデニムを履いていた。髪型は黒髪のマッシュヘアで目元には泣きぼくろがあった。

 「すぐそこのコンビニまででいいから一緒に乗せてもらえない?今、すごく足が痛くてさ…」

 目尻を下げていかにも申し訳なさそうに訴える彼はそれでいてどこか断られない自信を持っているようにも感じた。

 人が良い私は当然、断ることもなく彼の同乗を快諾した。この時点で私は彼とどうこうなるなんて全く想像していなかった。

 「あの、足…大丈夫ですか?」

 タクシー内で隣に座る彼に尋ねると彼は困ったように小首を傾げた。

 「段差にちょっと(つまず)いてさ、そのまま転んで足を捻っちゃったんだ…」

 「そうだったんですね…可哀想に…捻挫かな…。骨にヒビとか入っていたら大変だから念のため病院とかに行った方がいいんじゃないですか。」

 「親切にありがとう。今日は友達に迎えに来てもらうから数日、様子を見て、まだ痛むようだったらあなたの言う通り病院に向かうよ。それにしても…優しい方なんですね。」

 急に彼の目が湿り気を帯びて湿度の高い雰囲気になった。

 私ももう子供ではない。その空気をすぐに察知した。

 「優しくなんかありません。」

 冷たく突き放すように返す私に彼は食い下がる。

 「優しいですよ。初対面の僕をタクシーに同乗させて怪我の心配までしてくれるなんて…誰よりも優しい方です。」

 彼の言葉で頭に浮かんだのは幼い聖羅の顔だった。あんなにも無垢で愛くるしい存在を私は無惨に殺した。そんな私が優しいはずない。

 「私は…あなたが思っているような人間ではありません。」

 私の声はしわがれていた。本当は誰よりも自分に自信がなくて嫉妬深くて醜い人間なのだ。

 彼が呆気に取られて目を見開いた時、丁度、彼の目的地であるコンビニ前にタクシーが停まった。

 「本当にありがとうございました。」

 そう言って律儀に財布からお金を出そうとする彼を私は拒んだ。

 「通り道だから…気にしないでください。」

 「そんな…申し訳ないですよ。」

 そう言って彼はタイミングを見計らうかのようにタクシーの運転手に紙とペンがないか尋ねた。

 運転手がメモ用紙とペンを彼に渡すと彼は慣れた手つきでメモ用紙に何かを書いていた。書き終えた彼はペンを運転手に返すと二つに折りたたんだメモ用紙を私に差し出した。

 「じゃあ、気が向いたらでいいので連絡ください。そしたら今度はお礼させて。」

 彼は優しげに微笑むと去り際に、連絡待ってます。と言ってタクシーから颯爽と降りていった。

 走行するタクシーの中で二つ折りになったメモ用紙を開くとそこには彼の名前と連絡先が書かれていた。

 「鳥島大助…」

 書かれた文字を指でなぞると心臓がドキドキした。

 大助の顔はいかにも人当たりが良さそうで、愛くるしく、可愛げがあって私のタイプだった。

 服装もスッキリしていて清潔感があって、見た目だけで言うならばこんな人と付き合えたら理想だと思えた。

 それに話し方も柔らかくて気遣いも出来て…私は突然の大助との出会いに胸を膨らませた。

 そんな甘くない、勘違いだと自分に言い聞かせても胸の高鳴りを抑えることは出来なかった。

 もう何年も彼氏なんていなかったし、幸せになるべき人間じゃないと自分を言い聞かせて抑圧していた分、ストレスも限界に達していた。

 つまらない日常に突如現れた甘いケーキのような彼を我慢することなど出来るはずがなかった。

 実家に着いて久々に父母と食事をしている間も私はどこか上の空だった。

 「なに、あんた、ボーッとしちゃって…そんなに仕事が忙しかったのかね…」

 心配しているようで呆れている母の声も聞こえず、私は惚けた顔のまま食事を終えて部屋に入ると意を決して彼に連絡をした。

 今日、タクシーで一緒だった者です。雨音結衣と申します。あれから足の痛みはやわらぎましたか?

 送信ボタンを押す瞬間、心臓が早鐘を打つ。

 彼のプロフィール写真はどこかの緑豊かな景色で、名前は山助で登録されていた。

 送信された文字を何度もなぞりながら私はこれが転落のカウントダウンだとも知らずに彼からの返信を待った。

 (ふすま)の外ではリビングのテレビから大晦日直前の特番が放送されていた。

 今流行りの男性シンガーが甘い声でラブソングを歌っている。

 皿洗いをする母のそばでそれを聴いている父がボソッと呟いた。

 「惚れた方が負けだからなぁ…」



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