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聖羅  作者: 水綺はく


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23/30

運命の日

 「結衣ちゃん、起きて…朝だよ。」

 タオルケットに(くる)まる私の体を聖羅が優しく揺らす。

 私は、うん。と相槌を打ちながらも目は閉じたままで一切、体を動かさない。

 「早く起きないと…また会社、遅刻しちゃうよ?」

 穏やかな聖羅の声が私の耳を撫でる。

 起き上がりたくない私は首を横に振って、「もうちょっと…今日は休みだからもうちょっとだけ…」と返した。

 「休み…?今日は木曜日だよ?いつもなら会社に行く時間でしょ?」

 聖羅が怪訝な声で尋ねる。

 もう少しだけ横になっていたい私は渋々、体を起こして状況を説明した。

 「今日はね、有給っていうのを入れたの。有給は普段休めない日に特別に休める日なの。だから今日は聖羅とずっと一緒にいられるの。」

 「……ずっと一緒に?」

 聖羅が首を傾げたかと思うと静かに(うつむ)く。彼女がどんな表情をしているのか私にはよく見えなかった。

 わずかな時間、俯いた彼女はやがてすぐに顔を上げて満面の笑みを浮かべた。

 「じゃあ、今日は聖羅がアルバイトに行くまで、ずーっと遊べるね!」

 嬉々とした声を上げる聖羅の笑顔と向かい合う私は彼女の考えていることを必死に表情から読み取ろうとした。けれど聖羅は何一つ動揺を見せず、颯爽(さっそう)と立ち上がると壁に掛けられたカレンダーの方へと向かった。

 「今日は九月十五日!」

 そう言って聖羅がカレンダーの日付に黒いマジックでばつ印をつけた。私も立ち上がってその印を確認する。

 小さなまる印がついた数字を大きなばつ印がまるで遮るように上書きされている。

 「結衣ちゃん、朝ごはん食べ終わったら二人で絵を描こうよ。昔みたいに…」

 聖羅がポップアップトースターに二枚の食パンを入れながら話す。

 絵なんて長らく描いていない。今さら何を描けばいいのかわからない…

 「私はいいよ。聖羅が描いているのを見るだけで充分。」

 「何言ってるの⁉︎ダメ‼︎今日は結衣ちゃんと二人で絵を描くって決めたんだから!…結衣ちゃん、聖羅と再会してから一回も絵を描いてないでしょう?たまには聖羅も昔みたいに結衣ちゃんと絵を描きたいの。」

 聖羅の勢いに押されて私は思わず頷いた。しかし何を描けばいいのだろうか…

 朝食は聖羅が焼いたトーストと私が作ったスクランブルエッグとオレンジジュースにした。

 椅子に座った私たちはいつものように肩を並べて朝食を摂る。隣で聖羅の咀嚼音や動きを感じながら食べ物を口に運ぶ。

 すっかり当たり前になっているこの日常が今日で最期だったら…そう思うと涙が出そうになった。そうと決まったわけではないのに私の考えはどんどんと悪い方へと向かっていた。

 嫌な予感を誤魔化すようにトーストとスクランブルエッグを勢いよく口に運ぶ。

 嗚呼、どうか…今日一日、何も起こりませんように。

 どうか、いつもと変わらぬ平和な日常であるように…普段は神なんて信じていないのに今日だけは(わら)にもすがるような気持ちで願った。

 朝食を終えた私たちは椅子に座ったままスケッチブックで絵を描いた。

 久々に鉛筆を握った私は何を描けばいいのかわからずに戸惑っていた。その隣では聖羅が色鉛筆を使って何やら楽しげに描いている。私はその横顔を見ながら何気なく鉛筆を持つ手を動かした。

 真っ白なスケッチブックに黒い線がするすると音を立てて現れる。聖羅の美しい横顔とスケッチブックを交互に見ながら絵を描く。

 広いおでこに長いまつ毛、光の入った茶色い瞳、綺麗な二重まぶた、鼻筋の通った鼻、薄すぎず厚すぎない唇、シャープな輪郭に揺れる栗色の髪…目の中に飛び込む彼女の情報を全て忠実に描いたつもりだった。しかし出来上がったのは一つ一つのパーツがアンバランスな想像の遥か下をいく(つたな)い絵だった。

 七才で描くのを辞めた私の画力はそのままで止まってしまったのだ。私の描く絵は幼子の絵と大差ない。

 「できた!」

 隣にいる聖羅が声を上げてスケッチブックを私に見せた。

 彼女のスケッチブックには塗り潰された黄色いかたまりに赤いジグザグ模様が描かれている。

 「これ、なんの絵?」

 私が尋ねると聖羅は自信満々に、「結衣ちゃんの作ったスクランブルエッグ‼︎」と叫んだ。そう言われて見ればスクランブルエッグに見える。

 「結衣ちゃんの絵も見せて!」

 聖羅が私の腕を引っ張ってスケッチブックの中身を覗く。

 彼女は私の絵を見るとすぐに、「聖羅だ!結衣ちゃんは聖羅を描いたんだ‼︎」と嬉しそうに叫んだ。

 私はこの絵が自分の似顔絵だとすぐに気づいた聖羅に驚いた。こんな下手な絵でも聖羅にはわかるのか…

 私たちはその後も二人で絵を描き続けた。その時間はまるで昔の頃に戻ったようだった。二人で絵を描いていると、あっという間に昼食の時間になった。私は立ち上がってキッチンに向かうと絵を描き続ける聖羅のそばで料理をした。

 今日の昼食はもやしとキャベツの入った焼きそばに目玉焼きをトッピングしたものだ。

 出来上がった料理を二人で食べ終えると私は皿を洗い、聖羅は折り畳まれた布団を枕代わりにしてタオルケットにくるまりながらお昼寝を始めた。

 お皿を洗い終えた私も聖羅のそばへと寄る。

 聖羅は穏やかな表情で寝息を立てていた。彼女の閉じた瞳の先で伸びる長いまつ毛を指の腹で優しく撫でると一瞬だけ身体がピクリと動いた。

 健やかなその寝顔を見つめながら私も隣で横になる。

 本当は私も眠ってしまいたかったが、その隙に聖羅がいなくなるのが心配で我慢した。

 ぐっすりと眠る聖羅と向かい合った状態で彼女の穏やかな寝顔を見続けた。途中、何度も眠気で目を閉じそうになったが、ぐっと堪えて彼女のアルバイトの時間まで起き続けた。

 十六時を過ぎると聖羅を起こしてバイト先に向かう準備をさせた。

 十六時半、着替えた聖羅が(かばん)を持って私に手を振る。

 「じゃあね、結衣ちゃん。いってきまーす!」

 靴を履いた聖羅がそう言って玄関を出た。私も笑顔で手を振って見送る。

 それから数分の間隔を置いて私も鞄を持つと運動靴を履いて家を出た。

 聖羅と同じ方向に向かって歩くと曲がり角で彼女の背中が見えた。それをバレないように距離をとったまま追いかけた。

 エプロンの入ったトートバッグをぶらぶらと揺らしながら歩く聖羅は特に寄り道をする様子もなく真っ直ぐにアルバイト先へと向かっているようだった。

 他の道には目もくれず緩やかな歩幅で進む聖羅を不安気に追いかけたが、彼女はそのまま「準備中」の札がかけられた「蝶々」に辿り着くと扉を開けて中へと入っていった。

 その様子を電信柱から見届けた私は安堵すると同時に行き場を失って、向かいの公園にあるブランコに腰を下ろした。

 スマホで時間を確認すると開店するまで残り10分弱だった。それまで私はここで時間を潰そう…

 店は17時に開店するが、すぐに来たら聖羅に怪しまれるかもしれない。その為、30分ほどずらしてから来店しようと考えた。

 今日一日を乗り越えれば不安は跡形もなく消え去るだろう。

 そう信じて、今日は聖羅から目を離さないようにしよう…

 公園で一人、スマホ画面に視線を下ろすと数年ぶりにゲームアプリを開いた。

 一昔前に流行ったパズルゲームは同じ宝石を繋げて消していき、得点を競うゲームだ。昔はよくこのゲームで一人の退屈な時間を潰していた。

 画面に指を這わせて宝石を繋げていくと懐かしい感覚が蘇る。とても平和で、それでいて退屈で、気楽なのに虚しい感覚。手放すのは惜しいのに、どこか早く逃れたいような時間だ。

 私、こんなところまで来て一体なにをしているんだろう…

 無言で指を動かしながら冷静に自分自身に呆れ返っているとすぐそばから人影と声が聞こえた。

 「こんなところで何しているんですか…?」

 指を止めて顔を上げる。すると少し緊張した面持ちの啓太くんと目が合った。

 唐突な彼の存在に私の胸は早鐘を打つ。

 動揺した私はスマホ画面を閉じるとブランコから立ち上がって、慌ててその場から逃げようとした。そんな私を彼が呼び止める。

 「帰るんですか?店には行かないんですか?」

 その言葉を聞いてハッと我に返った私は足を止める。

 そうだった…このまま家に帰ったら、ここまでついてきた意味がない…

 足元で列をなすアリの大群を見つめながら深呼吸をすると勢いよく振り返った。するとその先で啓太くんがまるで何かを知っているかのように強い眼差しで私を見ていた。

 「せっかくここまで来たのだからお店に入りましょうよ。」

 啓太くんがそう言って柔和な笑みを浮かべる。

 私はこそばゆい気持ちを必死に抑えながら硬い表情で静かに頷いた。

 すると道路を挟んだ向かいから扉が開く音が聞こえた。

 店の方を見るとマスターが暖簾と営業中の札を掛けている最中だった。

 時刻は十七時丁度で店の営業が始まる時間になっていた。



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