好きな人たち
朝、目を覚ましてカレンダーの日付を確認する。
カレンダーにはすでに九月十四日の箇所に大きなばつ印がつけられていた。その隣の十五日の箇所には相変わらず小さなマル印がついたままだ。
「おはよう、結衣ちゃん。」
背後から声が聞こえて振り向くと卓上に二枚のお皿を乗せる聖羅の姿があった。
お皿にはニコちゃんマークのケチャップが掛かった美しいスクランブルエッグがこちらに向かって微笑んでいる。
「…これ、聖羅が一人で作ったの⁉︎」
驚いて尋ねると聖羅は嬉しいのを我慢するように唇を噛み締めて照れくさそうに頷いた。
「すごいね。綺麗に作れるようになったんだね。」
私が褒めると聖羅は目を輝かせて、一緒に食べよう!と叫んだ。その奥で食パンが焼ける香ばしい匂いがする。
パンを手に取った私は一枚を聖羅に渡して椅子に座ると二人、肩を並べて朝食を摂った。
窓の外は晴天で陽の光が部屋の中を明るく照らし、外からすずめの鳴き声が聞こえる。とても穏やかで優雅な朝だ。まるでいつもと変わらない。むしろ、いつも以上に緩やかな朝だ。
明日の朝もこんな風に迎えられるのだろうか…。
十五日に一体、なにが起きるの?
聖羅本人にそう聞いてしまえば彼女は何か教えてくれるかもしれない。でも私はそれが恐くて何も聞けないまま前日を迎えてしまった。
私が死ぬの?聖羅が死ぬの?
でも聖羅はすでに死んでいる。消えるのは、私か聖羅か…。
私はずっとそんなことばかり考えている。
聖羅の目的はなんなのかとかそんなことばかり考えて頭の中は聖羅でいっぱいだ。
こんなに聖羅のことばかり考えているのは彼女が死んだ時以来だ。あの時みたいに私の中は聖羅で埋め尽くされて毎日、息苦しい。
「そうだ、結衣ちゃんに言うの忘れてた。聖羅ね、明日バイトが入ってるの。」
スクランブルエッグを口に入れながら聖羅が思い出したように口を開いた。
「明日って、明日は木曜日なのに?なんでまた急に…」
「うん。ママがね、仕事もだいぶ慣れてきたから週5で働いてみないかって言って、聖羅も早く沢山お金稼いで結衣ちゃんとの生活を楽にしたいから嬉しかったし、それなら早速そうしようってなって明日もシフト入れてもらったの。」
「そう…なんだ…。」
淡々と説明する聖羅に私は呆気に取られる。
聖羅は出会った頃に比べて確実に大人な女性へと成長していた。生きていれば、きっとこんな風になっていたのだろう。
明るくて誰からも愛される女性へと…
「だからね、明日、家に聖羅がいなくても驚かないでね。聖羅はアルバイトしてて、ちゃんとお家に帰ってくるから!」
笑顔の聖羅に私は頷いてみせる。
聖羅はその後も笑みを絶やさず、玄関で会社に行く私の背中を手を振って見送った。
だけど私は聖羅の言葉を何一つ信用することが出来ず、十五日は嘘の忌引き休暇を入れていた。
明日、私が休みだと知った聖羅はどんな反応を示すのだろうか。喜ぶのだろうか…絶望するのだろうか…何一つ予測がつかない。
会社でお昼休憩中にスマホのGPSで聖羅の居場所を確認すると家の中のままだった。その様子を見てほっと胸を撫で下ろす。
明日が来るのが恐くて仕方がない。明日なんて来なければいいのに…。
明日のことを考えているとコンビニで買ったおにぎりが喉を通らなかった。一口だけ食べたおにぎりをゴミ箱に捨ててトイレに立つと同じ休憩室で昼食を摂っていた先輩に呼び止められた。
「雨音、大丈夫?最近、顔色も悪いし食欲もないみたいだけど…」
心配そうに私の顔を見る先輩に私は至って笑顔で、大丈夫です!と答えた。
ショートカットで切れ長な目をした山田先輩は仕事が絡むととても厳しくて入社した時から何度も怒られたことがあるが、その分、仕事が早くて面倒見のいい頼れる先輩だ。私はこの先輩に頭が上がらないほどお世話になっている。
聖羅を失ってからも私の人生は続いていて色々な人たちと出会った。色々な優しい人たちと意地悪な人たちに出会った。
「ここは噂話が好きな人が多いから色々、気に病んじゃうこともあるだろうけど辛かったら少しの間、休めばいい。それでまた落ち着いたら戻ってくればいいんだよ。…ここは人手不足だから雨音みたいに真面目に長く勤めてる人材は重宝しているし、私には雨音が必要なんだ。」
先輩の唐突な言葉に私は驚いて目を丸くした。そして思わず涙が出そうになるのをグッと堪えながら頭を下げて、その場を離れた。
会社の人たちは苦手だ。でも山田先輩だけは他人に踊らされずに生きていて、かっこいいと思っている。私がこの会社で唯一、愛着を持っている存在だ。
私はいつも誰か一人に助けてもらうことばかり願って、それ以外の優しい人たちに目を向けていない気がする。
自分の殻に閉じこもって誰にも心を開かないくせに傷ついた顔をして生きていて、ここから誰かが救い出してくれるのを待っている。でも、それでは誰も助けてなんてくれない。
何も話してくれない人を助けてあげようなんて思うはずがない。
仕事が終わって帰宅する前に聖羅の居場所を確認する。
スマホ画面には「蝶々」の前でピンが立っていて、店にいることに安堵した。
残業をして夕方六時前に退社をすると重い足を無理やり動かして帰途につく。
その途中で明かりの灯る「蝶々」の看板前で立ち止まった。外には暖簾がかかっていて営業中の札が下げられている。この中に聖羅がいることを理解しながらもその扉を素通りした。
その瞬間、啓太くんの顔が浮かんだが慌てて打ち消した。
花火大会以来、私は一度も店に寄らず、啓太くんと顔を合わせていない。彼の前で今更、どんな顔をすればいいのかわからなくて無意識に避けてしまっている。
パンプスの重心を前にして足を動かすと、コツコツと音が鳴った。前を向いて歩いていると背後から聞き慣れた声が聞こえた。
「結衣さん!」
その声が誰なのか分かっていながらも恐くて振り返ることが出来なかった。
すると彼がもう一度、叫ぶ。
「結衣さん!早く戻って来て‼︎」
その言葉に足を止めて振り向くと数メートル先で私を見つめる啓太くんと目が合った。
「結衣さん、僕…」
私はもう一度、背を向けて足早にその場を去る。
背後から彼の必死な声が私の耳に届いた。
「待っているから、早く帰って来て」
その声に背を向けて帰宅すると体中に疲労感が襲いかかり綺麗に畳まれた布団に倒れ込んだ。
横になるとようやく少しだけ楽になって涙を流す。
聖羅のことも自分のことも、わからないことだらけでいっぱいいっぱいなのに戻って来てと言われても何が何だかわからなくて余計に混乱する。
私は現在を必死に生きているのに、まるでランニングマシンの上にいるように全くゴールが見えない。この走りはいつまで続くのだろうか。
生きるって、すごく疲れる。早く楽になりたいと今まで幾度となく思ってきた。
もしも明日、聖羅の為に死ねるのなら正直、嬉しい。
幸せが用意されているのかわからないゴールの為に必死に走り続けるのは辛くて苦しい。
自分のせいで失った人の気持ちを考えながら罪悪感に苛まれて生きるのは本当に辛かった。
今日までに私はもっと聖羅と向き合えばよかった。
せっかく会えたのだからもっと一緒にいる時間を大切にすればよかった。
もっと深い話をすればよかった。
謝ってばかりでちゃんと聖羅の声に耳を傾けなかったから、もっと話を聞けばよかった。
後悔って果てがない。あの時、ああすればよかった、こうすればよかったって何十回も考えて来た。でも過去は消えずに現在は一瞬で過去の色に変わる。
聖羅、啓太くん、ママ、マスター、由紀ちゃん、山田先輩、お父さん、お母さん、お兄ちゃんたち…
私の好きな人たちは私が死んだら何を思うのだろうか。
そんなことを考えていたら聖羅が死んだ後の聖羅のお母さんの顔が浮かんだ。
ベランダの手すりに手をかけて虚ろな目をして真下を見ていた聖羅のお母さん。生気を失い、部屋着姿で髪を乱していた彼女の顔を思い出すと激しい罪悪感に襲われる。
それは今にも飛び降りてしまいそうなほどに絶望感が漂っていた。
私が死んだら聖羅のお母さんのようになってしまう人はいるのだろうか?
聖羅が死んだ記憶が私に焼き付いているように私が死んだら私の死んだ記憶が焼き付く人たちがいる。
私と同じように私の好きな人たちはこの先、苦しんでいくことになる。
そしたら私は再びあの世で罪悪感に苛まれることになるのだろうか。
罪悪感ってキリがない。生きても死んでも罪悪感は纏わりついてくる。
私はこの罪悪感とどうやって向き合えばいいのか正解がわからない。
長い時間、布団に横たわったままでいると玄関から扉の開く音が聞こえた。
「ただいま〜!」
そう言って靴を脱ぐ聖羅はまるで生きた人間そのもので、とても死んでいるようには思えなかった。




