濡れた淑女
「見覚えのない指輪?」
ママが私の席にお通しを置きながら訝しげな顔をする。
私はカウンター席に着きながら向かい側で料理をするマスターとママの顔を交互に見ながら神妙に話す。
「そう‼︎指に見覚えのない指輪がついていたの…。買った覚えのないシルバーリング‼︎」
私の頼んだグレープフルーツサワーを手際良く作るママが呆れた顔をした。
「酔っ払って、どっかから拾ってきたんじゃないの⁇」
ママの言葉に後ろのファミリー席で優雅に一人晩酌をする西澤さんが高らかに笑う。
「結衣ちゃんにも結婚願望が出来たってことだな!」
熱燗のおちょこを片手に小麦色の肌を赤くした西澤さんは相変わらず上機嫌だ。
「何言ってるんですか⁉︎私は別に結婚なんか…」
発言の途中で入口のドアが控えめに開いた。
私達が視線を送ると華奢な黒髪の青年と目が合った。
ママとマスターの息子で長男の啓太くんだ。
「あら、おかえりなさい。」
ママの言葉に啓太くんは小さな声で、うん。と返して静かに中へと入る。
「お!就活生の帰宅だ‼︎どうだ、いいところ決まったか⁉︎優秀な学生さんよ〜‼︎」
血気盛んな西澤さんの盛り上げに啓太くんは、「…まだ終わってないです。」と心底、迷惑そうな顔を見せる。
「ここでご飯食べる⁇」
ママが尋ねると啓太くんは、「外で済ませてきた。」と素っ気なく返事して私達の側を横切り、二階の自宅へと繋がる階段を上って姿を消した。
それから数分後、再びドアが開くと今度は次女の由紀ちゃんが制服姿で帰ってきた。
「由紀、帰りが遅くなる時は連絡してって何回行ったら分かるの⁉︎」
帰宅早々にママが由紀ちゃんを窘める。
「だってママ、ラインしたって仕事が忙しくて見ないじゃん⁉︎」
短いスカートから小麦色の太ももを覗かせながら由紀ちゃんが不服を唱える。
「そんなことないわよ⁉︎私だって見るわよ!」
「だってこの間だってラインしたら…」
二人の押し問答にマスターが慌てて割って入った。
「まあまあ、それよりも…由紀は飯食うか?お前の好きなカボチャ入り、きのこ抜きのクリームシチューがあるぞ!」
マスターの言葉に由紀ちゃんの表情が一気に明るくなる。
「わーい‼︎やった!食べるー!ずっと何も食べずに友達とカラオケしてたからお腹空いてたの‼︎」
私の横に座り出す由紀ちゃんにマスターは嬉しそうに、「今から用意するな!」と言い、ママは呆れた表情で厨房に戻った。
ほどなくして温められたクリームシチューが湯気を立たせて私と由紀ちゃんの前に置かれる。
「あれ?マスター、私頼んでないけど…」
目の前の黄身がかった白のクリームシチューとマスターの顔を交互に見ながら尋ねるとマスターはご機嫌な声で、「サービス、サービス!」と笑った。
「結衣さん、サービスだって!頂いちゃいな‼︎早くしないと冷めちゃうよ⁉︎」
シチューを口に運ぶ由紀ちゃんが催促する。
「嬉しいけど…サービスばっかしてたら赤字になっちゃうよ⁉︎」
私の心配に白米をよそうママが、「うちはもう、火の車よ。」と責めるようにマスターを見て大袈裟に言った。
マスターはママを尻目に鼻歌を歌いながら皿洗いを始める。
私は店の奥に置かれたテレビに目をやった。
いつもは点いているテレビが真っ暗なままだ。
店内が賑やかでテレビの音がなくても違和感を感じなかった。
これからしばらくの間、テレビは点かないのかもしれない。何故だか分からないがそんな気がした。
「ごちそうさま!また来週ね‼︎」
飲食を終えて勘定を済ませるとママが私と一緒に扉を開けた。
ママは私の帰りをいつも心配して外まで見送ってくれる。その甲斐甲斐しさが実家を離れて一人暮らしをする私の胸に響く。
「あら、随分と降っているわね…」
ママの言葉に外に目を向けると夜空から無数の雨粒が音を立てて落ちている。
「結衣ちゃん、傘持ってきてないでしょ⁉︎ほら、これ持って行きな!」
ママが私にビニール傘を差し出した。
「うん、ありがとう‼︎…でも、これ誰の?」
「…啓太のよ。でも大丈夫、気にしないで!」
茶目っ気を含んだ言い方で笑うママに思わず傘を押し返した。
「えぇ!悪いよ‼︎…てか啓太くんが明日、傘がないって困っちゃうよ!」
ママは私の言葉に気にせず笑顔で、
「大丈夫、大丈夫‼︎あの子も結衣ちゃんなら怒らないから‼︎」と傘を容赦なく押し付けた。
「それに!大切なお客様が濡れて風邪引いたら、しばらく店に来れなくなっちゃうでしょう⁉︎それは困るわよ、こっちも客商売なんだから。」
そう言われてしまうと私は何も返せなかった。
ママの押しに負けるように、「じゃあ…借りる。」と言って啓太くんのビニール傘を受け取った。
傘をさして扉の外に出る。湿気を帯びた生ぬるい空気が息苦しかった。
「あの子、あんなところで何をしているのかしら…?」
屋根の下で私を見送るママが気に掛けるように道路を挟んだ先を見る。その視線を辿るように前を向くと向かい側の歩道で白いワンピースを着た女性がしゃがんだまま下を向いていた。
「どこか具合でも悪いのかしら…?」
心配するママと共に女性の姿を眺めていると、こちら側の歩道から傘をさした千鳥足の陽気な酔っ払いが店に向かってきた。
「よぉ!ママ‼︎飲みにきたよー‼︎‼︎」
拙い足取りで手を上げながら大きな声を出す酔っ払い客にママは呆れた様子で、
「はいはい、いらっしゃい。今日は何軒目なのかね〜?」と手際よく介抱しながら客と店内へと入っていった。
扉が閉まったことによって賑やかな店内の笑い声がくぐもって聞こえる。私は足を止めたまま彼女から視線を離すことが出来なかった。
意を決して車通りを確認しながら夜の車道を突っ切っていった。
歩道に入るとしゃがんでいる女性に近づいて腰を屈めた。
彼女が濡れないように傘を差し出す。
「あの…大丈夫ですか?」
女性に聞こえるように少し声を上げて顔を覗き込んだ。
私の言葉に呼応するかのように女性が顔を上げて目と目が合った。
綺麗な瞳だ…まるでガラス玉みたい。
見た瞬間にそう感じた。まん丸で大きな瞳の中に街灯の明かりが灯されて宿っている。
その瞳に息を呑んで言葉を失いかけたが、ハッと我に返って話を続けた。
「何があったか知りませんが、こんなところにいると風邪引いちゃいますよ!だからおうちに帰った方がいいですよ。」
諭すように告げると女性は上目遣いのまま長いまつ毛をバサバサと上下させた。
二十代前半か半ばほどに見える女性は白い肌が街灯に照らされて青白く光っている。
細くて華奢で、私には持ち合わせていないすらっとしたモデル体型だ。
「おうち…?」
「そう、おうち!家に帰ってお風呂に入って、ほっと一息した方があなたにとって良いかと思います。」
女性は目をパチクリさせると、言葉の意味を理解したのか笑顔になった。
綺麗に上がった口角に思わず見惚れる。
彼女の髪は雨水でびしょ濡れになっていて前髪が額に張り付いてしまっていた。
肩につく程度の長さの髪が束になって、毛先からいくつもの雫を落としていく。
「じゃあ、お姉さんが今晩、私を泊めてよ。」
至極当然のように発言する彼女はとても嬉しそうだった。
私は彼女の発言が予想外でしばらくの間、理解することに時間を要した。
ようやく言葉の意味を理解すると傘を差し出したまま、「は⁉︎」と素っ頓狂な声を出す。
意味がわからない!どうしてそういう話になるのだ⁉︎
「私、自分の住む場所がないの。だからおうちに帰れない。」
淡々と理由を話す彼女の言葉についていけなかった。
住む場所がないってどういうこと?
突然、家が火事にでもなって路頭に迷っているのか…同棲中の彼氏と喧嘩して家を追い出されて路頭に迷っているのか…
どちらにせよ、路頭に迷っていることは変わりないし、彼女をこのまま夜道に放置するのは良心が咎める。
私は彼女を家に連れて帰ってから事情を聞くことにした。
「今晩だけですよ。」と女性に言うと彼女は花が咲いたように満面の笑みを浮かべた。
「嬉しい!」
喜び勇んだ彼女が勢いよく立ち上がったことによって屈んでいた私が後ろにのけぞった。
彼女は162センチの私の身長よりも僅かに高かった。
体つきも顔立ちも明らかな大人の女性なのに対して、言動に幼さが見える。
だからなのか、ここで彼女を一人にするのは危険な気がした。
彼女がまるで一人では何も出来ない幼児のように見えた。
真っ黒な服を着た私と真っ白なワンピースを着た知らない女性。
私と彼女が一つの傘に収まっている姿は実に奇妙だった。




