思い出す
「結衣ちゃん、いってらっしゃい。」
朝、家を出る私を聖羅はいつも通り眠たそうに目を擦って見送った。
雲一つない晴天の下、白シャツに黒のスカートと黒いパンプスを履いて歩く私の身体を九月になっても変わらぬ暑さがまとわりついてくる。
うんざりするほど聞いたジリジリと鳴く幾十のアブラゼミの鳴き声はいつもなら鬱陶しく思うのに今日はそんなことも気にならないほどに思い惑う。
九月十五日…あと二週間を切ったその日に一体、何があるのか。何が起こるのか。聖羅は何を知っているのか。
そもそも聖羅が生きていて成長していること自体がおかしい。あれは本当に聖羅なのだろうか…いや、あれは間違いなく聖羅だ。見た目がどんなに成長していようとも紛れもなく聖羅自身であることを私の本能が感知している。
では何故、存在している?
何のために生きているの?聖羅…
私が犯した罪は重くて、赦されるべきものではない。
それなのにどうして聖羅は私の前に現れた…?どうして何も覚えていないふりをするの…?
それにたまに聞こえる男の声…あれは一体、誰なのか。
何もかもが分からなくて混乱している。頭の中をこねくり回されてぐちゃぐちゃにされているみたいだ。
悶々として歩いているといつの間にか会社を通り過ぎてしまっていることに気がついてハッとした。
後ろを振り向くと会社のビルがいつもと変わらぬもの寂しげな様子で建っていて、スーツを着た男の人が数名ほど吸い込まれるように中へと入っていった。
いつもなら私もそこへ同じように入っていく…だけど今日はそのまま前を向いて歩き、駅の改札へと足早に向かうとスマホをかざしてプラットホームに降りた。前に職場の研修で電車に乗る為にチャージした電子マネーが多めに残っていたことにホッとする。
ホームにはタイミングよく電車が来るアナウンスが流れた。音を立てて走る電車は待ち侘びていたかのように私の目の前で止まって扉を開けた。私は中に乗って扉が閉まるまでの間、速まる鼓動を必死に抑えようとした。実に衝動的な行動だ。
扉が閉まって電車が動き出すと慌てて会社に電話を掛ける。
小声で体調不良という嘘の言い訳を伝えると電話越しで上司が怪訝な顔をしているのが分かるくらい雲行きの怪しい声で休むことを承諾した。
明日になったら上司に怒られて後輩たちに白い目で見られることを今は考えないようにしよう。それから休んだ分だけ溜まっていく業務のことも今だけは忘れて彼女のことだけを考えよう。彼女のことだけを…。
一時間ほど電車に揺られると駅に降りて階段を上り、別のプラットホームへと降りた。再び電車に乗って揺られること三十分…改札を抜けて駅を出ると町からどこか懐かしい匂いがした。
子供の頃に嗅ぎ慣れた匂い。それはすぐ側にある精肉店が揚げるコロッケとハムカツの油の匂いだ。学生時代、ここの精肉店でたまにコロッケを買って食べながら帰宅していた。
少し歩くと今度はパン屋さんからパンの匂いがする。家までの通り道にある小さなパン屋さんは幼い頃、母の買い物に付き合うと好きなパンを一つだけ買ってもらえた。私はこの店のクリームコロネが好きだった。スーパーのベーカリーコーナーにあるクリームコロネよりもクリームの量が多くて先っぽの方まで入っているから好きだった。
さらに歩くと今度はタピオカのお店があった。ピンクと水色のファンシーな雰囲気の中で若くて可愛い高校生くらいの女の子が一人で店番をしている。
ここは昔、父が大好きだったインドカレー屋さんだったのにいつの間にか無くなってしまったことを今更、知った。
その隣には私が子供の頃に何度もお世話になった歯医者が変わらず建っている。
新しいものと古いもの…私が帰っていない間も故郷は呼吸をしていて不変と変化が混ざり合って動いている。
この町に帰ってくるのは短大を卒業して以来だ。
九年振りの街並みは懐かしさの中に寂しさを感じる。
戻れない過去の記憶が凝縮されていて、なんだか無性に寂しく感じた。
歩けば歩くほどに懐かしくて悲しくなってくる。幼い頃から学生時代までの辛かったこと、嬉しかったこと、後悔したことなどが思い出さなくても見える景色や匂いで身体が無意識に反応している。
聖羅のことも実家に帰ってきたことでさらに色濃く思い出してきた。
車が走り去る交差点で信号待ちをしていると、その先にかつて私が住んでいた古びた集合団地の様子が目に入った。
ひっそりと佇む団地は昔と変わらぬ様子で側面に住練番号が打ちつけられている。初めて我が家に来る人はみんな、この番号と郵便受けの名前を見て、雨音家であることを確認してから訪問すると母の友人や家庭訪問に来た先生がかつて話していた。
階段を上がって実家の扉を叩くと、ドアを開けた母が唖然とした顔で出迎えた。
「どうしたの…?」
「ちょっとね…久々に昔のアルバムとかが急に見たくなって…。」
急に帰ってきた娘に母は戸惑いを隠せない様子だった。家に入れた後も麦茶を入れながら、今日は休みなの?あんたのところは土日休みじゃなかったっけ?と探りを入れてくる。
私は有給を入れたと嘘をついて実家にいた時に散々飲んだ麦茶パックの麦茶を飲みながら、かつて自分が使っていた小さな部屋の方に目をやった。
ボロボロになった襖が半開きになっていて中の様子が見える。中には私が飾っていたウサギのぬいぐるみも、よく読んでいた小説もなくなっていて母の私物が置かれていた。
「ねぇ、私の写ったアルバムとかってどこに仕舞ってる?」
母に尋ねると母も長らく見ていないみたいで天井を見上げて、どこだったかしらねぇ…と考えるような顔をした。
「確かここじゃないかしら…」
そう言って私の部屋の襖を完全に開けると奥にある押入れの扉を開ける。
「…あった!あんたがちゃんと片さないで引っ越すもんだから、私がこれにまとめておいたのよ。」
そう言って母が大きなダンボール箱を引っ張り出した為、慌てて私も手伝って二人で畳の上に置いた。
ダンボール箱を開けると中には私が使っていたランドセルやリコーダー、中学時代の制服が折りたたまれて仕舞われていた。それらを出すと記憶から懐かしい匂いがする。
その奥には高校生時代までの卒業アルバムが重なっていて、父と母が撮った私の写真アルバムも入っていた。
母は私が思い出の品を出す度にそれらを手に取って、懐かしいわねぇ…と涙ぐんでいた。
「これ…」
そう呟いて私が手に取ったのは一冊のスケッチブックだった。
中を開くとアンバランスな人間の絵が何体も描かれている。
「あんた、昔は絵を描くのが大好きだったよね。将来は漫画家になるなんて言っていた時もあって…」
回顧する母のそばでスケッチブックを一枚一枚めくっていく。
白い紙の上に頭と手が大きな人間がたくさん立っている。髪が長かったり、短かったりと、髪の長さで辛うじて男か女かわかる程度だ。
ページを進めていくと新しい絵が混ざってきた。それは男なのか女なのかもわからないほどにぐちゃぐちゃな絵だった。
「昔、よく遊びに来ていた女の子がいたわね…お互いの家を行き来してさ…あの子、なんて名前だったかしら?すごく可愛い子で、あんたのこと本当のお姉ちゃんみたいに慕って、ぴったりと張り付いててさ…」
母の声を聞きながら聖羅の描いた絵をそっと撫でた。
私達、いつも一緒に遊んだり絵を描いていた。それなのに何故、私はもう絵を描いていないのだろうか…
その答えは次のページにあった。描き途中の絵が黒く塗り潰されていて、それ以降のページはまっさらだった。
これは私だ。私が描いたものだ。
プレーヤーに入ったカセットテープがくるくると回るように昔の記憶が蘇る。
聖羅が死んだ後に絵を描こうとした。でも何も描けなかった。
色鉛筆を手に取ると聖羅のことを思い出す。それが恐くて苦しくて、描いている途中で黒くぐちゃぐちゃに塗り潰した。それから私は絵を描かなくなった。
聖羅は死んだ。私が殺した。
絵を描く楽しさを忘れた現在の私がその証拠だ。
私はスケッチブックを見つめて息を荒げた。心臓が早鐘を打つ。
その横で母が、「…結衣?」と不安げに私を見ている。
「お母さん、ごめん。私、急いで帰らないと…これ、持っていくね!」
立ち上がった私はスケッチブックをカバンに押し込んで玄関へと向かう。
「待って!結衣‼︎」
母は私に何かを言いたげだったが私はそれを振り払うようにパンプスを履いて実家を飛び出した。
カバンから入りきらなかったスケッチブックが顔を出した状態のまま駅に向かって走る。
行きに懐かしんでいた町並みも全部素通りして駅に着くと、電車に飛び乗った。
早く家に着いて!聖羅に会わなくちゃ…
私の感情は今、恐怖と罪悪感に支配されている。
真実を思い出してしまった。聖羅は私に一体何をするつもりなのか…
今日は聖羅の誕生日でーす。




