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聖羅  作者: 水綺はく


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16/30

雨のちカレー

 「ありがとうございました。またお待ちしております。」

 深々と頭を下げる店員に一礼をして自動ドアを抜けると外は雨が降っていた。

 ケータイショップに入る前までは晴天で雨など降っていなかったのに契約を終えて外に出ると天気雨が降っていた。

 晴れているのに泣いている空を見ながらこのまま雨が止むのを待とうか悩んだが、諦めて雨の中を大事なショップ袋を抱えて早歩きした。

 私の向かいを鞄を傘代わりとして頭上に乗せるサラリーマンや体を縮こませた自転車のおばさんが走り抜ける。

 私も彼らのように家が近づくと階段下の屋根まで走り出した。

 階段を上って家の中に入ると、すぐに服を脱いで濡れた体をシャワーで温める。バスタオルで体を拭きながら洗濯機を回すと外から雨音が聞こえないことに気がついた。

 鼠色のスウェットに着替えてカーテンを開けると雨は止んで空に大きな虹が咲いていた。

 「晴れてる…」

 さっきまでの雨が嘘かのように空は笑っているが地面には大きな水溜まりが無数に出来ていた。

 ショップ袋を開いてケースから新しいスマホを取り出すとテーブル上に置かれた自分のスマホが短い音を立てた。

 画面を覗くと母からのメッセージの知らせであった。

ーー結衣、元気?せっかくのお盆休みなんだから、たまには実家に戻って来なさいよ!

 母から届いたメッセージを見ると、今はそれどころじゃないんだよ!って感じで画面を真っ暗にして新しいスマホの電源を入れる。

 真っ暗な画面が白く光って、‘’こんにちは,,と表示される。

 言語を日本語に選択して進めると諸々の初期設定を終わらせた。

 これは聖羅のために新しく契約したスマホだ。

 聖羅の誕生日であるクリスマスカラーに合わせた赤色のケースをつけてパスワードも聖羅の誕生日にした。

 過保護な私は聖羅の安否が不安なため、初期設定を終えると位置情報アプリをインストールして自分のスマホと共有できるようにした。これで聖羅がどこにいても居場所がわかるようになる。

 私の不安はこのスマホと啓太くんの存在でようやく解消されそうだ。

 それが分かると急に嬉しくなって聖羅の帰りが待ち遠しく感じる。

 スマホ画面には夕方六時半と時刻が刻まれていた。聖羅が帰ってくるまでまだ五時間以上時間がある。その間、私は何をして待っていようか…。

 ふと思ったが聖羅がこの家に来る前、私は休日に何をしていただろうか。

 「蝶々」でお酒を飲むこともあったが、店に行かない日や店に行く前の時間は一体何をしていただろうか…?

 子供の頃、絵を描くことに夢中になっていたが今の私は絵は描かないし芸能人にも興味はないし、のめり込むほどの趣味を持っていない。

 そういえば休日はテレビを点けて、ただボーっとしているか洗濯と掃除で一日を終えていた気がする。

 テレビは聖羅が来てから一度も点けていない。点けようとする気も起きない。

 何かもっとのめり込んでいたものがあったような気がするが頭の中で霧がかかって思い出せない。

 何か夢中になって大切だと思える存在があったはずなのに…思い出そうとしても思い出せない…

 そうだ!

 立ち上がった私はキッチンに向かって鍋に水を入れて火を掛けた。

 そこにじゃがいも、にんじん、玉ねぎを粗く切って沸騰した鍋の中に入れた。

 今日は聖羅のために彼女の大好きなカレーを作ろうと思った。

 料理上手だった聖羅のお母さんが作るものには到底敵わないし、お肉だって牛肉じゃなくて豚ひき肉だけど、それでも聖羅が喜んでくれたらいいな。

 鍋の中にカレー粉を入れて二十分ほど煮込ませるとドロッとしたカレーが出来上がった。

 隠し味はウスターソースだ。ウスターソースに凝縮された野菜や果物の旨みがコクを出す。

 出来上がったカレーをスプーンで掬って味見すると子供じみた甘い味がした。

 甘口カレーを食べるなんて二十年振りかもしれない。

 複雑なものなんて何一つ感じない味…味見に満足するとそっと鍋の蓋を閉じた。

 次に米を研いで炊飯器に入れて炊く。

 それが終わるとやりたいことを終えたことに安堵して椅子に座った。

 テーブルの上で脱力するように顔を伏せると段々とウトウトしてきて瞼が重くなっていく。

 重くなる瞼に逆らうことなく瞳を閉じると意識が少しずつ遠くなっていった。

 きっとこの意識は聖羅が帰ってくるまで戻ってこないだろう…。



 あははっ。

 頭の中で甲高い笑い声が聞こえて目を覚ました。

 外はすっかり日が落ちて部屋の中が真っ暗だった。

 体を起き上がらせると肩が重くなっていて座ったまま寝たことに後悔する。

 テーブルから体を離して伸びをすると再び甲高い笑い声が聞こえた。

 あははっ、ねぇ〜教えてっ!

 声が聞こえる方向に顔を向けると窓の外からであった。

 立ち上がって窓に近づくと覆われたカーテンを剥がして目を見開く。

 バルコニーの先で若い男女が楽しげに話している姿が目に入った。リュックを背負った黒髪の青年、啓太くんと聖羅の栗色の髪が揺れていた。

 聖羅は燥いでいて口元に両手を当てながら啓太くんの方へと顔を近づける。

 啓太くんは当惑した表情を浮かべながら聖羅の耳元に唇を近づけた。そして何かを囁くと聖羅はさらに燥いで大喜びしながら啓太くんの肩を何度も叩く。

 すると啓太くんは顔を赤くして聖羅から顔を背けた。

 まるで街中にいる若いカップルのようだ。

 私は二人の近すぎる距離感を目の当たりにして息を呑んだ。

 欲しいもの、欲しい人…聖羅が笑っている。

 急に息が苦しくなって水中にいるような感覚に陥った。水中で捕まるところもないまま背面から底に落ちていく感覚。

 手足をばたつかせて暴れても、泳げなくて息が苦しい。

 出口のない世界…聖羅に嫉妬していた。

 自分は愚かだ。あんな思いをしても尚、昔と同じ感情がいとも容易く現れる。

 何度も繰り返す。嫉妬は自分が惨めな人間だと認めている証だ。

 二人の様子を眺めていると啓太くんが視線を窓の方へと向けて私と目が合った。私は咄嗟にカーテンで顔を隠して窓から背を向ける。そこから静かに離れて電気を点けるとキッチンに向かってカレーの入った鍋に火をかけた。

 外では話し声が止んでアパートの階段を上がる聖羅の足音が聞こえてきた。

 鍵を開ける音、ドアノブを回す音…そして聖羅の声がした。

 「結衣ちゃん、ただいま!」

 靴を脱いだ聖羅は入ってすぐにカレーの匂いに反応した。

 「わー!カレーだ‼︎」

 嬉々とした声を上げる聖羅に、おかえり。と返した。

 部屋に向かって鞄を置く聖羅のそばで私はまだ自分が嫉妬していることに動揺していた。

 何故?欲しい人だなんて…まさか…年下の学生なのに…

 「結衣ちゃん!何か聖羅に手伝えることある?」

 ハッとして横を向くと聖羅が私のそばに寄って顔を覗き込んでいた。

 丸くて大きな瞳…長いまつ毛……無垢で可愛い少女だ…

 私は沸々と泡立ったカレーの火を止めた。

 「聖羅、自分でお皿にご飯を入れてカレーをかけて。先に食べていていいから、私、ちょっとだけ外に出るね。」

 「うん、わかった!いってらっしゃい!」

 聖羅はニコニコとして私に手を振った。

 この子は一体、何を知っているのだろうか…どこまで知っていて、何を知らないのだろうか?

 私は何を知っている?何を思い出そうとしている?

 サンダルを履いて家を出た私は階段を降りると帰っていく啓太くんの背中を見つけて走った。

 「啓太くん!」

 名前を呼ぶと啓太くんが振り返って驚いた顔を見せる。

 「どうしたんですか?」

 走って引き返す啓太くんと目が合うと私は言葉を見失った。

 「あ、あのね…」

 もつれる思考を一瞬で襲ったのは恐怖だった。

 何もかも失う恐怖…啓太くん、啓太くんの家族…聖羅。

 聖羅が恐い。私が築き上げたものを一瞬で奪い去る力を持った子だ。でもまたあの時みたいに聖羅を失ったら私は誰のそばにいても生きている意味がなくなる。

 「さっき、聖羅と二人で話している時、私が窓から覗いているの見えたでしょう?」

 私の言葉に啓太くんは一瞬、言葉を失って何か考えているような顔をした。その表情を見て私は慌てて釈明する。

 「勝手に覗き見して、ごめん!でも嬉しかったの。だって聖羅と啓太くんがあまりにもお似合いだったから…」

 私の言葉に啓太くんの表情が少しだけ険しくなった。私はそれに気がつかなかった。

 「ねぇ、もしも聖羅と付き合いたいのなら私に協力させてよ。啓太くんなら私も安心できるし、きっと聖羅も幸せだと思うの。」

 これは私の本心だった。何故なら失うのが恐いからだ。

 啓太くんと聖羅が結ばれれば私はきっと仲間はずれにならない。二人とも私のそばに繋ぎ止めることができる。

 私はいつもそうやって自分のことばかりだ。

 なのに何故、こんなにも胸が痛いのだろうか。



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