騒動の翌日
朝、目を覚まして起き上がるとスマホ画面を覗いた。
画面には八時五十五分と表示されている。
混沌とした意識の中で隣を見ると、昨日の騒動で疲れ切った聖羅がぐっすりと眠り込んでいた。
八時五十五分…いつもなら会社で制服に着替え終わって業務に就く準備をしている時間だ。
八時五十五分…八時五十六分…スマホの画面表示が再び変わる…。
ハッとした私は意識が一気に冴え渡って目を見開いた。
遅刻だ…会社に遅刻だ!!!
布団から勢いよく飛び起きるとものすごい勢いで身支度を整える。歯を磨きながらトイレで用を足すと魔法少女の変身シーンさながらに着替えて化粧をした。
そうこうしているうちに会社から呼び出し音が鳴る。
今まで遅刻なんてしたことがなかったのに…
慌てて電話に出た私は携帯越しの顔が見えない上司に向かって平謝りしながら何度も頭を下げた。
その情け無い姿を聖羅はポカーンとした顔で眺めていた。
「結衣ちゃん、聖羅は急がなくていいの?」
慌てふためく私の側で聖羅がのんびりとした声で尋ねた。
「聖羅は急がなくていいの。」
答える時間ですら惜しい私は少し苛立った口調になった。
聖羅のアルバイトは夕方からだし、そもそも今日はアルバイト自体が休みの日だ。
雑に鞄を手にしてパンプスを履くとよろけて床に倒れた。
「大丈夫?」
三倍速で動く私の側でゆったりとした時間を過ごす聖羅が首を傾げて尋ねた。私はそんな聖羅に見向きもしないで家を飛び出た。
通勤経路を小走りする間、私は孤独だった。
私の側を通り過ぎる人々は何に追われる様子もなく、ゆっくりと歩いていてまるで私の世界だけ時計が速くなっているように思えた。
遅刻とは無縁な様子でゆっくりとシルバーカーを引くお婆ちゃんの横を通り過ぎた時、今だけでいいから入れ替わりたいと願った。
会社に着くといつもは賑やかな更衣室が着替え終わった残骸だけを残して静まり返っていた。
電気が消えて薄暗くなった更衣室で着替えている間、私は上司に謝罪する姿を何度もイメージトレーニングした。
謝罪はシンプルにしないといけない。
まずは静かに謝罪してすぐに業務に就く。そして業務が終わった後に理由を説明して、もう二度としないと誓っている姿を見せる。
遅刻慣れしている子だったら呆れられてすぐに済むけど私みたいに真面目さを全面に出して仕事をしてきた人間は上司に、何故?どうして?と訊かれる。
同じ過ちでもイレギュラーな過ちは適当に流されず、質疑応答の時間が与えられる。それらに時に救われ、時に追い詰められる。
着替え終わって部署に入ると忙しそうに受話器をとる社員たちの間を縫って上司に小声で謝罪をした。上司も忙しそうにしていて私を見ると興味なさげにそっぽを向いて再び仕事に手をつけた。
私はそそくさと席に着いて仕事を始める。席に着くとまだ入って日が浅い子たちが受話器を片手に私を横目にチラッと見ているのが分かった。
仕事に就く前から今日一日が上手くいかないことが確定していて心は泣いている。
コール音が鳴る電話をとりながら聖羅に苛立った様子を見せてしまったことに後悔していた。
聖羅は何も悪くないのに…
余裕がないと感情は怒りの方向へと向いてしまうのだ。その時ばかりは自分自身をコントロールするのは難しい。
「あの人が遅刻なんて初めて見たんだけど⁉︎」
「ねぇ、ビックリだよね…超真面目で遅刻とか絶対しない人なのに…」
仕事を終えてロッカールームに向かうと扉の先で後輩たちが私の話をしているのがわかった。
中へ入る決心がつかなくなった私はまるで置物かのように扉の前で佇んだまま尻込みする。
「…なんかさ、やっぱり色々来てるんじゃない?精神的なものが。」
「私もそう思う。いつも通りに振る舞ってるつもりなんだろうけど目とか…クマがヤバいし。」
「だよね〜、そりゃぁ、あんなことされちゃったらねぇ〜」
「親しいわけでもないからどうやって接すればいいのか分からない。」
「そうそう。なんだかこっちが気疲れしちゃう〜みたいな。」
静かに話を聞いていると背後から先輩の「お疲れ様。」と言う声が聞こえた。
ハッとした私が振り返ると目が合った先輩は、何故入らないの?といった様子で小首を傾げてドアノブに手を掛けた。
ドアノブが捻られた瞬間、後輩たちがしていた噂話は跡形もなく消え去り、「お疲れ様で〜す。」と言う和やかな声と共に淡々とロッカーを閉める音だけが響いた。
私も扉を開けると後輩たちはまるでさっきまでの会話なんて最初から存在しなかったかのように私を見るなり爽やかな笑顔で挨拶をして横を通り過ぎて行った。
私は時折、大人の表情の使い分けに驚く時がある。大人は相手によって色んな顔を使い分けて心の表情とはまるで違う姿を見せる時がある。表情をくるくると変えて思っていることとは真逆の顔を見せて、皆、名もなき名俳優と言っても過言ではない。
彼らはそれを意図して行う時もあれば意図せずに行っている時もある。そしてそんな風に驚いている私も彼らと同じように上手く演じ分けることが出来るのだ。
子供の時はそんな風に演じ分けることなんて出来なかった。思っていることがストレートに表情として表れていたのに、いつの間にか演じることを覚えていた。
聖羅のように何でも心の中が表情として表れていた時が私にもあった。
みんな昔は聖羅だった。
大人になるにつれて環境や経験とともに聖羅じゃなくなっていく。
私も昔は聖羅だったのかもしれない。
でももう聖羅ではない。失ったものは二度と戻ってこない。
単純さは消えて複雑になっていく。
表情と言葉に常に疑いをかけて裏を探っていく。それが時に悪意となって、時に優しさとなる。
大人になるって苦しいけれど、たまに温かい。
私は聖羅が眩しくて羨ましいけれど幼少期に戻りたいとは思わない。
戻ってしまったらいつまでも大人を夢見る子供のままだ。希望があるようでない状態だ。
聖羅をそうさせてしまったのは私。
ごめんね、聖羅。
帰宅した私は疲れがどっと出て、敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。
化粧を落とすのも面倒で汗でぐちゃぐちゃになった顔を枕に埋める。その様子を聖羅が心配そうに眺めていた。
「聖羅…今日はご飯の用意できないからコンビニで好きなもの買ってきな。」
財布から千円札を出して聖羅に渡すと彼女は、「うん、わかった。」と従順に頷いた。
「結衣ちゃんは何が食べたい?」
「私は大丈夫だから自分が食べたいものを買ってきな。」
「うん。いってきまーす!」
玄関に向かって嬉しそうに走っていく聖羅の後ろ姿を眺めていると思わず彼女を呼び止めた。
「聖羅!ちゃんと真っ直ぐに帰ってくるんだよ!コンビニ以外のところには行っちゃダメだからね。それと知らない人の後にはついて行っちゃダメ。あっ!知っている人でも絶対にダメだよ!それから…」
私の長い注意を区切るように聖羅が振り返って、「大丈夫!」と叫んだ。
「結衣ちゃん、もう二度としないよ。」
私と目が合った聖羅は慈悲深き笑みを浮かべていた。
まるで全てを悟ったかのような微笑みだ。
その微笑みを見ていると不思議と不安がとれて、出ていく彼女の姿を黙って見送った。
彼女が出ていくと私は魂が抜けたように燃え尽きて深い眠りについた。
布団の上で目を閉じた時、脳裏にさっきまでいた聖羅の微笑みが浮かんだ。
もしも女神が私の目の前に現れたら、あのような微笑みを浮かべてくれるのかもしれない。
小一時間ほど眠りについた私は目を覚ますと枕に伏せた顔を起き上がらせた。
電気の明かりが眩しくて目を細めると何度も瞬きをする。
上下する瞼の先で少女の輪郭がうっすらと見えた。
完全に目が家の中の状態に馴染むと目の前で聖羅が私の手を握りながら側にいたことに気がついた。
「聖羅…ごめん、私…お風呂の準備がまだだったね…」
寝ぼけ眼で立ちあがろうとすると聖羅が私の手を引いて、「結衣ちゃん、大丈夫だよ。それよりもお腹空いたでしょう?」と言った。
「聖羅ね、結衣ちゃんの分のご飯も買ってきたから。」
自信満々に伝える聖羅の優しさに私は思わず胸を打った。
「聖羅…ありがとう。」
眠気が飛んでじんわりと温かいものが胸に広がる。
聖羅の手を優しく握り返してから立ち上がってテーブルを見ると卓上にコンビニで買った私用の食べ物が綺麗に並べられていた。
並んでいたのはチョコデニッシュと苺ジャムパン、コンソメ味のポテトチップスとペットボトルのメロンソーダだった。
呆然として、まさかと思い、ゴミ箱を覗くと全く同じ内容の袋たちが空っぽになって捨てられている。
そしてテーブル上には飲み途中のメロンソーダが新しいメロンソーダのそばに置いてあった。
‘’自分が食べたいものを買ってきな,,
私は家を出る前の聖羅に向かって確実にそう言った。
聖羅は私の言った通り栄養バランスを考えずに自分が食べたいものだけを買ってきた。
そして気を遣って同じ内容のものを私の為にも買ってきてくれたのだ。
「聖羅…ありがとう…」
満足げに微笑む聖羅のそばで、これから食事だけは私が買って帰ろうと誓った。
遅刻は完全に経験者は語るってやつです…。




