向日葵の如く
「ねぇ…どう思う?」
「どう思うって⁇」
「ほら!あの人…最近、指輪していないじゃない‼︎」
「…ああ、確かに私も気になってた〜‼︎」
「……私の予想はね、浮気だね。」
「……あの人が浮気したってこと?」
「ふっ、ちょっと笑わせないでよ〜!そんな訳ないじゃない‼︎浮気された側に決まってるでしょう⁉︎」
「えぇ⁉︎マジで⁉︎浮気されて捨てられたってこと?」
「…十分ありえるよ。だってあの人って浮いた噂聞いたことないし、恋愛慣れしてなさそうだから簡単に騙されやすそうじゃない。」
「だとしたらご愁傷様だね。来年、三十路だから焦っていたとかだったら、ありえるかも。」
会社の更衣室に繋がる扉に手を掛けると、その先で後輩たちの軽薄な口調が聞こえた。
誰のことだか分からないけど気にせず扉を開けて中に入ると更衣室の空気が一瞬、凍ったように感じた。
お疲れ様でしたといつものように社交上の短い挨拶を済ませると後輩たちはワンテンポ遅れて様子を窺うように不自然なくらい明るい口調で、お疲れ様でした〜‼︎と返した。
二人組の後輩は結んでいた髪を下ろして鏡の前で髪型を何度も手ぐしで整えていた。
これから二人でどこかに行くのだろうか。
一人がメイクポーチを開けると中からリップを取り出して唇に何重も重ね付けする。色はマゼンタピンクだった。
彼女たちの後ろ姿を眺めるとまるで食べ頃の果実のように甘い香りがした。
若いっていいなぁ。
ふとそう感じた。年上の先輩たちからすれば私もまだ若いって言われるけれど同じ二十代でも二十九歳とそれ以下では大きな壁がある。
二十九歳になるまで私はそれに気が付かなかった。
通り過ぎた日々はもう取り返せないのだ。
後ろ向きに生きてきた私には今、何も残っていない。
呆気なく死んでしまえるほどに名残惜しく思えるものは手元に存在していない。
でもやっと手に入れた。
私のそばに生きる希望がやってきた。
そうだよね…聖羅?
「蝶々」に着くと普段あまり呑まないママが客と一緒にお酒を飲んでいてやけに上機嫌だった。
「いつも以上に盛り上がってるね。」
「そりゃあ、もちろん‼︎なんて言ったってマスターとママの大事な長男坊が銀行マンになるんだからな‼︎」
西澤さんに向かって話しかけるとほろ酔いで頬を紅潮させた状態で教えてくれた。
「そうなの?すごいね。」
カウンター席で夕飯の焼き魚に箸をつける啓太くんに近づいて言葉を掛けると彼は面倒臭そうに、「まだ分かんないでしょ…」と言った。
それに反応したママが、「分かんないことないでしょう⁉︎内定貰ったんだから確定じゃない‼︎」と返す。
すると啓太くんは眉をひそめて、「うるさいなぁ‼︎」と声を上げた。
ピリつく啓太くんとママの側で酒に没頭する客たちはお構いなしに盛り上がっていた。
カウンター席には私と啓太くんとママ以外にも一組のカップルが座っていて、テーブル席も全て埋まっていた。
「聖羅ちゃ〜ん‼︎ビールおかわり頂戴‼︎それから…ちょっとこっちに来て内緒話。」
テーブル席に座る男が聖羅に向かって手招きする。
聖羅は、はーい‼︎と返事して従順にその男の側へと駆け寄った。
男の名前は塚田と言って最近よく店で見かける人だ。
詳しいことは分かっていないが四十代半ばの既婚者であることは知っている。
塚田が聖羅の耳元で何かを囁いた。すると聖羅が大きな笑い声を上げた。
男は手慣れた様子で聖羅の髪に触れて微笑んでいた。私はその様子に不快感を覚えて寒気がした。
「まぁ、啓太も最近、根を詰めて大変だろうから気晴らしにここでも行ったらどうだい?」
マスターが重くなった空気を取り払うようにカウンターキッチン越しから一枚のチラシを渡す。
受け取った啓太くんの横から覗くと九月に行われる花火大会の案内だった。
「由紀と行けばいいだろう!…そうだ!聖羅ちゃんと結衣ちゃんも一緒に行くのはどうだ⁉︎」
マスターが閃いたとでも言うように提案する。
「あら、いいわね。浴衣着て、3人で行ってきなさいよ。由紀は友達と行くだろうから無理だけど…」
ママの言葉に啓太くんは無言でチラシを眺めていた。
「ねぇ、聖羅ちゃん!今度、啓太と結衣ちゃんと一緒に花火大会行かない⁉︎」
ママが聖羅に声を掛けると聖羅は目を輝かせて花が咲いたような笑顔で、「行きたい‼︎」と即答した。
「ほら、啓太。聖羅ちゃんも行きたいって言ってるし、どうかしら?」
ママが啓太くんの方を見やると何かを思索している様子の啓太くんが静かに頷いた。
「結衣ちゃん、そしたら今度、浴衣買いにいかないとだね‼︎」
聖羅が嬉しそうに私のそばへと寄る。
浴衣なんて今まで着たことがない私は自分が浴衣を着て花火を眺める姿が想像できなかった。
「二人で浴衣着て、啓太くんと一緒に花火を見よう…」
聖羅が嬉しそうに私と啓太くんを交互に見る。
啓太くんは何も言わずに聖羅の瞳を見据えていた。
彼は一体、頭の中でどんなことを考えているのだろうか…
一人になった時、誰を頭に浮かべているのだろう。
彼の横顔を呆然と眺めながら自分がそんなことを考えていることに恥じ入った。
日曜日、私は勉強会を終えた聖羅と一緒に浴衣を買いに駅前のデパートへ向かった。
婦人服売り場に向かうと浴衣を着たマネキンが二体、エスカレーターを上った目の前にディスプレイされていた。
一体は白地に青い紫陽花が描かれたデザインで、もう一体は黒地に桜が描かれたデザインだった。
私と聖羅は浴衣が掛けられたコーナーへと駆け寄って、どの浴衣が良いか吟味した。
二人で見ていると濃紺生地に白い蝶が舞う浴衣を手にした私に向かって聖羅が、「それ結衣ちゃんに似合いそう‼︎」と言った。彼女に言われた私はそれにすることにした。
聖羅に似合いそうな浴衣を探していると大きな向日葵が描かれた浴衣に目が行った。
白生地に大きな向日葵が何個も描かれた浴衣を手に取って聖羅の身体に充てがうと彼女は私と目を合わせてニッコリと微笑んだ。
彼女の微笑みはまるで向日葵のように華があって暗さがない。
「結衣ちゃん私、これがいいなぁ。」
充てがわれた浴衣を見つめながら聖羅が私に向かって所望した。
私は自分のものと一緒にそれを手に取って、レジで会計を済ませた。
浴衣を買った帰り道、聖羅はご機嫌な様子で今日の勉強会での出来事を話してきた。
「ひらがなとカタカナはもう完璧だし、漢字もちょっとだけ読めるようになったの。足し算と引き算もだいぶ出来るようになったよ!たまに指を折らないとわからなくなっちゃう時もあるけど…」
熱心に報告する聖羅に向かって、偉いね。と言葉を掛けると彼女は非常に喜んでいるのがわかった。
「結衣ちゃんも偉いね。」
聖羅が私にそう言って微笑む。
見た目は大人でも中身はまだ子供である彼女に褒められて、素直に喜べずに困惑した。
「あのビル…」
ふと彼女が私とは真逆の方向を向いて足を止める。
「…⁇…どうしたの⁇」
彼女の視線の先を目で追うと五階建ての廃墟ビルが目に入った。
私が勤める会社の向かい側に建設されたそのビルは今は廃墟となっていて中へと入れないように扉が閉められていた。
聖羅はそのビルの非常階段を指して、「あそこ危ないね。」と呟いた。
ビルの横につけられた剥き出しの非常階段は立ち入り禁止のチェーンが掛けられているだけで、それを跨げば容易に上れるようになっていた。
「結衣ちゃん、あそこに上って飛び降りたらどうなっちゃうんだろう?」
聖羅が無表情で私の目を見て尋ねた。
その瞬間、心臓がドクドクと音を立てて体から冷や汗が出るのを感じた。
「聖羅…」
私は聖羅の瞳から逃れられなかった。
和やかさは急激に取り払われて恐怖へと一変した。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…
「……ごめんなさい。」
今にも泣きそうな顔で謝罪した。
聖羅は私を見たまま沈黙する。
そして急に口角を上げて、「どうしたの?急に…結衣ちゃんったら変なんだから。」と返した。
そしてビルから指先を離すと私の手を握った。
聖羅の手はいつもと変わらずに冷たい。
昔の彼女の手はどうだったっけ?
もっと温かかった気もするけど二十年以上前の記憶だからもう朧げだ。
「ねえ、結衣ちゃん…」
しばらく歩いていると再び彼女が私の名を呼んだ。
怯えるように聖羅の顔を覗くと彼女は「蝶々」の先にある家と反対方向の分かれ道を指して、「こっちの先にあるお店みたいな建物綺麗だね。ピンク色だよ‼︎」と無邪気な笑顔を見せた。
アパートとは反対方向になる分かれ道の先には多くのラブホテルが建ち並ぶホテル街となっていた。
ピンクや青といったカラフルな建物に妖しいネオン看板が昼間でも光るその道に聖羅は興味津々であった。
「聖羅、あそこのピンク色の建物に行ってみたいなぁ‼︎」
純真無垢な彼女の発言に私は動揺と困惑を見せながら慌てて家に繋がる反対方向へと手を引っ張った。
「結衣ちゃん、今度、聖羅をあの建物へ連れて行って!」
懇願する彼女に私は返答を悩ませた。
手を引っ張ったまま、なんとか絞り出した答えは、「いつかね‼︎」であった。
いつかって、いつだよ。
好奇心旺盛な聖羅を止める手段は難儀だ。




