不穏な音
扉を開けて私たちの前に現れた啓太くんにママが声を上げる。
「あら、啓太‼︎おかえりなさい。ちょうどいい時に帰ってきたわ。」
ママの言葉に啓太くんが怪訝な顔でイヤホンを外すと顔を上げた。
彼はまず最初に聖羅を見て、次に隣にいる私に視線を移した。
啓太くんは私と目が合うとそのまま視線を落として私の握りしめる傘をじっと見た。
「傘…」と短く呟く彼にハッとして私は彼のそばに寄って傘を差し出す。
「貸してくれて、ありがとう。」
礼を言って渡すと彼は、「僕が貸したんじゃない。」と何故か不貞腐れていた。
彼が傘を受け取ると聖羅が私のそばへと駆け寄った。
「結衣ちゃん、この人、だぁれ?」
澄んだ目で尋ねる聖羅に私が答えるよりも早く啓太くんが答えた。
「梶山啓太です。この家の長男です。」
「ちょうなん…⁇」
言葉の意味を理解できない聖羅が首を傾げる。
すかさず私が耳元で、「一番上のお兄ちゃんってこと。」と囁いた。
「ふーん…」
聖羅はあまり興味がなさそうに返事して啓太くんを眺めていた。
啓太くんが聖羅を警戒するような目で見る。
「聖羅、あいさつ。」
聖羅の背中を優しく叩いて促すと聖羅はマスターたちに見せたように再び満面の笑みを浮かべて、「はじめまして、竹内聖羅です!これからよろしくお願いします‼︎」と声を上げた。
啓太くんはそれを聞き終えると短く、「わかりました。」と返して再びイヤホンを耳にさすと傘を持ったまま二階へと上がっていった。
「あら、やだ!まだまだ反抗期中なのかしら⁉︎」
頰に手を当てたママが困り顔で呟くとすかさずマスターが、「美人が来たもんだから恥ずかしがってるのだろう‼︎」と言ってどっと笑った。
「相変わらず照れ屋なんだからぁ…」
後ろにいる由紀ちゃんがニヤニヤしながら啓太くんの上がっていった階段を見る。
私と聖羅は肩を並べて突っ立っていた。
「聖羅ちゃん。」
ママに呼ばれて聖羅がママのところへと行く。
ママと聖羅が会話している姿を眺めていると聖羅が存在していることを認識できた。
この家に聖羅が入った。私の日常は聖羅を携えて戻っていく。喜びと同時に私にだけ聞こえる不穏な音がした。
聖羅が死んだ後、私の周りの日常はあっさりと元に戻った。
最初は興味本位であれこれ聞いてきた近所の子たちもやがて飽きて何も聞いてこなくなり、聖羅の名前は存在ごと消滅した。
聖羅が死んだことで近所のおばさんたちは聖羅のお母さんを咎めていた。
それは私の母も同じで、母はご近所さんに、聖羅が勝手に飛び降りたこと、聖羅のお母さんが不注意でベランダを開けたままトイレに向かったことを言い広めていた。
私の母は自分の娘と自分を守ることに必死だった。
私は聖羅の存在なんて何も知らない学校の同級生に友達ができて近所の子たちよりもその子たちと遊ぶことが多くなった。
ある日、同級生と遊んだ帰りに聖羅の家のベランダを眺めると聖羅のお母さんが立っていた。
聖羅のお母さんは部屋着姿で髪が乱れていて虚ろな目をしていた。あの人のあんなだらしない姿を見るのはそれが初めてだった。
ベランダの手すりに手をかけたまま聖羅が落ちた真下を眺める彼女は正気を失っていて今にも飛び降りてしまいそうだった。
かつて綺麗に整えられていたプランターの植木たちはすっかり荒廃してほとんどが枯れてしまっていた。
私はなんだか涙が溢れてきて、それを拭いながら階段を上った。
誰もが羨む幸せは一瞬にして破壊されたのだ。
それを壊した本人である私は当たり前のように元の生活を取り戻していた。
聖羅以外、何もかも元通りで新しい友達も増えた。
それなのに私の胸にはぽっかりと穴があいたようだった。
その空白はいつまで経っても埋められなかった。そしてそのまま罪悪感だけがすくすくと成長した。
やがて聖羅のお母さんは姿を消した。
彼女が旦那を置いて出て行ったとご近所さんが噂しているのを耳にした。
聖羅の両親は離婚をして家族から赤の他人になった。
聖羅の家族は聖羅を失ったことでバラバラになったのだ。
聖羅のお父さんも引っ越して、あの家には新しい別の家族が住み着いた。
ずんぐりむっくりな三兄弟のいる家族が住み着いて聖羅の存在は跡形もなく消え失せた。
残っているのは私だけ。私だけがあの団地に残って聖羅の姿を探し求めていた。
なんて愚かなのだろう。聖羅にはもう二度と会えないのに…
「何にしますかー?」
笑顔で客に尋ねる聖羅に側で見守る私は憂懼する。
「生一つと冷奴ちょうだい。」
「はい、少々お待ちください。生一つと冷奴お願いします‼︎」
客の注文を聞いて満面の笑みで叫ぶ聖羅の声は小さな店内では明らかに過大なボリュームだった。
「聖羅、聖羅‼︎」
カウンター席で梅酒を片手に座る私は通り過ぎようとする聖羅の服を引っ張って呼び止めた。
「なぁに?結衣ちゃん。」
聖羅が呑気な顔をして近寄ってきた。私は聖羅に顔を近づけるように合図して襟元を軽く引っ張ると耳打ちした。
「声が大きすぎるから、もうちょっと小さくしよう。」
私の言葉に聖羅はキョトンとした顔で、えー?なんでー⁇と声に出す。
「結衣ちゃんがここで働く前に、店員さんが小さい声だと何も聞こえないから元気よく大きな声で喋るんだよって言ったんじゃん‼︎」
確かに私はそう言ったけれどあまりにも声の大きさが不相応だ。これではまるでメガホン越しに喋る演説者と大差ない。
私は側で接客するママを指して聖羅に言った。
「聖羅、ママの声をよく聞いて。ママは聖羅ほど大きな声で話していないでしょう?」
ママを見つめて耳をそばだてた聖羅が、「確かに…」と呟く。
私は小さく頷いて彼女に言い聞かせた。
「ここはママがずっと接客してきた店だから、これからはママの動きを見て真似するの。あとなんでも勝手にやっちゃダメ。真似する時はママにやっていいのか、ちゃんと聞くんだよ。ママがいいって言ったら真似してね。」
私の言葉に聖羅が大きく、うん‼︎と頷いた。そのままキッチンに戻って料理を運び出す。大きな皿を片手で持つ聖羅が危なっかしくて見ていられなかった。今にも落として割ってしまいそうだ。思わず目を逸らして頭を抱えた。
その横でフッと鼻で笑う声が聞こえて顔を向けると夕飯のオムライスを食べ終えた啓太くんが私を見ながら静かに笑っていた。
「なんだかお母さんみたい。」
啓太くんの言葉に、「お母さん⁉︎」と目を見開いた。
「私はまだそんな歳じゃありません‼︎」
思わず言い返したが、二十九歳なら子供がいてもおかしくない年齢であることに気づく。
そりゃ二十一歳の将来有望なぴちぴち大学生からしたら私はもうおばさんか…
落胆する私の隣で啓太くんが、「分かってますよ。そう言う意味じゃありません。」と微笑んだ。
本当に分かっているのだろうか…この青年は……
聖羅が働き始めてから出勤日である月,水,金はほとんど仕事帰りにここへ直行するようになった。
前までは華金だけのご褒美だったのに聖羅が働いてから楽しみが二日も増えてしまった。
でも金曜日以外は二日酔いにならないように酒量を程々にしている。あと楽しいからって居座りすぎてはいけない。次の日も仕事があるし、これはあくまで聖羅が心配で様子を見に来ているだけなのだから…
アルバイトを始めてから聖羅は帰ってくるとお風呂も入らずにベッドに倒れて気絶したように熟睡するようになった。
心配して聖羅の頭を撫でると彼女はまるで小さな子供のように私の体に腕を回して抱きついたまま眠り出す。
朝、目を覚ました彼女に、「大丈夫?」と尋ねると眠そうに目を擦りながらうつらうつらとした様子で頷いた。
「結衣ちゃん、お仕事ってこんなに疲れるんだね…」
疲れ切った顔をした聖羅に、そうだね…と返して布団から出ると朝食の準備に取り掛かった。
「聖羅、ご飯食べる前にシャワー浴びてきなよ。昨日は疲れて寝ちゃったんだから…」
私の言葉に聖羅は、うん。と言ってシャワーを浴びに行った。
あれから二週間が経った。近頃の聖羅は最初の頃に比べて帰ってきたらお風呂に入るくらいの余裕はできてきた。
仕事はまだまだでも生活リズムと体力には慣れてきたのかもしれない。
「蝶々」の人たちも聖羅のことをすごく気に入っている。
ママは私が来るたびに、「聖羅ちゃんは本当に素直で可愛くて良い子だわ〜」と褒める。
マスターも、「いい子だ、いい子だ。」と横でニコニコしながら呼応した。
由紀ちゃんはとにかく、美人だ!と嬉しそうに騒いでいる。
唯一、何も言わないのは啓太くんだけで彼が聖羅をどう思っているのかだけは分からない。
「こんばんは〜!」
新しく入ってきた客に聖羅が威勢よく挨拶する。
彼女の微笑みは闇夜に浮かぶ満月のようだ。まるで暗闇を照らす唯一無二の存在だ。
ママも一緒にニッコリと笑いながら客を出迎えると後の接客を聖羅に任せて別のテーブルに料理を運び出した。
聖羅は新規の客に注文を取りに向かう。
料理を置いたママが啓太くんの側へと寄って、「あんた最近、随分と帰りが早くなったし長居するようになったわね。前はご飯食べたらさっさと部屋に上がっていたのに…かと思ったら昨日は外食で済まして何も言わずに上がっちゃって…」と不満げな顔で嘆いた。
啓太くんは無言のまま、ママと目も合わせない。
その間に客がママを呼んでママは慌ただしく席に向かった。
そっぽを向く啓太くんの横顔には意地でも答えないって書いてあった。




