自分の意志で
あろうことが三週連続で予約投稿設定を忘れていました
変な時間ですが投稿します
このボロアパートの借主が左脚に怪我を負ってから約二日。
具合を聞いたところによると、掠り傷だったのは本当らしく、もう歩く分には支障ないとのことだった。銃を相手にたったこれだけの犠牲で帰って来れたのは不幸中の幸いと言ったところだ。
あとは、タイミングよく明かりを奪ってくれた雷に感謝しておくとしよう。あの時、どうして足が動いたのかは自分でもわからないし、二度とああいった命のやり取りなど体験したくはないが。
何故か秦野らは追って来なかったが、それからこちらの居場所が特定されたかのような気配もない。しかしながら、身を晒してはならない陣営が増えたのに加え、エアストまで狙われる身になってしまったのは悔やむべき点だ。
あおぞら会館については、雷雨で銃声を誤魔化すまではさすがに無理があったらしく、あれから間もなく近隣住民による通報があった。だとしても相手が相手だ、到着される前に引き払っているか、あるいは警察とも上手くやっていたことだろう。まさかないとは思うが、このアパートの訪問客には警戒しなければならない。
俺はと言えば、暇を趣味に費やすことも許されず、ゴールデンウィーク後半戦へと突入してしようとしている。
そろそろ母親に疑いを持たれていてもおかしくはない頃だ。放任主義な家庭ではあったものの、ここまで愛する息子が家に帰って来なかったことは未だかつてない。事が解決するのが先か、嘘がバレて学校や警察に連絡がいくのが先か。やるべきことがありながら解決方法が定まらずに足踏みしているこの気の休まらなさは、自由課題を抱えたまま夏休み最終日を迎えたある日の苦い思い出を彷彿とさせた。
あれだけの体験を経て平穏のありがたさを実感できる昼下がり、一昨日とは打って変わって主張の激しい太陽光をカーテンで遮るアパートの一室にて。
ダイニングのローテーブルを前に座り、リュックの中に辛うじて残っていたプリントの裏にシャーペンを走らせる。いつまでもエアストに頼りっきりでいるのは男が廃るというものだ。自分にもできることはないかと、現在の状況を書き留めていた。
まずゴールデンウィーク開始前日、俺は金髪の青年を中心とする謎の連中に襲われた。これを敵勢力Aとしよう。Aは俺を狙っているらしいが、そこにエアストが割って入り、俺を自宅に匿った。
次に、ゴールデンウィーク三日目、秦野引率の指定暴力団が登場する。彼らはAと敵対しており、俺の身柄を以てAに対抗しようと交渉に至るものの決裂。その原因は、味方だと妄信していたエアストがかねてより秦野の持つ情報を得るために行動しており、その約束を反故にされたため。約束の対価は俺の身柄の受け渡しであり、元々彼女が俺を助けたのは自分の目的のためだった。その交換が失敗に終わったため、彼らは敵勢力Bとなり、俺とエアストはふたりとも、捕らわれればただでは済まないであろう標的となっている。
AとBは対立関係にあるのに、一方の力を借りてもう一方から逃れることは叶わない。
何とか生き延びたゴールデンウィーク五日目の今日、俺たちはまた力を貸してくれる勢力と出会う必要がある。秦野は、Aにとっての正義は法律だとか、そんなことを宣っていた。万が一バックに国家でもついているとしたら、最初にエアストが忠告していた通り警察に縋るのも悪手と言えよう。そうともなれば手の付けようがない大事にもなりかねないので、できればこの勘は当たらないでいてくれと祈りつつ、書き殴ったメモにさっと目を通した。
「……どうしたもんかな」
線の汚い図解を眺めながら頭を抱える。
指定暴力団に頼るというプランが既に、悩んだ末に捻り出した最終手段のような風格があったというのに、他にどんな解決策があるだろうか。灯台もと暗しと言われる通り身近な人物を適当に頭に浮かべてみるが、国家や暴力団と渡り合える知り合いなど、ごく普通の一般人たる俺にいないことは明々白々だ。
成功したこともないペン回しをしようとしてシャーペンを床に落とし、拾おうとしてテーブル端の消しゴムまで落としてとやる気も削がれていく中、砂糖たっぷりのカフェオレを渇いた喉に流し込む。自分の作業が上手くいかない時ほど周りの様子が気になるもので、寝室を見やると、エアストが左脚の怪我のガーゼを交換し、包帯を巻き直していた。
「怪我の具合はどう?」
「心配には及ばないよ。この程度なら完治までそうはかからない」
「歩くだけでも痛むんだろ」
「気にしなければ済む話だ。歩行に支障の出る捻挫なんかより軽傷だろう」
「傷口見えちゃう方がメンタル的にな……」
小学時代は身体を動かすのが好きな子供だったから、友達と遊び回って頻繁に捻挫をしてはサポーターの世話になっていた。歩きにくくなるのは確かだが、あのサポーターが格好よく見えていたのも小学生らしい思い出だ。
対して、転んで擦り剥いた日は決まってわかりやすく落ち込んでいた。外側からひりひりと痛む感覚が苦手で、白い肌に真っ赤な傷ができるのは何より不快だった。何年も前に自転車で転んだ時に擦り剥いた左肘近くの傷痕は、今でも微かに残っている。
立ち上がって出したものを片付けて歩くエアストは、怪我など負ってなかったかのように平然としていた。銃弾は回転しながら命中するため、掠っただけでも肉が抉られるだとか聞いたことがある。注視するのも憚られたので彼女の銃創が如何ほどかは覚えていないが、その様子を見るに運が良かったと考えるべきだろう。もしくは相当に無理をしているか、痛覚に異常があるかのどちらかだ。
そしてまたいくらかした頃。
昼食の消化が進んでいることもあってか微睡んでいると、突如として部屋のチャイムが鳴り響いた。
はっと目を覚ましてエアストの方を見ると、狙っていたかのように目が合った。
お互いに頷き合いながら意思疎通を図り、俺はエアストの寝室へ、エアストは玄関の方へと入れ違うようにして向かう。
その一、アポなしの訪問者は総じて警戒すべきだ。その二、無力な俺は身を隠しておくのが無難だ。その三、ボロアパートにインターフォンなんて便利な設備はないので、ドアスコープから確認して居留守を使うかどうか決めるしかない。
彼女とそうアイコンタクトを交わすと、俺は寝室奥のクローゼットの中へ隠れ、それを確認するとエアストは玄関へ向かうドアを開けた。
クローゼットの中にもいればそれなりに音は減衰して聞こえるが、玄関との距離がそう離れているわけでもないため、聞き取れなくなるレベルには程遠い。
玄関とダイニングを仕切るドアが閉じられた音からたっぷり十秒ほどおいて――ついに玄関のドアが開かれる音が聞こえた。
それはつまり、招かれざる客ではなかったことを意味する。とはいえ、このタイミングで堂々とクローゼットから出ていいのはせいぜいストーカーくらいなので、俺は客がいなくなるまで大人しく待つことにした。
よく耳を澄ましてみると、会話の内容まではわからないが、聞き覚えのない男の声がエアストと言葉を交わしていることだけは何となく察せた。
男の正体に関しては重要ではないと判断する。エアストが許可したのだ、近隣住民か、今回の件に無関係な知り合いであるかのどちらかである線が濃厚と考えられる。
話をするのに玄関のドアを挟んだままというのも気が引けたのだろう、一度ドアが閉まる音が聞こえ、遠くなった声が続く。やけに話し込んでいるが、宗教の勧誘でも来たのだろうか。俺だったら間違いなく居留守を使うが、人の良すぎるエアストなら無視できなさそうな印象がある。話を最後まで聞いた上で反論してすっぱり断りそうではあるものの。
微かに耳に入ってくる環境音というものはどうにも心地よいもので、暗所ということもあってかまた意識が切れかかる。普段から明晰夢や白昼夢というものは見慣れているが、この度もまた夢と現実を行き来しているような感覚に呑まれていく。
クローゼットの中が遠くまで広がっているように見えたり、それを夢と認識して現実に戻ろうとするとそれがまた夢だったり。そうして何分経っただろうか、夢の中の俺はある異変に気付く。
――急ぎ意識を現実に引き戻すと、誰の声も聞こえなくなっていた。
違和感を覚え、クローゼットを開けて外に出る。
玄関口まで出てみるが、先の客はおろかエアストの姿すら見当たらない。念のためトイレも確認しておくが当然の如く無人だ。
大袈裟に言えば護衛役のようなエアストは、俺から目を離して外出する際はどこへ行くと必ず一言告げていた。俺ひとりは無力に等しいのだからすれ違いが起きないように、そしてもしものことがあれば合流できるように、という意図によるものだ。
律儀なエアストが何も言わずに姿を消すのはあまりに不自然と言える。判断するのは早計かもしれないと、あり得るケースについて考察する。
その一、単に忘れていた説。普段であればこれで片付けられるものの、来客に警戒してクローゼットに引っ込んでいる居候を果たして放っておくだろうか。一言くらいくれてもいいはずだ、今回限り可能性は薄いと見る。そも、財布とスマホすら忘れてどこへ行こうと言うのだろうか。
その二、新たな協力者と打ち合わせに出た説。これに関しては俺の願望だ。しかし、信用できる協力者なら俺を連れて行ってもいいはずだし、同じくクローゼットに放置する理由がない。
その三、俺の存在を悟らせないようにしている説。この場合は更にいくつか分岐して考えられるだろうが、あえて最悪のケースを想定してみる。
まず、ドアスコープの視野角には限界がある。無害な一般人を装うか囮にでもしてドアを開けさせ、エアストと相見えるまでは難しくない。そうした場合、俺は靴を隠してまではしていなかったはずだから、エアストと俺が一緒にいるものと察している秦野の手先である可能性は極めて低い。暴力団の名を冠する彼らなら、強行してでも本来の標的である俺を連れ出そうとするはずだ。
だが、金髪の青年らの勢力であると仮定すると、一昨日の外出が監視網に引っ掛かったとなればあり得ない話でもない。
彼らはエアストを疑ったとしても、すぐには俺に辿り着けないだろう。ただし、エアストが事情聴取を拒否すれば猜疑心は生まれるだろうし、ガサ入れが入れば一発アウトだ。そうなると彼女は要求に応じて無関係であることを証明する必要がある。
そして一番の懸念点だが……彼女はお人好しかつ悪を演じきれないほど素直すぎることが災いして嘘が下手だ。思い返せば秦野に問い詰められている時も、前日に交渉の予定について話している時も、不審な点はいくつかあった。いずれ俺の居場所は割れる上に、一度牙を剥いたフードの人物だと判明すれば、彼女もきっとただでは済まない。
さて、最悪のケースへの対処方法は大きく分けてふたつ。
ひとつめ、彼女が時間を稼いでいる間に姿をくらます。
ふたつめ、どうせ見つかるならこちらから出向いて彼女と合流する。
俺も他力本願を座右の銘にして生きてきたが、命懸けで着せられた恩を仇で返すような不心得者ではありたくない。
取れる選択はふたつにひとつ、俺は先程までお邪魔していたクローゼットを開けた。
ハンガーから下ろしたのは、黒一色のフード付きコート。知人止まりの女性の服を身につけるなど失礼極まりないが、不在の彼女には心の中で頭を下げつつそれを羽織る。空気中に漂う甘い香りからは少し息を止めることで気を逸らしつつ、フードを被って姿見の前に立った。
女子の平均身長くらいの彼女が裾を余して愛着しているこのコートは、男子の平均身長を下回る俺が着ても窮屈には感じない。決して彼女に何か言いたいわけではないが、胸囲も丁度いいくらいだった。
まだ確証もないというのに大胆な行動に出ようとしている自分に苦笑しながらも、財布とスマホだけポケットに突っ込み、玄関で履き潰したスニーカーの紐をきつく結び直す。
もし杞憂であったのなら、無駄足になるだけで済む話だ。けれども、極力考えたくないことが起こっていたらと考えると何も手を打たないわけにはいかない。
かつてエアストは悲観的に考えすぎないようにと俺に諭したが、悲観的に考えることが被害の軽減に繋がることも多い。今度こそ自分の意思で、一歩踏み出す必要があるのだ。
ドアノブを回し、フードで視界を遮りながら明るさの差に目を慣らしていく。
内ポケットの確かな重みを再確認しながら、俺は恩人のために初めて身を投げ打つ覚悟を決めた。