賢い内申点の稼ぎ方
テストの成績はそこそこ良かったのに提出物サボりまくって評価落とされるんですよね
得意科目は音楽と国語です
グラウンドの真反対側に位置しているせいか、金属バットが球を打ち上げる音はいくらかくぐもって聞こえてくる。
その反面、元から騒々しい吹奏楽部のブラスサウンドは建付けの悪い引き戸を閉めたところで変わりなかったが、彼らのアンサンブルは嫌いではないのでさほど気にもならなかった。入学当初、楽器の経験もない上集団行動も苦手なのに、気の迷いで吹奏楽部への入部を考えたことがあるくらいには音楽に関心があったりするのが俺だ。ジャンル的にはメタル寄りのロックサウンドの方が好きだけれども。
「……ここまで来る必要ありました?」
「内緒話には持ってこいの場所だろ?」
毎日出入りしている普通棟とは一階の通路でのみ繋がっている特別棟、その端にあたる三階の一室にて。
俺は逃げも隠れもする気はないというのに担任は入口に鍵をかけ、その瞳を見て警戒しているのは外部の人間だということを思い出した。
俺が千葉に越してきて早二年目、すっかり通い慣れたこの永陵高校だが、ここ特別棟に関してはその限りではない。
名前の通り特別教室を構えている場所ではあるものの、特別教室と言われて思い浮かぶ化学室や家庭科室、音楽室などといった各科目に対応する教室はすべて普通棟に配置されている。あえて特別棟へ追いやられているのは、それらよりもっとマイナーな、特定の学科の授業でのみ使用される変わり者ばかりだ。
そのため普通科の俺がこの特別棟に世話になる機会はそう多くなく、文化系部活動の賑わう今になってもこの周辺だけは不気味なほどに静かだ。俺の招かれたこの教室も商業科だかでたまに使用される程度だったはずで、部外者の俺に教室名を思い出すことはできなかった。
そしてどういうわけか、そんなまるで縁のない特別教室の椅子に俺は座らせられている。
入念にクリーム色のカーテンまで締め切って手のひらの埃を払った担任は、いよいよ満を持して俺に向かい合うように着席した。
「そういえば、米石と面と向かって話すのも初めてだな」
「ええ、まあ」
「お前は真面目で成績もそこそこいい。教師に反抗せず生徒間の諍いは起こさず、常に冷静かつ堅実に行動する。本当に手のかからない子だ」
「そう見えますかね」
頭の出来が悪いわけではないから、自習せずとも相応の成績を残してはいる。目をつけられて距離を詰められたくないから、教師との会話も最低限にしていた。高校に上がって友達作りに勤しんだ覚えがない俺には、他生徒との衝突も起き得ないものだ。
冷静かつ堅実に行動するのはあらゆる面倒事を避けて学校生活を送りたかったからであり、言い方を変えれば消極的かつ受動的な、模範的とは程遠い生徒を演じているに過ぎなかった。
担任教師だから当然といえば当然かもしれないが、恐らくこの人は俺をよく見た上で正当に評価し、面接で短所をベースにして長所を答える就活生の如く、言葉をポジティブに変換して吐き出した。
永陵高校二年F組主担任、『樋野村紅祢』はそういう人だ。去年から彼女の受け持つクラスに在籍する俺には、それがわかる。
赤茶色のセミロングヘアーと一七〇センチほどの長身。上下ともに黒で決まったスーツ姿はさながら男装の美女といった印象を受ける。
長い睫毛の奥から覗く薄茶色の瞳は裏の意味まで読んだ俺の思考をも見透かしているようで、俺はそれが今でも苦手だ。
心の内が漏れ出てしまっていたのか、俺の表情を見た樋野村先生は苦笑しながら小さく頷いた。
「お前はそうやっていい子を演じるのが得意だから、この先も大きな問題を起こすことなく学校生活を続けられるだろう。だがそれは裏を返せば、可愛げがないとも言えるな。子供のうちは大人に迷惑をかけるものだ、教師の私としても、多少は問題児と呼ばれていた方が育て甲斐があるものだよ」
「俺の話をしに来たわけじゃないでしょう」
教師の説教を聞くために貴重な放課後の時間を費やしたくはない。俺自身の話を広げられる機会は三者面談くらいで十分だ。
樋野村先生が俺を人目につかないこの特別教室まで呼び出したのは、そうしなければならないような話をするため。間違っても通知表の内容について語り合うためではないのだ。
――あの場で、ゴールデンウィーク中に世話になった彼女の呼び名を聞いていなければ、俺がここに招かれることもなかったのだから。
「まあ、そう焦るな。私は正直驚いているんだよ。近年の環境対策ばりに省エネ思考だったお前が、連休中に色々とやってくれたことに」
そう言うと、樋野村先生はクリアポケットファイルを開き、ぺらぺらと何ページか捲ってから逆さに向けて差し出してきた。挟み込まれていたのは、かつて俺も字が汚いと言われて幾度となく書き直し、やっとのことで提出したことのある入学願書。
俺の思い出に反してお手本のように綺麗な字が並んで示す、その名前は――、
「黒羽、未來……」
「まず最初に礼を言うよ。黒羽を救ってくれて、ありがとう」
俺が読み上げるや否や、樋野村先生は深々と頭を下げ、三秒ほどしてから戻した。
「彼女が気苦労の絶えない生き方をしていたのはお前も聞いているだろう。家庭に問題を抱える子供に手を差し伸べ、ごく一般的ながら幸せな生活を送る手助けをしてあげられる――本当、教師として冥利に尽きるよ。そして、それができるように彼女を救い出してくれたのは他の誰でもない、米石和希――お前だ」
樋野村先生はまだ二十代で俺たち生徒とそれほど年齢も離れていないのに、高校生などまだまだ子供だと言わんばかりに大人との間に明確な線を引いており、自分が教育すべき生徒に熱い節がある。
よく言えば熱血で生徒思い、悪く言えば過干渉で鬱陶しい。ただ俺と違って他人のことを深く慮ることのできる善人であることは確かで、そんな人に褒められても素直に受け取るのは難しいものがある。
「俺は何もしてないですよ。振り回されてただけですし、全部彼女自身の行動力が招いた結果です」
「仮にお前が関与せずに事件を解決したとして、イギリス帰りでまともな学歴もない黒羽が高校に通おうだなんて考えるか?」
「あいつは勤勉な奴ですから。普段から文学小説を読むくらいには」
「わざわざお前が通うこの学校に志願していたとしても?」
「……家も近いですし、どうにでも理由は付けられるでしょう」
「……家? 聞き捨てならないな。彼女の家に言ったのか、教師の前で不純異性交遊を匂わせるのはよくないぞ?」
「冗談はやめてください。っていうか先生は何者なんですか。どこまで知ってるんですか」
拗れた話を断ち切るように、俺は樋野村先生の瞳を睨んだ。
すっかり彼女のペースに呑まれてしまっていたが、たった今交わしていた会話は一般人が知り得るような内容ではない。
やはり本名らしい黒羽未來名義で転入しているのにも関わらず、エアストという呼び名と先日の騒動を知っている勢力となれば、思い当たる節は二点ある。そのうち片方は取り締まりの対象でもある指定暴力団で、俺を確保するために邪魔な因子となるエアストを排除しようとした派閥だ。樋野村先生は俺がエアストを助けたことに感謝しているようだから、そちらと繋がっている線は薄い。
となれば、可能性はふたつにひとつ。
「わかるだろう? 言わなくても」
「対テロリスト国際連合、アトランティス……ですか」
「正解だ。近くて見えぬは睫、私たちのような人間は気付かないだけで案外近くにいるものさ」
クリアポケットファイルを手元に戻した樋野村先生は、どこか誇らしげに言って笑った。
今口にした組織の騒動に巻き込まれた一般人の俺からしてみれば笑い事ではないのだが、一応教え子相手ではあるのに一切の申し訳なさを感じられない彼女の顔を見ていると、言い返す気力も削がれてくる。
なんとなく身構えていたからでもあるが、すんなり納得できた理由としては雷豪という前例があったからだった。
アトランティスの情報科に所属する雷豪恭介は、外では大学生として生活しているという話だ。即ち裏社会の組織では超能力者として暗躍する彼も表向きは一般人だというわけで、普段高校教師をやっている樋野村紅祢がその例に当てはまるのも頷ける。
そういった意味では僅かながら彼らの事情を知ってしまった俺も同じ穴の狢なのではないかという気もするが、さすれば周囲の何もかもが疑わしくなってきたので考えるのをやめた。
「お前たちの話は一通り雷豪から聞いたよ。で、必要書類諸々を捏造して黒羽の転入手続きを主導したのも私。だからこの入学願書も嘘塗れだ。あー、黒羽未來っていうのは彼女の本名だけどな。例の事件では偽名代わりに昔のコードネームを名乗っていただろうが」
「いいんですか、公務員がそんなことして。ニュースに名前出ますよ」
「いいわけないだろ。うちの組織がついている限り大事にはならないと思うが、もしバレたらと考えると夜しか眠れないよ。ま、ここで学びたいと言ってくれた黒羽が学生生活を謳歌できるのなら、私の首くらい安いものだけどな」
樋野村先生は自信満々に言い切って笑い、その眩しさに耐えきれず俺は顔を逸らす。
どこまでも生徒思いなのはいいことだが、一般的、法的に悪とされている行為に救われない者のためと言い張って走れる姿は、とある指定暴力団の三次団体こと秦野組の組長、秦野緑郎が語っていた目標と重なってしまう。彼曰く、アトランティスは法を盾にしてばかりだから自分の理想の障害になるとのことだったが……その実態がこれだと知ったらどんな顔をするだろうか。
閑話休題。
エアスト改め黒羽未來がこの高校に転入した経緯は樋野村先生の説明で理解できたものの、いまいち腑に落ちないのは彼女の動機だった。
数年前まで超能力開発の被検体としてイギリスに滞在し、帰国後は裏社会の人脈を辿ってまで自分を弄んだ科学者の足跡を追っていた彼女のことだ。樋野村先生の言う通り入学願書に記載されていた出身校も偽りで、まともな教育機関には通っていなかっただろうに。
「どうして、黒羽はうちの高校なんかに?」
「さっきと同じ話題じゃないか」
「本当のことを訊いているんです」
「なら、答えは米石が一番知っているはずだ。私も直接聞いたわけではないが……黒羽は名指しでこの高校への転入を志願した、そしてそこにいるとわかっている知り合いはお前だけだ。馬鹿でも予想はつくよ」
どこか妬ましさを含んだような口ぶりで返された俺は言葉に詰まる。
俺だってそこまで鈍くはない。決して自意識過剰とかそういった部類ではなく、ほんの僅かな可能性として頭の片隅に置いていた答えこそ、樋野村先生が示唆するものだった。
黒羽は組織間の抗争に呑まれる俺を、終始身を呈して守ってくれた。俺は幽霊と自称する摩訶不思議な超能力者ことルアに憑依された黒羽を庇い、決死の覚悟でその身に銃弾を受けた。
出会ったばかりなのに互いのために命を張った行動を起こした俺たちは、ただの顔見知りと呼ぶには奇妙すぎる関係だ。とはいえ友人以上の何かに値するわけでもなく……俺の中途半端な脳では相応しい言葉は見つからない。
数日前の記憶を思い返す中で、撃たれた後の個室で俺が彼女に向かって言った恥ずかしい励ましまで脳裏に過って来やがったので頭を振って忘却を試みつつ、冷静になって考え直す。
彼女の人が良すぎるせいとも言えるが、俺がそうしているのと同じように、彼女もまた俺を信用している。彼女の見つけた「やりたいこと」がこれまで叶わなかった学校に通うことであるとして、信用している人物が近くにいる環境を選べるのであれば、それに従うに越したことはない。
初日からトップカーストの四人組に囲まれるくらいには好印象だったのだから、少しでも不安を抱えていたのなら杞憂だったろうが、そう結論付けるのが妥当だ。
「だから、それを踏まえて米石に頼みがある。これがお前を呼び出した理由だ」
俺が結論まで至ったのを察してか、樋野村先生は真っ直ぐな眼差しを俺に向け、先程までとは比べ物にならないくらい重々しく言葉を紡いだ。
気圧されそうになりながらも俺も視線を正面に戻し、無言で続きを促す。
すると、樋野村先生は今度は控えめに頭を下げながら言った。
「黒羽の友人として、これからも彼女と仲良くしてやって欲しい」
やけに真剣な声色になるものだから何をお願いされるのかと思えば、と脱力してしまう。まあ、個包装のチョコレート数個分の依頼だと考えれば割に合うのかもしれないが、それも俺たちがまた関わることがあればの話だ。
「あいつならもうクラスの人気者ですよ。俺が出る幕もありません」
「彼ら彼女らが見ているのは、容姿が優れている転校生としての黒羽未來だ。そして、今後は文武両道で人当たりのいい転校生としての黒羽未來へと変わっていくだろう。便宜上やむを得ず受けさせた転入試験も好成績だったしな」
澄ました顔をして九割以上の点数を乱発する黒羽の様子が目に浮かぶ。かと思えば、樋野村先生がクリアポケットファイルを開いて見せてきた中には彼女の百点の答案すらあった。
教師として他生徒の答案を自慢げに見せびらかすのはどうなのかと内心毒づくが、先生はあえて気付かないふりをしているかのように、またいくつかページをめくっていく。
「だが、超能力開発の被検体となった過去があり、一般人とは異なる育ちを強いられた黒羽未來の姿を知っているクラスメイトはお前だけだ。内容が内容なだけに表沙汰にもできない。もしそういったことで黒羽が心から助けを求めていたら、お前に助けて欲しいと思っている。一教師としての願いだよ」
「……先生が介入すれば済む話じゃないですか。教師としてもあの組織の人間としても、それが最適解では」
「歳が近かったり同い年である方が話しやすいといったこともあるだろう? まあ私も若いけど。私も若いけど」
何故か語尾を強調したがる樋野村先生の手元のページにファイリングされているのは、黒羽未來その人に関する資料の一部だ。
二〇〇二年七月一三日生まれのA型。両親は幼い娘を孤児院に預け失踪、以後孤児院で育つ。
十歳になった頃、孤児院のイベントでイングランドへ旅行に出るが、周りからはぐれたところを科学者チャールズ・スクルドが発見して言葉巧みに彼女を誘拐、一時は捜査が開始するも同氏の勢力の介入によってか打ち切りに。
超能力適性を見込まれたために超能力開発の被検体となり、約四年間にわたって虐待に等しい行為を受けるが進展なし。その後、スクルドが別の被検体を見つけ、監視の弱まった隙に弟のクリストファー・スクルドが救出し、日本へ逃亡――。
概ね本人とクリスから聞いていた事実ではあるが、それにしても無慈悲で悲劇的なシナリオだ。温室育ちの俺にはとても想像できない、ミステリー小説の被害者と並べても区別がつかないような人生。
果たしてそれほどに過酷な運命を潜り抜けてきた黒羽が助けを求めたとして、俺は彼女の支えになれるだろうか。
その問の解を求めるのはこの上なく容易い。俺は彼女とは違う無能な一般人であって、胸を張って言える特技も長所も何ひとつないつまらない人間なのだから。
だのに、そのまま解答することが何より難しい。
成り行きとはいえ、俺は黒羽を巻き込んでしまった身だ。ここで自分勝手に引き下がろうというのも無責任で気が引けるし、それ以前に命の恩人を前にして拒否権を主張するなんて烏滸がましい真似はできない。
「……先生の依頼は断れません。『いい子』で通っちゃってる以上、今から内申点下げられても困りますんで」
ため息を深くつき、首肯する。
教師からの頼みは文句を言わず引き受け、手のかからないいい子としてやってきた俺に委ねよう。この十数年の人生、それでなんとかやりくりしてきた。そも転校生の滑り出しは順調だし、俺に声がかかる可能性もまだ低い。今すぐ気負うべきことでないのは確かなのだ。
「ああ、五〇点の回答だな」
「対人関係に期待はしないでください。社会は苦手なんで」
「コミュニケーションの代表手段は言語だ。お前の国語科目の成績がいいのは担任の私が誰より知っている。今後に期待しているよ」
話は以上だ、と切り上げた樋野村先生は、立ち上がると机と椅子を元の位置に戻し始めた。俺もそれに倣おうとするものの、遠くから運んだわけでもないためすぐに手持ち無沙汰になる。
長いようで短い面談を終え、スマホの時計を見ると午後四時頃。これから帰ってやることも特段ない暇人なのだが、先週あれほど身を削ったのだから今日くらい帰宅を急いでも許されるだろう、というか強く推奨される。
カーテンを全開にして陽の光を取り込みにかかっている樋野村先生の背中に軽く会釈し、ガタガタとうるさく軋む扉に手をかけたところで、そうだ、と声をかけられた。
「帰る前に図書室に寄っていくといい。米石を待っている子がいる」
「それはとんだ暇人ですね。誰ですか」
「お前も同じようなものだろう。行ってからのお楽しみだよ」
面倒事はひとつ片付く度にまたひとつ増えるのが世の常だ。
無言を答えとした俺は、背を向けたまま右手を振る先生を尻目に、名前の知らない教室のドアを引いた。
何故だかそこだけ著しく建付けの悪いそれは、完全に閉まることはついぞなかった。
教室前の喧騒から隔離された空間は、まるで別世界であるかのように静寂に支配されていた。
それはありふれた比喩のひとつであり、一切の音が聴覚を刺激していないわけではない。
薄っぺらい紙のめくられる音、シャーペンの芯がノートを引っ掻く音、それらのハーモニーの中へ時折シンバルのように混ざる椅子の足と床が擦れる音、エトセトラ、エトセトラ。
愉快な楽団の一員となるべく合間を縫って歩みを進めていた俺は、目的の本棚の前で立ち止まった。
俺は図書室を頻繁に利用する人間ではない。
本を読むのが苦手なわけではなく、むしろ好きではあるのだが、幅広いジャンルに関心を抱いて手に取れるかどうかはまた別の問題である。
それこそ小学生の頃はまだ週に一度くらいは通っていたものだが、別の趣味を見つけ、それに対する意欲が様々な本への興味を上回っていくにつれ、疎遠な存在へなっていってしまった。
しかしそんな図書室に、つい最近新たな魅力を見出した。小中学の頃は考えもしなかったことだが、やはり年齢層としてもニーズにあっているのか、俺の目の前にはライトノベルのみが敷き詰められた本棚が立っている。
流行りの異世界転生ものは勿論、王道青春ラブコメ、学園コメディ、SFバトルなどなど。主観ではあるが、無双系の転生ものと肩を並べるくらいよく見かける悪役令嬢っぽいタイトルもいくつか並んでいる。
図書委員は発注する本を選べる点で勝ち組だと、去年の教室で名前の知らない女子が言っていた。実のところは他生徒からの応募もあるらしいが、もしかすればこの中に彼女の趣味も含まれているかもしれない。
ざっと流し見をしていると、見覚えのあるタイトルが目に留まった。これは……もう既に懐かしく感じている、黒羽宅で数巻読み耽っていた作品。それも今ここにあるのは恐らく最新巻、彼女の家にも見当たらなかったから俺も彼女も読んだことはないはずだ。
確かに続きが気になるところで終わっていたのを思い出し、中腰になってそのラノベに手を伸ばした時だった。
「……和希」
「……黒羽か」
名前を呼ばれて横を見ると、見慣れた制服を着ているだけに見慣れない印象の人物。
噂の美少女転校生こと黒羽未來が、俺を見下ろすようにして立っていた。
「未來でいい。今更他人行儀にならなくていいよ」
「別にそんなつもりはない。イギリスではファーストネーム呼びが主流だとしても、日本では苗字呼びは普通なんだ」
「私も生まれ育ちは日本なんだが……私は名前で呼んでいるんだから、和希もそう呼んでくれて構わない」
腕を組んで呆れた眼差しを向けてくる黒羽……未來は、何の悪意もなくそう言ってのけるのだからきまりが悪い。苦手意識の強い女子を下の名前で呼ぶのに慣れていないと弁明するのも恥ずかしいし、ここは了承の意を示して立ち上がった。
樋野村先生が言っていた待ち人とは彼女のことか。話題の主役だったのだから伏せる必要もなかったのではと愚痴を吐くが、あの流れで何の関係のない一般生徒が現れても反応に困るので答えは最初から決まっていたとも言える。
俺は右手に取った本の表紙を軽く見せ、貸出のカウンターへ向かう意志を示して歩き出すと、二歩三歩後ろから未來もついてきた。
「学校案内はもういいの?」
「聞いていたのか」
「席、真隣なんだから嫌でも聞こえるだろうよ」
「……一通り、妃那たちと見て回った。普通棟の方は大体覚えたよ」
「それはよかった」
未來は単純な学力だけに留まらず記憶力にも自信ありな様子で、社会科をはじめとする暗記科目に限ってはちんぷんかんぷんな俺は尊敬の念を抱かざるを得ない。
学校案内を請け負ってくれた福谷妃那ら四人組グループは、きっと俺の期待以上に未來が高校生活に慣れていくための手助けをしてくれることだろう。と、知り合って間もないのに変に保護者目線になってしまった俺に引き、そうさせるような頼み事をしてきた樋野村先生を呪い、貸出のカウンターまで来たのだが図書委員の姿が見えない。
「留守か……?」
休みなのか用事があるのか、だとしても無人にしておくことはないだろう。となれば、奥の司書室で作業でもしているのだろうか。仮にそうだとしても部外者の俺が立ち入るのはどうかと思うし、この物静かな空間で声を上げて呼ぶのも憚られる。
優柔不断の代名詞こと米石和希が数秒にわたって右往左往した結果、少し待ってみることを選択すると。
「あ、貸出ですね? 私やりますよー」
カウンターを挟んで向こう側には誰もおらず、そこに入っていく人影もなかったはずなのに、突如として留守のはずの受付から女子の声が返ってくる。
声の主は有無を言わさずに俺の手元からラノベを奪い取ると、慣れた手つきで機材に繋がれたハンドスキャナーで裏表紙の内にあるバーコードを読み取った。
そして礼を言う前に再び俺の右手の中へ戻し、俺がそれを掴んだ瞬間。
図書委員代理の女生徒は、本を手渡した左手を前へスライドさせるように俺の右手首を掴むと、軽やかに受付のカウンターを飛び越え、俺の手を引いたまま出口へ向かって駆け出した。
狙い澄ましたかのように図書室へ入ってきた生徒が後ろ手に扉を引こうとしたタイミングで、彼女は隙間を抜けるように外へ飛び出し、俺もその生徒にぶつかりそうになりながら引きずり出される。
突然何が起こったのかと脳が理解を諦めかけた時……今の状況にかっちりと当てはまる鮮明な記憶が、その人物の顔を見るより早く思い起こされた。
貸出カウンターに人の姿は見えなかった。
出口へ猛突進していった彼女に対して周囲の生徒は無反応だった。
常識的に考えてあり得ない、そんな現実離れした芸当を実現できる人間は存在しない。
つい先日までの俺ならそう断言しただろうが……残念ながら、それが可能な女子を俺はひとりだけ知っている。
「……どうしてあんたがいるんだ」
「えへ、驚きました? サプライズ大成功ですねっ」
対テロリスト国際連合『Atlantis』所属。
『自分の気配を消す超能力者』――白峰静は、あざといピースサインを添えて悪戯っぽく笑っていた。




