抜け落ちた羽根は戻らない
2年半ぶりです。こぶらんです。
活動報告でも触れましたが、『幻想的リアルにおける英才教育』の連載再開は精神的余裕の問題で難しいです。申し訳ございません。
代わりにはなりませんが新作です。頑張りますのでよろしくお願いいたします。
変わらない日常というものがどれだけ幸福であったことか、自分の甘ったれた欲望を後悔した。
単純な話だ。環境が不変であるならば、いつでも自分なりに挑戦を嗾けることができる。それが優位に働くことがなくとも、決して不利な状況をスタート地点に選ばなくていいことは恵まれているのだと、受動的に怠惰な日々を送っている男子高校生は今の今になって思い知った。
世界の命運を左右するヒーローになるとか、異世界に転生して摩訶不思議な能力を目にすることになるとか、道端に捨てられていた謎の少女を拾って養うことになるとか、そんな大それた奇跡を望んでいるわけじゃない。
ただ、変わり映えしない毎日のちょっとしたスパイスとして、新学期らしく新しい出会いがあったりしないかなどと叶いもしない妄想を弾ませていただけなんだ。
その結果がこのザマだ。
夢であることを願うほどの運命など、一度たりとも望んじゃいない。
まるで物語の主人公のような体験なんてこちらからお断りだっていうのに、これは努力もせずに変化を夢見た少年への天罰だと思うほかなかった。
走る、走る、細い路地裏を挟みながらひたすらに走る。
錆びた鉄のフェンスに引っ掛けてクリーニングしたばかりのスラックスを汚そうが、なりふり構ってはいられなかった。
履き潰したスニーカーの靴底が悲鳴を上げる。春休み中に切り損ねた前髪が額に汗で張り付いて気味が悪い。教科書類はすべてロッカーに保管してきたから軽いとはいえ、地に足を着く度に背中をノックしてくるリュックが鬱陶しくてしょうがない。
けれど、そんなことを気にしている余裕などなかった。頭の中にあるのは、走ることをやめてはならないということだけ。
中学卒業以来運動不足の身体が堪えようと、不可解な現実から逃れたい一心で闇雲に足を動かしていた。
マラソン大会のラストスパートをいつまでも繰り返しているような。春である故気温が落ち着いていることだけがせめてもの救いの、気が遠くなるような地獄の時間。
喉が焼けるように痛み、血の味が滲む。隠し続けてきた限界が露わになり始める身体が、日が落ちて灯り始めた街灯の方へふらふらと誘われていく。
目を凝らしてみれば、その灯りの下には見慣れた赤塗りの自動販売機が見えた。数十分にわたって欲していた水分という餌をちらつかされて、考えるまでもなく足はそちらへと向かっていた。
――もしそれが罠だと気付くことができたなら、また結果は変わっていたのかもしれない。
路地裏の出口を警戒することくらい慣れ切っていたはずなのに、最後の最後で甘い蜜に誘き出されてしまったと理解したのは、その先を遮るように数人の男の影が現れてからだった。
「いやあ、長い長い鬼ごっこ、お疲れ様でした」
ご機嫌で余裕を含ませた声を発したのは、正面に立つ大学生ほどに見える金髪の男。
七分袖の明るいジャケット、皺ひとつない新品のシャツの真ん中には街灯に反射するネックレスを下げた今時の若者といった風貌の青年が、ジーンズのポケットに両手を突っ込んでこちらを見据えていた。
「いい運動になったでしょ。俺はスポーツ好きなんでよくわかんないんすけど、聞く話によると高校では部活入ってないんだって? 中学時代長距離好きだったんなら、このくらい走り込んでおかないと勿体なくないっすか」
けらけらと笑う男に対して、呼吸を整えることで精一杯な俺は反論することもできない。
部活? 中学時代? こいつは急に一体何の話をしているんだ、と。
しかし、それらの言葉を反芻してみて、血の気が引いていくのを感じた。
冗談じゃない。
この男のことなんて、俺は何ひとつ知らないし見覚えだってあるわけもない。
なのに、彼が発したエピソードは、他の誰でもない、俺に向けられたもの。
そして、自分はその人物像に見事に合致する。
――しかも、鬼ごっこだと。これまで撒くために全力を尽くしてきた自分の動向はすべて、相手に筒抜けだったということ。
決め手に、一字一句違わず、金髪をかき上げながら彼は言ってのけた。
「ね? 『米石和希』クン」
堂々と一歩踏み込まれるのに合わせて、震える右足が一歩後ずさる。
動いているのは彼だけではない。彼の後ろで待機していた、サラリーマンにしか見えないスーツ姿、学生の溜まり場で見かけそうな黒いパーカー姿、深夜のコンビニ前で屯っていそうな革ジャン姿、そして見覚えがあるのかないのか判断がつかないほど特徴のない学生服姿と、統一性の欠片もないあらゆる服装の男たちが、囲むようにして前進してくる。
尾行の気配なんて毛ほども感じなかった。その姿を目の当たりにしてみて、道理で周囲に紛れ込める連中だと納得するしかなかった。
「さ、我々と一緒に来てもらいますよ。大丈夫です、決して手荒な真似はしませんから」
本心の見えない明るい笑みを浮かべながら、彼はこちらへ手を差し伸べる。
この手を取ってしまったら、どうなってしまうのだろうか。
用件も目的も何も聞いていないのだ。少なくとも無事で済まないことはわかっている。だとしても、急ぎ足な口ぶりから察するに恐らく答えてくれる雰囲気でもないだろう。
だからといって、俺に何か対抗手段があるわけでもない。今から道を引き返しても逃げ切れる可能性は間違いなくゼロだ。
じゃあ反撃すればいいのか。ふざけるな。相手は複数だし、差し出された右腕は自分よりかは明らかに鍛えられている。勝てない勝負を挑むほど愚かではないし、痛いのは何より嫌だ。
万事休す、か。
もはや返す言葉もなく、目を伏せた――
その時だった。
「……!?」
この場に集まる数人を除いて、人の気配はなかったはずだ。
なら、徐々に大きさを増す路地裏の反響音は何か。
電線を占拠していたカラスたちが波を描くように飛び立ち、微かな夕日に照らされて黒い羽根が舞う。
いち早く招かれざる客の気配に気付いた金髪が振り返ろうとするが、寸分の差で間に合わないとその場の誰もが悟った。
――ドンッッッ!!
「ぐ……ッ!?」
突如向こう側の路地裏から飛び出してきた黒い影が、彼の背中に全体重を乗せたタックルを食らわせる。
しかも、それだけには留まらない。彼が大きくよろけた一瞬の隙に前へ回り込んだかと思えば、見事な払腰で一本を決め、一八〇センチはある体躯をアスファルトへ沈めた。
「リーダー!」
「誰だ!?」
「おい、やるぞ!」
何が起こったのか、この場の誰も理解し切れていないだろう。確かなのは、真正面に立っていたリーダー格の金髪の青年が謎の黒い影に一発KOされたこと。
それだけわかれば十分だとばかりに、男たちは口々に叫びながら乱入者へ向かって殴り掛かった。
ついに理由もわからず追われていた俺を蚊帳の外にして喧嘩が始まってしまったかと、関東の都会の治安はこんなにも酷いものなのかと絶望しつつ。
目も当てられなくなり、どさくさに紛れて逃げることも一瞬考えたが、一対多の乱闘を背中に向けるのはリスクが高い。相手はひとりだけだ、場が落ち着くのを待って観念するしかないだろう。
……そう諦めをつけるのは、あまりにも早計だった。
「いっ!?」
「ぐぉッ!?」
「がぁッ!!」
そいつは、比較にならないほど強すぎた。
まず革ジャンの右フックを最小限の動きで軽々と躱して、鳩尾に反撃を入れる。羽交い締めにしようと後ろに回り込んできたパーカーは頭突きと肘打ちを食らわせた後に背負い投げを決めて前方の学生諸共吹き飛ばし、隙を突いたつもりで斜め後ろから飛び込んできたサラリーマンには華麗な回し蹴りを打ち込んだ。とても何十キロとある物体とは思えない吹っ飛び方に感動すら覚えた。
……とても喧嘩慣れしているだとか、そんな生易しい言葉で片付けられるレベルじゃない。
服の上からでも鍛え上げられた筋肉がわかる男たちが、ものの十数秒しか経たないうちに、冷たいアスファルトの上に転がっていた。
呻き声を発するそれらを一瞥して、膝丈ほどもある黒いフードコートに身を包む人物はこちらを見る。
「……な、何なんですか」
いつもと変わらない帰り道、正体不明の男たちにつけ回されただけでも現実を疑うというのに、彼らはたった一人の人物に敗れて無様に街灯に照られている。
その原因たる人物も、フードと逆光に隠れてその表情までは窺い知れない。
なんとか震える声を絞り出すと、その人物は若干の早歩きでこちらへ歩み寄ったかと思えば、考える隙を与えずこちらの左手首を取った。
「逃げるぞ」
自分も組み伏せられてしまうのか――そんな恐れを裏切り、そいつは落ち着いた声音でそう呟いた。
聞き取れなかったわけではない。言葉の意味を飲み込めずに耳を疑って、聞き返そうとするや否やこちらの手首を離さずに走り始めた。
つられて俺も最後の力を振り絞り、なんとかペースを合わせて駆け出す。向かい合うのも一瞬だったから顔はやはりよく見えなかったが、少なくとも敵ではないことが察せられた。
なら、選択肢を悩んでいる暇はない。
正直、こんな現実受け入れたくはないけれど、今はこの自分より少し背丈の低いフードコートに従うしかない。仮に歯向かったところで、先程の喧嘩を目の当たりにしていたのであれば末路は言うまでもないのだから。
それから少し走り続けた後、明らかに俺のペースが落ちてきたのを見かねてか、奴は少しずつペースを弛め、また少ししてから走るのをやめた。
俺の手首から右手を離し、ゆっくり俺の斜め前を歩く。
顔も名前も知らないのに何と滑稽な絵面だろうか。すっかり夕日も見えなくなった夜道をふたりで歩く奇妙さに耐えかね、数分かけて呼吸を整えてから俺は言葉を紡いだ。
「どうして、助けてくれたんですか」
素直にありがとうの一言でも言えばいいものの、どうしても疑問が先行してしまうというか。
米石和希は自他ともに認める、かつ疑いようもなく、ごく普通の公立高校に通うごく普通の齢十六の少年に過ぎない。
勉強は上の下から中の上、運動は中学を卒業してからほぼ縁がなく、何の特徴も特別な価値もない男。無論、謎の男たちに追われる理由なんて見当もつかないし、法や規則に触れるような悪事を働いた覚えもなかった。
なのに、今日突然俺の身に何が起こったというのか。この理解に苦しむ状況のわけを知りたくて、最初に出た言葉がそれだった。
「狙われているんだろう」
「そうらしいですけど」
「だから助けた」
「事情とか知ってるんですか?」
「……いや。通りがかりだ」
答えは簡潔だった。また、求める回答は得られなかった。
不審な集団に絡まれているところを助けてくれたあたり、このコートの人物は信用していいのかもしれないが、優しさを見せて騙そうとしている可能性も否定できない。
あの金髪と裏で手を組んでいるのかもしれないし、本当に通りすがりで助けてくれた真の善人なのかもしれない。喧嘩の腕は只者ではなかったとはいえ。
起こった出来事と解決手段を整理するには、あまりにも余裕がなさすぎた。
あいつらの狙いはなんなんだ。どうして俺なんかを狙っているんだ。どこに行けば安全なんだ。何をすればまた自由になれるんだ。
今の俺には何もわからない。ひとつ、『謎の人物に狙われている』という事実を突き付けられてしまった以上、今隣を歩く人物に従うのが最もリスクが低いと判断せざるを得なかった。
「家の人には、友人の家に泊まるとでも伝えた方がいい」
突如として、こちらも見ずにフードコートはそんなことを口にした。
それ即ち、今日は帰さないということだろうか。変な意味ではなく、まさか匿ってくれるとでも言うのか。
「確かに、明日からゴールデンウィークなんで小言は言われないと思いますけど。どうしてそこまで」
「下手に出歩くのは危険だ。この先に私の借りている部屋がある。そこなら数日くらいは誤魔化せる」
「……警察、とか呼んだ方がいいんじゃ」
「できればそうしたいところだが、犯行として捉えるには証拠がないと警察は動かない。それに……見てくれからして只者じゃない。こっちの身を晒して敵に回すには危険すぎる」
「……やっぱり何か知ってるんじゃないですか」
「ただの勘だよ」
「勘で済まされるようなことじゃないでしょ」
俺の本名や中学時代のエピソードまで調べ上げている相手だ、住居くらい特定していると考えるのは容易である。それにしても家に来いとは唐突すぎやしないだろうか。そりゃホテルに泊まり込む金もないけど。
真剣な声音で、確かに俺の身を案じてくれているのがわかったけれど、妙に手馴れているような態度が気にかかる。どうやって慣れたというのか。やっぱり都会は怖いということか。
ともかく、警察も頼れないのであれば、尚更どう解決に導けばいいのか。少なくとも俺にできることは何ひとつないと理解する。
考えるのも嫌になって頭を振り、リュックを前に回して財布を取り出した。
「すみません、ちょっと待ってください」
「……?」
通りがかった自動販売機に千円札を挿入し、大手メーカーのスポーツドリンクのボタンを二回押す。
お釣りを財布にしまい、一度にまとめてしまったせいで二本目のペットボトルを取り出すのに少しだけ苦労しながらもそれを手に取ると、片方をフードコートに差し出した。
「とりあえず、助けてくれたお礼ということで」
そいつは僅かに照らされて見える口元をぽかんとさせていたが、数秒おいてから何も言わずに受け取った。
無言の空間が気まずくなった俺は、すぐさまキャップを回して長らく欲していた水分を喉に流し込む。
欲求に任せていればいつの間にか残り五分の一ほどになってしまったペットボトルをリュックにしまい、一応飲んでくれてはいるらしいフードコートに並んで再び歩き始めた。
あからさまにボロいとまでは言わないが、住みやすそうとも思えない微妙なラインに乗るアパートの手前に着くと、フードコートはその敷地内へ曲がっていった。
丸ドアノブに鍵を差し込み、半回転させて解錠すると、先に中へは入らず、ドアを押さえたままこちらを見やる。『先に入れ』の合図だと察した俺は、恐縮しながらも狭い玄関へ足を踏み入れ、勝手を承知で入ってすぐの居間の電気のスイッチを押した。
「お、お邪魔します」
「何もないけど……自由に寛いでくれていい」
どうやら玄関はひとり立つのが限界の広さのようで、俺がリビングに収まったのを見てからフードコートも上がってきた。
居間もさして広くはないどころか狭く感じるのは壁際に並ぶ家具のせいだろうか。あまり物色するのも褒められたことではないが、居間六畳、洋室四畳半がいいところの1DKらしい。欲を言い始めればキリがないものの、一人暮らしを考えると不自由はない部屋だった。
「……狭くて悪い」
「いや、全然――」
とりあえずローテーブル前の座布団に腰掛けてフードコートを見ると――いや、その表現が今は間違いとなってしまうだろう。
まるでバトル系の漫画やアニメに登場する暗部のように顔を隠し続けていたフードは、もうその役目を外れて背中側に流されていた。
露わになった顔つきは芸能人かというほどに整っており、直視するのが恥ずかしくなってくるほどで。
思い返してみれば、喧嘩の腕っぷしなんか抜きに、俺より低い背丈や、少し高めで綺麗な声と会話していた時点で気付くべきだった。
息を飲んで、視線を上へなぞらせた先。
自分と同い年くらいに見える黒髪の美少女が、そこに立っていた。
もしかしたら、これは夢なのかもしれない。差し支えなければ夢であって欲しい。いや、こんなのは夢だと言ってくれ。
共感してくれる友人もいないけれど、普段から明晰夢は見慣れている。何ならある程度コントロールして夢を見始められるとも最近気付いたし、明晰夢であれば現実から夢に入る瞬間だって明確にわかる。役立たずで噂にも聞かない変わった特技だ。
だったら、どうして目覚めることができないのか。これほど有り得ない事象が続いているのに、現実に戻ることができないのか。
問い掛けるまでもなく答えは単純明快だった。その答えから目を逸らすなと言わんばかりに、見慣れない綺麗な深紅の瞳が現実を突きつけてきていた。
二〇一九年、四月末。誰もが待ちわびていたゴールデンウィーク直前の夜のこと。
ごく普通の男子高校生こと米石和希は、所属も目的も不明の男達に襲われるという非現実的な体験を賜った後。
滅茶苦茶に可愛い初対面の女の子の家に、何の心構えもなく上がり込んでいたのだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
最近までホロライブ二次小説の方ばっかり書いていたのでそっちの主人公の地の文に引きずられている部分ありますね(なお未公開)
書き溜め全然できてないジャブなので次話更新は来月以降になるかもしれません。
これからよろしくお願いいたします。