第一章 鴨川デルタと天使さま 2 ヨーコ
襲ってくる――
そう感じた瞬間、テニスで鍛えた持ち前の俊敏さで、ヨーコは自転車にまたがり、危険を回避した。高野川にかかる河合橋の真ん中で、ヨーコは振り返ったが、木の陰に隠れてしまい今の位置からではケータの姿は見えない。
ガルルゥというあの勇ましいドーベルマンの声が微かに聞こえ、老人が勝ち誇った笑い声をあげた。老人の所へドーベルマンが走っていく姿が見え、ヨーコはひとまずほっと胸を撫で下ろした。
未だにケータの姿は確認できない。まだミッションはコンプリートしていないのだ。老人は鴨川デルタで犬を自由に走らせていたため、ヨーコはケータがどうなったか確かめに行くことはできない。不審者だと思われるのも嫌だから、観光客に化けるのが一番ねと、鴨川の景色に心を奪われた観光客のように、『大』、『妙』、『法』と五山の送り火のうちの三カ所を同時に見ることができる河合橋に佇んでいた。
しばらくして、老人と犬が鴨川デルタを去ると、ヨーコは急いでケータを確認するために戻った。
「Clear」
ヨーコは特殊部隊ばりの身のこなしで、ケータを確認した。
ケータは倒れていた。ドーベルマンに喉を噛みつかれ、鮮血が地面に広がっている。だが、意識不明の重体というわけではない。ヨーコは近くにあった水道で、ハンカチを濡らすと、ケータの額にそっと載せた。
「まったく世話の焼けることだこと。ねぇ、大丈夫?」
ヨーコはケータの顔をのぞき込み、肩をそっと叩いた。少しだけ、ケータの口が動いた。しかし、ケータはまだ目を覚まさない。ただ口を動かし、微かな声で、寝言を言っている。声は小さすぎて、ヨーコには聞き取れない。ただその唇の動きを読むと――
聖と邪の戦いが始まる――
その言葉を繰り返している。その言葉にヨーコはほんの少しだけ、タイムスリップする。ヨーコは大学一年の時に、倫理学概論という講義を選択した。ヨーコは知りたかった。人間は戦争を繰り返し、お互いに傷つけあい、奪い合う。個人が行えば犯罪となる行為が、なぜ大規模であれば正当化されるのだろう。
分からなかった。
だから、善とは何なのか? 悪とは何なのか? それが分かれば、心の拠り所ができると信じていた。
テレビをつければ、必ずどこかで戦争が起こっている。テロと呼ばれる破壊行為だから悪だとは思えなかった。だって、自分を犠牲にしてまで戦おうとしている意志を持つ人間が、平和な日本でのんびり暮らしている人間よりも強い気持ちを持っているはず何だから。
ヨーコには何もない。ただ普通に生きてきて、薦められるがまま大学に入学していた。もし大地震でも起こって破滅的な世界にたった一人だけで残されたとしたら、こんな自分が生きていけるか不安だった。
結局、講義からは何の答えも得られなかった。絶対的なものなんて存在しない。自分自身が判断していかなければ、生きていくことなんてできない。それと同時に気付いた。もしも絶対的なものが存在して、しかもそれが頼りがいのあるものだったら、確かに幸せを得られるかもしれない。だけど、もしそれが本当に存在するなら、人間の価値観なんてものはその瞬間に一つの物差しでしか決められなくなってしまうのだと。
拠り所のない不安感は、たまに心を押し潰そうとするかもしれない。だけど、もしその不安感を払拭できるような何かを得られることができれば、無限の可能性を秘めた希望に向かって人生を歩いていけるのかもしれないじゃない。その何かを探すために、生きていこうと思えば、生きること自体の活力になるかもしれない。
だけど、同時に気付いている。絶対的な価値観も、ヨーコ自身が取り決めた希望という張りぼての思考も、結局は自分が信じたいから作り出しているだけ、ただの幻想に過ぎない。だから、たまにそれに気付いて、不安になる。自分の作り出した無限の可能性は外部からの圧力には強いかも知れないけれど、結局、自分自身が再燃させてしまう不安を押さえつけることはできない。
それの繰り返しだ。
「ノープロブレム」
ケータの口から今度ははっきりと聞こえた。
「ああ、良かった。死んだかと思って、心配しちゃった」
そして、ヨーコはケータにキスをした。
ケータの頭を膝の上に乗せ、ヨーコもまたケータと同様に鴨川のせせらぎに耳を澄ませ、暖かい太陽の光を背中に感じていた。御所グラウンドではテニスが待っているけど、一生このままの状態でいたいと思った。
そんな二人の幸せを見つめる視線をヨーコは感じた。
「クルックゥ」
鳩だ。鳩が地面を突きながら、時折ヨーコを見つめている。どこにでもいるような普通の鳩なのに、なぜか視線を感じる。
鳩ぽっぽのくせに、わたしたちを妬んでいるつもり? そんな陰険なことなんてしないで、早くカレシでも作りなさい。
ヨーコがケータの頭をさすっていると、鳩の目が一瞬だけ真っ赤に輝いた。
「クルックゥ」
そう鳴くと、バタバタと翼を羽ばたかせ、飛び立った。ヨーコは目をこすった。鳩は優雅に鴨川を周遊するために飛んだわけではなかった。ふわりと両足が地面を離れると、ほぼ垂直に上昇し、一瞬にして空の彼方へと消えていった。
「な、何、今の? 鳩ぽっぽ、目が光らなかった? しかも、ロケットみたいに飛んでいった――」
「そうだった? そもそも鳩なんていた?」
ケータはヨーコの膝枕の心地よさに寝ぼけ眼だ。
「役立たず―― ん? 何か聞こえない?」
ヨーコが耳を澄ますと、ヒューっと風を切る音が聞こえた。ヨーコとケータは空を見上げた。真っ青な空に黒い何かが浮かび、少しずつ大きくなってくる。何かが落ちてくることは分かったけれど、ヨーコにはそれを確認することができない。鳥か、さっきの鳩ぽっぽか、はたまた隕石か、スペースデブリか、ただ落下してくるスピードが異常だ。それはどんどん大きくなる。
どんどん大きく、どんどん、どん――
「当たる!」
ヨーコの叫び声は、鴨川への衝突音に掻き消された。砂利や石の混じった水飛沫が五、六メートル立ち上った。
「か、傘」
わたしは水族館のイルカショーで、ビニール合羽を着て、最前列に座っている子供ってわけじゃない。なんで鴨川の河川敷で水飛沫がわたしの方に向かってこなくちゃいけないの。そんなことが頻繁に起こったら、誰もこんなところでバーベキューをしなくなっちゃう。いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。どうにか対処しないと――
結局、ヨーコはケータを膝枕したまま、自分に向かってくる鴨川の激流をを呆然と眺めることしかできず、ケータと共にずぶ濡れになった。ヨーコは水に濡れた髪をかき上げ、まぶたの上の水を拭った。
落下地点には一人の男が立っていた。
「目標を確認。これより作戦を開始する」
誰に向かってというわけでもなくぼそぼそと口を動かした。男は百八十から百九十センチくらい、がっちりとした体格ではなく、程よく筋肉が付いている。顔は病弱にも見えるくらいに真っ白で、緩やかにカールした眩しいくらいの金髪が肩まで伸びている。男が着た一つのシミもない純白のドレスが、より一層男を白く見せていた。そして、男の金髪の上にはドーナツ状の光の輪が浮いている。
輪っか―― 天使――
そう言われて、イメージできる存在が二人の前に立っていた。ヨーコの潜在的なイメージと違うのは、男の背中に翼がないという点だけだ。
ヨーコはケータの顔をじっと見つめた。ケータも男を呆然と見つめている。目をこすっても、ほっぺたを抓っても、やっぱり男が目の前にいるって表情だ。こんなことって、ケータとキスをした時に、LSDを口移しされたからとしか思えない。それによく見ると、男の足は鴨川から浮いていて、川に浸かっていないじゃない。これが薬物による幻覚ってやつね。
ヨーコは一人納得する。
男が一歩足を踏み出した。水に触れていないのに、足を下ろした所から波紋が広がっていく。男はヨーコを見つめながら、ゆっくりと河川敷に近づいてくる。右足の波紋と左足の波紋が干渉しあいながら、ヨーコの足下まで到達する。ぞくりとする冷気がヨーコの全身を通り抜けていく。
「ねえ、ケータ、今の状況を説明してくれない?」
こうなったら、よく分からないけど、全ての元凶がケータだってことにしないと理解ができない。
「俺に言われたって、どうしようもない。こうなったら、挨拶するしかない」
ケータは起きあがると、向かってくる男に対し、ケータは近づいていく。ケータの靴が鴨川に浸る。
「ハロー、心の友よ」
ケータがそう言って、右手を挙げようとした瞬間、ヨーコは微かに頬に風を感じた。天使の右腕が動いたかと思うと、ケータが後方にはじき飛ばされていた。ケータは凄まじい勢いでベンチに激突する。
「ケータ!」
「アイタタタ――」
ケータの呻き声の調子から、ヨーコは安心する。でも、まだ問題は山積みだ。ヨーコには目の前の天使が右手から何かを放出したのまでは確認できた。しかし、そのスピードにまだ慣れていない。それなのに、ヨーコには次の攻撃はかわせるという自信に満ちていた。
天使は近づいてくる。ヨーコは身構えた。再び天使の右腕が動いた。腕が鞭のようにしなり、空気が天使の右腕に渦巻くのが見えた。続いて圧縮された空気が拳銃から放たれた銃弾のようにヨーコに向かって弾き出される。
軌道は見えた――
ヨーコは横に飛び退き、空気の弾がヨーコの頬を掠めていく。
「ほほう」
天使がそう呟く。まだ天使の攻撃は終わっていない。今度はもっと大きな動きで右腕が動き、更に大きな空気の動きが生み出される。ヨーコは腰を落とし、かかとを上げ、いつでも攻撃に対応できるよう体勢を整える。圧縮された空気がヨーコに向かって――
その瞬間、別の何かが弾丸のように天使に向かって動いていた。天使は大きくよろめき、鴨川の水面が複数の波紋によって乱れる。天使の右腕に何かがぶら下がっていた。白くて丸い動物――ブルドックが天使に噛みついていた。
「わんちゃん!」