第一章 鴨川デルタと天使さま 1 ケータ
簡単には地球の引力から逃れられない。
地球の周りを回っている二六〇〇個の人工衛星だって、六〇〇〇個ものスペースデブリだって、地球の引力に引っ張られ落ち続けているだけなんだ。遊園地のフリーフォールとの違いは、落下が一瞬なのか、ちょっと長いだけなのか、ただそれだけ。それに、宇宙ゴミが落ち続けるって言ったって、地球が生まれてからの時間を基準にすれば、一瞬のこと。
四六億年の地球の歴史を一週間に置き換えれば、人類の歴史なんて一秒くらいだって、歴史か理科の授業で教わったじゃない。
目の前を流れ続ける河の流れだって同じこと。
ケータは賀茂川と高野川の合流地点、鴨川デルタと呼ばれる鴨川三角州に座っていた。鴨川の流れは亀石の間を抜けていき、涼しげな音色を奏でる落差工を落ちていく。今目の前にある水は上流の桟敷ヶ岳から流れてきて、下鳥羽で桂川に合流し、最後には淀川から大阪湾に流れ込む。だけど、河の流れは途切れることない。近い未来までならきっと流れ続ける。
「あっ。やっぱりここにいた!」
キキッーと自転車のブレーキが響き、ケータの思考を遮る脳天気な声が聞こえた。ケータが振り向くと、ヨーコが自転車を降り、大きく手を振っている。ヨーコはケータの大学の同級生で、講義の説明会で偶然席が隣同士になったことがきっかけで、よく遊びに行くようになった。
ヨーコは七分丈のロンティーにジャージという軽装で、ラケットも入れられる大きなテニス用バッグを背負っている。テニスサークルで大学生活をエンジョイしてますという出で立ちだ。
「ヘロー、マイフレンド」
ケータは近づいてくるヨーコに向かって軽く手を振った。
やっぱりヨーコは爽やか系で可愛い。誰であろうとそれを否定したら許さない。それに、ヨーコとは友達以上の関係だけど、今ヨーコの顔を見たら、死んだと思っていた人と再会した時のような懐かしさが込み上げてきて、思わず目頭が熱くなった。
「まったく、こんなところで何してるの? 飲む?」
ヨーコはケータの隣に立ちはだかり、一.五リットルのコカコーラをケータに差し出した。ケータがヨーコとの再会に心を熱くさせているのに気付いている様子は全くない。
「ああ、分かった。哲学的な思考ってやつね? 人間とは何か? 善と悪とは何か? 生きる意味とは何か? 多忙なワタクシには暇人の考えてることは全く理解できない」
「鴨川の流れが哲学的かどうかは分からないけど、とりあえず喉が渇いたから何か飲みたいって思ってた。僕とヨーコは以心伝心ってやつかも」
ケータはヨーコからペットボトルを受け取ると、一気に喉に流し込んだ。炭酸が喉を抜けていく。
そういえば、コカコーラって、一九七〇年代にペプシコーラよりも美味しくなかったから、一九八四年にカンザス計画で味を変えたんだけど、消費者から抗議が殺到して、元の味に戻したんだって。
つまり、結局はペプシには劣っているってこと。
「でも、ペプシよりうまい」
ケータはコーラを飲み干すと、キャップをペットボトルに付けて、ヨーコに返す。
「ちょっと全部飲まないでよ。テニス用に買ったのに。よく一リットルくらい残ってたのに全部飲めたものね。びっくり人間コンテストにでも出たらどう? よくいるでしょ、炭酸を一気に飲む芸人」
「コーラくらいでそんなにブーブー言うなよ。ちょうど喉が渇いていたんだ。それにさ、運動中に炭酸を飲むことないんじゃない? もっとアクエリとかポカリとかにして、炭酸がイイならせめてマッチを飲むべきだよ」
ヨーコはペットボトルから包装とキャップを別にして、ゴミ箱に分別して捨てた。
「それで何しに来たの? 僕の哲学的思考ってやつを遮ったんだから、大層な用事なんだろうね」
「今授業が終わって、御所グラウンドにテニスをしに行くとこ。今出川通りを颯爽と駆け抜けていたら、たまたま水面を見つめてるケータを見かけたってわけ。まだ集合時間まで時間があるから、もう少しだけ相手してあげる」
「ああ、それはそれは、どうも、ありがとう」
ケータは近くにあった石を掴み、立ち上がった。ケータは石を投げた。少年野球に入っていたわけでも、高校球児でもなかったから、石はただぽちゃんと鴨川に落ちて、少しだけ波紋を作った。
「石は落ちる」
ケータはもう一つ石を拾い上げ、鴨川に向かって投げた。さっきよりも少しだけ強くなげたから、さっきよりも少しだけ遠くに落ちた。
「山の上から石を投げたら、その石が斜面に落ちなかったら、もしかしたら山の下に建っている豪邸の屋根に当たるかもしれない。今ここで僕が投げた石がもっと遠くに落ちて、違う石をもっと強く投げてもっともっと遠くに落ちたら、さらにどんどん強い力で投げていったら、地球っていう球体をなかなか落ちずに飛んでいって、しまいには地球をぐるっと回って、僕の一歩後ろに落ちるかもしれない」
「地球を回っている人工衛星の速度Vは高度をHとすると、V=(398600/(6378)+H)1/2でしょ。高度二〇〇キロメートルだと、秒速七.八キロメートル。そんなスピードでケータが石を投げられるなら、今はとっくにメジャーリーグで大活躍してるはず。筋トレとかいった努力が嫌いなのに、よくもまあ意味のない思考を続けられるわね」
ヨーコもまた石を拾い上げ、鴨川に向かって投げた。ケータとは異なり、大きな放物線を描き、石はゆっくりとしたスピードで飛んでいく。ポチャンという水の音は聞こえず、コツっという堅い音が聞こえた。
犬を連れたおじいさんが頭をさすりながら、二人の方を向いた。
「ケータ、逃げるわよ」
おじいさんが顔を真っ赤にし、ケータを指さした。犬はよく見ると、ドーベルマンだ。おじいさんの手からドーベルマンが放たれ、勢いよく突進してくる。
「ヨーコ」
ケータが振り向くと、ヨーコはすでに自転車にまたがり、京阪出町柳駅方面に向かって橋を渡ろうとしている。
「そんなスピードで石を投げたら、空力加熱で…」
その瞬間、ドーベルマンはケータに体当たりし、ケータが地面に倒れ込んだ。
首筋に犬の暖かい息を感じた。
スペースシャトルが大気圏に突入する時に、高温になるのは空気との摩擦熱が主要な要因じゃない。空力加熱という現象が起こるからなんだ。高速で飛行をすると、機体の周りの空気が圧縮され、高温になる。だから、秒速七.八キロメートルで、石を投げられたとしても、その石なんてきっと無くなってしまう。
そのざわめきにケータは目を開いた。ざわめきの原因は満員のスタジアム。まぶしいナイターの照明がスタジアムを照らしている。ケータはマウンドの上で、ボールを握りしめている。相手の選手を讃える声援、ケータを応援する黄色い声、そして浴びせられる罵声がスタジアムを覆っている。
一点リードで迎えた九回裏、簡単にアウトを二つ取ったものの、ヒット二本とフォアボールでツーアウト満塁の大ピンチ。キャッチャーが自信満々の笑みを浮かべながら、ケータの肩を叩いた。
「大丈夫だ、問題は何もない。ノープロブレム。後一人で、お前はヒーローだ」
顔は外国人なのに、流暢な日本語をしゃべるキャッチャーに、ケータは同じように自信に満ちた笑みを返した。
「ノープロブレム」
照明がケータの白い歯に反射する。
そうだ、俺はここでもう一つだけアウトを取り、ヒーローになる。お立ち台に上がり、ファンの前で応援してありがとうと帽子を取りお辞儀をする。それが俺の運命だ。
本当は野球なんて全然好きじゃない。サッカーの方が好きだ。サッカーなら小学生の頃からやっているし、今でも週二回から三回はボールを蹴っている。ピッチャーの投げ方すら知らないのに、なんでこんな状況に立たされているんだろう。
「ノープロブレム」
もう一度、ケータはボールに向かって呟いた。
自分自身に暗示をかけ、今自分の置かれた状況からくるプレッシャーを押しのける。大丈夫だ、俺ならできる。絶対に失敗はしない。何度か呟くと、急にすぅっと頭がすっきりしてきた。熱でのぼせた頭が急速に冷やされ、思考能力が戻ってくる。
照明が更に輝きを増し、まるでスタジアム全体が暖かい吹雪によってホワイトアウトしたかのようになる。ケータはあまりの眩しさに、目を細めた。しばらく堪えると、太陽が見えた。そして、ヨーコが心配そうな顔で見つめていた。
「ああ、良かった。死んだかと思って、心配しちゃった」
ケータが上半身を起こすと、額の上からハンカチが落ちた。水で濡らしたハンカチがケータを満員のスタジアムから現実の世界に連れ戻していた。
お前を選んだ――
スタジアムのライトが輝きを増し、夢から醒める瞬間、ケータはそんな声が聞こえた気がした。