善良な市民
男は今年で42歳になる。
人生のほとんどの時間をあてがわれた六畳ほどの自室で過ごしてきた。誰かと言葉を交わしたことがないので、未熟な言語能力しか持たない。漢字が混じってくると読む速度が極端に落ちる。書くことは全くといっていい程出来ない。
しかし、彼は別に小説家になろうというわけではないので、その程度の能力があれば全く問題はなかった。
彼にあったのは逞しい腕の筋肉だ。二の腕や前腕に立派な筋肉がついている。そして、皮の厚い指があった。
男が生きていくにはそれで充分だった。文字通り、それだけで充分だった。
外に出て運動をするというわけではないから、その他の筋肉は限界まで弱っている。恐らく彼のいつも座っている床から立ち上がったら、その場で崩れ落ちてしまうというぐらいの細っこい足だった。
しかし、彼には腕の筋肉があるので、生きるのには問題などない。
毎日、部屋に配達される2つ以上の鉄の塊---大きいものも小さいものもあるが、見たこともないような不思議な形がほとんどだーーーを、ボルトとナットで繋ぎ合わせるのが男の仕事だった。
男がその逞しい筋肉で(腕の)ネジを締める。そうすると鉄の塊と塊が密着にくっつく。びくともしなくなるほど硬く締める。それが男の仕事。男が知る必要があるのはそれだけだった。
ネジを締める作業にそれほどの筋肉は要らない。「人並みの筋肉」があれば充分だ。しかし男は人並みの筋肉とはどれぐらいのものかも知らない。
真面目で向上心の強い男は、自主的にダンベルを使った筋トレに励んでいる。よいネジ締めの仕事をするためだ。しかし彼がどれほど筋トレに励もうと仕上がりは大して変わらない。
1日が終わると、部屋に備え付けられたテレビからこんな音声が流れる。
「今日も誇りある仕事をありがとうございました。明日もこの調子で頑張って下さい」
優しい女の声だ。この声を聞くのが男の癒しだった。疲れている日もこの声を聞くために頑張って仕事をする。
この声の人の顔を見られたらどんなに良いのにと思うこともあるが、人の顔を映像で見るのは禁止されている。
1日の終わり、「今日もお疲れ様でした」の声が流れた後は、必ずいかめしい中年男の声でアナウンスが続く。
「危険!ニンゲンカンケーに注意。ニンゲンカンケーはあなたの人生を破壊します。絶対に手を出してはいけません」
ちなみに同じ文章はテレビにも映し出され、ポスターで部屋にも貼られている(男にも読めるように全て平仮名だ)。
男はこういうものを毎日見聞きして過ごす。
「ニンゲンカンケーは、初めは多幸感や刺激をもたらしますが、次第に依存を高め、無しではいられなくなってしまいます」
「ニンゲンカンケーに手を出した人の映像をご覧下さい。ショッキングな映像も含まれますので予めご了承下さい」
テレビには、男が見たこともないような四角い場所ーー四方に柵がかかっているーーにいる見知らぬ男女が映し出される。
すぐにテレビに注釈が出て、「さくの外に出ると死んでしまいます」と説明された。分かりやすくて助かった。
顔を見るのは禁止されているので、顔にはモザイクがかかっている。
女の方が恐ろしい形相でわめき立てた。
「待ってよ。別れるってどういうこと」
その常軌を逸した様子に、男はぎょっとしてテレビから目を逸らしそうになった。
「だから何度も言ってるだろ。お前の束縛が鬱陶しいんだよ」
もう片方の男はため息まじりに言う。女の方ほど取り乱してはいないが、その声は聞いたこともない程疲れ果てた様子だ。人間関係の弊害の一つ、途方もない疲労感に当てはまるのだろう。
「あーあ、やっぱ。危険性の高いニンゲンカンケーになんて手を出さなきゃよかったんだよな……トモダチで満足しときゃよかった」
「なにそれ、ひどい。はじめに試してみようって言ったのはあんただったくせに……!」
女は男をその場所の端に追い詰めた。喚きながら柵を越える。
「あんたを道連れにして、私も死んでやる……」
「お、おい……やめろ」
もみ合いが続いた後、二人はその場所から一緒に落ちていった。少したった後、パーンと破裂するような音がして、男はびくっとした。今のは…なんだか分からないが、二人が死んだ音に違いない。この柵の外に出ると死んでしまうと言っていたし。
「今の映像は、ニンゲンカンケーの中でも最も依存性の強い、レンアイに手を出した人々の壮絶な最期です」
おごそかな男の声がそう告げる。
「二人はこの後即死しました。レンアイを始めとしたニンゲンカンケーには、一度手を出すと無しではいられなくなり、それを得るためには暴力などの反社会的行動を厭わなくなるのが特徴です」
「ニンゲンカンケー依存か……僕も、こんな人たちみたいにはなりたくないものだなぁ」
そんな風に思った後、男は自嘲気味にふっと笑った。
「そんなこと言いながら、僕も笑っていられる立場じゃない。だって、僕も軽度のコエ依存症だもの」
そう言って男は、リモコンについたボタンを押した。するとすぐに優しい女の声がテレビから響く。
「今日も良い1日ですね」
もう一度押す。
「お仕事ははかどっていますか?」
柔らかい、絶妙な高さの女の声。この声を聞くと、男の頭はぽーっとしてくるのだ。
「ニンゲンカンケーに依存性があるってのは想像出来るな。コエを聞くだけでこれだけいい気分になれるんだから、現実の人間と話したらどれほどの刺激だろう」
男は自分の給料の多くを、この声の再生に使っていた。
配信される声を聞く行為にも依存性はあるものの、成人しており適量を守れば許されることになっている。しかし、ニンゲンカンケーに手を出す入り口になりかねないと警告を発する人もいるようだ。
「それでも、禁止されているニンゲンカンケーに自分から手を出して、あんな風に取り乱すようなバカはしないぞ。コエは合法だし、僕は適量を守るようにしてるし」
男はこの部屋の外に自分以外の人間がいることは知っていた。顔をマスクで隠し他人と会話を交わさないという規則を守れば、外出自体は禁止されていない。しかし男は危険ニンゲンカンケーに手を出すリスクのある外にわざわざ出て行こうとは思えない。
…また、世界は信じられないほど広いらしい。ニンゲンカンケーの合法化を国に訴えているニンゲンカンケー中毒者もいるようだ。
確かにニンゲンカンケーに危険性はあるが、非常に有益な刺激・インスピレーション、苦痛の軽減などポジティブな効果も得られるのだというのがその主張だ。
それを聞いた時、男は鼻を鳴らして笑ってしまった。
法律を破って危険依存物に手を出している人間に、何を言う権利があるというんだ?きっと、あるもので自分の人生に満足の出来ず、ニンゲンカンケーなんていう危険物で苦しみをごまかすしかないかわいそうな奴らが負け惜しみを言っているだけだ。
過激派ニンゲンカンケー依存者が電波を違法支配して放送しているのを聞いたこともある。
男のような人々から毎日作っているのはエラいひとが使う建物の材料で、そこは男の自室なんかよりもずっと広い場所らしい。しかも、エラい人は国民には禁止しておきながら自分たちは毎日ニンゲンカンケーを乱用しているらしいとか。彼らには男の知らない機能や能力があって、ただでさえ最も危険と言われている依存物・レンアイの果てに、彼らの言うところの素晴らしいーーつまり超危険な依存物に手を出しているらしい。それはエラい人はみ~んなやっていて、男が繋げて作っている鉄の塊とはまた違うものをつくって、世界を回しているのだという。
残念ながらこの放送を聞いている男のような者たちは、その機能を生まれた時に強制的に除去されているという。
しかし、ニンゲンカンケーさえ体験すればみんなも考えを変える、広い世界に関わっていけるし、今作っているものよりもっと意味のあるものを作っていくことが出来る、と彼らは力説した。
重度のニンゲンカンケー中毒者の妄言を誰が信じるというのだろう、と男は笑ってしまった。
たとえそれが本当だったとしても、リスクを負ってまでニンゲンカンケーを体験したいとは思わない。なぜなら、それが禁止されているものだからだ。
エラい人がみんなニンゲンカンケーをやってるなんて根拠のないデタラメだ。それにたとえそうだったとしても、男の生きる空間を与えてくれているのはエラい人々だから文句なんて言えない。
だいたい中毒者たちはあの映像を見ていないのだろうか?レンアイに手を出すだけであそこまで我を忘れて人殺しまでしてしまうようなリスクがあるのに、どうしてやろうと思う?ニンゲンカンケーがどれほどの幸せをもたらそうが、あんな風になってしまうならやらない方がマシではないか。
男は自分の人生に満足している。
「やらなくて生きているなら、やらなくてもいいんだ」
男には仕事と、部屋と、ほんの少しの心の潤いがある。「今日もお疲れ様でした」
テレビからは、優しいコエが聞こえる。人生はこれで充分なのだ。
男は今日も善良な市民だった。
終