街灯の下、降り積もる白に君は何を思う。
降り積もる白に君は何を見る?
世界に何を願う?
息が凍るような夜。
瞬きを繰り返す街灯の下に佇む少女。
その姿を見て、思いっきり眉を潜めた。
「そのままだと死ぬぞ。そこのお前だ。おい、香坂」
名前を呼ばれやっとこちらに顔を向けた香坂は、俺に気づいて薄く笑った。肩口に切り揃えられた黒髪が、電灯の下で濡れたように光る。
「人はそう簡単には死なないよ。意外と浅はかなんだね、矢野くん」
「こんばんは、とかないのか」
「むしろ、始めましてに近いよね」
「……否定はしない」
吐き出した言葉が白かった。
俺には香坂と話した記憶がほとんどない。今が昼間で、人がいれば、俺は見て見ぬふりで逃げただろう。
それぐらいの知り合い。それぐらいの仲。多分、向こうもそんな位置付け。
無意識にジャケットの前を掻き合わせる。今日は本当に寒い。
それなのに香坂は黒い膝丈のワンピースを着ただけの姿で、こんな真夜中に一人きりで立っている。
マフラーも手袋も、そしてコートもなしで。
思いつくままに口を開く。
「家出か?」
「その発想、なんか素敵だね」
「はずれなら、はずれって言えよ」
楽しそうな反応にしばし呆れる。
寒さで香坂の頬が赤く染まっているせいか、まるで幼い子供の相手をしている気分になって困る。
香坂は肩を竦めて言う。
「ほんとは素敵なことなんて何にもない。ただの散歩だよ。矢野くんは?」
「俺も散歩だ」
呆気ないネタばらしに目を丸くする。同時に同じ目的であることにも驚いた。そして、それは向こうも同じらしかった。
どんな表情を浮かべればいいのか、少し困ったように香坂は遠慮がちに俺を見つめた。
「星空でも見たくて散歩ってことかな? 矢野くんって結構なロマンチスト?」
「なわけあるか」
むっとして言い返せば、香坂は肩を震わせて笑う。
ぎこちなかった空気が少しだけ緩んで、気づかずに肩に入っていた力が自然と抜ける。
口元に当てられた手が赤いことに気がついて、手袋を外して差し出す。
「なんで手袋してこない」
「すぐに帰るつもりだったからね」
「香坂も意外と浅はかだな」
さっきの台詞をお返ししてから、受け取らない手に無理やり手袋を握らせる。一瞬だけ触れた手が氷のように凍えていた。一体どれくらいここに立っていたのだろう。
ごめんね、ありがとうと笑ってから、香坂は両手に嵌めた手袋をまじまじと見つめる。
「赤いね」
「暖かい色のほうがいいだろ」
「だから、マフラーも赤いの?」
「あぁ」
「でも、赤いマフラーって」
唐突に香坂が言葉を切った。
脈絡なく落ちた沈黙に、ここが寒空の下であることを自覚させられる。
雲が流れて、月を隠す。そうして、香坂の表情を見えなくさせていく。
彼女は囁くように言った。
「まるで、首から血が出てるみたい」
雲に隠された月から光はささない。
表情の見えない声が先を続ける。
「そしたら、私の手は血まみれみたい?」
香坂が手袋を嵌めた両手を俺の首に伸ばす。それを無感動に見つめたまま問う。
「何? 香坂は、俺を殺したいの」
問いに問いを重ねる。
香坂の手が止まり、月光が帰ってくる。
月が覗き込んだ彼女の表情は、どこか泣き笑いに似ていた。
俺の顔を見て、香坂は緩慢に手を下ろす。
「私なんて、凍え死んでしまえばいいよ」
ゆるゆると首を振って、不意に零されたのは呪い。瞳に揺れる色は絶望に似た黒。
「……なんで、そんなこと俺に言うの?」
尋ねる声はわずかも感情を含んでいなかった。自分にこんな無機質な声が出せるなんて知らなかった。
香坂は目を細めて、儚く微笑む。
「矢野くんは私が明日、自殺しても事故で死んでも泣かなそうだから。冷たいって非難してるわけでも、ひがんでるわけでもなくて。ただ純粋にそう思ったから」
俺は何も言わなかった。
指先が冷たい。指先から広がる凍えに心臓が震える。
赤い両手を胸の前で痛いぐらいに握りしめて、香坂が懺悔のようにか細く呟く。
「だって、きっと私も君が明日死んでだとしても泣かない。きっと泣けない」
月の光は冷たく凍えて、瞬く街灯の下、俯く香坂の肩は震えていて。
こうして言葉を交わすのは初めてに近いのに、さっきまで世間話をしていたはずなのに、今の会話はまるでどこかの悲劇の舞台のようだ。
俺は香坂がこの世界からいなくなっても、泣かないのだろうか。
確かに泣けないかもしれない。
ただ――――
吐息が零れて、心臓が寒さに震える。
その寒さが体に刻まれていくのを感じながら、気づけば俺は口を開いていた。
「俺は、きっとただ悲しいって思うよ」
こんな話をしたことを思い出して。凍えるような夜に過ごした時間を思い返して。
必ず、交わした言葉を、表情を、その生きていた香坂を思い出す。
俺の一言に、香坂が弾かれたように顔を上げる。途端に、交わった視線が泣き出すように歪んだ。
「そんなのずるい……矢野くんは悲しいなんて思わないよ」
「……俺にもあるよ。本物の悩み、友人とか近い奴じゃなくて、どうでもいい見知らぬ奴に打ち明けること」
それは多分卑怯なことだ。相手が普段の自分を知らないからこそ口に出来てしまう文字の羅列。信頼を裏切るようで親友にも言えないことを聞いてくれる関わりのない人。
無関心で無関係な一度きりの聞き手。
香坂が泣きそうに唇をわななかせる。
「それを分かってるなら、尚更にひどい」
「ひどくもずるくもない」
「なら、悲しいなんて言わないで」
音もなく頬を滑り落ちる涙。
暖かいその温度も今の香坂には、きっとわからない。
「何があった?」
問うことに多少は迷いがあった。でも、多分尋ねれば答えてくれる。それがわかったから聞いた。
香坂は再び俯いて、暗闇に雫を落とす。
そして、しばらくしてそっと呟いた。
「矢野くんって、思ったより変な人だね」
「香坂もな」
「それと、負けず嫌い」
香坂は顔を上げると、苦笑を浮かべた。小さく息を吐いて、続ける。
「言い出したのは矢野くんだから、ちゃんと聞いてね」
吐息も凍るほど、冷たい夜闇の中で彼女は俺に微笑んだ。
「――――私、人を殺したの」
一瞬で世界が凍り付いた。
「香坂……?」
「驚くよね。至極当たり前、至って正常な反応だよ。ちなみにこの黒いワンピースは喪服なの」
ワンピースの裾を持って、香坂がその場でくるりと回る。芝居がかったその仕種は俺をさらに困惑させた。
「誰がコマドリ殺したか。私が拒絶したから死んだ」
歌うように紡がれた告白。
彼女は悲劇を歌う鳥のように続ける。
「雪が見たいだけなのに、私と見たいだけなのに。言ってコマドリ死んでった。赤い血、赤い血、喉からこぽり」
「香坂っ」
思わずその肩を掴む。華奢な細い肩から震えがそのまま伝わる。
途端に香坂が大粒の涙を溢れさせた。顔を歪めて、嗚咽混じりに短く叫ぶ。
「私が拒絶しなきゃ、死ななかった……! 私が殺した、私が……っ」
「コマドリって」
「…………私の親友、だよ」
また月が陰って、俺は言葉をなくす。
冬の夜は冷たくて、優しさなんて温もりなんてどこを探してもなくて。肩を掴んだ手は一歩後ずさった香坂に解かれる。
凍える夜空の下、香坂は一人で肩を抱くように佇む。
声をかける前のように、香坂は一人きりで暗闇の中に立つ。
長い沈黙が凍てついた肌をさした。
「私の親友は、」
香坂がひそやかに口火を切った。
頬を濡らした涙が、街灯に光る。
「病気だったの」
その時の言葉を今でも覚えている。
治らないのだと、彼女の母親が言った。
仲良くしてくれてありがとう。辛いのならもう会いに来なくていいのよ。今まで本当に娘を見舞ってくれてありがとう。
ちょうど桜が満開のころだった。
呼び出された病院内のカフェテリアで、赤く腫れた目で優しく笑う彼女の母親。
本当なのだと、黒い絶望が胸を貫いた。
駆け抜けていった彼女との記憶の前に、動けなくなった。
気づけば涙が零れていた。
嫌です。離れるなんて嫌です。傍にいたいんです。お願いします、お願いします、お願いします。
机に額をつけてただただ泣いた。
お願いします、あの子の傍にいさせてください。
雪、見たいね。彼女がそう笑った。
沢山のチューブに繋がれ、ベッドに横たわったままの彼女に私は口を尖らせた。
雪なんて寒いだけだよ。私は好きじゃない。
私たちの街にはめったに雪が降らない。その気象現象はテレビの中の事のように私たちにとってどこかフィクションじみている。
それはきっと内陸に住む人が海を見たことがないことに似ている。
憧れることはどこか綺麗な心で、けれど本当に見てしまったらそれは綺麗なだけではきっとないのだと思った。
――でも、綺麗じゃない。わたしは大好きよ。一緒に見たいな。
秋だった。その日は紅葉が色づく秋の日だった。
すでに宣告された彼女の余命は一ヶ月を切っていた。
――約束よ。一緒に見ようね。きっと好きになるから。
向けられた笑顔に、あの時の私はちゃんと笑い返せていただろうか。
目覚める回数は日に日に減り、私は眠る彼女の隣でただ座っていた。時折、目を覚ますものの、彼女と満足に言葉を交わせることはなくなっていった。
本当は死んだように眠る彼女をもう見ていたくなかった。
それでも、目を背けた瞬間に、その恐ろしい瞬間が訪れてしまったらと思うと動けなくなった。
巡りくる一日一日を愛おしいと思えなかった。
ただただ明日が来ることに、目覚めることに怯えた。
朝、目が覚めて天井を見るたびに怖かった。
彼女がまだこの世界にいると確かめずにはいられなかった。
心が緩慢に死んでいく感覚を抱え、疲弊した心が感情を殺しても、機械のようにそれでも白い部屋に通い続けた。それは、きっと執着に似ていた。
けれど、初雪が降った日。
――あ、おはよう。
ドアを開けた私に彼女が笑いかけた。
夢を見ていない瞳が確かに私を捕らえた。
生きてると、その瞬間に感じた。
泣き出したくなるような衝撃に、感情が揺さぶられてうまく息ができなくなった。
死なないでと、生きていてと、笑っていてと、一緒にいてと、叫びたかった。
運動は少し苦手で、でもいつも一生懸命に頑張っていて、失敗しても困ったように笑って、また頑張って。
国語が良くできて、数学はちょっと苦手で、テスト勉強と称した喫茶店通いはいつの間にか女子会になっていて。
一緒に歩いた日々は、当たり前の優しさで続くと信じて疑わなくて。
病院に通っていると打ち明けられて、入院すると告げられて、それでも、大したことではないのだろうと、そう、思って。
私の親友である彼女に、どこかの哀しいベストセラーのような、そんな怖くて哀しいことが起こるなんて思わなかった。
微塵も、思わなかった。
けれど、やっと気づいた。
彼女を失うかもしれないのだと、見ないふりをしていた事実を、目覚めた彼女を前にして、やっと自覚した。
生きて、と言葉が零れそうになった。叫びたかった。
彼女に縋り付いて、今まで殺していた感情のままに誰かに懇願したかった。
けれど、次の瞬間、彼女の口にした言葉に私は立ちすくむ。
――雪を見に行こうよ。
衝撃に崩れそうになった。震える私をなおも彼女は促す。
――約束したでしょう。雪、見に行こう。
ベッドから起きだし、上着を羽織り、彼女が私の手をとる。
その瞬間に私の中で何かが弾けた。
ふざけないでっ!
反射的に振り払った手を胸の前で握りしめる。震える指に痛いほどに力が入った。
行かない! 雪なんて見に行かないっ!
その時の、彼女の顔を今でも覚えている。
綺麗な瞳が呆けたように私を見返して、その瞳の奥から無意識の痛みが溢れて。
はっとして、手を伸ばした。
けれど、私の口から謝罪がこぼれ落ちる前に、突然に彼女が苦しげに体をくの字に折った。
ごぽりと、ぞっとするような音。
彼女の喉から溢れた赤。
倒れていく彼女を呆然と見ていた。
そして、理解が追いついた瞬間に私は絶叫した。
「そして、彼女は死んだの」
香坂の顔から一切の表情が消え失せた。
冴え冴えとした月明かりが、白くその顔を照らし出す。
「私が拒絶したから」
彼女は死んだの――――風が凪いだ。
凍てついた夜が香坂の心を凍らせていく気がした。仮面のような顔で香坂は薄く口元に笑みを浮かべる。
「今夜がお葬式だったの。だから、この服は本当に喪服なんだ。不思議だね、人ってあんなに簡単に灰になっちゃうんだよ。でもね、灰って真っ白だと思ってたら薬を長く使ってると、病気のところだけ色が違うの。真っ白なお骨じゃないの。雪みたいに真っ白な灰じゃないんだよ」
「香坂、」
饒舌な語りの合間に静かに名を呼ぶ。香坂はふっと顔をあげ、俺と目を合わせるとにこりと笑った。
「ありがとうね、矢野くん。あたりなの、友達にこんな話したら引かれちゃうでしょ。だから、矢野くんならいいかなって思っちゃった。こんな話、聞いてくれてありがとう。あ、手袋もありがとうね」
えへへ、と照れたように香坂は俺の手に目を落とすと手袋を載せた。街灯が瞬いて、足元の影が表れ消え、また表れる。
俺の手に手袋を載せた手はしばらくそのままだったが、やがてそっと離れていく。
「じゃあ、もうそろそろ私は行かなきゃ。おやすみ、矢野くん」
離れていく手を掴ませたのはなんなのか、自分でもわからなかった。
「香坂」
けれども、気づけばその手を掴んでいた。赤い手袋が地面に落ちて闇に沈む。振り返った香坂の目は穏やかに俺を写した。
「どうしたの、矢野くん。寒いからもう帰らないとなんだけどな」
「死ぬつもりだろ」
知らずに口から零れた思いは、そのまま確信を連れてくる。だから今度は自分の意志で繰り返す。
「死ぬつもりだったんだろ、香坂」
「どうしてそう思うの?」
「質問に質問で返すな。答えろよ、香坂」
腕を強く掴んで促せば、香坂の浮かべた穏やかさが徐々に剥がれていった。月明かりが暴く香坂の表情はやるせないような困ったような笑みに似ていた。
ほう、と吐き出された息は香坂が確かに生きている目に見える証明なのに、まるでなにも詰まっていないように空っぽなまま白く空に溶けていく。
香坂は俺に掴まれた腕をぶらぶらと、その力具合をみるように振ってみせる。
「矢野くんってもっと淡白な人だと思ってた。こんなに踏み込んでくる人って思わなかったな」
「そうだってわかってたら、話さなかったか」
「うん」
悪びれもなく頷いて、香坂は少しだけ黙った。落ちる沈黙は冬の夜には似合いなほど、静かなのに悲しく残酷に優しい。
二人分の吐き出された白が街灯に照らされた冷たい空気の中で、何度も消えていく。
やがて、香坂が口を開いた。
「せかいは、優しくないね」
それは本当に息を吐くように自然な言葉だった。月並みな、それこそ誰もが一度は口にするようなそんなありふれていて使い古された、けれどなによりも純粋で嘘のない言葉だった。
「私、ずっと不思議なんだ。せかいはずっと前からここまで続いてて、それまでにたくさんの人が死んでるよね、同じだけ残された人もいるよね。それで残された人は後を追ったりもしたりするよね。でも、せかいがここまで続いてるってことは多くの人はそのまま生き続けてくってことだよね。そもそも大切な人って一人じゃないし、死なない人はいないし、そのたびに死んでたら、」
淡々と続いた言葉はふいに途切れて、俺の視線から逃げるように香坂は片方の手の甲で顔を隠した。
「困っちゃうな、自分が何を言いたいかよくわかんない……、ただ、私は大切な人が死んでも立ち直って生きていけるようになってるんだなってことが、そういうせかいが優しくて時々嫌になるんだ。でも、きっとそれはせかいの話じゃなくて、人だって生物だから種の繁栄が大事で、だからそういうことなんだよ。そういう当然のことが私には時々とても不思議で悲しい。私もあの子は心の中で生きてるなんて言って立ち直って生きてくの、それが、そんなことが、たったそれだけがとても怖い。前向きって、死んだ人の分まで頑張れって、なんなんだろう。なんなんだろう、私わかるよ。きっと数年もたてばこんな絶望も色褪せて私は笑って生きてくよ、あの子を拒絶して殺したのは私なのに、でも私が自分だけを責めるのはその方がそう思っている方が楽だからで、本当は病気で死んだんだってわかってるくせに……っ」
次第に熱を帯びた声は、最後に叫びになった。けれど、香坂は泣かなかった。泣かずに、絶望と恐怖がないまぜになった顔で震えていた。
「気持ち悪いよ、立ち直れるくらいならなんで傷つくの、いつまで悲しそうな顔をして、いつからその人の分も生きるって笑い始めればいいの、なんでみんなそんな簡単になんの疑問もなく同じ速度であの子の死を処理してくの、私みたいに不思議に思わないの? それともこんなことを考えてる私のほうが、こんなきっと無駄な、余分なことを考えてる、自分のことしか考えてない私の方が、あの子の死を悲しんでないってことなの? もう、だから、なら私、は……!」
「香坂っ」
手を離して、香坂の両肩を掴む。1人きりで震えていた香坂は俺を見て、俺に気づいて、壊れかけた人形のように首を傾ける。
「なん、で、矢野くんがそんな顔してるの……ずるいなぁ……」
「俺、どんな顔してる」
「なんか悲しすぎて苦しいみたいな、綺麗な海でひとり溺れて死んでいくみたいな顔、してるよ」
香坂の手が俺の頬に触れる。その手は氷のように温度がなく、固く強張っていた。さらに歪んだ俺の顔に、苦しそう、と香坂が声を零す。
「苦しそうでずるいなぁ……だって私はまだ笑えるだけの力があるよ。私、笑ってたの、大丈夫だよって笑ってたの、私は大丈夫だよって心配性のあの子に言いたくて伝えたくて笑ったの。だけどまだ駄目だったみたい、不謹慎だって怒鳴られちゃった、お前はこの子の親友だったくせに悲しくないのかって言われた時に、あぁ私そんなに大切な子が死んだのに笑えるだけの余裕があるんだって、なんかそれまで自分を作ってたものがみんな崩れちゃった……矢野くん……?」
気づけば抱きしめていた。苦しくて、ただ苦しくて、どうしていいかもわからなかった。
香坂はきっと悲しかった。苦しかった。痛かった。
きっと誰より余裕なんてなかった。それでも、笑ったのは死んだ彼女のことを安心させたくて、生者のエゴでもそんなことを考えないと自分を保てなかったからで。自分でも自覚できないぐらいに傷ついてボロボロになって、それでもギリギリで笑って、いろんなことを考えて、そんな自分を余裕があるなんて勘違いしてまた傷ついて、それでも踏みとどまっていたのに、剥き出しの心を同じ悲しみを抱えた人から傷つけられて。
その時にもう香坂は壊れる以外にどうすれば良かったのだろう。心を麻痺させてしまう以外にどうしたらよかったのだろう。
「どうして矢野くんが泣くの……?」
香坂、お前はなんて不器用で、滑稽で、鈍感だと、本当はそう笑い飛ばしたかった。熱くなる目頭を押しとどめるように目を閉じる。
「俺が泣いてる? 馬鹿か、そんなわけないだろ」
「見栄っ張りだね、矢野くん」
温度のない声で、香坂はそう言う。はじめと同じようなやり取りなのにそれはもうひどく遠いことに思えた。
「私、雪が憎いよ。降らなければいいと思ってた。雪が降る頃にはあの子が死んじゃうってわかってたから。だから雪なんか降らずにこのまま時間が止まればいいって思ってた。あの子が生きれるかわからない明日じゃなくて、生きている今日がずっとになればいいって思ってた、新しい思い出も何ももういらないから生きていてほしかった……でも、あの子は違ったんだよ、思い出を欲しがってた、だから雪を見たがってた、あの子自身には余命宣告はされてなかったのにわかってたのかな……」
「……その子はお前に雪を好きになってほしかったんじゃないのか。自分がいなくなった時、香坂が雪を嫌って生きていかないように、自分の死の象徴じゃなく、自分との思い出にしてほしかった」
俺の言葉に、香坂の体が震えた。大人しくなすがままに抱きしめられていた香坂が、その言葉を嫌がるように腕の中から逃げ出そうとする。
俺は香坂を逃がさないように抱きしめながら、その耳に言葉を落としていく。
「雪が降ったから死んだんじゃない、香坂が拒絶したから死んだんじゃない。その子は香坂に生きてほしいと思ってる、だから」
「やめてっ!」
香坂の叫びが夜闇を裂いた。めちゃくちゃに暴れて逃げ出そうとする香坂は痛みそのもので、だからそのまま抱きしめてなお口を開く。
「何にも知らない俺だから言う。その子は、香坂に雪を憎んでほしかったんじゃない、生きていてほしいにきまってる、それだけは、そのくらいは香坂もわかるだろっ」
「そんな、綺麗事にしないで! 私なんて凍え死んでしまえばいいっ」
その言葉に腕の力が抜けた瞬間に、強く体を押し返されて香坂の体が離れる。肩で息をしてこちらを鋭く睨む香坂の瞳には溢れそうな涙が光っていた。
あぁ、と思う。突き刺す視線は敵意じゃなく、傷つけられるという怯えだ。自分の傷つけられたくないものを守ろうとしているだけだ。
「香坂はさ、」
こうして話すのは初めてだったのに、もういったい何度名前を呼んだんだろう。そんなことを考えて、苦笑が零れる。
「俺にも雪を嫌いにさせたい?」
「え……?」
突然の疑問符に香坂は戸惑ったように眉を寄せた。言葉が届くならそれでいい。
「もし香坂が死んだら、この話を聞いた俺は雪が嫌いになるよ。冬が来るたび、雪が降るたび、こうして夜が来るたびにこの日を思い出して悲しいって思う。香坂の死を、香坂がその子の死を思うほどとはさすがに言えないけど、それでも悲しいって思うよ」
卑怯だと思った。でも、これは生きている者のエゴだ。
香坂は道を見失った子供のように寒空の下、立ち尽くす。その頬を涙が幾筋も伝っていく。
「そんな言い方、ずるいよ……なら私だけこんな思いを抱えてこれからずっと生きてくの……?」
「そう、生きればいい。生きていれば人はいつか死ぬよ。この気持ちから逃げたいから死にたいんだろ、でも俺に全て残して死にたくないなら、生きろよ。いつかみんな終わる。いつかお前のその悲しみにも憎しみにも終わりが来る。生きていればいつか死ねるよ。終わるから、優しい、そうだろ?」
何もかもがいつか終わると分かっているこのせかいは、だからやっぱり残酷だけれど優しい。
「おわるから、やさしい…………」
香坂はその言葉を繰り返して、音もなく泣いた。いくつもいくつも頬を流れていく涙は凍てついたものを溶かすように温かに、零れ落ちていった。
自分の上着とマフラーを震える香坂の肩に掛けてやる。そうすれば、香坂の喉から嗚咽が零れた。
それが収まるまで俺はおとなしく服の袖を掴まれていた。
何気なく見上げた空の星の多さに苦笑して、収まらない泣き声を聞きながら静かに目を閉ざした。
「矢野くん、ここまででいい」
泣き止んだ香坂を夜道は危ないと言って送ると申し出た。けれど、幾らか歩いたところでそう言われ、さすがに眉が寄った。
「危ないから家まで送る」
「いいの、もう家はここを折れてすぐ、だから。大丈夫、ちゃんと家に帰れる、から」
ぶり返した不安を簡単に見透かされ、その察しの良さに頭をかく。
「なら、いい。それより、その不自然な話し方なんだよ」
「……同級生の前で泣くとか恥ずかしかったので。あと急に距離を縮めすぎた気がするので、バランスとろうと思って」
「は?」
「今日のこと、忘れてくれていい、から。散歩の時に見た白昼夢、いえ夜闇夢とでも思ってください」
堅苦しくそう話す香坂に呆れる。泣いたからか、心は落ち着きを取り戻しはしたが、そのせいもあって常識が帰ってきてそのあたりが面倒くさいことになっている。
ため息をついて手袋も押し付ける。
「忘れないっての。俺はお前が死なないための保険なんだからな」
「……うん」
「なぁ、今度、話してくれよ」
「え?」
返された疑問符に、少しだけ目元を緩める。
「その、親友のこと」
驚いたように小さく息を呑む香坂の手に、手袋を握らせて少しだけ笑ってみせる。
「今度、俺に聞かせてくれ」
俯いた香坂は何も言わない。
それでも、もうこれ以上言葉を重ねる気はなかった。
この先は香坂の判断だ。
月明かりはさっきより優しい。
空気の凍るような冷たさは変わらない。
それでも、
「矢野くんって」
ぽつりと零されたその声音に、自然と頬が緩んだ。
顔を上げた香坂は柔らかく微笑む。
「本当にお節介で、予想外でびっくり」
「へぇ、まぁ優しいからって惚れるなよ」
「うん。それはないから安心して」
「そうはっきり言われると、少し複雑なんだが……」
笑顔の即答に、やや呆れれば香坂はくすくすと笑う。その表情に一瞬だけむっとして、けれどどこかほっとする。
やがて、笑いを収めた香坂はぴっと敬礼のまねをした。
「じゃあ、ここまで送ってくれてありがとう。本当にもうちゃんと帰れるから」
「あぁ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
ひらひらと手を振って、踵を返す。
離れる足音を背中越しに聞きながら、明日のことを思う。
明日、学校に行けば、香坂がいて、目が合えばきっと俺は声をかける。
香坂はきっと笑ってくれるだろう。
でも、それは香坂の中にある悲しみや、やるせなさがなくなったことにはならない。
これからも香坂は苦しくて哀しくて、きっと何度も泣くだろう。
今夜、俺が言ったことは香坂を救うことには決してならない。
香坂のために俺ができることなど、本当に話を聞くことくらいなのだ。
本当に、それくらいなのだ。
「――矢野くんっ!」
はっとして振り返れば、遠くからこちらをまっすぐと見る香坂がいて、
「私! きっと、まだ雪が怖いよ! あの子のこと、忘れたくないし、忘れられないし、痛くて、つらくて、何も言えなくなる! これからも、泣いて、憎んで、きっとぐちゃぐちゃになるっ!」
「……っ」
夜闇を切り裂くその叫びに、胸が張り裂けそうになった。
わかっている。こんな少しの時間がその痛みを癒すとは思わない。思えない。
そんなものは驕りで、彼女の痛みをこれっぽっちも理解していないことに過ぎない。
わかっている。
わかっている。
わかっていた。
それでも、少しでも彼女が笑って、少しでも優しく生きて行けたらと強く思った。
そう思ったんだ、確かに。
「香坂! 俺は!」
「ありがとう……ッ」
「……え?」
「ありがとう、矢野くん……っ」
香坂の声はその瞳のようにまっすぐと、言葉をなくした俺に届く。
ふわりと視界の隅に、白がよぎる。暗い空から、真っ白な雪が降ってくる。
「私、みんな嫌いになっちゃうところだった! こんな辛い思いするなら、もうみんななくなっちゃえばいいって思ったの! 大切にしてたものも、大切にしたかったことも、みんな! でも、みんなを消すことなんてできないから、それなら自分がいなくなっちゃえばいいって! 雪に殺されるなら、綺麗にいなくなれる気がしたの!」
空気を吸い込む音なんてこの距離では聞こえないはずなのに、それでも彼女が俺に何かを伝えるために息を吸ったのがわかった。
「上手く言えないけど、でも、だから、私はきっとこれからも正しいことなんてわからない。死ぬまでわからないかもしれない。でも、でもね!」
雪が降る。きっと香坂にだってこの景色は見えているはずで、それでも彼女は強く強く言葉を紡ぐ。
「こんな寒い夜に、たった一人の私の話を聞いてくれた君がいたから、私、きっと明日笑えるの。君に会わなくてもきっと明日笑ってただろうけど、違うの、きっとそれとは違う風に笑えるの。だから、ありがとう……!」
雪が降る。寒空の下、街灯が瞬く人のいない道の上。
凍えるほど冷たい世界で、俺の真っ赤なマフラーが彼女の首元で風に揺れている。暗闇に沈まず、雪にも紛れず、その色は確かにそこにあって、彼女によく似合うと場違いなことを思う。
血のようだと、称されたそれは暖かい色だ。
人の皮膚の下に流れる、温かい命の証明の色だ。
凍える指先の震えを留めて、手をあげる。
「そんなに叫んだら近所迷惑だっての! 言いたい事があんなら明日言えよ!」
咎めるような言葉を選んだのに、口元は情けなく震えて、それでも湧き上がる感情に柄にもなく泣きそうになった。
香坂はそんな俺を知ってか知らずか、しーっと口元に人差し指を押し当てて、それから小さく手を振った。
駆けていく背中は小さい。
揺れるマフラーが角を曲がり見えなくなる。
しんしんと降り始めた雪はきっと積もるだろう。
真っ白に染まった町並みに、香坂は明日、何を思うだろう。
何を、見るだろうか。
「聞かせて、くれよな」
見上げた空からは雪が降る。
白い、雪が降る。