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逃げたいだろう。本当だったら一刻も早く離れたいだろう。でもできない。自業自得の西月さんはひたすら、笑顔と裏腹のかしいだ格好で片岡くんに接していた。
──そうよ、最初から嫌いだったらはっきり言えばよかったのよ。
今のところとばっちりは飛んでこないので無視していた。
天羽くんがちらちらと西月さんと片岡くんの様子をうかがっているのが気になる程度だが、見てないことにしておけば大丈夫だ。今の自分にとって最優先の出来事といえば、昨日のデート……紡自身の解釈によればだが……以来、清坂さんとなかなか話ができないことくらいだった。いや、彼女が無視するわけではない。むしろ笑顔で挨拶だけは返してくれる。しかし
、「清坂さん、おはよう、あのね」
と声をかけたとたん、清坂さんの背後から例の幼馴染くんが登場して、
「おい、美里、早く教室に入れってんだろ!」
と文句を言う。決して紡には話し掛けない。とばっちりは来ないのでいいといえばいいのだろうが、紡としてはこの辺納得行かない。戦う気は、ある。
──なによ。人の恋路を邪魔する奴なんて。
憎まれ口を自分の中にこっそり叩いてみたけれども、むなしくなるのでやめておいた。どうせ高校に入ったらクラス分けが行われるはずだ。清坂さんもちゃんと青大附高に進学してくれれば、大丈夫、紡も接近するチャンスがくる。あのうすのろ評議委員長がいつまで清坂さんの彼氏でいるかはわからないが、元気はつらつ少年羽飛貴史くんの視界から離れることが、今の彼女には必要なはずだ。ちょっと過保護すぎる。
──清坂さんはね、おとななのよ。
大人じゃないのは、廊下脇の席で片岡くんと向かい合って話をしている、あの女子だ。
「だから、うん、ありがとう。でも私、これからやらなくちゃいけないことあるの」
──だからはっきりと、「近寄るな下着ドロ!」って怒鳴ればいいのよ。
紡には簡単な答えだった。
片岡くんの返事はぼそぼそしていて聞こえてこない。聞きたくもない。
「じゃあね、私、これから、行かなくちゃ」
頷いて見送っている片岡くん。想う相手が露骨に「近寄るな」とサインを送っていることに気が付かないのだろうか。男子はいつもそうだ。天羽くんも最初、紡の気のない態度にさっさとあきらめるかと想像していたんだが、ねばっこかった。脈がありそうだったらなんとかなるさ、と攻めるのが天羽流なのだろう。でも、片岡くんも同じことしているとするならば、一括して「男子ってねばっこい」と言い換えねばならなくなる。
ノートとカンペンケースを揃えて持ち、明らかな作り笑顔でもって、スカートを翻した西月さん。今日の髪型はずいぶん地味だった。ただでさえぽっちゃり型の顔に、さらにボリュームを増すような髪型は似合わない。天然パーマがかかった感じのおかっぱだった。あれを可愛いという男子もいたらしい……かつての天羽くんのごとく……が、紡の美意識では耐え難い、湿気を感じる。ああいう子は割烹着を着ている方がお似合いなのだ。
──ああいう女子が大人になって、うちの親みたいに、みっともないデザインの服を縫ったり、引き出物にお赤飯を押し付けたりするのよ。
たぶん、母もああいう女子中学生だったのだろう。
昼休みも終り、本日は五時間目がロングホームルームに割り当てられていた。特別に何をするというわけでもない。ただ担任が評議委員ふたりに任せて、それなりの議題を提出し、話し合ってもらうという奴だ。そろそろ修学旅行の準備もしなくてはならないのだけれども、天羽くんに任せきりのため、紡は何にも把握していない。あとで清坂さんに教えてもらうつもりではいる。それなりに、評議委員としての自覚はあるのだ。自分に必要な部分だけ。
「天羽くん、どうするの」
今日のテーマなんて知らないよ、とつぶやいた。
「やることなんて私、面倒見られないから」
「近江ちゃんに手間は取らせねえよ。今日は俺が仕切る」
「仕切るって、まったくかっこつけちゃって。ま、いいけどね」
天羽くんはいつもそうだった、一年の時も、二年の時も。やることなさそうな顔をしながら、くだらないギャグをかましながら、きっちりと時間たっぷり、クラス運営にまつわるお話を盛り上げてくれた。団結力および若人特有の情熱に欠けるA組が、曲がりなりにも反発せず奴ここまでこれたのは、天羽くんのリーダーシップの賜物だろう。西月さんといちゃついていた頃は、女子の部を……紡を除く……無理やり盛り上げようと笑顔いっぱいで、意見を出させていたこともあった。うざったくて紡は窓の外を眺めていた。いつも指名されては
「別に、いいんじゃないですか」
と繰り返していたことを思い出した。
「きりっつ、れい、ちゃくせーき」
明るい声で号令をかける天羽くん。
号令も評議の仕事だが、この辺はみな天羽くんが代行してくれる。
咽が痛くなるようなことを無理にわりかんでやる必要もないので、そのままにしておいた。
「あの人」の表情は少しうつろだった。銀縁のめがねを取り、いきなりポケットからめがね拭きを取り出し、軽くレンズをぬぐった。素顔の担任。狩野皇人に戻る瞬間を、めったに見ることのない生徒連中が、軽くわっとざわめいた。めがねを長時間かけている人独特の、少し目が内に寄った顔。やぶにらみ。すぐにめがねをかけ直し、静かに顔を上げた。
「それでは、今日のロングホームルームは、一学期半ばに入ってから議題としてあげたいことをそれぞれが出していってください。評議委員にあとはお任せします」
──このやる気のなさは何?
おちゃらけ評議・天羽忠文でなければずっと沈黙が続いたであろうこの教室。誰が好き好んで発言するものか。同じくまかせっきり評議・近江紡は、背中斜め向こうにいる天羽くんに頷いてみせた。一緒に立って並ぶ。議題が決まったら適当に黒板に書き込む。それだけだ。次に担任の「あの人」をじっと見つめた。最近はお姉ちゃんを通して私生活情報を仕入れるだけにとどまっているが、たまに呼び止められて、「いつもありがとう」と声をかけられることがある。もちろん学校内では「近江さん」と呼ばれている。
「おまたせしやした! では本日の議題と参りましょうか、レディー・アンド・ジェントルマーン!」
相変わらず軽く切り出す天羽くん。げんこつでこんこんと教卓を叩いた。いきなり担任の方に首を回し、敬礼のポーズを取り、こっくりとうなづいた。担任も分かっているのだろう、無言で二回、目礼した。修学旅行を控えてなにかするんだろう。
「では、本日はちょっと特別バージョンA組篇ということで、司会・天羽忠文が仕切らせていただきやす。ほら、拍手が足りんぞ拍手が!」
──ここ演芸場じゃないんだから。
意味のないくだらなさが楽しいと感じるのは、紡もだんだん付き合いに慣れてきた証拠なのだろうか。笑いはしないけれども気持ちよく、長いチョークをつかんで斜に振り返った。クラスの連中もいつもの乗りだとわかっているのか、無理に盛り上がろうとはしない。男子連中の一部が、まばらな拍手をするだけだ。これも慣れの証拠である。
「よそのクラスはたぶん、修学旅行、なんだろうなあ。でも、うちで決めることったら、せいぜいしおり作りとグループ決めでしょうがってことで。まずはA組としての土台をきっちりと築きたいと思った次第でがんす。みなさん、本日は評議の俺がどんどん仕切らせていただきますんで、狩野先生、その点よろしく」
打ち合わせてあったのかどうかは謎だ。やはり静かに狩野先生……「あの人」は、天羽くんに合図し、座っている他の生徒たちに目を走らせていた。感情のない、凪いだまなざしだった。
ひとりだけ、うつむいたまま机を見つめている女子。
紡は教壇の上から一瞬だけ見下ろした。西月さんは顔を上げようとしなかった。
無関心なのはみな、自分たちに火の粉が飛んでくることを恐れているから。
男子たちが陰でなにやら話をしているのを紡は、見ない振りしてしっかと見ていた。
天羽くんがまたひとつ手を打ったに違いない。女子サイドからすれば、天羽くんの行動は汚いことこの上ないだろうが、紡には本音、当然、私も一緒、そう言いたいものばかりだった。
雨が降ったのに気温が妙に高い。湿気のひどい教室でブラウスの襟からかすかに汗が匂う。ひとり、ふたりではない。休み時間中体育館でバレーボールをやっていた男子たち、給食のカレールーを二杯おかわりして、食後に歯磨きもしない女子たちの口臭と。入り交じり、思わずむかつきそうになる。つばを無理に飲み込んだ。
「今だから言えることだが、男子諸君」
いきなり口調がきざっぽく切り替わった。へらへらしているように見えて、いきなり氷の表情を浮かべる天羽くんに紡は慣れていた。面白いところでもある。
「一年、六月末の出来事を、覚えているかな」
ぽぽんと片手で教卓を叩く。ハリセン持たせて漫談風にやっていただきたいところだった。派手な動作にも女子たちは期待したほどの反応はない。相変わらず西月さんがうなだれているのが目立つだけだ。男子たちがいきなり、わざとらしい咳をしているのは、声よりもしぐさでわかる。天羽波動はちゃんと伝わっているのだろう。
「女子諸君には返す返すも悪夢のあの事件、命名『一年A組下着ドロ事件』。結局犯人は曖昧なまま、俺たちもよくわけのわかんないまま、幕を閉じたわけである。いろいろ噂が飛び交う中、A組の内部では激しく荒れに荒れた。入学後しばらく、他のクラスのように『友情』なんてロマンチックなお言葉が似合わないA組になってしまったのも、また事実である」
「ある」のところを、少し間延び加減で唱えた。なんか変だが、天羽くんのアホ演技好きは三年間知れ渡っているのでA組連中にはそう受けない。天羽くんは狩野先生にちらっと視線を走らせ、もう一度礼をした。すんません、と聞こえてきそうだった。「あの人」も無表情ながら、天羽くんを静かに見上げた。おまかせ、って返事だろうか。
「もう過去だぜ過去、って片付けるつもりでいたし、俺もほんとはそれが一番だと思ってた。評議委員として、いろいろ噂やらなんやらを聞きつけてきたけれども、無理に煙を立てる必要もねえなとかんがえてきたからで、あーる」
──あんまりやりすぎるとギャグじゃなくなるよ。しつこい男のは受けないのにね。
紡はぼんやりと突っ立って、手をぶら下げたまま振り返った。チョークを置いた。
「今回、そろそろ修学旅行が迫ってきているこの頃でありますが、諸君」
目が合って、感じるものがあったのだろう。気取り口調からいつものおちゃらけに変わる。
「この際、思い切って腹を割って、話しましょうや。修学旅行ともなれば、いやおうなしにお互い嫌いな奴好きな奴、いろいろな奴と三泊四日、顔をつき合わせるし、そうなればバトルも繰り広げられること確実。旅行が始まる前にある程度、わだかまりって奴をお掃除しちゃいましょうってやつです。ということで、昨日、狩野先生に許可を貰って、天羽忠文一世一代のトークショーとなったわけでございます」
──二年までは毎日トークショーやってたくせに。
つっこみはしない。かすかに笑いを押える声が聞こえた。女子の方からだった。
「あの人」は何も言わず、頷かず、他の生徒たちに視線をさまよわせていた。きっとどうでもいいんだろう。評議委員に全てをまかせっきりにしているとこからして、いつもの無責任癖が出たに違いない。
天羽くんのトークは、おちゃらけモードと気取り屋モード、両方を取り混ぜさらに盛り上がっていった。ついていけないクラスの連中たちを無視していた。
「でです、諸君。A組において、どうしても人を信頼できなくなってしまった事件っていうのがさっき言った、『下着ドロ事件』です。今思えば俺もうらやまし、いや、やっぱりまずいよと思わなくもないのですがね、ですが、人間は反省する動物ってどっかの偉い先生も言ってます。罪を悔い改めれば、人生、大抵のことはやり直せます。女子も結局はパンツやブラジャーを買い替えることができただろうし」
ひそひそ、「サイテー、センスなさすぎ」と合いの手が。そりゃそうだ。天羽くんは最近女子受けが、諸般の事情で猛烈に悪くなっていることを自覚していない。明るい下ネタが受けない自分の立場をもっと認識してほしい。
「とにかく、この機会に一度すべてをご破算にしましょうってことで、今回こういう場を設けさせていただいたと、ま、そういうわけでがんす。ゆえに本日の内容はA組一同の秘密として、お口にチャックしてくださることを。諸君。よろしいですか。よろしいですね。OKですか、OKですね」
──誰も返事してないじゃない。どうせホームルーム終わったら一発でばれるわよ。
片岡くんの方を横目でちらりと見やった。紡だけではなく、教室中の連中がみな、かみそりの刃に近いまなざしで、ちょり、ちょりと眺めている。
「下着ドロ」という言葉が天羽くんから発せられた段階で、火がついた。
──西月さんと同じじゃないの。かっこうが。 両手を膝に乗せて、こぶしにして、ぐっとうつむいている。二人並べれば、お似合い一対だ。一番後ろの窓際で、目立たないように机を離しているのがよくわかった。女子たちもみな、片岡くんからは身を逸らすように机を斜めに配置しているのが、高いところから見下ろすと一目瞭然だった。
背をぴんと伸ばし、天羽くんは片手を腰にやった。
「さあ、立て、片岡。勝負だぞ」
意外だったのは、片岡くんがうつむきながらもしっかりと、天羽くんの言葉に答えて立ち上がったことだった。女子はもちろん、男子連中からも無視されている片岡くんだが、露骨にいじめられていないのは、意地でも媚びようとしないからだろう。パシリとしてこき使われてもしかたない「下着ドロ」だというのに、妙なところでプライドが高いらしい。当然、天羽くんの言葉にも素直に従うとは思えなかった。なのに、立った。ぐいと顎を引いて、黒板を見据えた。ついでに紡を射た。とどめに天羽くんと見詰め合った。西月さんでないのが悔しいだろうがそれはそれだ。
担任たる「あの人」が、言葉を発した。
「片岡くん、本当に、いいのですか」
──敬語使う相手かしらね。
答えが返ってくるとは思わなかったが、ちゃんと返事していた。
「はい」
かすかにひび割れた声だった。
「先生、俺に任せてくれって言っただろ、頼みまっせ」
それには答えず「あの人」はもう一度、椅子に腰掛け直した。白衣が相変わらず汚れていない、無機質な雰囲気だった。
「あとは片岡、お前の好きなように言えよ。俺は男だ、約束は守る。守らせる」
女子たちが無意識のうちに身体を斜めに傾ける。片岡くんが唇を結んだまま、まっすぐ正面を見据えたまま、前に進んできた。両手のこぶしを握り締めたままだった。真っ正面から片岡くんを観察すると、決して不細工ではないし、もっと女子受けしてもおかしくない感じの男子だと思った。道さえ誤らなければ。下着ドロなんかしてなければ。もしかしたら西月さんもあっさり乗り換えてくれたかもしれないのに。紡は近づいてくる片岡くんの邪魔にならないよう、教壇を降りた。一緒に隣り合った天羽くんは何も言わず、両腕を組んだまま、登る片岡くんを見つめていた。ところどころ声をかけた。
「片岡、これが最後のチャンスだぞ」
──なんだか、天羽くんも妙に湿気がこもる言い方するのね。
天気のせいだろう。きっとそうだ。 片岡くんは返事をしなかった。最初はうつむいていた。やがて意を決したのか、首を激しく振った。教室後ろの写生画一覧を眺めつつ、両手を平のまま教卓に置いた。
「すみません」
一言を発した後、唇をゆがませるようにしてもう一度、
「ごめんなさい」
紡は隣りの天羽くんを覗き込んだ。小さく、
「何、仕掛けたのよ」
「しっ!」
身動きせず、静止するだけ。
天羽くんの頬に、かなり膿んだにきびが増えているのを見つけた。くらべて片岡くんのつるんとした顔との差に驚いた。片岡くんは誰に話し掛けるでもなく、何度か唇をかみ締め、時折鼻を詰まらせるようにして、言葉を発し続けた。
「一年の、六月、あの時盗んだのは、僕です」
──なあにわかりきったこと今更。
「あの人」だけが妙にひきつった表情で片岡くんを見つめているだけだった。他の女子たちの中に広がった、ぐにゅっとした口元のゆがみを紡は見逃さなかった。男子たちの視線だけがなぜか、うつむき加減だった。誰もからかう奴はいなかった。
「なんで、あんなことしてしまったのか、僕は、今でもわからないです。けど、やってしまったことは、もう取り戻せない。それに」
突然、ブレザーの袖で目をぬぐった。
「僕は、人間として、最低なことまでしてしまいました」
──ああ、お金包んで事件をもみ消してもらったことね。
クラスの連中には初耳のことを、語り出した。 知っている紡はただ無言だ。
「捕まって、それで。ちゃんと、やったことを認めて、謝ればよかったって、今は思う。けど、できなかった。そんなことしたら、死ぬしかないって、思ってた。だから」
──自殺する度胸もないくせに、そう軽々と死ぬ死ぬいうのはおかしいわよ。
時折心でつっこみを入れながら紡は、斜め視線で眺めた。
「だから、ずっと今まで先生や、周りの人たちが隠してくれたことに甘えてました。クラスの人たちもみな、僕がしたこと、知っていることはわかっていたけど、ばれない限り、大丈夫だって、そう思ってました」
──安易よ。悪事千里を駆け抜けるって言うでしょうが。
また鼻をすすり上げて、今度は頬につたう涙をそのままにしていた。せっかく整っていた顔が台無しだ。不細工きわまりない「いじめられなかっただけましだって思ってたし、もうこの学校に居る価値なんてない、って思ってたし。だから、あきらめていたけど。けど、僕のことを、ひとりだけかばってくれる人がいたから、今は、その人のために」
空気に漂う湿った空気が水滴に変化し、背中に落ちた感触だった。
片岡くんはすっかり自分の言葉に酔っている。涙を流しながら、顔を崩しながら、全身をさらけ出しながら、この場で言うべきではない言葉を撒き散らしている。逆流したバキュームカーの吸い取りホースのようだった。
──天羽くん、ちょっとこれは何が目的よ。
女子たちがさらに口角をきゅっとあげては含み笑いをしている。ひとりだけ西月さんがうつむきながら、目を閉じている。男子たちの微妙な空気の揺らしあいが、この行動、計画的なものだったことを表している。紡に火の粉がかからなければ別にそれでもいいのだが、二日前に例の現場へ立ち合ったことがひっかかる。足下にゴム飛びの紐がひっかかってきたようだった。
「昨日、天羽から、これが最後のチャンスだって言われて、僕もそう思ったから、だから、ここではっきりと言います。僕は、あの時の犯人で、親に頼んで、もみ消してもらったし、僕のことをかばってくれた人を裏切ってしまったってことです。僕は、最低な奴です。許して、許してください」
人前憚らずぐすぐす音を立てながら、教卓に突っ伏した。紡と天羽くんの立ち位置から見ると、足は少し蟹股にした格好で、バランスを取っているようだ。腰を落としてただひたすら泣きじゃくる片岡くんの姿を、はたして西月さんはどう見ているのだろうか。多くの女子たちの反応ならば、すぐに答えが出る紡だが、西月さんについてはまだ想像がつかなかった。観察してみると、薄めを開けた風に、ちろっと覗き込んでいるようだが、顔は挙げていない。
「片岡、泣く前にもう一つ、言うべきこと、あるだろう」
さらにぬくもりがかった口調の天羽くん。すでに気分は「おとっつあん」だ。どことなく紡にはなじめない雰囲気をかもし出し、ちょっと離れたくなる。
答えようとしたのか、片岡くんはゆっくりと天羽くんに振り返り、また顔をゆがめてうなだれた。真向かい側で、腰を浮かしかけている「あの人」の白衣姿が意外で、紡はそちらにも気を取られた。
「ほら、先生呼んでるよ」
「これからだこれからだ」
一切無視された。むかついた。
片岡くんが、もう一度両袖で顔をぬぐった。猫みたいだった。
「あんなに、あんなに、西月さんが僕のことを、濡れ衣だってかばってくれたのに、信じてくれたっていうのに、僕は、僕は……西月さん、すみません、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
あとはもう言葉にならなかった。本当だったら外人みたく肩をすくめて、
「さ、早く目障りじゃないところに行ってよ」
とささやくところだろう。でも教室でそれはできない。名指しされた西月さんも、同じくおじぎ草状態でうなだれたままだった。「下着ドロ」に感謝され、それでもせっかくかばったのは意味がなかったのだと言われているんだから、言葉がないのも当然だろう。まったく、男子は勘違いをするものだ。誰がこんな茶番劇に感動なんてするものか。
──天羽くんなんでそんなに感動してるわけ。
隣りで肩を震わせているのは、腹抱えて笑いたいのをこらえているのではない。天羽くんも涙ぐんでいるってことが許せなかった。瞬間、思いっきりハリセンで頭をぶんなぐってやりたくなった。いきなりひっくと、酔っ払いのしゃっくりみたいなことしなくたっていいだろうに。しかも感動の漣は、なぜか席に付いている男子ほとんどに伝わっていたらしかった。下準備どのくらいしたのかは紡も知らない。ただ、
「片岡、良く言った! 男だぞ!」
「もう泣くな、もういい」
と掛け声が入るのはなぜなのか。あれも天羽くんの下ごしらえだろうか。もしかして、天羽くん泣き真似しているだけなんじゃないだろうか。そうであってほしかった。けど紡の目から見ても天羽くんは、本気で感動の涙をこぼしている。
「片岡、偉い、お前、ほんと偉いよ。つらかったよな。みじめだったよな。もういい、降りろ、戻れよ席に」
紡のことは全く無視したまま、天羽くんは教壇にもう一度あがり、片岡くんの肩を抱いた。身体を引き起こすようにして、少しだけ無理強いする感じで教卓から引き離した。もてあましている様子だったが、ポケットから真っ赤なハンカチを取り出して、
「ほら、鼻かめ」
と差し出した。首を振る片岡くんに、
「じゃあ、こっちだな」
とポケットティッシュを取り出した。男子なのに用意がいい。やっぱりこれ、仕掛けられた罠だ。女子たちのしらけた表情と、さらに斜めにかしいだ格好を気にしていない。、天羽くんは片岡くんの身体を抱くように席へ連れて行った。一番後ろの窓際へ連れて行った。
「あの人」の表情がこわばり、一瞬だけ天羽くんの背中を鋭いまなざしで見つめたのを、紡は読み取った。
──なによ、いきなりきつい目するなんて。
すぐに白衣の無機質な空気をまとって座りなおしたので、他の人には気付かれなかったかもしれない。
「以上だ、ってわけで、本日のロングホームルームは終わるってことで諸君。いいな。今日のことで片岡のことを叩いたり馬鹿にしたり、無視したりするのはやめにするんだ。俺たちは俺たちのやり方で片岡の罪を受け入れたし、あいつも二年間ずっと、苦しんできたってことがよっくわかったって奴だ。さってと、修学旅行も近いことだし、これでひとつのわだかまりってものは消えたってわけですぜ。諸君、いいですか。女子諸君にも告げる!」
──ああそっか。天羽くんのやたらかっこつけた口調ってどこから来たか、やっとわかったわ。
顔を真っ赤にして動かずにうつむいている西月さんは全く反応しなかった。
──これ、「奇岩城」の怪盗ルパンよ。おしゃれでロマンチストなルパンよ。
レイモンドだった西月さんも、かつての恋人の変調に気付いただろうか。
「あの人」だけがどうも納得行かないという顔でもって、天羽くんを側に呼び、何かを説明していたのは見た。しかし、いつもの元気でかつ滑らかな口調で言い訳をしゃべりつぶしているらしい。和やかに、
「じゃあ、先生、お疲れ様でした!」
と高らかに響かせ、教室を出ようとした。紡にも、
「じゃ、行こうぜ、近江ちゃん、これから評議委員会あるぜ」
──とりあえず言っておかなくちゃね。
哀れなレイモンドをちらっとあごでしゃくった後、紡も後ろに続いた。レイモンド西月さんの周りには、女子たちの身体で出来た柵が出来上がっていた。入っていけない「哀れみ」の連呼。紡には関係ないけれど、お付き合いで巻き込まれるのは大変だ。
とにかく、天羽くんには言っておかなくてはならないことがある。
脳天気天羽くんは、評議委員会の教室、三年D組を目指し、両手を振って歩き出した。 かなりご機嫌だった。
「どうしたのよ、天羽くんてば」 「これで、先生にも、俺の本気が伝わったらうれしいんだけどな」
「なによ、『俺の本気』って」 にんまりしながら立ち止まり、紡を指差し、
「狩野先生にも言っただろ、俺、ちゃんと片をつけるってな。どうでしょう近江ちゃん、試用期間のご感想は」
どうやら天羽くんは、紡に自分がいかなる方法で、西月さんとの関係にけりをつけたかを証明したかったらしい。けりをつけた、と思い込んでいるらしい。紡はため息をついた。
「片をつけるためにずいぶん大変なことしているよねえ」
「そりゃあ、愛ですよ、愛」
「けど、その『愛』が逆効果ってことも考えたことある?」
紡はブレザーの襟をつまみ、しばらくいじった。
「今日の片岡くんのことだけど」
「あ、それはここでは内緒だぜ」
「じゃあKくんのこと、でもいいわ。男子同士で口裏合わせて、感動ドラマをこしらえるのはいいのよ。どうせばればれなんだから。Kくんの過去がここではっきりするのはいいことだと思うし、私も天羽くんと同じ立場だったら、同じことしたわよ」
この辺りまでは笑顔で言う。
「そんなあ、近江ちゃあん、怒らんといてえ」
「別にいいのよ、私はどうでも。天羽くんってば、本当はKくんと西月さんを結ぶ『愛のキューピット』やるつもりだったんだろうなと思ったし。けどね」
一呼吸置いた。たぶん紡の読みは当たっているだろうと思いつつ。
「Kくんイメージアップ大作戦は男子に大受けだったかもしれないけど、女子は壊滅状態よ。悪いけど女子たちの流れは今、Kくんにも天羽くんにも険悪ムードよ」
「え、それはなんでざんしょ」
おちゃらけ口調のままでも、やっぱり納得行かない表情を続ける天羽くん。
「片岡くんと西月さんをくっつけたかったのはわかるわよ。私も応援したわよ。邪魔な人いなくなるし。でもね、女子たちにとって同じクラスに『下着ドロ』がいるなんてことは、耐え難いものよ。噂だと思われていた時ですら、そうだったのにね。犯人が堂々と認めちゃったわけでしょう。どうするの、もう女子、片岡くんに絶対近づかないと誓うわよ」
「それはないだろう! だってなあ、あいつ、自分のプライドを捨てて、懸命に謝ったんだぞ!」
怒号に近い。珍しく熱い。でも紡は慌てなかった。三年D組がまだ、ロングホームルームを長々とやっている……担任菱本先生のお説教が続いているらしい。声が響く……ので他の評議委員が続々と廊下に集まってきている。小声で窓際へ天羽くんを誘った。自然に指先が触れるように横並びになった。
「男子にとっては、自分の罪を認めてざんげすることがいいと思うんのもわからなくはないわよ。女子は違うのよ。女子は、気持ち悪い奴は永遠に気持ち悪い奴なの。嫌いな奴は永遠に嫌いなの。下着ドロは永遠に下着ドロなの。十年後にKくんが青潟で有名な社長になっていたとしても、女子の中では『中一の六月に下着ドロしたKくん』でしかないの。しかも人前で大泣きなんてしちゃったでしょう。男として情けない奴、ということでもう烙印押されてるわよ。ふんだりけったり。まず、女子だったらKくんに近づこうとは思わないでしょうね。きっと、あの人も」
「一度も悪いことやらかしたことない奴、いるわけないってのに。なんでそんな偉そうな態度取れるんだよ、女子の奴ら」
「仕方ないわよ。いわゆる、男女の差よ」
紡は軽く流してもうひとつ付け加えた。
「私はどうでもいいのよ。ただね、せっかくKくんと西月さんをくっつけたかったのだとしたら、見事にそれは失敗してしまったわよ。西月さんずっと、顔をあげなかったじゃない。Kくんのこっぱずかしい告白にも」
なおも食い下がる天羽くん。すでにおちゃらけ評議の色はない。
「けど、それでもさ、わかるよなあ。本気であやまってるのに」
「関係ないの、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。それが女子のお約束よ」
言うか言わぬか、一瞬迷ってしまったのが、紡としては不本意だった。
「それにね、天羽くん」
紡も小指で天羽くんを指差した。
「私も、飽きられたら西月さんみたいな扱いされるの、迷惑よ」
「な、そんなことどうしてだよ!」
怒鳴ったので、他の評議連中が振り返った。
「だってそうでしょ。二年間仲良くしていた相手からいきなり、友だち以下の扱いされたら、プライドずたずたよ。天羽くん、ずっと思っていたんだけど、私のどこがよくて、そんなにくっつきたがるわけ?」
「くっつきたがるって、いや、ほら、相性だよ相性」
言い訳しても心には響かない。紡は続けた。
「じゃあどうして、西月さんと二年間も付き合ってたわけ? 厳密にいうと二週間らしいけど、二年間友だちだったのがいきなり、憎しみ合う関係になるなんて、理由言える?」
静かに笑みを絶やさないよう心がけた。
「それは、そういう長い理由があってさ、けど近江ちゃんには話す必要、ねえだろ」
「話す必要はないわよ。ただ、私も一年後か一週間後、西月さんと同じ扱いをされないって保証がない限り、私は試用期間満了で終りにしたいのよ」
付け加えた。
「あ、でもね、それは付き合うかどうかってことであって、たまに演芸観にいったりするのはお付き合いするわよ。最近、天羽くんのおかげでテレビの演芸とか落語とか観るのが楽しくってね。そういう話をするのはOK、でも、それ以上はだめよ」
第三者に聞かれてもわからないように、軽い話題で色をつける。紡の言葉が流れるに従い、天羽くんの顔色がだんだん漂白されていくのを、面白く眺めた。ここまでまだ、西月さんには言われたことないんだろうか。罵られたことないんだろうか。そうだろう、罵るくらい根性のある女子に天羽くんだって、あくどいこと、できるわけがない。
「近江ちゃん、それ本気で言ってるのかよ!」
「そうよ、手っ取り早いのは、なんで西月さんとこういう闘いをする仲になっちゃったのかを教えてくれることじゃないかと思うけど。でも私に話す必要はないわよね。さ、教室開いたわよ、入りましょう」
天羽くんを引き連れ、紡は教壇近くに座っていた清坂さんに笑顔で手を振った。相変わらず、男子よりも女子の方が可愛く見えた。