7
あれから一週間、知らん振りを通した。答えは彼女の机、薔薇にあり。
みながくすくす笑いをこらえている。腹を押えている奴もいる。けげんに思い覗き込んでみると、数人の取り巻きが西月さんの机の上を指差して笑っているのが見えた。男女それぞれ混じっているけれども、ほとんどが女子。
放課後は委員会や部活の兼ね合いもあって、残っている人が多い。以前の紡だったらさっさと退散していたのだろうが、天羽くんひとりに修学旅行のしおりを押し付けるわけにもいかない。一瞥した後、さっさと席に戻った。教室でひとり、「悲しみよ、こんにちは」の文庫本をめくっていた。
みな、紡の性格を知っているから一切話しかけることもない。紡のコネも知っているから露骨に悪口言うこともない。
「いやあ、なんていうかさあ。笑っちゃうよねえ」
本人、西月さんはまだ戻ってきていなかった。「青大附中・他校交流サークル」消滅に伴い、西月さんの居場所がなくなりつつあるそうだが、その点担任がうまく手配してくれたらしかった。水鳥中学との交流会に参加はできないけれども、E組の手伝いはしてもらえるからとのことだった。名誉ある評議委員から一転、ただの困ったちゃん扱いされているのを哀れに思ってE組の手伝いをさせているのか、それとも当の本人がE組扱いされているのかその辺の事情はわからない。あまり追わない方がよさそうだ。地獄耳お姉ちゃんに聞けば一発なのだろうが、面倒なことに巻き込まれたくはなかった。
「これで一週間連続薔薇の花、よねえ」
「よく買ってくるよねえ、『彼』も」
「彼」の言葉にじっとりと意味を塗りつけて発音する女子たち。机の上には、一本の薔薇が薄いビニールに包まれて真横に寝せてあった。触れないようにして、指差した。
「小春ちゃんもいいかげん気付けばいいのにねえ。まだ信じ込んでいるみたいよ」
やはり銀色のアルミホイルで下を細く包んでいる。しわが少なめに見える。特徴ある包み方だった。
「けど、きっと小春ちゃん、天羽くんがくれたんだって信じてると思うよ。かわいそうだよ」
「いいかげん本当のこと、教えてあげたらどうかなあ。なんかこれだと、知ってる私たちもうそつきになっちゃうよ」
──本当のことってなんなのさ。
ついでにまた紡の方を見るのはやめてほしい。疲れた。ほんと。
噂の種となった天羽くんは用事があるとかで、一歩お先に教室を出た。紡とはあとで落ち合う約束をしていた。無理に一緒に帰らなくても困りはしないのだけど。天羽くんがいやなのだろう。合わせておいたほうが無難だ。
「きっとさあ、小春ちゃんは元の彼がくれたんだって信じてるんだよ。一年の頃言ってたもん。『好きな人に真っ赤な薔薇を貰うのが夢なの。それも一本ずつ、小野小町みたいな感じで、百日間通い詰めてもらうの。でも私、小野小町のように最後まで無視なんてしない。ちゃんと途中でOKすると思うわ』とか言ってたでしょ」
──うわあ、天羽くん露骨にいやな顔をしそうだわ。迷惑千番。 しつこい奴がだめな性格だってこと、気付かなかったのだろうか。二年間も。
「そうだねえ。だから昨日も喜んでたよ。きっと天羽くんが、こっそりよりを戻してくれるんじゃないかってずっとお祈りしてたって話してたからね」
「でもでも、それはありえないよだって」
そこでなぜ紡の方を見るのか。うっとおしいので教室を出ようかとも思ったが、天羽くんと待ち合わせている以上しかたない。黙って無視こいていればいい。
「あれだけ純粋に思ってるのになんで、天羽くんってばさあ」
「やめなよ聞こえちゃうよ」
──別にいいけど。
「あんなに性格いいのにね。小春ちゃん可哀想だよ」
──彼女のいい子ちゃん演技を読めないほどあなたたちは馬鹿なのね。
一応は聞こえていることをアピールしておいた方がいいだろう。次のページをめくると同時に、軽く咳払いをしておいた。
薔薇の花が連日、西月さんの机に置かれるようになり、まだ一週間しか経っていない。深草少将にはまだ早い。
朝、教室に入るなり、前から三番目、廊下から二列目の席に女子たちが集まっているのを毎日目にしていた。竹篭のように包まれている中には、西月さんがいた。座ったまま、小首をかしげて、銀色のアルミホイル部分を持ち、じっと見つめていた。周囲の女子たちがしゃべるのは、たった今紡が聞いていたことと同じだけど若干異なるのは、西月さんをかばおうとしていることくらいだろうか。目の前に張本人がいる以上本音は話せないだろう。
朝、西月さんが教室に入るや否や、ギャラリーから
「わあ、小春ちゃん、また薔薇の花だよ!」
とからかいの声がかかる。真っ赤になり首を振りながら西月さんは言い訳する。
「ち、違うってばあ。もう、誰かわかんないけど、きっとなんかのあまりよなんかの」
と意味不明な言葉でごまかす。
──なんで気付かないのかしら。
西月さんに想いをかけている男子あたりが、朝一番置いていったのではないかと女子たちは推理しあっていた。他のクラスか、他学年か。真相は闇の中だった。気になるのだったらこっそり朝一番で教室を張って犯人捕まえればいいのに、そういう手間のかかることをやりたがらない無関心さが、A組の特徴でもあった。
さっきの女子たちの口調によると薔薇の贈り主は尻尾を捕まれたらしい。
西月さんの思い込んでいる「元彼氏」ではないと、勘付いたらしい。
──あたりまえでしょうが。ばかみたい。
とっくの昔に紡は気付いていたことだけど、他の女子たち、男子たちの目は節穴だったってことだ。A組の連中は他人に無関心な奴が多いと感じてはいたが、なぜ気付かないのだろう。無関心というよりも、まぬけだ。
「でもさ、今のところは内緒にしとこうよね」
「男子がばらすよね、きっと。それまでほっといておいたほうがいいよ。小春ちゃん、事実を知ったらショック、大きいだろうなあ」
「そうよね。あとで、慰めてあげようね、そうだ、小春ちゃんってチョコパフェ好きだよね。みんなでお金出しあっておごってあげようよ!」
真っ赤な薔薇の花に目を留めつつ女子たちは連れ立って教室を出て行った。
居なくなったのを見て取って、男子のひとりが紡に近づいてきた。やはり評議委員を勤めるようになってからは、紡もとっつきやすい感じに映っているようだ。女子よりは楽だ。悪くはない。
「近江、お前本当のこと、知っていたりする?」
「本当かどうかわからないけれど、推理はしているわよ」
「そうなんだ、じゃあ、しばらくは黙っておいた方がいいってことか」
男子に秘密を守らせるのは難しい。けど、不利益だってことがわかれば素直に口をつぐむ。面倒に巻き込まれたくはなかろう?と意味をこめて答える。
「めんどうじゃない。またうるさいことになったら。静かなのが一番よ」
もう一ページ、ぱらりとめくった。
「天羽も知ってるんだろう?」
「さあ、私あまりそういう色っぽい話、しないから。私の好み知ってるからね」
意味ありげに笑ってみせると、男子も鼻を鳴らす。
「男子も女子も、どっちもOKかよ」
「選択範囲が広がっていいわよ。もてるかもよ」
やれやれとばかり首を大きく振って教室のドアを思いっきり開いて出て行った。評議委員に就任するにあたり、男子たちの前ではっきりと「私は男女どっちでもOKよ」と言い放って後、かえって紡に関心を持つ男子たちが増えてきたような気がした。天羽くんとなんとなく、付き合っていることが公認となって以来そうだった。全く無視されるよりは居心地よく、ぐちぐちくっつくかれるよりは気が楽な関係。そういうのが増えるなら大歓迎だった。
まだ何人か男子たちがたむろしている。委員会活動のからみもあるのだろうか。修学旅行用のパンフレットを広げては、あれやこれやとしゃべっている。面倒な行事だし、いやおうなく女子たちと合同で行動しなくてはならないが、自分で決められる分、西月さんと一緒にならないよう組めるのがうれしい。できれば他クラスの頭のいい子たちと一緒だったらベストなのだけど、そういうわけにもいかないらしい。 清坂さん誘えればラッキーなのに。残念だ。
西月さんの机周りから人がだんだん減っていった。最後までうろついていた男子たちも、たむろう理由がなくなったらしく、
「じゃあ、女子を襲うんじゃねえよ」
と明るく一声かけて出て行った。勘違いもいいとこだ。 誰だってOKってわけじゃない。
──私だって変態じゃないわよ。
本を閉じた。むやみに女子たちから話し掛けられないようにするための防御策であって、何度も読み返すのが楽しい本ではなかった。ハッピーエンドではない作品は、時間をかけてゆっくり読むものであって、時間つぶしに効果的ではない。かばんにしまいこみ、あらためて西月さんの机に近づいてみた。新品のつるつるした透明セロファンに包まれて、形のよい赤い薔薇が横たわっていた。
──朝に持ってきているんじゃないのね。これは、夕方教室に誰もいなくなってから、持ち込んでいるってわけね。なあんだ、そういうことか。
今日は五時間目の体育授業中を使い、こっそり「彼」が置いていったらしい。この辺、一週間の不気味な行動へのけりをつけたい、という答えのような気もする。 勘違いしている西月さんに、正真正銘の答えを出すようにするための。
──天羽くん遅いなあ。
教室を黙って一周した。廊下側に向いた耳の鼓膜を、敏感に震わせてみた。廊下を通る気配はほとんど感じられなかった。
小さく、ドアのノブをひねる音が聞こえた。
じっと扉の向こうから来る気配をこめかみで感じた。
片目で斜めに見上げると、戸口の隙間から男子の顔がのぞきこんでいた。三白眼のまなざしとぶつかり合った。
──やっぱり。
じっとりした雰囲気のまま現れたのは、片岡くんだった。すぐに目をそらして紡は窓のてかりを眺めた。目のぬめりをぬぐいたい、そんな気持ちだった。 想像していた通りだった。
周りの女子たちがあえて口にしなかった名前。
西月さんが想像していなかった名前。
紡だけは勘付いていた名前。
何も話す気なんてなかった。紡は自分の席へ戻った。もう一度文庫本を取り出した。
片岡くんも戸口側の席で手持ちぶたさに腰掛け、ぴくりともせず、机の上に目を落としていた。紡には一瞥だにしない。少しは観察する余裕を持つことができた。
──片岡くんもあんな事件を起こさなければ、もっと女子受けしただろうに。
ルックスも背格好もあのミルクキャンディー的評議委員長に瓜二つだった。顔かたちが似ている、というよりも、かもし出す雰囲気がどことなく、昔のお公卿様風だった。あくが抜けているのが立村評議委員長だとするならば、片岡くんの場合はほんのわずか、くせのあるにおいがする。柑橘系オーデコロンをつけているかいないかの差だろう。
立村評議委員長には
「なんだかあいつぼーっとしているよね。男か女かわかんない」
ですむことが、片岡くんには
「コロンを男のくせにつけて気持ち悪い」
と遠ざけられる。もっとも今の片岡くんは「下着ドロ」という汚名により、イメージにも容姿にも、どぶ臭さが漂っている。紡の好みではないけれども、片岡くんタイプを応援したがる女子だっていたはずだろう。立村委員長を思い続ける清坂さんのように。
片岡くんについては身から出た錆だし、同情する気はない。
さっさと紡に教室から出ていってもらいたいのだろうが、こちらだって都合がある。天羽くんと約束してしまったのが失敗だとつくづく思った。面倒だ。こう言う時、付き合ったことを後悔したくなる。せめて「寄席限定お付き合い」に契約を書きかえられないだろうか。
めったにない、真っ赤な夕暮れが空に満ちている。火事が起こりそうな、毒々しいくらい紫色の空だった。
「おーまったせいたしやした! 近江ちゃーん」
待ち人、天羽くんだった。ふたりっきりの緊迫感ある空気をあえて壊してくれるのが天羽くんのいいところだ。紡は軽く頷いてみせた。唇を一瞬だけゆがめ、遅い、と伝えてやった。
「もしかして待ちくたびれてた?」
「別に」
目で、片岡くんを見て、合図した。
「さっきからああよ」
「あっそか」
天羽くんの声にぴくりと反応した。振り返らなかったが、背筋をぴんと伸ばした。肩が四角くしまって見えた。ビタミン注入されたのか、と言いたいくらい、背がぴんと伸びていた。最後に天羽くんは西月さんの机を、紡の隣りから見下ろした。
「近江ちゃん、花好き?」
「嫌いじゃないわよ。私は百合が一番」
「あぶねえこと言うよなあ。せめてもっと激しく燃えろグラジオラスとか」
「なんでグラジオラスが激しいのよ」
やっぱり天羽くんのギャグ感覚はよくわからない。ただ、言葉が身体になじみつつある。いやではなくなる。燃えろグラジオラスってことだったら、あとで一輪、グラジオラスを買って帰ってもいい。
「じゃあ、がんばれよ。待ち人、そろそろ来るぜ」
片岡くんの肩に手をぽんと置き、床を軽く飛び上がるしぐさをした。
「早く行こうぜ」の合図をした。後、教室を出て行 こうとした。扉を開けた。とたん立ち止まらざるを得なかった。
西月さんが瞳を見開き、口をまあるく開けてで立っていた。
向かい合った天羽くんも、しっかり硬直していた。
確かに何かを口走ろうとしていたはずだ。だが言葉にならないのだろう。唇が震えていた。向かい合った二人はかつての恋人同士だったはず。再会の喜びとは遠い、ねばねばした動きが、遠目からもくっきりと映った。紡はスカートのポケットに、深く手をつっこみ、唇から息を吐いた。
近くの天羽くんには聞こえたらしい。ねばついたものが取れたように、さわやかに話し掛けた。
「ほら、待ってるぜ。薔薇の相手が」
──薔薇の相手?
二年三学期以降の憎憎しげな口調とは違う。二学期当時の、「小春ちゃん小春ちゃん」と声をかけていた頃に似ている、やわらかい響きが混じっていた。でもよそいきの部分は消えていない。そこだけ確認している自分に、ちょっと自分でも驚いた。
西月さんの顔には、天羽くんと紡を交互に見比べた時の奇妙な表情が入れ替わり、立ち代りしていた。天羽くんには餌欲しげに呼ぶ猫の眼を、紡には強い猫ににらまれてびくびくして伏せ耳しているような困った顔を。紡だけが冷静に眺めていると、さらにおどおどきょときょとしはじめた。最後にじっと見返している片岡くんに視線を向けた。最初にそっちを向け、と首根っこつかんで顔を向けてやりたかった。
「私を呼び出したの、天羽くんじゃなかったの? 」
あえて紡の前で尋ねるということは、おどつきながらもそれなりに勝負をかけようとしていることだろうか。ばかばかしい。相変わらず紡は変わらぬ視線で西月さんを見据えていた。にらまないけれども、全然びびっていないのだから、その辺は伝えておかねばならない。三人の額に何度も視線をぶつけ、とうとう天羽くんの顔正面に向かった。目をそらそうとする天羽くんを追いかけるように、声を出した。
「天羽くん、どういうこと。説明して」
力のない、か弱い口調だった。自信をすっかり失った女子の、ひよひよした言い方だ。どこかで見たことのあるこの言い方。うんざりしそうだ。
それにしてもなぜ逃げるのだろう。むしろ天羽くんの態度が目障りだった。もっときちんとしろ、と気合を入れてやりたいところだが、別にそこまでしたい相手でもない。
天羽くんを横目でにらんでやった。効果ありだ。うしろずさりして、観念したようにうなだれた。片岡くんにはっきりと顎で頷いてみせた。片岡くんは黙っている。一呼吸置いた後、天羽くんは西月さんに告げた。
「まあ、入れ。それからだ」
──あららん、どうしたのよ、この状態。
天羽くんの脇に立ち、血の気を失っていく西月さんの歩く様を眺めていた。机に薔薇が一輪、透明セロファンに包まれているのを確かめ、立ち止まった。背を向けたままうつむいている片岡くんの姿を目で追った。
「片岡、くん?」
かすかに声が聞こえる。
「まさか、これ、一週間、ずっと片岡くん、だったの?」
答えはなかった。片岡くんが立ち上がり、ゆっくりと振り返った。紡や天羽くんの方を見はしなかった。西月さんにじっと、ものいいたげに見つめ返した。
「どうして?」
ゆっくりと片岡くんは近づいてきた。教室の一番後ろに立っている西月さんに訴えるように、薔薇の花が置いてある机の脇に立ちつくした。その視線は薔薇の花へと落ち、片手で銀色のアルミホイル部分を握り締めた。あの持ち方、包丁もしくは体罰用の大きな三角定規を握るような手つきだった。ゆっくり、ゆっくり、薄紫の陽射しを背中に浴びるようにして近づいてきた。
「ほら、言いたかったんだろ。お前の、『女神さま』にさ」
不気味なほど、「彼氏彼女」の頃だった頃の響きに似ていた。
片岡くんはかすかに不快げな視線を天羽くんに投げた。心の動きを整えるように一度うつむき、ゆっくりと西月さんの顔を見上げた。
「これ、あげたかったんだ」
ようやく、搾り出すような声が聞こえた。片岡くんの生声を聴いたことはほとんどない。声変わりがとっくに終わっていたんだと、初めて知った。
「受け取ってほしいんだ」
首をかすかに振る西月さん。
「盗んだんじゃない、自分で買ったものだから」
「そ、そんなんじゃないの。私、これ、受け取れないよ。そんな高価なもの。私、薔薇、大好きよ。でもね」
「聞いた。薔薇の花、毎日、プレゼントしてほしいって、天羽から聞いた」
──天羽くん、いったい片岡くんに何吹き込んだ。
時と場合によっては面白い落語を聞いた時のように腹抱えて笑いこけたい。ああ、全くの茶番劇だ。
完全におびえきっていた。後ろに紡や天羽くんがいるからまだ立っているけれど本当は崩れ落ちて泣き喚きたいだろう。怪しいまなざしの片岡くんに薔薇の花を差し出されても、困るだけだろう。本当に差し出してほしかった相手は、今、紡の隣りで面白そうに眺めているのだから。
西月さんは自分でやらかしていたとんでもない勘違いを、どう受け止めているんだろうか。
ずっと本気で、天羽くんが持ってきてくれると信じきっていたなんて。深草少将が小野小町に通い詰めた九十九日の夜を、本気で夢見ていたおめでたい人だ。どこがどう繋がればそういう妄想に浸れるのだろう。一度振られた相手が、また気まぐれおこして再び告白してくるなんて、そんなことがまずあるだろうか。しかもクラスに付き合いをかけた相手がいるというのにだ。愚かもいいところ。現実を見て目を覚ませばいい。
──助け舟、ほしいよね。
ちょいと天羽くんの腕をひっぱってみた。ぎょっとするのはなんでだろう。ワイシャツのとこだけなのに。でも言いたいことは伝わったようだ。天羽くんはえへんと咳払いをした。片岡くんと西月さんが振り返った。
「わりい、つまりだなあ、そういうわけなんだ」
「そういうわけってどういうことなの。私、わからない。だって、なんで片岡くんがそんなことしなくちゃいけないの? ね、誰かに頼まれたの? 私、怒らないから」
しゃれにしようと懸命に言葉を尽くす西月さん。見ていていらいらしてきた。気持ち悪い汗がじんわりとにじんだ。
「素直に受け止めろよ。お前、前から片岡に優しくしてやってただろ?」
「優しくって」
怒りがほんの少し、こしょうひとふり、振りかけた程度か。必死に押えているのがびんびんと感じられる。天羽くんはすっかり落ち着きを取り戻していた。
「西月、受け止めてやれや。ほら片岡、お前も西月のことどうして好きか、言ってやれよ。一年の、あの時からだろ? 男子からもみなばればれだったんだって、わかってるだろ。この機会だ。誰もライバルいないんだ。安心して言っちまえ」
明らかに西月さんへの拒絶をこめた証拠に、紡の手を天羽くんは軽く触れてきた。別にそんなつもりでやったのではないのだけれども、紡はだまってされるままにしてきた。
「片岡はずっと、お前に惚れてたんだ。俺なんかよりも何千倍もな」
「そんな勝手に決め付けないでよ。片岡くんだって迷惑するよ。私なんかに」
遮ったのは片岡くんの、男になりきった声だった。
「迷惑なんか、しない。天羽の言う通り」
「片岡くん、なんでなの、だって私、片岡くんになにもしてないよ?」
指パッチンをしたのは天羽くんだ。片岡くんの言葉がさらに続いた。
「西月さんがいたから、僕はこの学校にいられた」
震えはなかった。嘘ではない証拠に、片岡くんは両手で銀色の部分を捧げ持つようにして、もう一度差し出した。
「ちゃんと俺のできること、するから、お願いします。付き合ってください」
「下着ドロ」の汚名さえなければ、ごくごく普通のお付き合い申し込み者の行動だろう。
もし天羽くんだったらきっと大喜びして受け取っていただろう。
西月さんは、ふかぶかと頭を下げた天羽くんの顔を覗き込もうとした。花は意地でも受け取りたくないそぶりをしていた。手を下げたまま何度も繰り返した。
「私、クラスの評議として当然のことしただけだよ。片岡くん、濡れ衣着せられただけなのに、そんなこと言われたって困るからって。それだけなのよ。そんな大げさに受け取らなくたって、いいじゃない。誰にそんなこと吹き込まれたの? 私、ちゃんと文句いうから」
評議委員時代の噛み付くようなうるささが感じられない。
西月さんは、息を整えもう一度尋ねた。
「片岡くん、今のことみんな嘘でしょう。嘘と言ってもいいのよ」
片岡くんは天羽くんを思いっきりにらみつけた。脈略のない視線に戸惑うかと思いきや、全く同様しない天羽くん。計算が働いているんではないだろうか。 やさしい瞳に戻り、片岡くんはきっぱりと答えた。
「本当。今のこと、嘘はひとつもない」
西月さんの逃げ場は完全に失われた。紡の目の前で、静かに天羽くんとの絆が断ち切れた瞬間だった。
紡の片手にはもうひとつの絆になりそうな指の温かみが届いている。お姉ちゃんとのキスとは違うけれども、気持ちはいい。指先を動かして、拒否していない証拠にそっと近づいた。
「近江ちゃんけっこう大胆?」
「別に、それより早く帰ろうよ」
修羅場に付き合う気ないし、巻き込まれるつもりもない。紡は立ち上がると天羽くんの肩を指先でつつき、さっさと廊下に出た。西月さんは止めなかった。ただじっと片岡くんの、真剣でいてどこか執念深そうなまなざしに凍り漬けされていた。
「どうでもいいんだけど、あれ、どういうことなの? まあ、天羽くんが話したくないなら別にいいんだけど、私も面倒なことに巻き込まれるのはごめんだから。身を守る程度には教えてほしいのよね」
とんでもない展開ではあったけれども、片岡くんが薔薇の花の贈り主であることくらいは気付いていたし、それなりに西月さん宛ての想いも見え隠れしているのであろうと予測はしていた。
もともと「下着ドロ」事件の犯人たる片岡くんをかばっているのがA組評議委員だった西月さんだけだったと考えれば、自然、想いを寄せるようになるのもおかしくないだろう。紡なりに先は読めた。
が、しかしだ。 今の時代、好きな人へ花を捧げるなんてこっぱずかしいことをことを、中学三年の男子がするだろうか?
一週間も、見せつけるような格好で花を机の上に置くなんてだ。
天羽くんがグラジオラスを紡にくれることはありうるかもしれないが、薔薇である。真っ赤な薔薇である。しかも一週間こっそり、机の上に残してきたわけである。
尋常じゃ考えられない。しかも相手は薔薇の花よりもその辺のタンポポがお似合いの西月さんではないか。お姉ちゃんに捧げるのならばまだわかるが、薔薇の方が受け取られたとたん絶望のあまり一気に散ってしまいそうではないか。
「近江ちゃん、俺も花買ってあげようかなあ」 「またまた話を逸らすんだから」
天羽くんは花屋をあちらこちら探すようなそぶりをした後、指差した。
「よっしと、リクエストは、白い百合だな」
「百合って知ってる? レズビアンの陰語だったりするのよ」
「じゃあ白じゃねえや、ピンクの百合だ!」
──ったく天羽くんのセンスって変だわ。
駆け出していった天羽くんを追わなかった。向こうはきっと期待しているんだろうが、あれだけ教室で待たせて、とんでもない茶番劇を見せ付けられた紡の立場も考えて欲しい。少し反省すればいいんだ。
ゆっくり歩きながら、紡は頭の中を整理してみた。
軽い口調で喋り捲る天羽くんだけど、聞かれたくないことにはギャグネタでごまかすテクニックを持っている。さすがの紡もそこまで割り込むことはできないだろう。自分と関係のないことだったらそれでもいい。天羽くんも自分で処理をしたいから、ファミレスでの交際申し込み時に話したのだろう。きっとそうなんだとは思う
。 紡の見た限り、西月さんはかなりショックを受けているようすだ。
薔薇の送り主を天羽くんだと思い込んでいたらしいからなおさらだろう。かなり舞い上がっていたという。よりを戻してくれるのではないかと、ささやかな夢を抱きしめていたのだという。
それを、当の天羽くんにぶっこわされ、しかも、贈り主が「下着ドロ」の片岡くんときた。紡からしたらそれでもいいじゃない、お似合いよ、と言ってやりたい。執念深い同士、くっつきあえば幸せじゃないかとも思う。しかし、やっとかないそうな夢に心ときめかせてきて、あっさりと打ち消された後、西月さんはどう壊れるだろうか。女子の場合……自分の場合もそうだが……あまりにも強い衝撃だと、相手か、もしくはその相手の恋人を憎んでしまうものだ。自分の経験からもそれはかなりの可能性として言えるだろう。 となると、もしかしたらだ。天羽くん憎しと思いつつ、とばっちりが自分にこないとも限らないではないか。もちろん、西月さんは女子として頭が悪いけれども、性格が腐っているわけではない。恨み心頭であろう紡にすら、他の女子たちの嫌がらせを押えるような行動を取っている。知らないわけではない。
「一度、近江さんに言ってやんなよ。人の彼氏とってしゃあしゃあとするんじゃないよって! もしあれだったら私が言ってやろうか!」
と。周りの単純な女子どもがわめいているのを知っている。でも、この一ヶ月一切、そういうことがなかったのは、元評議委員であるプライドで押えてくれたからに違いない。評議から降ろされたとたん、あっさりと身を引いて、一年の女子を面倒みる係として小さくまとまってくれているのものも評議委員の紡としては助かる。
一、二年のようにうるさくわめきたてなければ、西月さんは人畜無害だということが、この三ヶ月間身にしみた。好きにはなれないけれども、それなりにやっていくことはできるタイプの女子だった。
が、しかし。
今回、もしこのことが元の彼氏天羽くんの計画だとわかったら、恐ろしいことになるような気がしてならない。今の展開からすると、天羽くんはかなり手を変え品を変え、片岡くんに何かを吹き込んだらしい。もちろん西月さんと別れたことは、A組全員が知っているだろうし、片岡くんが西月さんへ片想いしていたのも確かなことだろう。まさか、天羽くんが昔の彼女を、せっかくだからということで片岡くんに斡旋した、ってことだろうか?
入らない本やテープなどを好意でプレゼント、というのならばわかるけれども、相手は女子だ。人間だ。紡が同じことされたら即座に席を立って縁を切る。西月さんもいまだに天羽くんへ未練ありありだってことを考えると、同じことを感じていてもおかしくはない。
別に紡にとってはどうでもいいことだ。ただ天羽くんとこれから一緒に「寄席」や「漫談」を楽しみに出かけたい気持ちがある以上、あまり足かせになるようなことは避けておきたい。天羽くんに事情を聞き出すことはできないにしても、紡が自分の情報ルートを使って確認しておいた方がいいのではないだろうか。わが身を守ることができるのは、親でも彼氏でもお姉ちゃんでもない。自分だけだ。
やっと追いついた。天羽くんがさっさと百合の花を三本、ピンク色のものを包んでくれるよう頼んでいた。この前片岡くんが買っていた花屋と違って、新聞でざくっとくるんで渡してくれた。
「どう? 俺なりのプレゼントは」
「センス、いいねえ、天羽くん。この前の指輪といい」
「大切にしてくれてるかなあ。学校にはしてこないけれど」 「ばかね。学校でうっかりしてきたら、修羅場よ修羅場」
「じゃあ修学旅行で」
「悪くないわね」
無理に話を持ち出すのもつまらない。まずはできることから始めよう。紡はネクタイを緩めた天羽くんに、ひょいと百合の花とキスさせてやろうとたくらんだ。受け取った百合の花を、パンチ代わりに鼻先へ突き出してやった。ぐえっとむせる天羽くんの背中を片手でさすりつつ、紡は決めた。
──明日、清坂さんに会おう。