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「紡ちゃん、今日は十時に一緒に来てもらいたいところがあります」
義理の妹にも関わらず、あさりの味噌汁をすすりながら敬語を遣って語りかけるのは「あの人」だ。結局帰ったのは午前様だったらしい。まさか天羽くんのうちで食事をご馳走になっていたのではないだろうか。その辺、確認したいところだったけれども、十二時以降おきてられない紡にはわからない。お姉ちゃんがいそいそとご飯をよそっていた。なんと、しっかり二杯おかわりしている。
「別に私関係ないし」
「関係あることです。天羽くんと話をする予定です」
「天羽くん?」
お姉ちゃんがすっとんきょうな声を上げた。
「セシルの彼氏のこと?」
「決め付けるのは早いわよそれは」
たしなめるように無表情に言い返した。
「紡ちゃんと同じ委員ということもあって、いろいろクラス運営について話したいことがあるそうですよ。紡ちゃん。今日は僕も付き合います。ゆっくり、今まで言いたかったことを話してくれればいいですよ」
「別に話すことはないです」
緑色の丸っこい箸をかみながら、紡は目を伏せたまま答えた。
「天羽くんも昨日話したし、学校で間に合うことではないんですか」
「いや、天羽くんの方からぜひに、とのご指名ですよ」
そっと上目遣いで様子をうかがってみる。お姉ちゃんの向かって左隣、学校に行くまではめがねをかけないのが習慣らしい。ずいぶん、なまっちょろくて細おもて。誰かに似ているような気がした。まゆ毛も薄い。ちゃんとまゆ墨つけてあげないとまずいじゃないだろうか、お姉ちゃん。運勢悪くなるって言っているし。 教師面なのか、それとも義理兄なのか。
──どうやら、後者の意識と見た。
唇にかすかな笑みを浮かべ、目が合った後こっくりと頷いた。
「終わったら、僕がお家までついていきます。ちゃんとかの子とも話のつじつま合わせておきますので、怒られないですむようにしますから、安心してください」
この人はもともと、べたべたした付き合いを好む人ではなさそうだった。お姉ちゃんの話を聞いていてもそう思う。親戚関連の付き合い……冠婚葬祭……ではあたりさわりのない言葉で挨拶をする程度。お酒を飲んでも全く乱れない。いつも話は聞き役に回り、要領よく途中で席を立っているという。つまりはクラスに対して取っている態度とみな同じということだろう。こういう地味で影の薄い人をなぜ、お見合いとはいえお姉ちゃんは選んでしまったのだろう。派手に遊んでも怒られないと踏んだからだろうか。そうとしか思えない。
「わかりました」
一言だけ答えると、紡は茶碗を台所に下げた。お姉ちゃんに任せておいたらきっと、洗物なんていつまでたってもしないだろうから、自分で洗剤つけてきゅっきゅと洗っておいた。
──いったい何考えてるんだろう。
天羽くんとどんな話をしたかによる。あのおちゃらけ少年は、はたして紡に付き合いをかけて旨、白状したのだろうか。一応は評議委員三年目だし、西月さんの問題もからんでいるから、普通の先生にだったら相談してもおかしくない。そう、D組の菱本先生のように、熱血漢で生徒のことばっかり考えているうっとおしい男だったら、きっと。
でも、「あの人」は「あの人」のままだ。
三年目、紡も目を凝らしてしっぽを捕まえようとしているけれども、全く見つからない。可もなく不可もなく、おだやかに話をし、将来について尋ね、たまに校則違反について諭す。その程度だ。球技大会で応援するわけでもない、ジャージも着ないで、いつも通りの白衣姿で結果報告をした後、
「よくがんばったね、ご苦労様」
とねぎらうにとどまる。
──クラスをこれからどうまとめるか、そして、どうごまかすか。
紡からしたら、西月さんが評議から降ろされた以上、暗黙の了解たる「A組縁故クラス」ということを無理に隠さないでもすむから、楽になるのではという気がした。天羽くんだって、確か遠縁に有名な書道家さんがいらして、その人が多額の寄付を行ったとかで……それ以前に書道って儲かるのか?と紡は疑問に思ったのだが……かなり入試時優遇してもらったはずである。「寄付金」これは縁故の中で一番利く。他にも音楽家、会社社長、作家、大学教授、医師、などなどいわゆる「エリート」と思われている層が両親のどちらかにいるということも聞いている。肩書きプラス、寄付金の額。
──みんなわかりきっていることじゃないの。
だったら無理に隠さないで開き直ることをお勧めしたい。
せっかく「エリート」の集まりと思われているのなら立場をとことん利用すればいい。紡としてははどうでもいいけれど、必死に「コネじゃないって証明してください」と騒がなくたっていい。どうせコネクラスとばれているのだったら、適度に手抜きして、適度に努力したふりをして通せばいい。ある程度の点数と、従順さ、それさえきっちりしておけば、高校、うまくすれば大学までエスカレーター式で進めるだろう。逃げではなく、チャンスをつかんだだけのこと。
ただし「コネ」問題は氷山の一角に過ぎないということも、紡にはよくわかっている。
問題は女子たちだ。自分たちが他のB〜D組連中と違うランク付けにあることを受け入れようとしない西月さんたち一同。あくまでも同じレベルの土俵に立って、勝負したいと訴える人々。うんざりだ。面倒だ。紡のようにいいかげんでいいじゃないの、と笑う人間がどうも目障りらしい。きっと西月さんは、評議降ろされた段階で懸命に訴えるだろう。コネクラスと呼ばせない、努力しなくちゃ!と。
──コネでいいじゃないの。そういう後ろ盾があるのは本当のこと。
昨夜、天羽くんと話をしていて思った。つくづく彼もうんざりしているのだという匂いがぷんぷんしていた。二年間も仲良くしていた女子に対してあそこまで嫌悪の情を催すとは、よっぽどべったりされるのががまんできなかったのだろう。けど男ってそういうものだ。
──となると、月曜以降、天羽くんがクラスで交際記者会見を行うってわけか。
どうでもいい。どうせ女子たちがまた文句をいいにやってくる程度。
これこそ、兄が担任という「後ろ盾」を使ってさらっと流せばいい。幸い紡は、多少女子たちにかみつかれようが、悪口言われようが、全然感じない性格なのだ。時間を浪費されるのと噛み付かれることが面倒なだけだ。
昨日と同じワンピースで行こうとしたら、お姉ちゃんに止められた。いなかっぽい、ピンクニットのアンサンブルと茶色のフレアスカートを手渡された。
「お母さんがぶち切れないように、最善の努力をしなくちゃだめよ。セシル」
ごもっとも。お姉ちゃん、やっぱり賢い。
黒い楕円形のポシェットだけ斜めかけした格好を鏡に映すと、なんだか中学生そのものだった。西月さんとかクラスの女子がしていても変でないように見えて、一気に重たくなった。似合わなさすぎる。服の柔らかい感じと、頭のさっぱり加減。バラエティ番組で大人が小学生の役をやるためにランドセルを背負っている、そんな感じだった。
「紡ちゃん、では、行こうか」
隣りの部屋で身支度した「あの人」は、めがねをしっかりかけていた。日曜なのに、やはりこの人はスーツが好きなのだろうか。少し黄土色がかったスーツに、白いワイシャツ、ネクタイはさすがにしていない。
「私もついていっちゃだめ?」
「だめだよ。今日はうちにいなさい」
柔らかい口調だが、うむを言わせない。お姉ちゃんがむくれて、自分の部屋に入ってしまった。戸が閉まる直前にもう一度顔を出し、
「私の顔、もっかい見たかったら、いつもの買ってきてよ!」
ばたんと今度こそ、きっちり閉めた。
──何買ってもらうんだろう。
痴話げんかなのか、それとも勝手にむくれたんだろうか。その辺、紡にはわからない。ただ、どう考えても「あの人」は怒っている風に見えなかった。苦笑いしつつ靴べらで艶やかな靴をはき、財布の所持を確認した。中身もちらっと覗いていた。お姉ちゃんの顔を見たいから、それを買ってくるつもりなのだろう。
朝十時過ぎると、近所の商店街も大型スーパーも店開きする。流行のメロディーをもこもこのBGMにして、街全体に流れた。時折きゅうっと雑音が空に響き渡った。春の青空の下、空気はほこりっぽかった。パンジーの鉢植えや、チューリップの花、時折曲がり角のところには花束が積み上げられた場所もあり。街路樹の周りはずいぶんと華やいでいた。
「どこで待ち合わせしているんですか」
「ほら、もう来ている。やはり早いな」
静かに微笑み、「あの人」は手を挙げた。合図をしたところ、馬がにんじん見つけた格好でダッシュして、坊主頭の誰かさんが駆けてきた。笑顔でいっぱい。天羽くんと「あの人」同士で、笑顔の交換をしているのが笑えた。
「昨日は、すんませんっした!」
「いや、こちらこそ、わざわざご馳走してくれてありがとう」
──ごちそう?
紡のことを忘れたような顔をして、しばし「あの人」と話続けている。昨夜はあれだけしつこくアプローチしてきたのを忘れたような顔してだった。どことなく、おなかのあたりがむずむずした。生理が近いせいかもしれない。
「では、今日はゆっくりできるところがいいですね。まだ十時で食事には早いから、ファミリーレストランあたりでゆっくり腰を据えましょうか」
──もう少しかっこいいとこの方がいいのに。
お姉ちゃんと一緒だったら「アルベンチーヌ」を断固お勧めしていたのに、残念なことである。大きく頷いて舌なめずりした天羽くんは、グリーンのスタジャンに手をつっこみ、ジーンズから小銭入れを出した。やっと紡の視線に気付いたらしい。
「あ、近江ちゃん、昨日、ごめんな」
「別にどうでもいいんだけど」
「ううんっと、うん、やっぱ、ごめんな」
──昨日盛り上がりすぎたから後悔してるんかしら。 まあそんなもんだろうと思っていたから、紡は顔色変えずに答えた。
「まあ夜は、思わぬ言葉を発する時だってあるものよ」
「思わぬ言葉って、え、俺なんか悪いこと言ったっけ?」
「覚えてないのね」
ほんの少しでも、天羽くんより多く考えていたとしたら、そっちの方が悔しい。紡はあまり話題をひっぱらず、顎で「あの人」をさした。
「今日、私に話したいことがあるって何? 昨日の落語のネタについてだったら、私まだ勉強中の身の上だから、話してもどうしようもないわよ」
「いや、あの、そういうわけじゃ」
「それになんで、『先生』付き添いなわけ」
「近江ちゃん、怒ってる?」
「別に怒ってなんかないけど」
──あんたがどういうことを「あの人」に話したかによるわね。
まあ、もし紡の想像していたことを話していたとしても、それほど腹を立てたりはしない。どうでもいい。さらりと流せばそれでいい。
天羽くんは小銭入れの中をなんどか覗き込むとため息を吐いた。
「ああ、金欠病」
「昨日使いすぎたからでしょ」
「それもこれも近江ちゃんのせいですって、おねえさん」
「木戸銭千二百円というのはなかなかね。ご招待いただきありがとうございます」
「違う、違うって」
先頭を歩いているのは「あの人」いつのまにかふたりっきりで語り合える環境を提供してくれているらしい。どうせファミリーレストランに到着したら、いやおうなしに三つ巴になるのだからありがたいことだ。
「これ、合うかなあ、ほいな」
何かを指でちょいちょい探している。小銭ではなさそうだ。
「あー、めっけ。はい、これでざんす」
──どこのネタだろうかしら。
紡の腕をつつき、手を出すようなしぐさをし、もう一度背広の背中が振り向かないのを確認した後、
「これ、ささやかながら、気持ちでございます。どうぞお納めくださいませ、おねーさん」
──だからどこがおねえさんなのよ。
天羽くんが紡の手の平に乗せたのは、白い透明ビーズと真珠風の大きめビーズが組み合わさった指輪だった。いわゆる「ビーズ細工」。クラスの女子たちの間ではやっているものだった。真珠に見立てたつやのあるビーズが二重の丸で包まれていて、一重のビーズで指をつつむ。色ビーズは一切使っていないので、遠めから観ると本物に見えるかもしれない。 きゃあ、可愛いとは意地でも言わない。紡は摘み上げ、左薬指にはめてみた。少しゆるめだけど手を振っても落ちるようなことはなさそうだ。細い針金を千切った後、少しちくっとするのが難だけど、なかなかいい。
「天羽くん、感謝。やろうと思えば一儲けできるわね」
「そうっすか? なかなかっすか?」
「女子こういうの好きよね。私もまんざらじゃないわ」
「近江ちゃんはあまりがちゃがちゃした派手目なもの好きじゃねえだろうな、って思ってまして」
へらへらと軽い雰囲気をかもし出そうとしているのが受ける。
「で、まさかと思うけれど、それでただ今金欠って奴?」
「いや、あの、厳密にいうと近江ちゃんのせいではないってことがいま判明した」
「はあ?」
よくわからないことを言う天羽くんである。
「いろいろな事情で、俺、ビーズ細工のキットを買わされてたんだなあ。これが」
「キットってことは、これ自作品?」
てっきり、近くの雑貨屋で三百円くらいのを買ったんだと思っていた。天羽くんは短い髪をかきながらにやにやした。
「そ、俺ってなかなか器用だろ?」
「ちゃんと粒も揃っているし、さすがよね」
風が足下を吹き抜け、スカートがめくれそうになった。押えて思わず、
「モンローウオークしそうだわ」
つぶやいた。
「あ、俺見たい」
──馬鹿か。
紡は肩をすくめて後、ファミリーレストランに到着するまで口を利かなかった。見せるんだったらこちらだって、代金取るってもんだ。
どうやら「あの人」……狩野皇人先生……はふたりを隅っこの一番落ち着ける席に誘い、とことんおしゃべりさせる心持らしい。
「三名様ですか?」
と、ウエートレスに尋ねられた時、
「できれば、あまり人気のないところがいいのですが。それと、禁煙で」
午前だとまだ、昼食を食べに来る連中もいない。いい席が空いている。というのが理由だという。
「さっすがあ、先生、あったまいい!」
それには答えず、「あの人」は紡を奥の窓際に座るよう指示し、真向かいに天羽くん、その隣りに自分が位置するように席を取った。
「とりあえずは飲み物を、好きなものを」
「あ、俺今日、金欠なんで」
「天羽くん、今日はね」
教室での表情と変わらず静かな笑みでもって、「あの人」は紡を見た後答えた。
「担任というよりも、紡ちゃんのお兄さんだと考えてほしい。だから、今日は僕がきちんとご馳走します。安心してください」
──あんたなんかと兄妹になんてなりたくない!
吐き出したいが、さすがにお姉ちゃんと二人きりでもない限り言えない。
「それでは、オレンジジュースと、レモンスカッシュと、あとウーロン茶を」
目と目を合わせ、天羽くんと紡は目を合わせずに窓べを眺めた。下の駐車場には、黒い車がたくさん入っている。なんだか結構いい車ばかりだ。
「この辺、慢性的にベンツが走っているのよね」
ひとりごとっぽくつぶやくと、やっぱり反応するのがひとり。
「ひええ、金持ち」
「天羽くんちも、ベンツかメルセゼス、持ってないの?」
「ただいま父ちゃん、免停中」
「ご愁傷様」
人には言いたくないことだっていろいろあるはずなのである。
ジュースが到着し、それなりに味わった後、男ふたりがいきなり目と目で意志疎通し始めた。こいつらテレパシー持っているんだろうか。妙ににやついている天羽くんと、相変わらず静かに頷くだけの「あの人」と。意味不明のテレパシー交換を終わらせた後、天羽くんはいきなり姿勢を正した。両手を膝の置いた。少し前かがみになった。
「さて」
「はあ」
「今日の本題と、入らせていただきやす」
「なんなりとどうぞ」
紡はまだストローをくわえたままでいた。
「つまりですな」
「はあ」
「なんだよ近江ちゃんその気のない返事。俺だって今日は」
「だって私、本題もなにも、今日なぜ天羽くんと二日連続して会わなければならないのか、話聞いていないわよ。そうですよね、先生」
いやみかもしれないが、実際そうなのだからしかたない。
「その本題は、これから天羽くんが話してくれますよ」
コーヒーを一口くらいしかすすっていない「あの人」は、これから天羽くんが何を話そうとしているか知っているのだろう。落ち着きはらっている。
「ということなら、話してくださいな」
「うっわー、このたるたる感、いったいなんだよお、近江ちゃん、これから一応は俺と評議委員をやっていくわけだからさ。三年A組の、いわゆる『コネ』の悲劇を背負った運命共同体として、がんばらなくっちゃ!ってな」 「別に、『コネ』の悲劇運命共同体ってこともないだろうけど」
──やっぱり、西月さんとの決裂はこの辺にあるのかな。
だんだんおもしろくなってきた。悪いがやはり、他人の不幸は蜜の味、なのである。
「いいわ、私、一度話聞いたら、たぶん忘れないと思うから、天羽くんの抱えてきた歴史の数々、教えてちょうだいよ」
咽に通るレモンスカッシュのすっぱさと炭酸のぴりぴり感。悪いけど、ストローはほとんど口から離さないまま、紡は頬杖をついた。礼儀知らず? そんなの知らない。お姉ちゃんと一緒の時は、いつもこうやっていたんだから。
「紡ちゃん、頬杖だけは止めた方がいいよ」
──ああ、わかってるってば。
返事をせず、意地でも口からストローを話さず、肘だけ下ろした。
天羽くんのお言葉はお笑いを意識しつつも、ゆっくり始まった。
「狩野先生もいることだから、この際ぶっちゃけたこと言っちまうとですねえ。一部において言われている『コネ』もとい『縁故』クラスであるわがA組、やたらといじいじしていることは認めなくちゃあなんないと、俺は思うわけっす。すんませんなあ」
何も言わず、笑顔で頷く目の前の人、ひとり。
「けど、仕込みの問題はもう問題なんで、どうでもいいっしょ、ってのが俺の見解でもあるわけです。とある人のおっしゃるように、コネ疑惑を晴らそうと騒げば騒ぐほど、俺たちのすねの傷がしくしく痛んでしまって、悪循環に陥らんとも限りません。で、俺としてはですねえ、近江ちゃん。相棒としてお願いしたいわけです」
「何を?」
軽く答えたのを了解と取ったらしく、天羽くんはにやにやしながらテーブルに近づいてきた。
「一緒に、『ほんとのことなんだからそんなのどうでもいいやん、ねえ、あんた』と夫婦漫才してほしいんですわ。まあ俺としてはぼけを、近江ちゃんには突っ込みを担当していただきたいんですが、如何でしょう」
「別に、ぼけもつっこみもできないけど、天羽くんの言うのはもっともよね」
もごもご口の中でレモン味をなめながら答えた。やる気なさげでも返事はちゃんとした。
「おお、賛成っすか! さっすがあ、近江ちゃん、あったまいい」
ナンバーワンの誉め言葉だ。紡はストローから唇を離した。
「今までの二年間というものの、俺も必死に、『うんこ』もとい『えんこ』入学って部分を隠しあってここまできたわけですが、よく考えりゃあ、みな多かれ少なかれ、そういう部分持ってますしなあ。今更隠したってどうすることもできねえし、近江ちゃんみたいにちゃんと努力して『ネコ』もとい『コネ』返上している人もいる。A組も、まんざら恥のクラスではないんでないかなあと俺は思うんですよね、先生」
困ったときにはコーヒーを飲んでごまかそうとするのか。「あの人」は。
「なんであの学校、露骨にそういうのが分かるようなクラス分けしたのか、謎よね」
──しかも、担任まで、義理の兄妹。組み合わせにするなんてね。
「先生、今の二年からはそうじゃないんでしょお」
返事をしたくないだろうが、コーヒーも無限にあるわけではない。
「いろいろ、事情を持っている人たちはいるけれども、ひとくくりに『コネ』というのは違うのではという気がしますよ、天羽くん」
「ってか、それしか言いようねえもん」
「天羽くんには、もっと、重要な相談があるのではないですか」 コーヒーカップの中を空にして、狩野先生……「あの人」はゆっくりと紡に視線を置いた。「クラスメイトに、自分のプライドを持つように促すのは悪いことではありません。ただ、誰もがそれを望んでいるわけでもないし、入学時の出来事を思い出すことによってさらに傷つく人も中にはいるのだ、ということを忘れないでほしいと思うのですが、いかがですか。すみません、コーヒーのお代わりをお願いします」
──これから今日何倍くらいコーヒー飲むつもりなんだろう。
紡は氷の部分がまるみえになったグラスを手から離した。
「重要な相談、やだなあ、先生ったら、もう、エッチ」
──理解できない。 とはいえわからなくても面白ければいい。女子でそういうところに達した子は、残念ながら、誰もいない。
「でですね、近江ちゃん、お兄さんからお許しも出たことだし、一席口上をつかまつりて候!」
「元ネタはどこから」
それには答えず、天羽くんは両手をテーブルに載せ、頭を下げ、ゆっくり上げた。真っ正面から見つめた。
「正々堂々、お付き合いさせてくださいませ、よろしゅうお願いもうしあげます!」
──昨日の続きかしら。
左手の薬指をちらりと見た。ビーズのにせ真珠がうすい影を持って光っていた。
「先生、これでいいっすか? 満足っすか?」
何度も言われていると、耳が麻痺してくる。赤くなるでもない、どきどきするでもない、ただため息ばっかりだ。
「だから何度も言ってるでしょ。私の好みはアブノーマルなんだから」
「それは承知のすけ。何度も俺も言ってるとおりっすよん」
「天羽くんも物好きよねえ」
「あの人」は顔がほころぶのを隠そうとしなかった。やっぱり、何か飲み物がほしくてメニューを手に取った。
「ジュースよりも、そろそろ何か食べようか」
──え、これも奢り?
顔を合わせてふたりで合図しあった。あらら、あっさりと目と目の意思疎通、できるもんじゃないか。やっぱり天羽くんは悪くない。
しかしながら、自分の……義理とはいえ……妹と、自分の教え子がいわゆるふつうの「お付き合い」をするということをだ。冷静に眺め、しかも応援するっていうのは、どういう神経しているんだろうか。あらためて紡は目の前の「あの人」の底知れなさを感じた。お姉ちゃんもお見合いの時、こんな気持ちになったんだろうか。今まだ、どうしてお姉ちゃんが「あの人」を選んだのか、メンタルの理由について全く聞き出していない。単なる「お見合いでしかたなく。自由がききそうな相手だったから」が表向きの声明だが、なんだかそれだけではなさそうな気がする。
「でも、担任の先生がいる以上、清く正しく美しいお付き合いよね」
しばらくは雑談にふけっていた。なんだか同じことばかり聞かされて、紡もいいかげん飽きてきた。まだ一時間くらいしか経っていないのに。メニューを決めるのも面倒なので、「あの人」に任せたところ、なんとハンバーグステーキのセットが出てきた。まだ朝ご飯も腹にもたれているのに、重たいったらない。少しずつ切り分けて食べた。
「清く正しいかどうかはわかりませんが、男子と女子が親しい友だちとなって話をするのはいいことですよ。紡ちゃん」
学校内では「近江さん」と呼ぶのが普通なのだが、「あの人」はそういうところが意外といいかげんだ。お姉ちゃんと一緒、もしくはこうやって「紡ちゃんのお兄さん」というのをアピールする時はおおっぴらに「紡ちゃん」なんだから、この人はどのへんで意識わけしているのだろうか。
「先生、中学の時ってこういうこと、してた?」
天羽くんの質問にも、笑って答えない。同じハンバーグステーキだが、消化が早い早い。あっという間に黒い皿がからっぽだ。残りのフライドポテトをわびしくフォークでつついている。途中でギブアップし、紡は皿を半分残したまま通路側にずらした。
「少しおなかがこなれたら、今度はデザートを考えておいてくださいね」
──ふとらせるつもりかしら。
全く、わからない。二年間観察してきて、ちっとも見えない「あの人」の本性が。
お姉ちゃんを結婚に踏み切らせた理由が。
「俺も腹いっぱい、うわー、食った食った」
「おなかがいっぱいになったら、もうひとつ話すことを考えてください、天羽くん」
まだ何かあるのだろうか、なんだかおなかが張って苦しくて、紡は斜めに体を流した。
続ける「あの人」の言葉は、なんだか三年A組の担任に戻ってきているようだった。
「今、紡ちゃんは『清く正しく』と言いました。いわゆる『清く正しく』とはいろいろあるでしょうが今はそういうことを考えないでもいいです。天羽くん、今、自分の中で、もし、迷いがあるのだったら今のうちに話をしておいた方がいいでしょう。もちろん今すぐではなくてもいいというのだったら、またあとでもいい。ただ、学校の中ではいろいろ差し障りのあることもあるだろうから、もしよければどうですか」
ゆっくり、染みるような言い方をした。
「学校で、かあ」
意味ありげな視線を送る天羽くん。また目と目で見詰め合っている。男同士、気持ち悪い。
「そうです。天羽くんにはもうひとつ、この前話してくれたことをしなくてはならないはずですよ。そうでないといつまでたっても、気持ちに陰が落ちたままですよ」 ──なによ、気持ちに陰って。いったい帰り道、何話してたんだか。
こういうとこだけ教師面されてもたまったもんではない。紡はもういちど頬杖をつきなおした。
「近江ちゃん、あのさ」
ゆっくりと、でもまっすぐに。
「俺、知っての通り、西月……さんと、付き合ってて別れた。で、その問題、まだ片付いてねえんだ」
「大変よね」
今までおちゃらけていた天羽くんとは思えないまなざしだった。紡の方から中和剤を混ぜてやりたくなるくらい、硬かった。
「これから、俺としてはきちんと、西月……さんにもちゃんと納得してもらえるような方法で、きちんと方をつける。俺なりに、人間らしく、きちんとまとめる。だから、近江ちゃん、俺」
──こういうことをそそのかしてたってわけか、「あの人」は。
「あの人」は三杯目のコーヒーを注文している。
「天羽忠文という男を、じっくりと見てやってください。コネもなんもない、ただの男として、どんな人間かってこと、判断して、それからOKなりばいばいなり、決めてもらえればいいっす」
「別に、そんな大げさなこと言わなくたって」
なんだか自分まで本気にならなくちゃいけない強制力が働きそう。いやだ、だから「あの人」が一緒にいるのはいやだったんだ。紡はついた肘をぐりぐりと回した。
「西月さんと、きれいに決着つける自信、あるの?」
やっぱり肘をついたまま話すのが苦痛だった。両手を絡めて紡も真っ正面で尋ねた。
「わかんねえ」
「無理に約束なんてしない方がいいわよ」
「けど、今、やり方は考えてるし、近江ちゃんにも迷惑かからないですみ、西月……さんもうまくいくって方法、計画してるんだ。だから、それまで待ってください」
「要は、私、いつも通り話していればいいってことよね。たまに落語聞きに行くくらいで」
「あ、そりゃあもう!」
かすかに鼻でふんふん息を吐いている「あの人」は、きりっと一目、紡に教師らしい一言を告げた。
「行く時は必ず、僕かお姉さんにひとこと、どこの独演会なのか、誰の勉強会なのか、それとも市民会館でたまにやる寄席なのか、それを告げてから行くようにしてください。でないと昨日のように大騒ぎになりますよ。紡ちゃんが言わなくても、できれば天羽くん、君からも」
──やっぱりこの人、変、わかんない。
コーヒーゼリーが三人分運ばれてくるのと同時だった。いつのまにか、勝手に注文終わっていた。
三時半過ぎにファミリーレストランを出た。あまり遅くなるのもまずいし、紡もこれから母の雷が落ちるのを覚悟しなくてはならないし、ということで、店の前で別れた。
「じゃあ、今度学校で詳しく。あ、それと、今日のことの記者会見は、俺ひとりでやっとくから安心な」
「別にいいのに」
さっぱりと手を振った後、紡は今度、「あの人」に向き直った。
「今日はご馳走様でした。あの、私ひとりで帰れます」
「いや、僕もこれから紡ちゃんのうちに用事があるんだ」
「なんですか」
いつものかすかな笑みと一緒に、ゆっくりと。
「『アルベルチーヌ』という喫茶店があるんだって? そこのチーズケーキが絶品なんだとかの子が話していた。買っていかなくてはならないんだ」
──なんで? この人ってば、『アルベルチーヌ』の存在、知ってたってわけ?
確かにケーキはどれもおいしい。女主人の手作りで、よくお姉ちゃんからフォークで食べさせてもらった。が、しかし。なぜ。『アルベルチーヌ』は、女性のみの恋語る場所のはず。なぜ、男である『あの人』が。
「わかりました。私、ひとりで帰ります!」 さっき天羽くんと話していた時の、たるたるした楽な気分が一気に抜けて、しらけた。
「紡ちゃん、じゃあこれからゆっくり行くよ」
追ってこず、「あの人」は微笑みながら歩き始めたようだった。何にも考えずに、ただお姉ちゃんに頼まれたケーキのことだけ考えて。街路樹が揺れるくらいまた風が吹きぬけた。モンローウオークしながら紡はおなかの中で怒鳴り散らした。
──お姉ちゃんの裏切り者!