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寄席と言うのは正確ではない。天羽くんと待ち合わせ夕暮れの通りを急いでたどり着いたのは、若い落語家さんの独演会だった。
学校の体育館に段差をつけて、パイプ椅子をずらっと並べただけの席だった。席の後ろに紙で番号が振ってある。木戸銭……チケット代のことらしいを払い、あてがわれた番号の席に座った。後ろの方だった。当日券だったのでしかたないだろう、と天羽くんは言ったけれども別にかまわなかった。
「本当はさ、ちゃんと指定席とって置けば、真中の席に入れたんだけどなあ。窮屈でごめん」
「別に、それほど熱心に聞くわけでもないわ。この席の周り、人もいないし、煙草すう人もいないし、いいじゃない。寝てたっていいもの」
ジーンズにデニムシャツ、それに白いトレーナーという膨張色で、天羽くんはにやっと笑った。
「近江ちゃん、落語初めてか」
「ええ、いわゆる日本伝統芸能とは縁がないの」
「まあこれからゆっくり、レクチャーして差し上げますさ、さてさて始まるよん」
周りの客層を見ると、ほとんどが紡の母と同じくらいの年代で、少し身なりをきちんとした感じの人が多かった。
「出囃子」と呼ばれる笛、三味線のメロディーが、ラジカセから流れる中、着物一枚ひっかけた若い男の人が出てきた。自分で案内用の題名が書かれた紙をめくった後、正座してしゃべり始めた。「噺」を始めた、といえばいいんだろうか。よくわからないが、天羽くん言うには、「その筋では知らぬものなし」の古典落語らしい。声が聴きずらくて、さほど面白いと思わなかった。周りのお客さんはそれなりに受けていたけれど。紡はつまらないものに笑う気なんてさらさらなかった。笑いに甘えはいけない。
天羽くんの判断はどんなものなんだろう。
「これからでしょ。まだまだ前座さん。ゆっくり見守りましょうって」
ずいぶんおうようなことを言う。
「甘いのね」
「若いっていいねえ」
若いことを自慢下に語るのを聞いていると、うんざりしてくる。大抵の男子は紡の本音を知らないままだろうが、天羽くんにアホなままでいられるのは惜しい。だからちゃんと伝えた。
「きついなあ、近江ちゃんは」
天羽くんは馬鹿じゃなかった。笑いながら頬をぼりぼり掻いた。
「私は完成されているものが好き。中途半端なものにはうんざりするわ。本物至上主義よ」
「だからクラスの奴としゃべるのがいやなんだ」
「決めつけられるのはいやだから、答えないでおくわ」
「決めつけられるって」
「私と話すと担任に筒抜けだとか、裏事情しっているとか」
別に嘘ではなかった。お姉ちゃんからクラス全員の縁故先および裏事情を、みんな小耳に挟んでいるのは本当だ。
「天羽くんは気にならないみたいね。今日のこと、クラスの人たちから西月さんにちくられたらどうしようとか思わなかったの?」
天羽くんはバイプイスの背もたれによっかかりながら、紡に横顔で笑った。
「そのために評議委員やっているんだって。相棒と相談するためにて、こっそり会ってどこが悪い」
きっと、西月さんとつきあっていた時も同じこと言っていたのだろう。結構、天羽くんってたらしなのではなかろうか。
紡は、入るときにもらったプログラムを読み返した。前座一席の後にご当人が一番、次に休憩、色物として紙切り芸人の登場、最後に大物を独演会の噺家さんが。流れとしてはそんな感じで進むらしい。
天羽くんは特別説明してくれるでもなかった。下手にうんちく語られるよりはましだけど、その分、クラスのごたごたについて何度もあやまるのはやめてほしかった。まあ、天羽くんにとっては罪悪感あふれる委員選考だったろう。紡がもしふつうの女子だったらつらかろうが、全く気にならない。かえって悪いことをした気がする。
「これ以上、『ごめん』を言ったら、その場で帰るからね」
「ほら、次の演目ははずさないと思うよ。この人、古典がめっぽううまいんだ」
頭をぼりぼりかきながら、やっと天羽くんは落語の話に切り替えてくれた。
紡が評議委員に選出されるにはそれなりに手回ししてくれたせいか、それほどの問題は起こらなかった。
「あの人」が静かに紡を見つめていたくらいだろうか。
あえて紡が義理の妹だということを隠さないようにしている。と春休み、話していた。お姉ちゃん経由ではなく、直接に。
「紡ちゃんにとっても、それの方が楽だろう」
別に、いてもいなくてもいい生徒であれば、関係ない。紡は優等生顔して頷いた。
「普通にしていればいいということでしょう」
困った顔で「あの人」は微笑んだ。一部の女子からは人気だと聞く。骨と皮だけの顔。今思えば、紡が評議委員にならざるを得ないことを知っていたのだろう。天羽くんの手回しにはそのことも加味されていたに違いない。
だが、男子には見えないやっかみもあるわけで、放課後、これみよがしにクラスの女子数人からささやかれた。
「小春ちゃんに譲ってあげれば近江さんも、女子からおおって言ってもらえたのにね」
いや、西月さんが何も意志表示しなかったから、紡が選ばれただけのことだ。ずっと黙りこくっていたのに疑問一つあげなかったのは、女子一同ではないか。 西月さんだって振られたばかりの相手と一緒の委員やりたいもんだろうか。
友達に戻ることすら、 西月さんは拒絶されているのだ。
かわいそうだが、しょうがないだろう。
天羽くんがなぜ西月さんを振ったのか、紡はまだ聞いていない。個人的好みからなら納得だが男子の好みは謎なところがある。
天羽くんもあれだけ熱をあげていた相手を見捨てるにはそれなりの理由があるだろう。一、二年当時、天羽くんは「小春ちゃん」と呼んでいたし、西月さんもいつも笑顔でくっついていた。同じ委員同士、男女仲良くなりカップル化するのは、青大附中においてそう珍しいことではなかった。
厳密にいえば冬休み明けるまで、見るのも目に毒な甘い状態が続いていたはずだ。
自分が巻き込まれていなければ、ただの好奇心で眺めるのも乙だろう。今まで紡は観覧席から眺めることに徹していた。
でも、天羽くんとだんだん公認になりそうな今、面倒なことに巻き込まれてしまわないよう、自衛しておきたい。
「とりあえず言っとくけど」
銀色っぽい羽織りの着物姿で、本日メインの落語家さんが現れた。髪の毛は上手に七・三分け。てかてかに光らせている。激しく拍手している天羽くんは気付かないようだった。
「私、女子しかその手の関心ないから、覚えておいて」
聞こえたかどうかわからない。紡も慌てて、拍手に乗ったから。
さすが、大将。お見事だった。さすが真打だけある。太鼓持ち、いわゆる「幇間」のおじさんが、わがままいっぱいの若旦那にせっつかれて「鍼」の実験台にさせられての大騒ぎ、しかもまあ、しゃれのきつい若旦那はほとんど経験の浅い「鍼治療」の真似事をしようとするのだから、身の危険を感じる「幇間」さんが逃げるのも分かる。残念ながら紡には、話のオチが理解できなかったものの、途中で思いっきり笑ったり、前の人のパイプ椅子に顔をぶつけそうになったりと、久々に声を出してしまった。当然、隣りの天羽くんは鼻の穴を膨らませて爆笑しまくっていた。
「さてと、これから色物があるけど、どうする? しゃべりながら、あっという間に影絵芝居みたいな絵を切り抜いちゃうんだぜ。うまくすれば、リクエストもしてもらえるぜ。ほら、相合傘、とか頼むと、ほいほいっとさささって色紙を切り抜いて、透明ビニールの板にはさみこんで出来上がり。もらえるかもしれないぞ」
「どうするって、観にいくでしょ」
「けどさ、近江ちゃん、家ここからだと遠いだろ」
──何気に気にしてくれているってわけね。
この辺は、優等生面した評議委員の気配りか。なんだかむっときて、紡も答えた。
「いいわ、最後まで聴いていく」
「俺はいいけど、近江ちゃん、このままだと夜九時くらいになっちまうよ」
「別に、私が怒られるだけだもの」
本当は途中で抜けるつもりだった。天羽くんには悪いけれども、やはり親に文句を言われるのはうざったい。学校に友だちがいない紡の生活を、親は義兄からすべて聞きだしているはずだ。なのにいきなり、お姉ちゃん以外の人と出かけているなんてことに気付かれたらたまったものではない。今日の予定については一言も伝えていないので、たぶん八時過ぎに帰っただけでも雷が落ちるだろう。お姉ちゃんと行ったことにしておこう。
「やっぱさあ、まずいよ。今日のところは俺も、これを聴ければ大満足だからさ、とりあえず出ようぜ。また、今度もあるしさあ」
──今度?
天羽くんに釣られて立ち上がり、紡はそっと首をかしげた。
「今、何て言ったのよ」
「だからさ、また次も、予定入れてほしいから、ここで一発終りにはしたくないってこと、それと」
戸口に向かう。後ろの席だから、ひとりふたり欠けても迷惑にはならないだろう。入り口のエスカレーター前で、着物姿の女性が二人ほど、花束の山を解いて、新聞紙に分割して分けて包んでいた。紡たちの方を観て、ばつの悪そうな顔で「ありがとうございました」と声をかけてきた。
「今から俺も、近江ちゃんのことで『お兄さん』に、目、つけられたくもないしな」
──あんた評議委員だからね。
「なにせ俺も、今のところ前科者扱いされているし、たぶん先生からもにらまれている可能性大。俺、今回は、本気なんだ」
──何もエスカレーター下っている間にそんなこと言わないでも。全く、面倒だったらないわ。
紡は無表情を装った。簡単だった。鼻でかすかに笑った後、
「別にかまわないけれど、私の好みは知っているわよね」
落ち着いて答えた天羽くん。そっちの方が衝撃だった。
「ああ、知ってるよ。女子しか関心ないんだろ? ってことは、俺もよその男に現抜かされる心配しないですむしな」
なんというかおめでたい人だ。
女子たちからすれば「近江さんは天羽くんとデートして、いきなり告白されてしまった」という解釈になるんだろう。否定はできないし、紡も答えをあいまいにしてしまったきらいはある。露骨に「ええいいわよ」とか「いやよ」とかこたえるのは無粋だし、別に男嫌いというわけでもない。恋愛対象にならないだけで、友だちだったら男子はオールOKだ。どうでもよかっただけのこと。
──これから面倒になるなあ。
すっかり受け入れられたと勘違いしている天羽くん。プログラムをしまい込むと、そっと時計を覗いた。ちょうど七時半。塾に通っている連中だったら別だろうが、あまりこの時間帯に街をふら付いていると補導されやすいとも言える。天羽くんも、四月評議になったばかりということで、できれば汚点をつけたくなかったのだろう。紡からすれば、夕方からの落語独演会に誘った段階で、十分、やましいことありありのような気がするが。
「天羽くん、もし私が付き合いをOKした場合なんだけど、何すればいいわけ」
「何って、ええと」
いきなり赤くなったのは、やましいこと想像していたんだろう。面白い。紡は続けた。
「あんたの事情はわかっているつもりよ。西月さんのこと、ほんっとうに大変なんだなって思うわ。教室内では何にもないことにしておけば面倒も起こらないですむんじゃないの。西月さんにも文句言われないですむし、私も楽」
「それはやだね」
いきなりがつっと返事が返る。
「俺ははっきり、近江ちゃんと付き合っているって言いたい。なんも俺たち悪いことしてるわけじゃねえんだから」
「私の事情も知ってるでしょ。先生にばれたら今度は、うちの親に即、通告よ。担任はとにかく、親がうるさいのはもううんざりよ」
「狩野先生ってそこまで近江ちゃんに関心持ってるか?」
「私には持たないかもしれないけれど、お姉ちゃんには持っている人よ。そりゃあもう」
ちりちり、ひりひり。言葉が千切れる。
「あのさ、そんなに狩野先生って、夫婦仲、いいのか?」
あまり話したことはないけれど、付き合う以上しかたあるまい。
「いいわよ、めちゃくちゃに。そりゃあべたべたしているわ。一度ふたりで座っているところ見てごらんなさい。次の日からあの人の仇名、『桃色教師』よ」
まじまじと、紡を眺めた後、天羽くんは頭をかいた。
「生徒に無関心きわまりない、狩野先生がかよ」
「そうね。たぶん、クラスの人ほとんどは思い込んでいるわね。でも、去年の夏に退学した子を連れて、あの人の実家に泊めたりしていたこともあるし。影でいろいろ家庭訪問しまくったりしているのもあるのよ。一応、一般的な教師としては、いいことしているはずよ。私にはちっとも嬉しいこととはと思えないけれど、喜ぶ人も、中にはいるのよね」
やはり立ち話するのもなんなので、近くのコーヒーショップに入った。百五十円で一杯、煙草の煙漂う中でお茶が飲めるスペースだった。高校生らしい集団が奥の席でたむろい、おしゃべりに燃えていた。うるさいけれどもどうせ、天羽くんとしゃべるだけのことだ。紡にとっては一番心休まる空間。知り合いがいないかどうか確認したけれどいない。天羽くんはコーヒーを、紡はアイスティーを注文した。お互い支払いを済ませた後、入り口のカウンター席に座りこんだ。腰の高さがかなりある椅子。足が地に付かない。ぶらつかせた。
「それ、俺も不思議だったんだ。なんでだろうなあ。何気なく、面倒見てるんだよな」
「そうそう。私もお姉ちゃんから」
しまった、と思う間もなく、天羽くんがぐいと紡の方に向きを変え、
「お姉ちゃん?」
そう繰り返した。皇人さんのことは「あの人」と言い習わしてきた。お姉ちゃんのことを話さないようにしてきた。女子たちとはコミュニケーション取らないからかまわないからいいけれども、中学三年初めになんと口走ってしまうとは!しかも天羽くんの前でだ。
「そういうことになるわよね、あの人の奥さんってことになるとね」
仕方ない。紡はストローを加えて、目をそらした。
「そうだよなあ、近江ちゃんのお姉ちゃんが、狩野先生の奥さんなんだなあ」
「有名でしょ」
「じゃあ、近江ちゃんに似てるんだ?」
「誰がよ」
「もちろん、お姉ちゃんがさ」
「興味ある?」
似ているかどうかはわからない。雰囲気がもろにフリルたっぷりの、時代錯誤したお姫様ドレスをまとう人。はたして見た目ボーイッシュ、かろうじて黒い飾り気のないワンピースで現れる紡と重なるとは思えない。
「ということは、狩野先生の子どもが女の子だったら、近江ちゃんに似ている可能性もあるってわけだ」
「冗談言わないでよ」
ああ、まったくうんざりだ。天羽くんって、話してみると意外と古臭いことを考えているようだ。お姉ちゃんも愚痴っていたっけ。
「結婚三年目、そろそろ孫の顔を見せてちょうだい」
と母がうるさいと。
「結婚したからっていって、必ずしも子どもを産みたいとは思わないものよ。天羽くん、その辺、覚えておいた方がいいわよ。落語に出てくるような、面倒みのいいおかみさんを求めるのは男の身勝手よ。借金して、ろくに仕事もなくて、ただ飲んだくれていて、おかみさんに小遣いもらって買物に行くけど、おつかいひとつできやしない旦那。ああ、あんなの私、だめね」
「俺は近江ちゃんにそんなこと求めてねえよ」
お、きたきた、とうとう本音のお言葉だ。ごまかすにも要領が必要だ。
「じゃあ何を求めてるわけ? ちゃんと天羽くんのご希望通り、評議委員になってあげたでしょ」
怒っていないことを伝えるために、少し目に力を入れて、微笑んで見せた。わかってくれているのか、天羽くんも照れくさそうに鼻の下をひとさし指でこすった。
「まだまだこれからさ。先は長いってことだ。でさ、来週なんだけど、今度は」
「また落語? それとも漫才?」
「いや、今度は」
一気にすすった後、真っ正面に向かい合った。
「このままいわゆる普通のデートってことで、一気にクラスで交際発表記者会見やってもらえませんかね、近江ちゃん。天羽忠文ただいまフリーだし、お買い得っすよ、なあ、よろすおますかいな」
関西ギャグは詳しくないが、たぶん有名な芸人のものまねなのだろう。また腰をくねらせている。受けるのってめんどうだ。
「もう関西のネタは卒業したんじゃなかったの」
「あ、そっか、しっつれいいたしやした!」
全く、どこが受けるんだか。紡には理解できない。でも、天羽くんの顔としゃべりは、さっきの大将たる噺家さんと同じく、押し付けがましさを感じさせなかった。たぶん、前座の噺家さんとの違いはそこだったのではないかと紡は思い起こした。わかれ、理解しろ、とナイフを突きつけるような感覚が前座さんの甲高い声には含まれていたような気がした。
何も、男嫌いというわけではない。まともな男と、頭のいい女は、どちらも同じくらい好き。だったら、天羽くんレベルの男子と演芸レクチャーを受けるのは、なかなか楽しいものがある。
「いいわ、記者会見くらいなら。どうせ面倒なことだったら早いうちにすませておいた方がいいわ」
──何も親指立てて、「よしっ!」とガッツポーズとらなくてもいいのに。天羽くん。
単純な男子が嫌いなわけではないが、たいしたこと言ってやったわけでもないのに、おめでたい奴だと紡は思った。まあいい、これから面倒なことに巻き込まれる可能性大だが、いつものようにクールに済ませれば、なんとかなるだろう。
「まかせとけ! 近江ちゃんに手を出す奴は、俺がただじゃあおかねえぜ! ってことよ」
「男子は大丈夫よ。一応ね、私これでも、『コネ』の威力堪能しているから」
何気なく紡は、自分の後ろ盾をアピールしてやった。担任が義兄とあれば、どんなにむかついたって表から文句をつけてくる奴はいない。いや、もともと男子とは話し掛けられればそれなりに会話を返していたから、あまり嫌われていないような気がする。問題は女子だ。女子は表から勝負をかけないかわり、陰からじわじわと責めてくる。 特に、元評議委員女子の西月さんからみがうざったい。
「男子はって、じゃあ問題は女子ってことかよ」
気付いてないのか。こいつ、本当に評議委員なのだろうか。紡はこめかみをわざとつつくようなしぐさをしてみせた。
「そうよ、女子よ。想像つくでしょ。天羽くんならばね。すねに傷ある身のくせに」
「ああそうだな」
つくづく思った。天羽くんにとって、西月さんという存在の重たさを。げっそりしそうなほど、ため息を吐いた。
「いやになると、どうしてもとことんいやになっちまうって、罪だよなあ」
独り言意識してか早口だった。紡は聞き取っていた。グラスの氷がかしゃかしゃ言い出したところを合図に立ち上がった。今度こそ、帰らないと親に何言われるかわからない。天羽くんがふっとため息をついて出口に向かおうとし、自動ドアの前で立ち止まった。まぬけにドアが開いて、すぐに閉まった。
「あ、あの、先生」
──なにどもっているんだか。
少し遅れて天羽くんの背に追いついた紡は、見覚えある深紅のジャンバースカートに派手なフリルブラウス、髪にはおそろいの赤レースゴムカチューシャ姿のど派手な格好の女性を認めた。ついでに、向かい合っている銀縁めがねの細面、アイスキャンディー野郎もセットで見つけた。
「遅くなったね。まず出ようか」
「あの人」は、お姉ちゃんとふたり、目と目で合図した後立ち上がった。
肩に手を乗せて、紡にほおずりしようとしたのは、お姉ちゃんだ。
「ごめんねセシル。母さんから電話があって、今日うちにセシルが泊るってことにしておいたのよ。だから、今日は泊ってってね」
「泊るって、いきなり言われても、お姉ちゃん」
男子ふたりに聞かれるのは恥ずかしい。店を出た後、おおっぴらに紡のほっぺたを指先ですりすりしながら、お姉ちゃんは笑顔でささやいた。夜道はまだ明るかった。目の前に坊主頭ながらもなかなか男前の天羽くんがいるというのにだ。しかも、一種の契約を結んだあとだっていうのに。
「ほら、この前、落語を聞きにいくって言ってたでしょ。母さんがヒステリー起こして、またセシルがふらふらしているからもう外に出さないってわめいてたのよ。だから、それは私がこれから迎えにいくからいいでしょってことにしておいたのよ。で、今ね、皇人さんと一緒にあちらこちらの寄席関係全部当たってもらって、ここじゃないかってことで待ち伏せしてたの。早かったのね。もっと早く声かければ、お食事おごってあげた、の、に!」
しっかりメイクも夜用に濃い目。髪もたっぷりカールしている。一緒にいる「あの人」は、生成りのスーツにノーネクタイ。カフスだけがぴかぴか銀に光っていた。紡とお姉ちゃんの三歩くらい前で、なにやら男同士の話をしている。さっきの落語の噺ではなさそうだ。
「じゃあ、セシル連れて行くからね! 皇人さーん、お先に帰りまーす!」
──なにが皇人さんよ。
こう言う時、殺意ってものが芽生えるんだと思う。振り返り、夜道、「あの人」と天羽くんが内側から顔を覗かせた。立ち止まった紡に近づいてきた。
「紡ちゃん、そういうわけだ。今日はうちに泊っていきなさい。僕は天羽くんを自宅まで送っていくよ」
──今度は何吹き込まれるんだろう。いったい。
天羽くんが頭をかきながらも、悪びれることなく、
「じゃあ、今日のこと、俺、OKだってことで」
しっかと紡の顔をにらみつけるようにして、つぶやいた。うつむかなかった。
「わかったわ。じゃあ月曜日」
唇左端のえくぼだけ、奥歯をかみ締めてつくり、耳もとで手をふるポーズをした。振りはせず、指を思いっきりひらいたまま、頬の側に寄せた。
「せば、先生、なにとぞよろしく、おねがいしまーあーすう!」
どうやら天羽くんの守備範囲は、落語、漫才、演芸にとどまらず、歌舞伎も含んでいるらしい。口上か。空恐ろしい男だ。
紡の隣りでお姉ちゃんが、天羽くんの隣りで「あの人」が、やわらかく微笑んでいた。お姉ちゃんはきっと、ふたりっきりになったとたん、腹を抱えてもだえ爆笑するだろうけれども、それは紡しか知らないことだ。
お姉ちゃんの家は、六畳の和室が二部屋、それにダイニングキッチン。ここまでプライバシーが保たれなくていいんだろうか、と思うのだけど、全くその点は問題がないらしかった。「あの人」が出張でお出かけしている時だけ、泊めてもらったことはあるけれど今日はちゃんと戻ってくるみたいだ。気が重い。ただでさえ担任のうちだっていうのに。
「ねえセシル、この前私が買ってあげた服、母さんに見られたんだって?」
聴かれたくない、うんざりだ。玄関で靴を脱ぎ捨てて、お姉ちゃん側の部屋に入った。ベットじゃないのが意外だった。大きなたんすだけがどんと居座っている。トリコロールカラーでまとめられているけれども、やっぱりところどころフリルがカーテンや枕、ベットシーツにあしらわれていていかにもお姉ちゃんらしかった。
三つ折りに畳んだままの敷布団に座り込んだ。ポシェットを投げ捨てた。
「もううんざり」
「あの人に日本語通じることを期待しちゃだめよ。セシル、あの人たちとは違う人種なんだと思って割り切るしかないわよ。母さんたちの前では、ださい中学生のままでいて、私とか彼氏の前でのみ見せつける、って割り切らないとだめよ。ほんっと、私も思ったわよ。結婚式当日まで、ぐちぐち引き出物について文句言うんだもの」
最後まで和装の花嫁衣裳にこだわった両親を振り切り、お姉ちゃんはお気に入りブランド特注のドレス一枚で通した。「あの人」も「あの人」のご両親もその辺はかまわない、と言ってくれたらしい。本当だったらレストランウイディングをしたかったらしいけれど、親戚筋に申しわけがたたないということで古臭い結婚式場で、つまんない進行のもと、執り行われられた。センス良く、しゃれたこだわりのあるお姉ちゃんにとって、引き出物の中に鯛とお赤飯が入ってしまったことは、恥、以外の何ものでもなかったらしい。最後の最後までお姉ちゃんは両親のやり方を許せなかったようだ。
「わかってる」
「そしてお金だけもらっとくのよ。自分の言うことさえ聞いてくれれば、いくらでもお金出してくれる人たちなんだから、利用できるところは利用しなくちゃ」
紡の頭をそのまま、抱くようにして。
「世の中、頭のいい人が勝ちなんだからね。うまあく、逃げなくちゃ」
──わかってるってば。
心地よい感触にとろとろしそうで、猫感覚でころんと横たわった。お姉ちゃんはちゃんと畳を掃除しているらしい。痒くない。
「もう、猫みたいなんだからあ、セシルのこと、猫にしてうちに置いときたい」
「あの人おっぱらってくれないの」
どうしてかわからない。おなかが空いたのと、身体が冷えて落ち着かないのか。ごろごろと転がった。お姉ちゃんがしゃがみこみ、「ほらほら」とおなかをくすぐった。
「セシルだって、好きな人がいるくせに」
「お姉ちゃん答えになってない!」
「じゃああの男の子だあれ?」
──よりに寄って、天羽くん見られちゃったのはまずかった。
デートはするけれども、所詮友だち。気まぐれ。そのつもりだった。なのに、よりによってこの二人に見られてしまったとは不覚。さらに言うなら、「あの人」の中に教師・担任としてのスイッチが入ってしまったらしい。最大の誤算。
「結構、がっちりしていて、たくましそうじゃない?」
「悪くはないかもね」
「あら、セシル、お気に入り?」
「まさか。私、お姉ちゃんと一緒だって言ったでしょ」
背中をつけたままさらにごろんごろん。
「私は、男子を好きになんてならないわ」
お姉ちゃんは笑って部屋を出て行った。
「ジュース持ってくるね。なんかお菓子食べる?」
「おなか空いちゃった。ご飯の方がいいな」
古い畳のかすかな匂いをかぎながら、しばらく紡は横たわったままでいた。天井の染みも、洋服とバック以外、ほとんど何も置いていない部屋と。たぶん、夫婦生活は「あの人」の部屋で営んでいるのだろう。お姉ちゃんの空気を「あの人」も崩すことはできないらしい。慰めになって、眠くなった。
──それにしてもどうしようかなあ。
天羽くんのことだ。
落語会に誘われた段階でこういう展開になるという予想はしていた。もともと、紡を評議委員として選出したい、と言い出す前から気にはなっていた。男子の中で頭のいい奴は嫌いじゃなかったし、話の面白い天羽くんはかなり上位ランクに位置していたから。紡がもし、女子好みでなかったらOKしていた可能性はある。
一緒にしゃべる程度の付き合いだったら、こちらの方こそ望むところだ。学校外限定。
しかし、話をしてみると天羽くんの望みは、「学校内での公認カップル」になりたいということらしい。もちろん「付き合い」というものがそういうこと中心である以上、ごもっともだ。どうせ女子たちとの付き合いなんてする気ないし、適当に流しておけばいい。
簡単に済む、女子たちの嫉妬心。やっかみ、それはかまわない。 問題なのは西月さんひとりだけだろう。
──頭の悪い子は嫌いなのよ。
つぶやいてみた。お姉ちゃんと自分の口癖だった。
評議委員会というのが、妙に団結力強く、部活のようなねちっこい付き合いのある場所だとは聞いていた。評議に限らず、他の委員会すべてそうらしい。だからできるだけ関係持たないようにしてきた。一度委員に選出されたら、よっぽどのことがない限り同じ面子で三年間まっとうする。もし替えたい場合は、今回の天羽くんがしたように、徹底して裏工作をしたり、手を回したり、担任に頼み込んだりしなくてはならない。
まあ、一度付き合って泥沼の破局を迎えた相手と、同じ委員になりたくない気持ちもわからなくはない。その点相手の子も納得してはいたのだろう。
──ま、西月さんもその点は、納得しているみたいね。
一年から二年冬休みまで、天羽・西月コンビの評議委員は仲良しだった。いや、仲が良すぎるくらいだった。いつも
「ねえ、小春ちゃん、今度の宿泊研修なんやけど、どないしようかいなあ」
「なあに、下手な関西弁使ってるのよお! 全く、困った相方やねえ」
「やんやんやんやん、そんなこといわんといてやねん」
くっついてはひそひそおしゃべりしていたものだった。いつから付き合い始めたのかはふたりしか知らないだろうから突っ込みはしない。が、冬休みが終わった頃から、呼び方が「小春ちゃん」から「西月」と呼び捨てになり、全くといっていいほど話し掛けることもなくなり、それどころか敵意をあらわにするような態度を取り始めた。もともと西月さんは
「コネクラスと言われないようにがんばろう!」
と掛け声ばかりかけていて、クラスの男子たちからはうざったがられていた。西月さん本人が、とある有名な大学教授の孫娘とかで、成績とにかく無試験で入ってきたことは、紡がしゃべらなくても自然と広まっていた暗黙の了解だった。他に、男女どちらからも嫌われている、ある男子のことをいい子ぶってかばったりするところなんかも、「偽善者」っぽくてうっとおしいとよく思われていたようだ。
「そんなかばいたいなら付き合えよ。守ってやれば?」
付き合う気もなかったのは明白だ。天羽くんが仲良くしてくれていたから、うまくいっていたようなもんであり、その庇護がなくなってしまった以上、三学期以降の評価下落は必然といえるだろう。
しかしまあ、それも紡には関係ない。女子たちにも直接迷惑がかからなければ……女子の多くは「同情・慰め」のどちらかを振りまいておけば西月さんとの交流に問題は生じない、と知っている。だから適度に付き合いを続けておいて、無視しておこう。頭のいい行動だった。
──評議の仕事は適当にやっておくにしても、天羽くんと堂々と付き合いとなると、西月さんの出かたが見ものだわ。
怖い、とは思わない。弱い犬ほどほえるもの。お姉ちゃんと紡の経験で分かっている。
適当にあしらって、たまに一言、
「どうして天羽くんとうまくいかないの」
っぽいことを伝えておけば、すぐに泣くか黙るかするだろう。どうして天羽くんが西月さんを一気に嫌ってしまったのか、なんとなく感覚として分かるので、女子特有の同情をするつもりはさらさらない。ああいう行動取られたら、紡が男だったとしても、そりゃあ逃げたくなるだろう。同士としてそう感じる。
──男としては当然、そう感じるんじゃないかと思うわ。
きっとライバルとして見据えているに違いない。もしかしたら天羽くんの気持ちが元に戻るかもしれないと思っているに違いない。クラスの女子たちも味方なんだし、気まぐれもきっと時間が立てば、と思っているに違いない。
──そういうもんではないわ。西月さん。
お姉ちゃんが電子レンジになにかものを入れている音が聞こえる。
──私だったら、天羽くんと同じことするわ。あんなべったりされたら、あんなにしつこくしがみつかれたら、ね。