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 修学旅行前の準備はほとんど終わっていた。社会の授業では旅行先の歴史や郷土芸能について菱本先生がビデオを見せてくれた。理科では名産品の海産物に関する説明で時間がつぶれた。

  紡が体育館で西月さんにささやいた言葉の効果を確認するには十分な時間だった。彼女が理解していたとしたら決して友達には言わないだろうし、言ったとしても自分の恥を晒すだけのことた。泉州さんあたりがかみついてくるだろうがそんなこと知ったことではない。

 少し風が吹いたのをこめかみで感じた。行きの連絡船は揺れるだろう。体調悪い人は酔ってしまうかもしれない。立村委員長は大変だろうなとふと思った。多分世話をするのは清坂さんだろう。


  天羽くんがなんで方向変換したのか紡には不愉快だったが別に関係ないことだ。紡はただ、西月さんの策略にひっかかるような相手を相方に選びたくない。

 天羽くんが同じ空気を憎み続ける奴だとしたら、紡は相方として手伝いするだろう。数少ない人だから、お姉ちゃん以上に大切にするだろうから。お姉ちゃんが言うようなつき合いではない。一幕の舞台で演じてつき合っていけそうな相方として。天羽くんの求めているものとは異なる事かもしれない。相方以上のものを求められなければ紡はいくらでも天羽くんのそばで語り続けるだろう。

  アルベルチーヌのケーキは買ってあげるけれども中には入らない、そんな関係ならば。

「健康管理には気をつけてください。修学旅行まであと二日間ですからね」

 ──それを心がけるべきはあなたでしょうが。  

  狩野先生が紙色の顔で帰りの会を締めくくった。ただでさえA組内の雰囲気は最悪だ。へたしたら男女憎しみ合いの系図が色濃くなりそうなこの頃。天羽くんは女子に目を向けず他の事情を心得ている男性にだけ頭をかくしぐさをした。紡にも笑みをこぼした。

 ──まあ、なんとかなるとは思うけど。

 何を考えているのか、紡にも読み取れないところがあるけれども、それはそれでいい。紡には関係ない。


 帰りの会が終りさっさと教室を出た。できるだけさりげなく、気付かれないようにしなくてはならない。教師にこれから行うことを知られたら、たぶん邪魔されるだろう。放課後にカラオケボックスに出かけるなんて、まず「寄り道はよくない」ということに繋がる。さらに「弾劾裁判」なんて言おうものなら大変なことになる。名前は違えども、今回は天羽くんを叩きのめす「リンチ」のようなものだ。立村委員長は天羽くんが縛り上げられていた件についてはっきり「リンチ」と口にしていたけれども、とんでもないことだ。非公認の制裁「弾劾裁判」なんてどうなるっていうのだろう。言い訳できない。

 天羽くんは出てこなかった。

 なにやら、狩野先生に呼び出しを食らったらしい。二言、三言、静かに会話を交わした後、またどこぞへ呼び出されたようだ。声をかけると怪しまれるし女子たちにもまたダブルリンチされる恐れがあるのでこの辺は触れないでおいた。かわりに西月さんの様子をちらりと見た。泉州さんたちに頷いてみせた後、伏せ目勝ちに教室の戸口まで歩いていった。紡の方も、行った天羽くんの背も追いはしなかった。

 傘を片手でさし、バランスを崩さぬように駅前まで自転車を走らせた。危険だと学校側は騒ぐけれどもしかたない。自転車で来ちゃったんだから。紡はその点慣れている。途中までは自転車をひっぱり、車道に出てからは一気にペダルを漕いだ。途中、すれ違いで立村委員長が何も被らずに反対側の歩道をつっきっているのが見えた。清坂さんがいないのは、きっとバスで向かったからだろう。

 すっかりずぶぬれのスカートを絞り、紡は約束していたカラオケボックスに向かった。駅前のカラオケビルと呼ばれている。かなり部屋は広い。一時間五百円ですむ。ただしカラオケを一曲歌うごとに百円玉の投入が必要だ。予定の人数が五人ということだから、一時間一人百円あれば十分。もし話が長引いて延長となった時もせいぜい二百円で片がつくというわけだ。さすが委員長、抜け目ない。

「ひどい雨だよな」

 一歩遅く入ってきた立村委員長も、全身ぬれねずみだった。ひたいにぺったりと前髪がくっつき、一段と幼い顔に映った。輪郭が丸い。

「風邪ひくよね。清坂さんはまだ?」

 最重要事項を尋ねる。立村委員長は首を振った。髪の毛の先から雫がまたぽたっと落ちて、広がった。

「今日は来ないんだ。代わりに」

 思いっきり落ち込んだ瞬間を見られないよう紡は背中を向けた。ハンカチでスカートを拭いた。

「今日さ、二年生は実力試験で早く帰っただろ。それで一人手伝ってもらうことにしたんだ」

「二年とどう関係あるの」

 返事をせずに立村委員長は、一階のカウンターで部屋番号を確認した。

「杉本さまの御名前で」

 かすれた声で立村委員長がつぶやくのを紡は聞き取ろうとしていた。

「はい、あの、そうです」

「二階の211号室です」

 いきなり鍵を渡されていた。落ち着いて受け取っているところみると、慣れているのだろう。

「じゃあ先に、部屋に行ってようか」

 ──委員長なんかと行ったってねえ。

「天羽も今度こそきちんとくると言っていたし」

「さっきうちの担任に呼び出しくらっていたわよ」

 さらりと答えてやると、

「そうか。でも今日こそきちんと来ると話していたからさ」

 なぜか自信まんまんな態度だった。少しかちんときた。こういう時は少し噛み付いてやりたい。

「そうなの、天羽くんとはあれから話したの」

 返事をやはりせず、数回くしゃみをしながら立村委員長はエレベーターのボタンを押した。レディーファーストを仕込まれているのか、紡を先に乗せてくれた。


 二階には先客がいないようだった。平日の三時過ぎというのは、まだ人が集まりづらい時間帯なのかもしれない。数回紡も小学校時代の友だちとカラオケボックスに集まったことがあるけれど、とにかくうるさいだけだった。ミラーボールが意味もなく回っていて、うっとおしいことこの上なかった。

「なんだかラブホテルみたいよね」

 眉をしかめて委員長は紡を見た。

「あ、まだ委員長、行ったことなかったの」

 ここであっさりと「いや、あるよ」なんて答えられたら清坂さんへのジェラシー爆発でその場でひっぱたいて帰るだろう。紡の態度にはもう慣れっこなのか、立村委員長は黙って鍵を差し入れ、開けた。だいたい十畳くらいの暗い部屋の中、ソファーがくの字型に設置されていた。やはりミラーボールも輝いていた。真中にはガラスのテーブルが置かれている。リモコンと曲番号の一覧本が積み重ねられている。委員長はそれを取り去り、ソファーにのけた。戸口側に腰を下ろした。ソファーではなく、テーブルの脇にだった。紡は遠慮なくソファーに座らせてもらった、

「あと、誰が来るというわけ」

「天羽だろ、西月さんだろ、今、近江さんがいて、もうひとり二年の杉本を呼んでいるんだ。計、五人」

 なんで清坂さんではなく、杉本さんなのだろう。もともと「巨乳好み」の立村委員長だけれども、なぜ「弾劾裁判」に杉本さんなのだろう。なんで二年を引きずりこむのだろう。疑問を露骨にぶつけたい顔をしてみせたのか、立村委員長は片膝立てて振り返り、すぐに答えた。

「清坂氏だとさやっぱりまずいだろ。ほら、近江さんと仲いいし、どうころんでも西月さんサイドの人がいないとバランス悪いしさ」

 ──どういうことか。

 彼氏からみても、彼女と仲いいのは紡の方だと宣言してくれたようなもの。

 嬉しいのと、すぐに手が届かないという現実とでごっちゃになりそうだった。

「なにか飲み物くらいは注文できないの」

「できるけど、自分負担になるけどいいかな」

 五百円くらいはかかるだろう。紡はオレンジジュースを注文することにした。さすが立村委員長は手馴れている。すぐにドアそばの電話に手をかけていた。自分の分は注文しなかった。


 ──灯りをつければいいのに。

 立村委員長は薄暗いなかぼつぼつと話をしはじめた。もしこれが天羽くんだったら、もっと妙な雰囲気になっていただろうし、清坂さんとだったら紡ももう少しきゃぴきゃぴ盛り上がっていただろう。紡も合わせているうちに、室内へ電子音が響き渡った。フロントから来客のお知らせ電話らしい。

「今、西月さんと杉本が来たって」

「天羽くんじゃないんだ」

 すぐにエレベーターが動いたらしく、ドアをノックなしに開く気配がした。

「雨の中、すまなかった」

 思ったよりもぬれていないのは西月さんだった。制服姿で、ブレザーを羽織っている。その後ろには襟の丸いレインコートを羽織った、ちょっと見太った感じの女子がいる。身体に肉がついているわけではない。ただ胸元がやたらと突き出ているだけだと、中に入ったところで気が付いた。

  「E組」にいた杉本さんだ。


「杉本、ありがとうな」

「当たり前でしょう。本当は立村先輩が西月先輩を迎えに行くべきなんです」

 相変わらず、きついお言葉をぶつけるお嬢さんだ。

 下に着ているのは水色のレースが施された、お人形さん風の服だった。紡の母が良く着せたがるタイプのものだった。

「雨、そうとうひどかったもんな。杉本は家から来たのか?」

 穏やかに返す立村委員長に、杉本さんはさらに言葉を突き立てた。古臭いお嬢さん服を着て現れたところ見たら、一発で気付くだろうに。

「そうです。西月先輩をお連れするんですから」

 ──よく意味がかみ合っていない。

 杉本さんにとっての「先輩」は西月さんだけであって、紡は含まれていないらしい。あまりよけいなことを言わずに、立村委員長は杉本さんを隣りに呼び、かばんを拭いている西月さんをその隣りに座るよう、じゅうたんを叩いた。ちょうど紡と向かい合う格好になる。目と目が合ったが、すぐに西月さんの方が逸らした。じっとうつむく表情には、相変わらずおびえしか見受けられない。体育館で十分言って聞かせたことがそうとう効いているらしい。

「あとは、天羽だな」

 時計を覗き込み、立村委員長は修学旅行のお土産について話を持ち出した。すぐに杉本さんが噛み付いてきた……買ってくれるものと思っているのかどうかわからないが……ので、ふたりの世界をかもし出している。みな無言でいるよりはましだった。とりあえず紡はさりげなく西月さんを威圧しておこうと決めた。

  天羽くんさえボケをやらかさなければあっさり終わる。


 オレンジジュースが運ばれてきて、紡が口をつけると同時にドアが開いた。

 すっかり雨が染み込んでグレーなのに黒く染まったブレザーを小脇にかかえた天羽くんだった。

 西月さんが息を呑んだように顔を上げた。

 杉本さんがじっとねめつけた。

 立村委員長がわざとらしく、「天羽、待ってた。空いてるとこ座れよ」と声をかけた。

 紡はただ冷静に天羽くんの顔を眺めていた。なんとなくだけど、教室にいた時よりも唇をかみ締めているように見えた。たぶん紡しか気付いていないかもしれない。紡と目が合って、ほんの少しだけそのまなざしがやさしげに見えた。でもすぐに、部屋の暗がりと重なっていった。

「委員長、ミラーボールつけてもいい? 暗いといやでしょう」

 返事を待たずに紡はリモコンを手に取った。 歌詞が映るはずのブラウン管に白いひし形の光が無数に散った。


 靴がぐしゅぐしゅ言うのが丸ぎこえ。脱いで正座した天羽くんに委員長は、

「とりあえず全員揃った。前もって言っておくけど、今日は『弾劾裁判』じゃないから。弾劾というよりも、天羽の言い分を先に聞いて、その上でこれからどうすればうまくいくかを判断すればいいって思うんだ。というかさ、俺の代ではできたら『弾劾裁判』なんて偉そうなことやりたくないんだ。だから、天羽、言いたいことあるなら、言えよ」

 ──事情聴取よね。

 天羽くんと紡の位置はガラステーブルを挟んで直角だった。と同時に西月さんとも同じ位置で、三角関係の頂点が少し低めに出来上がった格好だった。真ん中で向かい合うのは立村委員長。天羽くんはぬれた指を何度かガラスのテーブルに押し当てた。何度か呼吸を整えていた。紡、西月さん、どちらの方も見なかった。唇が震えているような気がしたけれども、紡の見間違えかもしれない。

 鈍感な西月さんは気付いていない。ただ、近くにいることに震えているだけだろう。

 気付いていたらこんなことにはなっていないはずである。

「あの、じゃあ、言わせてもらっていいか」

 こっくりと立村委員長が頷く。

「じゃあ、言うな」

 次の言葉は紡の予想から大きく反していた。

  たぶん、西月さんも。立村委員長だけは眉ひとつ動かさなかった。

「小春ちゃん、ごめん。本当に俺が悪かった」

 信じがたいくらいしおらしい。紡ぎ出される天羽くんの言葉に、紡はだんだん首を締め付けられる思いでいた。隣りの西月さんも、自分の名前を呼ばれたことには明らかに反応したらしい。顔を上げた。視線を絡ませた。



「本当は、一年の頃から小春ちゃんにいろいろ手伝ってもらったりしてさ。俺、すっげえ嬉しかったんだ。あんなひでえこと言っちまった後に何言ったって信じてもらえねえけどさ。A組はそれこそ『コネクラス』ってことで他の連中にはすげえ悪口言われてただろ。その時に、A組に誇りを持てって主張していた小春ちゃんって偉いなあって思ってたんだ。結局A組は俺も含めて、みんなコネ持っていることは分かりきってることだけど、でも他の奴らと同等に扱ってほしいっていう願望は通じたよな。小春ちゃんがいたから、たぶんA組は二年の間男女それなりに仲良くできたんだと思うんだ。ほんと、それは言えてるって思う」

 ──あんた雨で狂ってしまったんでないの。

 ここでは突っ込みを行わない。委員長が何かをたくらんでいるのだろうから。

「ほら、二年の夏休み明けに退学した女子いたけどな、あれも小春ちゃんが面倒見てやったんだよな。俺そこまで細かいことできねえし、偉いなって思ってたぜ。本当だって。だから、できたら小春ちゃんの気持ちに答えたかったんだ。ほんと、だからさ、自分でもわけわかんないことするまでは、小春ちゃんのことを大切にしようって思ってた」

 ──うそつきは泥棒の始まりなんだけどな。

 紡の嘘発見器レーダーにはびんびんと響いている。

「けどさ、俺、やっぱり最低だなって思う。女子でやっぱ、近江ちゃんの方がどうしても、こう、なんってっか、ああなってるっていうかな。理屈じゃないんだ。本当に小春ちゃんには申し訳ないって思うし、あれだけ一生懸命俺のことを想ってくれたのに、俺の本音がこんなもんだなんて、口には出せねえよ。うちの宗教団体の話も確かにいろいろあったし、本当だったら小春ちゃんの純粋な気持ちにこたえてやりたいって気持ちもあったけど。けど俺、やっぱりそれは違うって感じるようになったんだ。ほら、片岡の様子みてからな」

 ──ああ、このあたりは本物ね。

 片岡くんが西月さんに仕える姿は本物だろう。

 そっと立ち上がって立村委員長が受話器を取った。

「ウーロン茶二杯ととレモンスカッシュとサイダーをお願いします」

 どうやら天羽くんへのサービスらしい。目配せして天羽くんに合図したけれども、しゃべるのに夢中なのか気付きもしない様子だった。


「小春ちゃんはたぶん、あいつに親切にしてやっただけなんだと思うんだ。下着ドロ事件のことだってそうだけど、証拠がないのに、いやあったとしても、クラスメイトを仲間はずれにするのはよくないって主張したかったのはわかるような気がするんだ。正しいと思うんだ。で、本当のことだったって片岡が白状したのはきっと、そんな小春ちゃんの思いやりが通じたんだと思うんだ。この前、俺、偽善者だとかわざとらしいとか言っちまったけど、それは嘘だよな。なにげない親切で救われる奴だっているんだよな。片岡、きっと小春ちゃんが変な下心持っていたなんて考えたことないだろうし、むしろ何でもないって思っていたんだと思う。でも、だからこそ嬉しかったんだろうな。だから、あいつ、いつのまにか小春ちゃんのこと、好きになってたみたいだ。男子たちもみんな、あいつの視線が小春ちゃんに向かっていたこと気づいていたし。ただ片岡がきちんとけじめをつけたらどうするか、ってことが条件だと思ってた。それをしないで俺は、小春ちゃんみたいないい子が、片岡の告白を受け入れられるとは思ってなかった」

 ──美辞麗句ここまでくれば、ご立派。

 本来ならば付き合っている立場上怒るところなのだろうが、笑いが止まらなくなりそうだ。恐ろしいのはここにいる連中みな、大真面目に聞き入っているってことだ。目の前にいる西月さんときたら、闇の中で目がうるうるしてきているではないか。天羽くんがとうとう自分のもとに戻ってきてくれたって信じているのだろう。勘違いもいいとこだ。肝心の天羽くんは、届いたレモンスカッシュを一気に飲み干した。炭酸で咳き込んだ。アホである。

「だから、俺が今まで俺に尽くしてくれた小春ちゃんにしてあげられることは、本当の想いを抱えている片岡を助けてやることなんだってわかったんだ。しつこいようだけど、俺は本当に小春ちゃんに感謝してるんだ。俺みたいな宗教かぶれの性格悪い男を真剣に想ってくれたことや、実際評議委員会で助けてくれた時のこととか思い出すと、俺、恥ずかしいくらいになっちまう。けど、その一方で」

 紡を見た。冷たく見返した。

「男としては、近江ちゃんの方ばっか見てしまうんだ」

 ひくっと西月さんが何かを飲み込んだ。

「最低野郎だよ、俺。だけど、結局俺ができることったら、小春ちゃんにひどい言い方で愛想つかしてもらおうとするだけだったんだ。小春ちゃん、俺が言ったこと、許せないと思うだろ。俺も言われたらそう思う。けど、そう言わなくちゃ決して俺のこと嫌いになれないだろ。そういう子だよな。普通の女子だったら、近江ちゃんのことをリンチしようとするだろうし、この前泉州……いや、なんてっか、他の女子たちに文句言われた時もみんな口々に言ったぜ。『西月さんは関係ないんだ』ってな。きっと、小春ちゃんは他の女子たちが暴れそうなのを抑えていたんだなって、その時思った。本気でこんな性格のいい子に俺、なんてことしてしまったんだろうって後悔しちまった」

 ──舌何枚あるんだか。



 紡はストローでオレンジジュースを吸いながら天羽くんのお言葉を分析していた。

 なんのことはない。美術の授業の日に天羽くんがオンコの木の下で言い放った言葉を、プラス思考に置き換えてみただけのものだ。どんなに本音を伝えようとしても気付かない鈍感女に愛想が尽きて、何度も冷たく振ろうとしたけれど気付かない。リンチにかけられた時に西月さんが絡んでいないことをみなが強調するのは不自然だ、どこまでいい子ぶりっ子しているんだかお前な。片岡に優しくしたのは所詮お前の偽善だろ。そんな言葉をいためて揚げてマヨネーズかけて、食べやすくしたのが今の言葉てんぷらだ。

 ──まさか、立村委員長がたくらんだ?

 可能性は高い。もっと仰天してもいいはずなのに。立村委員長のお隣りでおそろいのウーロン茶をすすっている杉本さんは、何度も尋ねているのにだ。



「だから、小春ちゃん。俺は嫌われた方がいい奴だし、その覚悟もしてるんだ。こんなに傷つけちまって、俺もどう償えばいいかわからねえ。けど、ここでまた俺が小春ちゃんを傷つけるような付き合いをするのは間違ってると思う。それはわかってほしいんだ。なんとかして俺、小春ちゃんが言葉取り戻せるようにしたいけど、俺が近づくときっとまた小春ちゃんのこと、傷つけちまう。だから、俺のできることは、片岡みたいな性格のいい奴を近づけてやることだけだったんだ。あいつ、本気なんだ。本気で小春ちゃんを守りたいって思ってるんだ。下着ドロやらかしたのはまずったけど、それ以外はあいつ男としてしっかりした奴だって思う。けど」

 言葉を切った。膝で両手を握り締め、またテーブルに載せた。

「それは俺が決めることじゃないよな。俺は男として、片岡がいい奴だと思えるけど、今の小春ちゃんにそれを言うのはひどいよな。だから、俺のことを嫌いになって、無視してくれればそれでいいんだ。俺、小春ちゃんのことを嫌いにはならないからさ。ただ、小春ちゃんが一生懸命俺によくしようとしてくれると、もう辛くなっちまう。だからお互い離れて静かになって、ただ遠くで小春ちゃんが幸せになってくれるよう、祈るだけでいいかなって思ってるんだ」

 あまりにもしらけ鳥が飛んでいる天羽くんの「大演説」。

 まさに「演説」だ。即興だとは思えない。前もって台本をこしらえて読み上げた、もしくは暗誦したのだろう。聞いていてあきれ果てるくらいだった。天羽くんも大演説が終わってから少し気が抜けたのだろう。立村委員長に目で「もう一杯」飲み物がほしい旨合図した。承知してまた手を伸ばす立村委員長。天井には紡の回したミラーボールがてらてら光っていた。いんちきの天国だと証明するかのように光が天井へ広がっていた。

 ──最低よ。  


 西月さんの目が潤んだのは気が付いていた。目をぬぐうところまでいくとは思わなかった。天羽くんのお言葉を信じきったなんてことないだろう。と紡は予想していたのだが、想像以上に西月さんはセンチメンタルな性格だったらしい。唇を引き締めると、もう一度、こくんとつばを飲み込んだ。隣りの杉本さんに顔を向けた。

「何でしょうか西月先輩」

 答えずに……紡はまだ西月さんの態度を自分の意志だと思っているのだが……かばんを開けて正方形の薄いものを取り出した。ピンク色のメモ帳らしい。ぺラっとめくれて、一枚はがれるというあれだ。筆談の時に重宝しているようだ。そして胸ポケットからシャープペンシルを取り出した。握るように持って、何かを書いた。杉本さんに渡した。

 受け取った杉本さんはミラーボールを見上げるようにして紙をすかした。文字を読み取った後、にこりともしないで頷き、立ち上がった。

「じゃあ行ってきます」

 立村委員長も杉本さんに何かを尋ねたそうだったが、その辺は無視した。清坂さんという彼女がいながらこの態度、いったいなんだろう。すぐに外へ出た。

「何か、杉本に頼んだのか?」

 落ち着いた風を装っているのが分かる。西月さんに尋ねる立村委員長は小声だった。小声だと動揺するのを隠すことができる。紡のように気付く奴は少ない。

 西月さんは答えなかった。しばらく気まずい沈黙が続いた。紡も底に溜まった氷をストローでつついていた。

「近江さん、何か飲む?」

「そうね、今度はアップルフィズね」

 紡が答えようとした時だった。  

 


 杉本さんが戻ってきた。ドアを開けっ放しにしたので、もう一人の姿が丸見えだった。振り返る格好の天羽くんが大声をあげた。

「おい、片岡、お前」

 片岡くんが全くぬれていない格好のまま立っていた。立村委員長もこの時ばかりは驚きを隠せなかったらしい。腰を上げて、何かを発しようとした。ができなかった。


 どこか人をにらみつけているようなまなざしと、くっきりしすぎた顔立ち。

 決して醜いわけではないけれども、教室の空気の中では違和感がある。

 できれば映画のスクリーン内でとどまっていてほしい雰囲気の彼だ。

 みんなが揃っている部屋へ入ってこないのは正解だろう。  

  杉本さんは片岡くんをおっぽり出したまま、西月さんの側に駆け寄った。そっと手を引いた。スカートを押えるようにして西月さんも立ち上がった。かばんを抱えたのは立村委員長だった。状況を察知してすぐに彼らしい行動を取ったのだろう。

 戸口は開けっ放しだった。西月さんは靴を履かずにただまっすぐと、片岡くんのくどい顔を見つめていた。あの涙が乾いているのかどうかは知らない。背中しか見えない。

 人工的に明るい廊下へ立ち尽くした片岡くんが、右手を西月さんへ差し出したのだけはわかった。その手を受け取らずに振り返り、西月さんは天羽くんだけを静かに見た。もう一度、目をわざとらしくうるうるさせそうだった。

 ─ど私は騙されない。

 紡だけは目をそらさないつもりでいた。どうしようもなく身体の奥からねちねちした嫌悪感が湧き出るのを押えられなかった。炎のように燃え広がるのではなく、じわっと湿気のように感じる、バスの中のすえた匂いに近いものだった。吐き気がする。その場で秒殺してやりたかった。 

 西月さんはかばんを立村委員長から受け取った。丁寧にちいさなお辞儀をした。もう一度天羽くんの方をじっとうるうる瞳で見つめた後、靴を履いて外に出た。振り返らなかった。片岡くんの表情に驚きはなかった。たんたんと西月さんだけを追っていた。杉本さんが戸を閉めた。


 四人の空気が、ほわっと崩れる気配がした。立村委員長は自分の席に戻ると腕時計をちらっと眺めて、

「まだ、三十分近くあるけど、あとは二人で話をしていくか? 今日の料金、俺が立て替えておくよ」

 千円札を自分の財布から抜き取り、天羽くんに渡した。

「たぶんジュース代、これで足りるだろ」  

  ──修学旅行のお小遣い、たぶんたくさん持っていくつもりなんだわ、この人。

「あのな、立村」

 一呼吸おいて受け取り、天羽くんは真面目な顔してささやいた。

「お前、今のこと仕組んだのか」

「そんなことないよ。単なるハプニング」

「まあいいさ、これで、終わったんだよな」

 ひとりごちた天羽くんに頷き、真向かいの紡にも、

「ということで、今回は和議が成立ってことでどうかな」

 ──この人、和議の意味もわかってないかもなあ。

 紡もあまり細かい突っ込みをするのは面倒なので、黙って笑っておいた。立村委員長にはとにかく「頷く」これだけしておけば丸く納まる。

 杉本さんにも軽く目線で合図をした後、

「じゃあ、また明日な」

 出掛けに杉本さんが紡を殺したそうな視線で見据えたのは気のせいだろうか。

 常識世界を壊したような視線だった。


 ──これで終わったんだよなあ。

 言いたいことはわかる。天羽くんがあんな白々しい嘘を並べ立てた理由も、なんとなく伝わらないことはない。西月さんを説得するに置いて、「本当」のことを「誠実」に伝えることが果たして効果的なのかどうか。そう考えるならば、嘘でもいいから耳障りのいい言葉を使うのがベストだと判断したのかもしれない。

 西月さんという人の性格を考えるならば。

 なにせ、下着ドロの証拠がたんまりある男子を、いい子ちゃんぶってかばおうとしたあの性格からしてそうだ。自分がいい子であればそれでいい、本当は大嫌いな男子をかばってあげる自分に酔うあの性格。紡をかばう振りして、実は暗に天羽くんをリンチさせてしまう。いや、たぶん、西月さんは一言だって天羽くんを叩くよう頼んだことはないだろう。それどころかかばおうとしたのだろうと紡は読んでいる。そのくらいはっきりと復讐できる女子だったら、まだ紡は一目置いている。

 ──結局、あの人の望みは一つだけよ。

 ──天羽くんに嫌われたくない、それだけよ。

 片岡くんと付き合うことによって西月さんが得られるメリットは数少ない。

 なにせ一年当時の「下着ドロ事件」を起こした張本人だと、片岡くん自身が認めてしまっている。青大附属は一貫校だから卒業するまでえんえんと言われつづけることだろう。女子の敵として軽蔑されても当然だ。そんな相手と西月さんが付き合ったとしたらどうなるだろう?

 まず片岡くんは「あんな奴でも彼女が出来たのだ」と一目置かれるだろう。女子たちからも「あの、小春ちゃんが付き合ってあげたのだから」と同情してもらえるだろう。片岡くんの丸儲けだ。西月さんの立場は違う。評議委員の立場から引きずり降ろされ、自分を好いてくれているという相手からはとことん嫌われ、それでもしつこく付きまとう始末。結局寂しさに耐えかねて下着ドロでも金持ちのぼんぼんとならということでくっついた、そういう目で見られるだろう。残酷なようだが、女子はそんなものだ。A組での立場も、もう最低とまでは行かないが女子の中では哀れまれる存在として扱われることだろう。仮にも評議委員を務めていた西月さんがそんな自分になることを好き好んで選ぶとは思えない。選ぶとすればたった一つのメリット。

 ──天羽くんに嫌われないですむ。

 紡が嵐の中でささやいた一言。最初の段階で天羽くんは、これ以上嫌わないですむ条件として、

 ──片岡くんと付き合うこと。

 ──近江紡をこれ以上いやがらせしないこと。

 を挙げていた。藁をも掴む思いの西月さんは、自分のプライドを捨てたのだ。


「天羽くん、せっかく二人きりになったことだし、いくつか質問していい?」

 せっかくソファーもあることだし。紡は自分でアップルフィズを注文し、受話器を置いた、座ったまま足を組んだ。座り込んだまま気力を無くした天羽くんは小さく、「ああ」と答えた。

「あの猿芝居、立村委員長に仕込まれたってわけ?」  

 答えはなかった。ぼりぼりと足の裏をかいている天羽くん。質問はたくさんあるのでさらに続ける。

「天羽くんって、私の知っている限り、嘘はこれ以上言いたくないと思っていると信じていたんだけど、違ったみたいね。もしあの言葉を全部信じれば、の話だけど」

 一口林檎味の液体を舌で転がした。ふうっと息を吐いた。

「確かにあの言葉は効果的だったわね。結局あの人、片岡くんとくっつくこと選んだわけだし。天羽くんもすっきりしたと思っているんでしょ。委員長もほっとしたんじゃないの。これでひとまず安心したってことよ。修学旅行前に意地汚いやり方で弾劾裁判なんてしなくてすんだし、天羽くんも言いたいことを言ってすっきりしたし。西月さんには彼氏が出来たし。めでたしめでたしだと思っているんでしょ」

 やっぱり答えはなかった。ほんの少し、紡の口元でぴちぴち鳴る炭酸の音を楽しんだ。

「勘違いしないでよね。別に私はどうでもいいのよ。ただ、もしあの中に出てくるお言葉一覧が本音だったとしたら、私はこの場でさっさと契約を取り消すわ。いきなり今まで言ってきた言葉を裏返しにして、いかにも西月さんのことを大切に思っていたようなこと口走り始めて。別に私はいいのよ。西月さんを選ぶならそれでもいいし、私とは一緒に漫才観にいくだけでも悪くないしね。ただ、西月さんがあれであきらめると思ったら大間違いよ」

 さっき西月さんが片岡くんを追う前に見せた、いじらしげな瞳が蘇った。けっとつばを吐きたかった。

「そうよ。天羽くんだって気付いているはずでしょう」

「近江ちゃん」

 静かに、今までになく覇気のない口調で天羽くんは首を振った。

「俺のこと、軽蔑してるだろうな」

「別に、そこまで深いこと考えてないけどね」

 紡はゆっくりと告げた。

「本当のこと言い過ぎて効果なかったから、嘘で試してみたってことかな、そうだったらしょうがないわって思うけどね」

 不意に、天羽くんの口からぐおっと言葉が洩れた。吐いたのかと思ってぎょっとしたけれどそうではなかった。肩を震わせ、両手を床についた。

「ちくしょう!」

 小さい声で、さらに続けた。

「ちくしょう、なんでだよ。なんでみんな、嘘っぱちでうまく世の中回るって言うんだよ!」

 何度か同じ言葉を繰り返し慟哭していた。男子が泣き叫ぶ姿を見たのはそんなにない。片岡くんが教室でざんげした時の涙、も入るだろうか。天羽くんの声は尋常じゃなかった、こぶしで何度も床を叩き、転げまわりそうなほどだった。紡もしばらくは様子を見守るだけだった。


「同じこと言うならもっとまろやかな言葉使えって、先生言ったからさ。先生も全部言い方レクチャーしてくれちまってさあ、立村も別の方から同じこと言いやがるしさ。要するに俺の言い方がきつすぎたってみな言いたいみたいでさあ。冗談じゃねえよ。俺が、あの女に本音言うのに、どれだけ悩んだか誰も知らねえくせにさ。そうさ、正真正銘本音は、写生会の時に言い放ったもんな。だからテープだって残したんだ。恥ずかしくねえようにな。けど、それじゃどういったってあの女通用しねえ。じゃあどうするってな。別にリンチされたってかまわねえよ。女子が殴るなんて可愛いもんだもんな。けど、俺が嘘を吐き続けていけば、向こうも大人しく受け入れてくれるなんて大嘘、どこで仕入れてきやがったんだよ! 本当のことを誠実に言えば、かならず伝わるって信じてたんだって。なのに、あの女が受け入れたのは俺の心にもない大嘘ばっかりだ! ちくしょう。みんなそうだ。俺が本音言ったらみんな逃げるくせに、嘘でごまかしたらラッキーが大喜びで寄ってくるって奴だ。ちくしょう。欲しいものはみんな嘘で手に入れろってか、で本当に欲しいものは逃げられるってか、なあ、近江ちゃん」

 まだ回っているミラーボール。静かにくるくる光りをちりばめ吹き飛ばしている。

 紡は片手にグラスを持ち、もう一度天羽くんを見下ろした。

 ──やはり、あの二人のたくらみなんだ。


 女子たちからの集団リンチ後、「あの人」……狩野先生は天羽くんに「西月さんから縁を切る方法」の秘伝を伝授したらしい。利口なやり方だとは思う。西月さんの面子を保ちながら、きっぱり譲れないところは譲れないと言い、自分の本心とはうらはらな美辞麗句を連ねていい気持ちにさせる。さすが、お姉ちゃんを扱うのに慣れているだけある。天羽くんの言葉によると、「あの人」のひそかなる弟子である立村委員長も、「弾劾裁判」の前に同じことを繰り返したらしい。

 ──西月さんをおだてあげることか。

 天羽くんの状態を見ると、それに百パーセント納得したわけではなさそうだ。今だに納得いかないとわめいて涙に暮れている。自分をコントロールできないくらい泣いている。

 どういう宗教団体の教義かはわからないけれども、「自分に嘘をつく」それだけが耐えられなくなった天羽くん。さらに担任や友だちからも「願いをかなえるためには妥協しろ」と言い含められたわけだ。懸命に「本当の言葉」を口にしようとして、どんなに傷つけられてもかまわないと覚悟したにも関わらずだ。

 心、揺れないわけがない。


「けどさ、見事に結果オーライ、だもんな。驚いちまったよ。狩野先生や立村の言う通りだぜ。あんな心のこもらない白々しい台詞を、鵜呑みにしちまう奴がいるなんて俺だって信じられねえ。どんなに俺が本当のことを訴えたって、どんなに伝えようとしたって、理解してくれなかったのにさ。西月の奴、あっさりと、ほんとあっさり片岡とくっついちまいやがった。今まで俺がしてきたことってなんだったんだよ。誠実ってなんなんだよ。あんな嘘ばっかりついて受け入れられようとすることなのか? 白々しい友情ごっこして、好き合えることなのか? 優等生ぶりっこする態度がいいことなのか? 俺にはわからねえよ。どうすればいいんだよ、ちくしょう、ちくしょう」


 ──別に、私には関係ないけど。

 紡は慰めの言葉を捜してみたが、口にするのをやめた。

 きっと天羽くんはそんなこと求めていないだろう。仮にも、紡のことを想っていたとするならば、こんなみっともない顔なんてさらけ出したくはないだろうから。かえって気が楽だった。落語演芸友だちとして割り切るならば、天羽くんの気持ちは伝わってきて痛くなる。

 ──天羽くん、別に恥じることはないわよ。

 ──だって、西月さんも片岡くんも、にせものの想いで満足できる人だもの。

 紡からすると、片岡くんへ親切にしてあげた西月さんは、自分の行為に酔いたくてしていたそれだけの人だ。いざ、片岡くんに懐かれると本当は逃げたくてならないくせに、いい子の仮面を外せずにおろおろするだけだ。もしかしたら本当の王子さまからもしれない天羽くんが戻ってきてくれる、そう信じていたからだろう。

 その「偽善の親切」を丸ごと鵜呑みにして満足している片岡くんだって同罪だ。そりゃあどうしようもなく同情が欲しかっただろうし、惜しみなく与えてくれる西月さんには感謝しても感謝しきれなかっただろう。それが恋に変わったとしてもおかしくはないだろう。たとえ同情だとわかったとしても、「偽善」であったとしても。片岡くんという人は、本物の想いじゃなくても十分おなかいっぱいになることのできる人なのだ。

 天羽くんや紡とは違う次元の人たちだ。

 「偽善尽くし」の想いで慰めあえる人々とは、つながりたくない。

 天羽くんが懸命に、嘘偽りのない言葉をぶつけても、西月さんに伝わらなかったのは、西月さんが嘘いつわりのたっぷり混じった食べ物しか受け付けない人だからだろう。紡にはその人工着色料たっぷりの味わいに吐き気がするのに、彼女はそれでないと味覚が反応しないのだ。

 別にそれはそれでいい。人の自由だ。

 ただ、紡はそういうもので満足したくはない。

 嘘、いつわり、全くない、そんな感情で想われたい。


「私、西月さんみたいな人嫌いよ」

 天羽くんのしゃくり声が落ち着いたところで、紡はストローをくわえたまま言った。

「だって、むかつくじゃないの。片岡くんにくっついて行こうとした時、天羽くんを何度も見ていたでしょ? あれはあきらめていないってサインよ。私はあきらめません、好きになってもらえるためならば、なんでもしますって人だわ」

 吐き出すように続けた。

「でもね、それは西月さんの勝手よ。どんなに西月さんが努力しても、周りの女子たちがヨイショしてくれても、結局天羽くんは西月さんを好きになることができなかったというそれだけのことよ。でしょ。その気持ちだけは、誰にも変えることができないわ。私にもね」

 最後の「私」というところに強くアクセントをつけた。

「委員長や、うちの担任はそれをうまくごまかして、ご機嫌取る術を知っていたようね。別に私もそれが悪いとは思わないわ。そうしないと西月さんは消えてくれなかったもの。でも、天羽くんはそのやり方が嫌いだった。それも本当よね」

「近江ちゃん」

「だったらそれでいいのよ。あの種の人物には、偽善や嘘のてんこもりでお付き合いしないと言葉が通じないだけだもの。だから私も猫をかぶってできるだけ女子たちと交流しないようにしているし、天羽くんも美辞麗句を浴びせてごまかしたってことだけよ」

 無言で天羽くんが決まり悪そうに足をもじもじさせている。

「私は別にいいのよ。私が天羽くんに、そういう人であってほしいと押し付けているだけだから。甘ちゃんよね」

 ふふ、と笑って見せた。

「近江ちゃん、あの、俺、契約期間切れても当然のことしちまったけど」

「契約? そんなの最初っから切れているって言ったでしょ。切れていてこういう風にしゃべっているのなら、別にいいじゃないの」

 紡は部屋の明かりをリモコンでつけた。ずっと光っていたミラーボールが一気に力を失い、昼間に近い光をきらめかせるだけになった。

「とりあえずなんだけど、天羽くん。ここはカラオケボックスなのよ」

 涙の跡が臭そうだ。天羽くんがごくりと咽を鳴らした。

「あの種の人たちはカラオケボックスを密談の場所に使うんだろうけど、私たちはむしろ歌う方に利用したいと思うんだけど、どうかしら。一時間五百円だったら延長料金払ってもいいわ」

 その後で、と付け加えた。

「帰りにケーキ買って帰りましょう。『アルベルチーヌ』ってとこよ。おいしいわよ」


 紡は一人でマイクを握り締めている天羽くんに黙って部屋を出た。時間延長と飲み物の注文を改めてするつもりだった。一階の部屋をたまたま通った時、さっきまで一緒の部屋にいたある人を見た。

 おかっぱ髪に前髪をすくったような、古臭い髪型の女子だった。

 もちろん誰も歌ってはいない。 もちろんミラーボールも回っていない。薄闇の中、三人の人影がテーブルを囲んでいた。歌詞を映すブラウン管が揺れていた。

 背を向けているのは男子ひとりで、紡や天羽くんと同じチェックのブレザーを着ている様子だった。

  延長を申し込むためにカウンターに寄り、部屋の予約氏名を確かめた。

  「杉本」と書いてあるその下に「泉州」と続いていた。

 ──そういうことか。

 納得した。

  部屋の中はさぞわきが臭いだろう。紡はそっと肩をすくめた。


 誰が計画したのかは問わないで置こうと思う。あの、天羽くんリンチ事件も、今回の片岡くん登場事件も、西月さんの親友である泉州さんがたくらんだものと考えれば話は通じる。決して西月さんは文句を言わなかっただろうけれども、黙って親友たちが行うのを追っているのだったら同じ罪だ。紡の言葉もかなり、片岡くんを選ぶのには効果があっただろうけれど。結局は西月さんが、自分をいい子ちゃんの立場に置きたくて最後まで演じただけのことだ。吐き気がする。

  でも、紡はこれ以上関わる気もなかった。

 ──偽善で満足できる奴には、なりたくないわ。

 廊下に汗臭い匂いが漂ったような気がした。紡は足音を立てぬようにエレベーターに向かった。ドア越しに響く天羽くんのがなり声がなぜか、心地よかった。


 ──終──


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