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「天羽、来ないな。どうしたんだろう」

 教卓に片手をついて、立村評議委員長が何度も廊下側の扉を眺めた。あと一週間で六月だ。そして一週間後は修学旅行だ。だいぶむしむししてきた教室だけど、今日は戸を締め切ったままだった。窓だけが空いているけれども、天羽くんが到着した段階でそっちも締めるだろう。暑くはないけど、汗臭くなりそうだ。

「今日やる、って言っておいたんでしょ」

 清坂さんが真向かいの席で小首をかしげて、委員長を見上げた。三年D組の教室にいるのは、立村委員長と清坂さん、そして紡の三人だけだった。土曜の放課後ということもあり、午後から部活の練習がある奴ら、委員会関連で忙しい奴ら、生徒会関連で駆けずり回っている奴ら、それぞれがうろついているはずだった。

「天羽くん、ちゃんと今日来るからって言ってたけど。それにしても清坂さん、今日のブローチ、可愛いわね」

 紡は襟元のリボン型ブローチを指差し、触れてみた。いきなりだと怒る子もいるけれど、清坂さんは嬉しそうに笑って肩を近づけてくれた。もっと触っていいよ、の合図らしい。

「これね、この前誕生日に貰ったの」

「委員長に?」

 目の前に相手がいるのはまずいかと思ったけれど、言ってしまった。頬を赤らめるかと思いきや、あっさりと否定する立村委員長。

「違うよ。清坂氏、これ、確か羽飛と古川さんが一緒に買った奴だろ」

「ど、どうして知ってるのよ!」

「選んだところ、俺、一緒に見ていたから」

 何にも考えていない表情の立村委員長。彼氏から貰ったものではないらしい。清坂さんが慌ててブローチを握り締めるしぐさをした。

「あ、あのね、近江さん。ほら、友だち同士でよくプレゼントしあうのよ。男子女子関係なく、ね。こういうのいいな、って何気なく言っておくと、女子の友だちがチェックしてくれるのってあるじゃない。ね、それよそれ」

 ──私だったら、指輪をあげたいのにな。

 心にささやく声を聞きながら、紡は肩をすくめて見せた。

「ちなみに委員長は何くれたの」

「何も、何もくれないよね、というか貰う必要ないよね」

「赤い巾着、あれ、やはり気に入らなかったか?」

 ──赤い巾着ってなによなに!

 全く、青大附中評議委員会のベストカップルにあてられるわが身が呪わしい。本当は今、こんな脳天気な話をしている場合ではない。おふたりさんだってその辺はわかっているだろう。天羽くんが現れるまでの間だけ、おちゃめなおしゃれ話に現を抜かしていられるのだと紡もよく理解している。でも、一秒でもいいから先に伸ばしたい、というのも本音だ。紡もこれから何が行われるのか分かっている。天羽くんも覚悟しているはずだ。

「近江さん、ねえねえ、天羽くんには何か貰ったことあるの?」

「一応、こういうもの」

 かばんにはラピス色のピルケース。交際申し込みの際にいただいたのはビーズの白い指輪。壊れそうなので自分の指にはめた事はない。一応、試用期間中という証でもある。

「うわ、可愛いなあ。ね、立村くんこれこれ」

「こういうのが清坂氏も好きなのか」

 清坂さんに尋ねる立村委員長の顔は、少し疑問ありげだった。たぶん立村委員長のことだから、それなりにおしゃれなもの、高級なもの、和風なものを検討し選んだのだろう。でも、本当に女子が喜ぶものってちょっと安っぽいけどきらきらして可愛いものだろう。清坂さんならビーズアクセサリー、きっと好きなはずだ。帰りに本屋へ寄って、ビーズアクセサリーの作り方の本を買っていこう。そして、清坂さんとペアリング作ってあげちゃおう。

 ──天羽くんからもらった、指輪、か。

 ──覚悟はできてるよね、天羽くん。

 延ばしたくても延ばせない現実が近づいてきている。

 紡はピルケースをしまい込み、腕時計を覗き込んだ。しぐさに何かを感じてか、立村委員長も清坂さんも黙り、顔を見合わせた。もう一度扉の方を眺めた。

「ほんとに、遅いな天羽。あのさ、近江さん」

 思い切ったように、立村評議委員長が紡にかがむような格好で尋ねた。

「A組で天羽、相当立場きついところにきているんだろう。狩野先生どうしてやってるんだろうな」

「別に、私にはあまり関係ないから知らないけど」

 そういえば、と思い返してみた。「あの人」もここ二週間ほど、修学旅行準備に重ねて、西月さんの問題であちらこちら走り回っている。お姉ちゃんも口には出さないけれど、ふたりっきりのこともご無沙汰らしい。お姉ちゃんをさっさと離婚させたい紡としては望ましいことだが、いきなり「あの人」に倒れられると評議委員としての自分も困る。お姉ちゃんが「あの人」の看病ごときで老けた顔になられてもいやだ。

「毎日西月さんの家に連絡入れたりはしているみたいだけど、天羽くんはひとりでも平気だし、そのまま投げたまんまでもかまわないと思っているんじゃないかしら」

「そうだよな。まずは、西月さんのことが第一だよな」

 独り言っぽく立村くんがつぶやいた。

「近江さんにはとばっちりだったよね」

 ちゃんと気を遣ってくれる清坂さん。

「しょうがないわ、もともと、私こういう性格だから敵作らずにはいられないみたい」

 ──いいのよ。清坂さんさえこうしていられれば。

 せっかく見つめあって微笑みたかったのに、清坂さんの瞳は扉をまた眺めている立村委員長の元へ向かっていた。いつもそうだ。結局そうだ。悔しい。

 ──叶わぬ恋、かあ。

 紡はため息をついた。きっとこのふたり、紡がふさぎ込みたくなる理由を勘違いしている。天羽くんと西月さんとのことで、心痛めていると思っている。もしかしたら西月さんに対して同情していると思い込んでいるのかもしれない。違う、それだけはありえない。どんなに西月さんがこれから自分を「悲劇のヒロイン」に仕立て上げようとも、「母」と同じシグナルを点滅させている彼女に同情することなんてない。

 ──いいかげん、あきらめりゃあいいのよ。

 ちょっと寂しげにうつむいて、また委員長に話し掛けようとする清坂さんが妙にいじらしくて、紡はもういちど小さく「ほっ」とつぶやいた。


 来ない。あまりにも遅い。清坂さんと二人でいられる分にはかまわないけれども、思いっきり気の進まない予定を消化しないといけない。張本人の天羽くんが現れないと話にならない。十五分も経ってしまった。ふたり、さっき一緒に大学の学食で冷麺を食べてきたらしくその話で時間をつぶしていたけど、腹ごなしが終わったらしくまた扉を眺める。

「天羽、日にち間違えてるなんてことないよな」

「大丈夫。今日確認したもの」

 紡は断言した。 今日の四時間目が終り、掃除当番だった天羽くんに一言、

「例のことだけど、私、清坂さんと三Dで待ってるから」

 と伝えておいたのだ。天羽くんからは無理にからっとした声で、

「近江ちゃんがいるなら百人馬力だあ! じゃあ俺も用事終わらせてから行くから。立村から彼女取るんじゃねえよ」

 非常に鋭い言葉を投げかけられた。さすが、伊達に付き合っているわけじゃない。

 立村委員長はもう一度、清坂さんと顔を見合わせてうなづきあった。

「じゃあ、忘れるわけはないしな」

「まさかと思うけど、用事思い出したんじゃないかなあ」

 暗に、「逃げたのでは」という意味が篭っている清坂さんの言葉。本当の彼氏に対して言われたことだったら「失礼な!」と言いたくなるのだろうが、「かもね」と思ってしまうのは紡が意識下で天羽くんを信用していないからなのだろうか。

「いや、それはないよ。天羽、約束守る奴だよ。先生に捕まって説教されているのか、かな」

 教壇から降りて、もう一度腕時計を覗き込む立村委員長。もう一時四十五分だ。最初の予定は一時半だったはずだ。

「教室間違えたのかもしれないし、ちょっと見てくるよ」

 ──わあい、清坂さんとふたりきり。

 万歳三唱したいところをがまんして見送った。相変わらず、委員長の肩幅は狭く、細い。エビぞりしたら一気にぽきんと折れそうだ、どこかの誰かさんにそっくりだと思った。


 「近江さん、今日のこと、心配じゃない?」

 ふたりっきりになったところで、清坂さんが紡の方に身体を向けた。ちゃんと足を揃えて、手を膝の上で重ねたままにした。

「別に、私とは直接関係ないし」

「でも、天羽くんのことだから、不安、だよね」

 ──清坂さんのことだったら心配になるかもしれないけど。

 きれいに伸びたおかっぱ髪が可愛い。修学旅行前にはもう一度美容院でおしゃれに決めてきたいと話してくれていた。修学旅行の自由行動グループには清坂さんと同じところに入れてもらうことになっている。あまり乗り気しなかった修学旅行だけれども、恋する彼女がいればなんてことはなかった。

 でも、口には出せない想いなのだとわかっていた。

 決してお互い、重なり合えない感情なんだとも。

 どんなに紡が求めても、清坂さんの返してくれるものは生身そのものではない。

 ──やっぱり、私はもう天羽くんと付き合ってるってことなんだろうなあ。

 あきらめの気分で紡は答えた。一応、相方ということにしておく。

「委員長は、『弾劾裁判』っていうのをしょっちゅうやっているの?」

 一番聞きたかったことはそれだった。青大附中の生徒はみな知っていて、大人には決して話さない秘密の自浄機能。『弾劾裁判』。

 『弾劾』を辞書で引くと、「公の責任ある地位にある人の冒した不正の事実を暴露して責任を追及すること」(新明解国語辞典より引用)であって、これから行われるものとはかなりずれているように思う。青大附中における『弾劾』とは、

「クラス・委員会などで委員に属する生徒が不祥事を起こした場合、その生徒が属する委員会の長により詳しい事情聴取を行い、その上で『生徒の行動範囲内』において刑罰を与える」

 というものらしい。文書として残っているわけではない。代々の先輩から口伝えだからなおさら解釈が曖昧だ。

 「刑罰」って何?

 「生徒の行動範囲内」って何?

 理解不能だった。要は西月さんを口利けないくらい傷つけた天羽くんを、評議委員長が事情を聞き、その上で何をすればいいかを忠告する、といった程度のものだろう。西月さんの精神的打撃が目に見える形であらわれた以上、立村委員長も行動を起こさないわけにはいかなかっただろう。なによりも、三年の女子ふたり……清坂さんを除いた三年女子評議……が立村委員長にやいのやいのと突き上げたという事情も絡んでいる。もちろん立村委員長の性格上、西月さんの気持ちを思い遣った挙句の憤りも混じっているかもしれない。その辺は仕方ないことだ。天羽くんも覚悟はしているはずだ。

 ただ、天羽くんと委員長との間には食い違いがあるようにも感じる。というのも、天羽くんはてっきり「裁判」だと断言していたのに対し、立村委員長は「今日は詳しい話を聞きたいだけ」と認識していたようすだった。裁判となったら、西月さんからも詳しい事情を聞かねばならないだろうし、今の状態で冷静に対話が成り立つとも思えない。

 なによりも、他の評議委員が誰も来ていないということからしておかしい。 

 なんで立村委員長、清坂さん、紡、そして天羽くんの四人だけなのか。 こんなの裁判でもなんでもない。ただの事情聴取だ。

 清坂さんは困った風に唇を尖らせた。キュートだ、いい。

「たぶん、今回が初めてじゃないかなあ。立村くん、あまり人を裁くということ好きじゃないし、ほんとだったらもっとこういうことしてもいいって時だってやらない人なんだよ」

「こういうことしてもいいって時?」

「うん、立村くん、二年の男子から馬鹿にされてること多いでしょ。結構失礼なこと言われて傷ついていること、あるんだけど。でもそういうのは気にしないようにしてるみたい」

 そんなこと言われたくらいで傷つくこと自体が驚きだ。清坂さん、やはり委員長のことは考え直したほうがいいよ、と紡は言いたい。

「前の委員長……ほら、今年卒業した本条委員長の頃はしょっちゅうあったみたいよ。殴り合いとか、部活関係の大喧嘩とか、男子の先輩って血の気多い人たくさんだったから。立村くんも一度やられたって言ってたけど」

 それは意外。あの温厚そうな立村委員長が男らしくけんかに巻き込まれたことがあるとは。詳しく聞いてみたいけれど、清坂さんはそれ以上話してくれなかった。

「ううん、私もわかんないの。本条先輩の時は怒鳴られて、殴られて、それで終りだったらしいの。けど、立村くんは一方的に殴ることって好きじゃない、はっきり言ってたの。殴っても傷つけあうだけだから、話し合いにしようよって。だから今日も、たぶん、だけど」

 キャットボイス。酔いそうだ。

「立村くん、ちゃんと天羽くんの話、聞いてくれると思うよ。だから、近江さんも安心していいと思うの」

 ──天羽くん、一発二発殴られるのはがまんしてよし。私は満足よ。

 すっかり本来の目的を紡は忘れていた。

   

 時計の針が二時五分前を差していた。扉が開いて立村委員長が戻って来た時、清坂さんが後ろの机を思いっきりずらすくらい、勢い良く立ち上がった。

「立村くんどうしたの」

  一テンポ遅れて紡も気が付いた。顔が険しい。もともと色白の顔が能面状態のまま立っていた。ドアノブを握り締め、開けたはいいが入ることを忘れている風だった。

「悪い、近江さん、来てくれないかな」

「私は私は?」

 清坂さんが顔を左右に動かし尋ねた。

「来るか?」

 少しためらった後、委員長は清坂さんにも許可を出した。紡はのろのろと立ち上がった。

「何かあったの?」

「とにかく、物音立てないでA組に移動しよう。話はそれからだ」

 動揺していることはよく伝わってきた。清坂さんの顔も同じく不安の薄化粧状態だった。立村委員長ばかり見つめていた。扉が閉まるのを追いかけて開けた。

「近江さん、行こうよ」

「何か様子、変よね」

 紡が尋ねると、清坂さんは大きく頷き、それ以上何も言わなかった。しゃわしゃわと風が廊下に流れているのが気持ちよい反面、なぜかぴんとした空気が張り詰めていた。誰も三年の教室には居ないらしい。静かに歩いていく必要があるのかすら紡にはわからなかった。あとで天羽くんが来た時、どうするんだろう。心配なんじゃないだろうかと思ったりもした。


 心配する必要はなかった。  

 天羽くんはいた。

 ──どうしてあんた、床にそんな格好してひっくり返っているわけ?

 椅子が二脚ひっくりがえり、机が勢い良く曲がった三Aの教室内で、天羽くんは床にぺたんと腰を落としていた。背に回した手は、しばられていた。

 

  隣りで清坂さんが、

「うそ、天羽くん、どうしたのよ!」

 と駆けよりしゃがみこんだ。首をかしげて天羽くんの顔を覗き込んだ。紡も続いた。立村委員長が乱れた机を直していた。掃除の終わった土曜の午後とは思えない机のずれように、何かが起こったことを読み取った。修羅場だきっと。

「今、後ろ手外すから、待っていろよ」

 立村委員長は教室の戸をしっかり閉めた後、天羽くんの手首を締め付けている色つきの紐を解こうとした。うまくいかない。思ったよりもこの人不器用だ。見かねた清坂さんがスカートのひだをぽんと叩き、

「私がやるから」

と器用に結び目を解いていった。

「そんなにきつくなかったじゃない。天羽くん、自分で外せたでしょこのくらい」

 紡は顔を見上げて尋ねようとした。頬のところを見て息を呑んだ。

「ちょっと、あんた、どうしたのこれ。猫にでもやられたわけ?」

 浅黒い天羽くんの左頬には、ついさっきできたばかりであろう細い糸が赤く伸びていた。血がにじむ程ではないけれども、明らかに、何かで、誰かによって、ひっかかれた傷だ。

「いいんだ、これで」

 足は自分で外したらしい。丸く結んだ、ハンカチ落としの時に使うようなものが落ちていた。というより、これはハンカチそのものだった。女子の使うような、青い華やかな花柄ハンカチだった。  男子がこんなの使っていたら、趣味を疑う。

 紡は拾い上げた。

「天羽くん、あんた演芸および落語、漫才が趣味だったことは知っていたけど、まさか、『しばり』も趣味ってことないよね」

「痛いのは、やだ」

 こういう時でもおふざけが好きなのが天羽くんだった。にかっと笑った。無理している。右の頬の様子も、わずかに赤く腫れているようだった。

「痛いことされてたくせに、何よいったい」

「これでいいんだ。近江ちゃん、ここにちょっと、してくれないかな」

「なによ、してくれないかなって」

「わかってるっしょお」

 ──ウインクするんじゃないわよ。日本人は顔の筋肉の関係で、うまく決まらないのよ。

 紡はほっぺたを両方、ぴたっと音立てて張ってやった。手のひらでくるむようにしたのは思いやりだ。

「あいったあ。もう、やだあ、もう」

「ふざけあうのはいいかげんにして、何があったのか言いなさいよ。全く、私には関係ないのになんでこんなことに巻き込まれるわけ?」

 ふざけたかったのは紡自身だった。


 遠慮したのか……別に側に居てもいいのに……清坂さんが立村委員長の側でなにやらささやきあっていた。遠慮がちに話し掛けてきた。

「あのね、近江さん」

 思い切った風に、息を吸い込んだ。

「天羽くん、A組で手と足縛られて、こうしていたの。あんまりいいことじゃないよね」

 続けて立村委員長も天羽くんにかがみこみ、手を縛っていた色つきの紐……こちらもハンカチだった。ピンク色……を片手に持った。

「正直に言えよ天羽。誰かに、絞められてたな」

 一瞬こいつ誰、とあたりを見渡したくなるような、凄みのある声だった。いつもの立村委員長じゃないようだった。天羽くんは答えずにうつむいた。おなかのベルトを外してぶらぶらともてあそんだ。

「しょうがねえだろ。俺の自業自得だ」

「だからって、一方的に絞められていいってことにはならないだろ。相手、誰なんだ?」  

  天羽くんは答えずに、委員長の持っているハンカチを取り替えそうとした。そうはさせじと背中に隠す立村委員長。紡が受け取りしっかとポケットにしまい込んだ。

「証拠物件、捨てるわけにはいかないわよ。委員長、ほら、足下のも拾って」

 抜けている。天羽くんが四つんばいになって奪おうとしたのを紡は掠め取った。 

「何するんだよ、何されてたって俺の勝手だろ!」

「暴力はよくないよ。何があったって。特に今のは一方的過ぎる」

「お前だってさ、新井林と決闘やっただろ。水鳥中でも」

「すねには傷あるけどさ。けど、天羽、お前のは正々堂々ってやり方じゃないよ。相手を縛り付けて、反抗もできないようにしてさ」

 天羽くんはどんと足を踏み鳴らした。

「違うっつうの。立村、これはお互い了解の上でやったおあそびなの。だから心配せんでもよろしいの。ったく、大げさなんだからなあ」

 わざと大声で平気なふりをする天羽くん。そんな奴を紡は、「うそつき」とつぶやきながら見つめていた。何かがある。絶対ある。

「じゃあなんで、今日すぐにD組に来なかった」

 同じことを考えていたのは、委員長も同じだったようだ。

 一切感情を交えず、どこかの誰かさんのように静かに、しかし有無を言わせぬ口調だった。もし立村委員長の顔が見えなければ、たぶん逃げたくなる。

「天羽、昨日言ってただろ。きちんとけじめつけるってさ。今のこれも、お前にとっては『けじめ』なのか」

 ふくれっつらしていた天羽くんは、しばらくどうすればいいかわからないという風にきょろきょろした。話を逸らしたくてならないらしい。でも紡も、そうさせる気はない。

「このハンカチ、柄からして女子のだよね」

 広げたハンカチには、四方に細かなしわが絞り風に残っていた。

「別に私はどうでもいいんだけど、西月さん関連のこと?」

 委員長と清坂さんが顔を見合わせた。

「呼び出されたんだな」

 天羽くんは何度かごまかそうとした。同じ言葉ばかり重ねるというのは、やはり知られたくないことの現れなのかもしれない。あまりしつこく追わない立村委員長も、今日はずいぶんねちっこかった。言葉を変え、品を変えた。

「殴られる方が最優先だったんだろう」

 ゆっくりと委員長が天羽くんのネクタイを持ち上げ、ぱたっと落とした。

「隠したいなら言わないでいい。天羽が納得しているんだったらもう俺は何も言わない。けどさ、天羽」

 頬のひっかき傷だけをじっと見据えた。

「集団だよな。一対一の勝負だったら俺も文句言わないけどさ、お前されたことは一種のリンチだよ。西月さんの件も絡んでいるんだったら、一方的に文句は言えないけれど、少なくともひとりを集団で殴りつけるなんてことは、あっていいと思わない。この件は、俺の判断で狩野先生に持っていく」

「やめろ、てめえ! お前、おきてを忘れたのかよ」

 男子の世界はよくわからない。おきてだとか闘いだとか、みそぎだとか理解できないやり方で処理をしようとする。女子としては見守るだけ。清坂さんも同じく両手を握り締めていた。

「天羽、お前は告げ口なんてしなかった」

 立村委員長の目は穏やかだったけれども、口答えを許さないどこかの先生に似ていた。

「俺はただこの状況を発見し、集団リンチだと判断した。だから担任の狩野先生に報告に行った。それだけだって。裁判については後でまた話そう。とにかく俺は先に先生のところに行って来る」

「狩野先生、あの人とっくに帰ったんじゃ」

 言いかけた天羽くんを遮り、かすかに笑みを浮かべた。とっくに知ってたよ、といわんばかりに。

「『E組』は土曜五時まで教室空いているんだよ」

 清坂さんにちらっと目で合図をすると、立村委員長はさっさと教室を出て行った。清坂さんも慌ててついていった。扉が閉まる寸前まで紡に手を振ってくれた。思わず振り返し、天羽くんににらまれた。  

 追いかけようとした天羽くんを紡はしっかりと押えた。紡も力いっぱいつかんだつもりではなかったのだけど、素直に動かなくなったところを見ると、無理に行こうとしたわけではないのだろう。もう一度がくっと頭を下げてしゃがみこんだ。

「畜生、立村の野郎、なに考えてるんだよ」

「悪いけどあの人も、ずいぶん頭いいわね。ほとんど状況把握してるみたいよ」

「知ったことかよ。単なる女王様と奴隷ごっこだってのに」

「あら、女王様は私でないといやなんじゃないですか?」

 少し刺激的な言葉を投げかけてみた。一歩ずれた行動を少し直したかった。

「それにね、天羽くん。いいたかったんだけど、立村委員長、ハンカチの柄もかなりまじまじと見ていたわよ。もっというならほっぺたの傷、猫でしょ。雌でしょ」

 かなりねちっこく言ってみた。ちっと舌打ちをした。

「奴が狩野先生連れてきたら、ちゃんと言うよ。んなわけねえっしょ。俺、Mかもしれないし」

 紡は笑わず、しばらく天羽くんの瞳を見つめた。じっと、そらされてもそらされても繰り返した。


 立村委員長を先頭に、狩野先生が息を切らせて天羽くんの側にかけよった。やっぱり『E組』に待機していたらしい。いったい何を考えているのだろう。紡は何も言わずに一歩、天羽くんから離れた。第三者の立場ということで、立村委員長の隣りに立ち見下ろした。

 やはり同じくしゃがみこみ「あの人」は、天羽くんの顔を両手で抑え、じっくりと頬を観察している。ひっかき傷に気付いたらしい。 その体勢のまま振り返ると紡よりも立村委員長に頷いてみせた。

「近江さんは先に帰ってください。それと、立村くんも今日は連絡してくれてありがとう。いつもの補習のことですが来週の月曜に延期させてください」

 口早に立村委員長に話し掛け、めがねの奥からきりりと天羽くんを見つめた。

「今日は天羽くん最優先です。話が終わるまでは帰れないのだと、今日は覚悟してください」

 ──なにを覚悟するのよ。受け取り方によってはこの人、危ないこと言ってるかもよ。

 当然、といった風に立村委員長は頷いた。場慣れしているという感じだった。廊下で顔を覗かせている清坂さんがちらちらしている。

 紡もこれ以上は言い返せなかった。何も言えずに教室を出るしかなかった。

 気を遣ってくれなくてもいいのに、D組評議ふたりは何も言わないで紡を見送ってくれた。軽く手を振って自転車置き場へ向かった。


 こう言う時は、お姉ちゃんと「アルベルチーヌ」で紅茶を飲むのが一番なのだけど。

 ──別に人のことなんだから、どうだっていいでしょ。

 何も言ってくれなかった天羽くんに、紡はいつのまにか恨み言を並べていた。

 聞こえないように、空に向かってぶつぶつと。

 ──男子にやられたんだったら、ほっぺたがもっとはれ上がっていたはずよ。あんなゆるい結び方して、あんな証拠ばればれのハンカチ落としていって、何がリンチよ。ばっかみたい。頭悪すぎるわ。天羽くん、覚悟の上でA組にいき、そこで殴られるかなんかしたのかしら。

 おそらくA組の女子がたくらんだことには違いないだろう。可能性としては泉州さんが女子をけしかけたのか、もしくは当事者としてたくらんだのか、その辺はわからない。天羽くんも白状するつもりはなさそうだし、うやむやにせざるを得ないだろう。ただ、「あの人」もそれなりに色々追い詰めたりするだろうから、事情はすぐに判明してしまいそうな気がする。この前泉州さんにひっかかれた傷は、もうだいぶ薄くなってきたけれども、爪の黒い赤が血に染み込んでいたのではというのが気持ち悪くて何度も顔を洗った。  


 もう、天羽くんは覚悟をしていたのだろう。

 なんとなく、この二週間で紡も気付いていた。

 天羽くんは西月さんが口を利けなくなってしまったことに、責任を感じているに違いない。すべての原因が自分なんだと思い込んでいるに違いない。本当のことを言ってしまい、自分に嘘がつけなくなってしまい、不安定になった自分が悪いんだと思っているに違いない。そんなことない。本当は違う、違うのに。天羽くんが悪かったのは、ただ早い段階で西月さんに、「お前のことが嫌いだ」と言ってあげられなかったこと、それだけだ。

 ──そうよ。天羽くん。

 願っていることが、空の白い月と一緒に重なって映った。

 ──天羽くんには、あのことを謝ってほしくない。


 許せなかった。同情を買おうとして自分を傷つける振りをするあの女子を紡は、とことんぶったたいてやりたかった。気が狂うほど殴りつけてやりたかった。母と同じやり方をして、欲しいものをどんなことしても手に入れようとする、あの女子を紡は憎んだ。天羽くんの心を無意識かわざとか知らないけれど引っかきつづけ、自分はいいことしているんだと思い込んでいるあの女子を嫌悪した。少しずつ譲歩しようとして、自分の取り分を増やしていこうとするあの女子を蹴落としてやりたかった。自分でやったのか、それとも人がやってくれたのかはわからないけれど、ごたごたとなった理由はあの女子ひとりにある。 そっと頬を撫でる風が、熱気をかすかに帯びている。天羽くんは打たれた頬に何を感じたんだろう。紡は学校へきびすを返して駅に向かった。


 一日おいて、「弾劾裁判」の仕切り直しが伝えられたのは、清坂さんの電話からだった。

 よりによって修学旅行二日前になんで、「弾劾裁判」を設定するのだろう。立村評議委員長もやはり同学年、「修学旅行が始まる前にすっきりさせたい」という気持ちもわからなくはないのだけれども、準備が間に合わないなんてこと、考えてないんだろうか。

 清坂さんから電話連絡をもらい、紡はボストンバックに着替えを詰め込む手をぶらんとさせた。ただでさえ旅行中、生理日にぶつかるとあってうんざりしているっていうのに。

「この前も話したけど、大丈夫よ。『裁判』なんて建前よ。やっぱり、あの、いろいろあったじゃない? その残務処理をしようよってことみたいなの。だから近江さんも安心して来てね」

「どこに行くの?」

「放課後にカラオケボックスにしようって話になっているみたいよ」

 ──カラオケボックス?

 信じられない。どの面下げて立村委員長、「カラオケボックス」なんてうるさそうなところ選んだのだろう。天羽くんから聞いたところによると、委員長の趣味は「和風の落ち着いた感じの喫茶店」がメインだという。明らかに制服で騒ぐのは場違い、と言える場所を選んで、いつも堅苦しい思いをさせられるとかなんとか。「アルベルチーヌ」にある意味似ているような気もするし、男女差別するつもりはないけれど、男子がそういう場所に平気で出入りするというのもどうかと思う。

「そうよ。立村くん、歌も嫌いだしね。でも、できるだけ気付かれない場所で話をしたいし、学校の中だと揉め事起こりそうだし、それに、ね」

 甘いささやきに紡は、受話器から耳を離さずにいた。

「天羽くんの事件、やはり、大騒ぎになっちゃったしね」


 天羽くんが両手両足しばられてA組の女子たちから制裁を加えられた事件。紡たちが帰った後、「あの人」……狩野先生はひたすら生徒たちの家を臨時訪問するため車を乗り回していたという。すっかり全身精力を搾り取られた状態でご帰還した後は、ぐったりと眠り続け、目が覚めるやいなやまた学校と生徒宅を走り回る。お姉ちゃんもその状況に仰天して実家へ電話をかけてくる始末だった。土日を挟んでいた。

「セシル、いったい学校で何があったわけ? あのままだと皇人さん、過労死するわ」

 ──お姉ちゃんを未亡人にはしたくないわね。

 しかたなく紡は、話して問題ないであろうことを話した。手元に証拠のハンカチが残っていることとか、相方の修羅場に巻き込まれたとか、そんなことだった。別にまずいことは言わなかったと思う。しかし、口の軽いお姉ちゃんを信じるべきではなかったと反省したのは月曜のこと。女子五人がなぜか、欠席していたのには驚いた。意外だったのは、おそらく裏で糸を引いているのではとにらんでいた泉州さんが全く平気な顔をしていたことだ。泉州さんが親友の恨みを晴らすためでもなく、西月さんが元彼氏に友だちを使って復讐したわけでもなさそうだった。

  詳しい話はその後、お姉ちゃんから聞きだしたけれども、途中で口げんかしてしまって電話を一方的に切ってしまったので、よくわからない。

 知っているのは、天羽くんを集団リンチにかけた女子五人が、狩野先生の判断により二日間の自宅謹慎処分を受けたこと。そしてそのうちの一日、狩野先生の家につれてきて、お姉ちゃんによって「アルベルチーヌ」ばりにもてなし、いろいろお話をしたという。きつい処分をしたくせに、結局女子受けのいいお姉ちゃんを使って女子たちの心を開こうとするそのやりかた、汚い。でも頭いいやり方だ。

 いや、それはいいのだ。お姉ちゃんはもともと女子が大好きだ。こんなおしゃべり女だとは思わないだろうし、紡の姉だとも認識していなかっただろう。一応は用心していたようだが、すぐにお姉ちゃんのペースに持っていかれ、女子五人は言いたい放題紡の悪口を言い放ち、すっきりして帰っていったようだ。

 彼女たちがすっきりしたってことは、お姉ちゃんも話をあわせて紡のことを肴にしたってことだろう。それがまず許せない。頭の悪い女子たちをよりによって。これも許せない。なによりも紡が激怒したのは次の一点だ。

「私はね、セシルに幸せな恋をしてもらいたいなって思うから言うけど、なんだかセシルのしていることって、その西月さんとおんなじことのように思えてならないのよ」

「どういうことよ!お姉ちゃん、言っちゃいけないことってあると思うんだけど。私あんな頭の悪い女子と一緒にされたくない!」

「ううんそういう意味じゃなくて。セシルって、いつも、手に入らないものばかり追いかけて、本当に大切にしてくれそうな人を見ていないっていうのかな」

 いいたいことはよくわかった。要するに、いいかげん女子好みの性格を改めて、天羽くんで妥協しろってことだろう。最近は天羽くんに影響されて、漫才・落語・演芸ものの話題ばかりが増えている。テレビをつければバラエティー物ばかり観てがはがは笑い転げている始末だ。お姉ちゃんから見たら、天羽くんは旦那様公認の、素敵な彼氏に映るのだろう。顔を見たことあるかどうかはわからんが。

 ──お姉ちゃんならわかってくれるって思ったのに!

 ──手に入らないもので悪かったわね!

 お姉ちゃんのように、やわらかでふわふわしていて、ちょっとお馬鹿だけどでもきれいな人ならいいけれど、男子にそんなもの求めたって意味がない。どうせ、清坂さんのことばかり追いかけている暇あったら、いいかげん天羽くんとくっついてしまえって言いたいのだろう。それはわかる。よくわかる。しかしお姉ちゃんには言われたくなかった。

「もういい、ほっといて!」

 がっちゃりと切ったのはいいが、後で反省した。

 ──修学旅行のおせんべつ、くれるって言ってたのにな。受け取ってからけんかすればよかったな。

 それ以来、お姉ちゃんとは連絡を取っていない。

 ゆえに、狩野先生および三Aがらみの最新情報もまだつかめていない。


「そうなんだあ、お姉ちゃんってうるさいよね! わかるなあうん」 

 清坂さんが電話の向こうで共感してくれている。あのあどけない顔でうんうん、と頷いてくれているに違いない。今すぐ電話線伝って抱きしめたくなってしまった。

「でも意外だったよねえ。天羽くんをいじめた犯人、結局どういう人たちだったの?」

「本当は片岡くんと泉州さんがふたりで天羽くんを捕まえて、吊るし上げるつもりだったらしいんだけど、何かの拍子で他の女子たちに知れ渡ってってことみたい。よくわかんないわ。私には関係なかったからいいけど」

「でも、天羽くんと一緒に行動しているなら、巻き添えになっちゃうかもしれないよ」

 心配してくれているのだろう。ずっと顔がほころんでしまう。

 たぶん紡と天羽くんを狙っていたのは、泉州さんと片岡くんのふたりだっただろう。

 思いっきりぼこぼこに天羽くんを殴りたかったに違いない。

 でもあえて手を出さなかった理由はどこにあるのだろう。紡としてはもうひとつ、西月さんが影で手を回していた可能性も捨てていない。一方的に振られ逆恨みした西月さんが、クラスの女子たちのもたらす同情を一まとめ利用して、自分の手を汚さず復讐したのではという点だ。一部の男子たち、関係ない女子たちの数人も疑っていた人がいたらしく、直接西月さんの目の前で詰問したという。ところが、西月さんは聞くや否や、顔を覆って首を振り、激しく泣きじゃくったという。言葉がもれなかったところみると、たぶん芝居なんじゃないかなと思っているけれど。

 この三人ではなく、他の女子たちだったことが意外すぎて、正直なところ紡は答えが見つけられずにいた。混乱した、と言った方が正しい。

 学校側としてもなにせ「縁故クラス」ゆえに外部にもれるような騒ぎにはしたくなかったらしい。

 狩野先生の過労・心労をのぞいては無事、穏やかに片がついたらしい。いいとこのお嬢さんたちばかりなので、へたしたらスキャンダルになるかもしれない。そのことも考慮したのだろう。


「とにかく、天羽くんと小春ちゃんをもう一度、きちんと話し合わせた方がいいっていうのが、立村くんの意見なのよ。もうあの人、裁判って意識ないと思うな。ただ、天羽くんにきちんと、小春ちゃんにごめんなさいしてもらって、お互いすっきりした方がいいんじゃないかってことなの」

「なんで謝る必要があるの?」

 紡は言いたかった。清坂さんだからなおさら言いたかった。

「私も西月さんに言い渡した現場見ていたけど、天羽くんは何度も頭下げてたわよ。立村委員長、現場の録音テープ、聞かせてもらってないのかしら」

「聞いてる。絶対。その上で、立村くん、『弾劾裁判』にかけるって言ってたもの」

 ──やっぱりよくわからないわあの人。

 とにかく、修学旅行二日前に天羽くんと西月さんを招いての「弾劾裁判」が行われることは決定した。早めに準備しておこう。生理日一週間前特有の眠気といらいらを、飲み物たくさん飲むことにより紛らわせ、紡は大きくため息を吐いた。

 今まで西月さんを守るようにバリケードをこしらえていた女子の集団。しかし、五人が抜けて、わきがのすっぱい匂い溢れる泉州さんしか守り神がいなくなると、声もかけやすくなる。今までは紡も、そして天羽くんもきっかけをなかなかつかめずにいたのだが。天羽くんも、チャンスがあればきちんと西月さんに話し掛けようと思っていたらしい。寡黙になってしまった西月さんに、一言、あやまらないと自分が不安になりそうで怖いのだそうだ。紡が何度、「あんた謝る必要ないわよ」と言い聞かせても無駄だった。男子は自分でやりたいことしかしない、って本当だとつくづく思った。


 青潟には梅雨がないと言われている。でも雨の降る日は比較的多かった。今も昼休みが終わった直後から、雲が薄黒く固まりを作り、一気に音を立てて窓ガラスを叩いた。先生が廊下側の生徒に指示して、蛍光灯を全部つけさせた。

「今日は修学旅行の心得、ということで女子のみなさんは体育館に集まってください。男子のみなさんは教室で改めて、確認事項を行います」

 修学旅行前になると、事前学習の時間が設けられる。大抵、観光予定の地域に関する資料集めなどが中心だが、ほとんどは百科事典の丸写しをすれば時間がつぶれるのでそれだけにしていた。男子のほとんどがまだ、その仕事を終わらせていないと聞いていたので、たぶんその時間に当てられるのだろう。女子だけ集められるということに、一部の男子が、

「大人の時間だったりする?」

 とささやく。紡はちらっと声の主に笑って見せた。小学校の時と同じだ。保健指導はみな興味しんしんに決まっている。仲のいいグループの奴らだったのでその点は平気だった。天羽くんにも意味ありげな言葉をささやいてやりたかったけれども、とってもだがそんな気分ではないらしい。

 ──これから「弾劾」だもんね。カラオケボックスっていうのが、なんだかまぬけ。

 紡は女子たちを二列に整列したことを振り返り確認すると、「あの人」に顎で頷いた後体育館へ向かった。評議委員の場合ひとりで真っ正面、座っていられるのでよけいなおしゃべりをしないですむ。どうせ話すことったら、

「男子の部屋に用もないのに入らないでください」

「生理になってしまった人、布団を汚してしまった人は先生に言ってくださいね」

などなど、そんないまさらな話なんてどうでもいい、というような内容に決まっている。

 ──それだったら生理日をずらす方法を教えてよね。安全性の高い医療用ピルを配るとか。

 よりによって真っ最中に当たっちゃうとは。頼りのお姉ちゃんともただ今険悪。どうしようもない。

 振り返った。後ろには西月さんが黙ってつきしたがっていた。背が低いこともあって、前の方にいつも並んでいたのは知っていた。今日に限って紡の真後ろにいる理由がわからず背中がむずむずした。すぐに気付いた。抜けていた五人の女子中、三人は西月さんよりも背が低かったのだ。前三人が抜けたから、押し出される格好で西月さんが前に来たというわけだ。  


 みな、全員整列したままあんざするように指示された。先頭評議委員を含めて二列に分かれる、ということで西月さんは隣りに入った。言葉が出てこないのは二週間以上同じ状況だけれども、紡の顔を見るのが恐ろしいらしい。そりゃああんな見苦しいところを思い出されるのはいやだろう。紡も最初は無視して、D組の清坂さんを探した。やはり先頭のところにいて、他の女子たちとはしゃいでいる。

「これから、修学旅行に向けて、女子のみなさんが気をつけなくてはならないことを説明しますね。では先に質問です。この中で、まだ、生理が始まっていない人はどのくらいいますか? 女子だけだから安心して手を挙げてください」

 ──経験したことある人って聞いた方がいいんじゃないの? 

 紡はうんざりして養護教師……保健室の先生……がマイクで呼びかけるのを聞き流していた。たかが三日間出かけるだけだろうに。いざとなったら近くのコンビニで生理用品買ってくるって方法もあるのに。なんだか先生たちはみな、紡を始めとして生徒を子ども扱いしているように思えてならなかった。別に反抗する気もないので流している。 手を挙げたのは全クラス併せて二十名くらいだった。中には清坂さんも混じっていたのが意外だった。恥らうという感じではなく、きょときょとと周りを見て、隣りの子になにか話し掛けていた。自分の生理用品、少し大目に持って行った方がいいかもしれないと思った紡である。

「手を下ろしていいです。では、みなさんは小学校の頃、および中学以降の保健体育の授業で習っていることとは思いますが、あらためて復習しておきましょう。これからスライドを二十分間見ることにしましょう。電気を消しますね」

 ──だからこんな子ども騙しなもの押し付けてどうするっていうのよ。

 紡だけではなかった。他の女子たちも隣りの人としゃべっては先生たちに注意されている。わざわざ暗幕をかけて上映するようなものでもないのに。白い幕に映し出される古臭いドラマは修学旅行中、初潮を迎えた女子が戸惑う姿と、周りの先生たちがわざとらしく説明をつけて生理用品をドアップにするという、センスの悪い代物だった。紡は両足を伸ばし、居眠りしようとした。

 ふと、一案が思いついた。隣りの西月さんにささやきかけた。


「西月さん、今日の放課後、駅前に行くでしょう?」

 はっとした風に、西月さんは横顔を紡に向けた。暗闇だけど肌がべたべた油浮いているのは良く見えた。

「委員長が、天羽くんと一緒に『弾劾』やるって言ってたでしょう」

 清坂さんがすでに連絡を入れたと話していた。事件の張本人なんだから出ないわけはない。答えは返って来ないが、その代わりに小さく首を下げた。

「返事しなくていいから。天羽くんのこと、知っているでしょう。西月さんの知り合いによってリンチされたってこと、よくわかっているわよね」

 隣りにしか聞こえないように、ひそひそささやいた。まだ雨が激しく天井を鳴らしている。下手したら声が聞こえないかもしれない。紡もあえて声を太くして続けた。目の前のスライドで、野暮ったい制服姿の女子が泣き顔を見せてパニックになっていた。きっとあれになっちゃったんだろう。

「あれ、西月さんがさせたことなんではないか、ってみな言っているんだけど、それ本当かしら」

 ──声が出るなら答えなさいよ。

 かぶりをふって何か口を動かしている。はあはあとだけ息音が聞こえる。でも意味ある言葉ではない。否定しているというだけだ。

「別にそれならそれでいいんだけど。私には関係ないし。それに復讐したい気持ちもわかるわ。でもなんでなのかなと思ったの。ひとつ聞きたいんだけど」

 そっと肩を寄せて耳元に吹きかけた。

「なんで、天羽くんがあなたを嫌っていること、気付かなかったの?」

 打ち付ける雨音にまぎれて、小さな悲鳴のようなものが西月さんの口から洩れた。

 ──図星だったわけね。  

  背中を突き刺すような雷雨に、女子の一部が「きゃあ、怖い」とささめき合っている。紡は畳み掛けた。たっぷりと。

「私も知ったことじゃないけれど、天羽くんがあれだけ悩んでいたことをどうして、いっつも一緒にいたあなたが気付かなかったのか、それが私にはどうしてもわからなかったのよ。一応、自分では彼女のつもりだったのでしょう? 相手が少しでも様子おかしかったら、すぐに肌で感じると思うわ。私もそんなに天羽くんと付き合ったわけじゃないけれど、なにかおかしいな、とは思っていたしね」

 うつむいた。膝を抱えて、スカートで足首まで隠すようにしていた。

「こちらでいろいろ話し掛けたりすると、肝心要なことはごまかすし。聞かれたくないことをつっこまれたら、ギャグネタをやたらと飛ばす。何を考えているんだろうって思うわ。あまり聞かれたくないことなんだろうってこちらでは判断して、それ以上はつっこまない。それは私の判断よ」

 白い画面には、女子たちに囲まれて主人公の少女が、ナプキンの使い方について指導を受けている。こんなことみんな分かっているっていうのに。ばかみたいだ。

「天羽くんがリンチされる前にね、泉州さんと片岡くんが私たちに言いがかり付けてきたの。言いがかりじゃないわね。西月さんにもう一度お付き合いしてもらえないかってことを頼み込みにきたのよ。何考えてるんだろうって私は思ったけれども、ふたりは本気だったみたいよ。特に片岡くんの眼は怖かったわよ。西月さんがかわいそうだろう、って何度も何度も」  闇の中で西月さんの肩が四角くこわばったように映った。

「知っているんでしょう。片岡くんが西月さんのことを本気で好きだって、薔薇の花を捧げたこと。本当だったら天羽くんから奪いたいんだろうなってその時思ったわ。でもね、片岡くん。言ったの。自分じゃだめなんだ、天羽くんでなくちゃいけないんだってね。どういうことかわかる?」

 紡の言葉に神が降りて来た。

「片岡くんはね、自分の気持ちよりも、西月さんの気持ちを最優先したってことなのよ」


 そうだった。あらためて思う。どうして片岡くんは西月さんをあきらめて、無理を承知で天羽くんに頭を下げたのだろうと。テープの内容をどのようなシュチュエーションで聴いたのかはわからないが、たぶんその段階で、片岡くんは理解したに違いない。自分への優しさが所詮「いい子ちゃん」の偽善、同情であることと、天羽くんをしつこく追いかけ続ける非常識な女子であることを。紡だったらその段階で愛想を尽かすだろう。

 しかし片岡くんはそうしなかった。大好きな人の願いを叶えたい一心だったのだろう。自分が西月さんに近づけばきっと、「下着ドロの彼女」ということで嫌がられるだろうし、西月さんも物笑いの種になるだろう。少なくともクラス内でのランクは一気に下がるに決まっている。でも天羽くんとよりを戻せば、まだプライドは守られるはず。

 しかし、そんなことは紡の知ったことではない。

 本当の目的は、これから告げる。

 映像の中では少女がクラスの男子にいきなり肩を触れられて困惑している様子だった。これくらいのことで不安がっている女子だけとは限らないというのに。女子同士でもいろいろ考えることはあるのに。一瞥した後、ささやきつづけた。


「そういうことなのよ。片岡くんはね、西月さんのことを本気で思っていたってことよ。好きな相手のためだったら、自分の本心を押し殺して幸せを祈ることのできる奴だってことがわかったわよ。でも、西月さん、あなたはいつまでたっても自分の我を曲げなかったらしいわね。あきれてものも言えないわ。だってあなた、天羽くんが、嫌われることを覚悟してあなたの嫌いな理由を話した時、何したっていうの。嫌いにならないでってそればっかりわめいていたわよね」 耳をふさごうとするのを軽く抑え、聞き逃しできないように口を近づけた。暴れることはできない。だって先生がたくさんいる。何よりも「いい子」には重たい鎖だった。「もし、天羽くんのことを本当に好きだったら、その場できれいにあきらめてくれたはずよ。それくらいできたでしょ。天羽くんのためにだったらなんでもする、ってことだったら、彼が一番望んでいることをしてあげるべきでしょう」

 学ランの男子、白いスカーフをにセーラー服の女子。闇の中でいちゃつこうとしているのに、教育的指導で白衣の女教師に割り込まれている。どうせそんなことしたらいけないとか言って、妊娠の恐れありとかそういう話題が出てくるんだろう。一部の空気が妙に真剣なのは、興味ありげな部分だからだろう。西月さんがそれどころじゃないのはわかっている。だから紡も無視して話し続ける。波打つような激しい雷雨と指で天井を穴開けようとするようなぼこぼこした音。響き渡る。

「天羽くん、西月さんに」

 言葉を切り、耳たぶのところにささやいた。

「片岡くんと一緒にいてもらって幸せになってほしいって思っているのよ。これ、ほんとよ」  

 西月さんの顔が紡に向いた。闇の中でも目、鼻、口が醜くゆがんでいるのが浮かんで見える。目から涙は流れているだろうか。わからない。ただ、林の中でひたすら泣きじゃくり土下座して愛を乞う姿に似ていた。

「この前も天羽くん話していたわ。西月さんのことを本当は二年の夏休みに振るつもりだったけど、いきなりそんなひどいことはできなかったって。そしたら、片岡くんがずっと西月さんを追いかけていることに気付いたんだって。それも、本当に、本気だったってわかったんだって。もしやらしいことを考えていたとか、また下着ドロしそうになったとか、そういうことを狙っていたのだったら、いくら嫌いな西月さんにもそんなことをさせはしないはず。本当に、純粋に思ってくれていたんだと分かったからよ。だから、あえてきつい言い方であなたを引き離そうとしたわけよ。片岡くんだったら、きっとあなたを大切にしてくれると信じていたからよ」

 自分のことばにどすが利いてきた。なんどか震える西月さんの肩をにらみつけた。

「西月さん、あなたできる? 大嫌いな人に、そこまで親切にしてあげること。嫌いな気持ちを隠して騙すことだって天羽くんはできたはずなのに、あえてきちんと筋を通して、さらにあなたがうまくいくようにって気を遣ってくれたのよ。それをなに? 悪いけど西月さんのしたことって、天羽くんの気持ちを無視して、ただ自分がそうしてほしい、ああしてほしい、指輪がほしい、花よこせ、そればっかり要求していただけじゃないの。それって本当に好きってことじゃないんじゃないの? 私が天羽くんだったら、その場で一切無視したけれどね」


 もう止まらなかった。壇上のスライドも終盤にさしかかっている。どうやら物語の展開からして、女子に好意を持った男子がしつこくせまり、結局先生に「男子と女子の違い」などを説教されて終りだった。こんなことをするために一時間もつぶすなんて勘違いもいいとこだ。でも、別の意味で今日は有意義だったのも確か。紡ももういちど、とどめをさして終りにした。

「もし、片岡くんを選んであげたら、天羽くんはこれ以上他の女子たちから嫌がらせされることもないんじゃないかしら。西月さんもあえて『下着ドロ』の片岡くんを勇気もって選んだとしたら、男子たちもきっと見直してくれるわ。もちろん天羽くんだって、これ以上西月さんを嫌いになることはないと思う。だって、天羽くん必死だもの。これ以上西月さんを嫌いにならないようにするにはどうすればいいか、真剣に悩んでいたのだもの」

 ──たぶん、ね。

 紡は口を閉じた。天井のライトがようやくついた。だいぶ湿ってきた空気の中、西月さんの顔は見苦しかった。震えていた。紡がすぐに離れて立ち上がりスカートの埃をはたいている間、西月さんは膝をかかえたまま動かずにいた。お尻が痛くて動けないのではと周りの子たちは思ったらしい。近くの女子が手を差し伸べて立ち上がらせていた。


 ──切り札よ。

 勝算はある。泉州さんたちの前で言い放つにはこのくらいの勝負ができなければ。

 西月さんが今、一番望んでいるものを紡は知っている。    

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