12
──お姉ちゃんお姉ちゃん、お母さんがおなか痛いって。どうしよう。
──すぐに救急車呼ぶから、ね、お母さん、しっかりして!
──お母さん、死んじゃうなんてやだあ!
──お母さんごめんなさい、私、私、結婚式にあんなわがまま言わなければよかった!
今から四年前の会話だった。
何度、何十回、母の名演技に騙されつづけたことだろう。 腹痛もあれば激しい吐き気の時もあり、ふつうこんなところで折れないようなところでの骨折、めまいで病院に担ぎ込まれたこともあり。
紡もお姉ちゃんも何度も両手で手を握り締め叫んでいた。
「絶対いい子になるから、死なないで!」と。
自分たちの夢が費えるか母の欲しがるものを渡した瞬間、病は快方に向かう。
十四年間同じパターンの繰り返しを続けてきて、ようやく母の魂胆をすかして見抜くことができるようになった。似合わないフリルのブラウスも、やたらと子どもっぽいワンピースも、罪悪感なく拒絶するのも慣れた。要領よく必要な部分だけ掠め取るのは母と接する時の常識だった。
母と同じ魂胆を持った女とすれ違うたび、必ず危険信号が点滅する。
紡は席の向こう側にいる信号の発信主を眺め、つぶやいた。
──私は騙されないわよ。
評議委員会には定期的に参加し、清坂さんにいろいろ教えてもらいながらなんとか準備を整えた。いきなりやる気を出し始めた紡に、最初立村委員長も驚いていたらしいが、
「いや助かるよ。近江さんみたいに頭のいい人が手伝ってくれるとさ。今日の帰り、よかったら清坂氏と一緒に帰るか?」
と、いとしの清坂さんを貸し出してくれた。やっぱりごほうびに何が欲しいかよくわかっていらっしゃる。
せっかくのチャンスだ。逃しはしない。さっそく昨日は清坂さんと一緒に「アルベルチーヌ」まで出かけてきた。お小遣いはたいて特製モンブランと甘いカクテルをご馳走してきた。委員長もこんな甘い午後を清坂さんにプレゼントなんてしたことだろう。清坂さんは大喜びしてくれた。さらに、わらしべ長者のように展開してゆき、
「そういえば近江さん、修学旅行クラスの女子とグループになるのいやだって言ってたでしょ? だったら自由行動の時、うちのグループに入りなよ」
もちろん二つ返事でOKしたことは言うまででもない。
もっともふたりで過ごした二時間の間ケーキをぱくつきながら、立村委員長と羽飛くんに関する悩み……というか、のろけというか、三角関係の楽しさというか……を聞かされてひとり淋しさを感じなくもなかったのだが。
班分け、およびバス指定席、しおり作り、レクリエーション。やることは思っていたよりこまごまとしていた。でも三年目評議の天羽くんが手際よく仕切ってくれたのと、自分でもかなりてきぱき片付けられたこともあり、さほど苦労はしなかったように思う。クラスで紡たちが指示することといえば、健康管理に関する注意と「旅行のしおり」配布、旅行先に関する下調べ程度だった。楽だ、楽。
三泊四日。かなり修学旅行当日が楽しみの紡だった。
天羽くんと西月さんとの修羅場から一週間が経った。西月さんの取り巻き女子にさんざん吊るし上げられたものの、大抵は天羽くんの横入りで難を逃れた。本意ではないけれども、「担任の妹」という立場は生徒たちにとって強力な保護膜だった。コネ組A組だからなおさら、威力が増すというものだろう。とはいえ「あの人」狩野先生の
「評議委員として片をつけるのには、時間がかかりますよ」
と念を押した意味が、今になってずんと肩にのしかかってきていた。
まずは「コネ組A組」たる現実をみなさんしっかと見つめようということで、天羽くんの司会による提案を行い、男子たちからは圧倒的拍手で迎えられた。隠し事なくなって気が楽になるのはいい。みんな同じ悩みを抱えていたのだろう。ここまではよかった。
しかし問題は敵に回した女子たちだった。予想していたこととはいえ理由ひとつまともに受け止めず、「天羽サイテー!」コールには唖然とした。ちゃんと天羽くんなりにけじめをつけて、宗教に関するいろいろな事情を、教壇から告白したというのにだ。あくまでも個人的縁故入学の告白にとどまっているし、A組の連中は多かれ少なかれみな裏事情があるはずだ。人のことなんていえないくせに。天羽くんに発言を許した狩野先生にも、もちろん紡に対しても態度は露骨だった。一切女子たちの多くは……全く口を利かない西月さんは別として……数学の授業をさぼったり、天羽くんが通るとわざとらしくせきと悪口をささやいたりする。「下着ドロ」確定片岡くんと同じ扱いをされている。
修学旅行前にクラスががたがたになるなんて、担任としては心苦しいものがあっただろう。きっと痩せるだろう。お姉ちゃんも心配していた。この前泊りに行った時も、
「胃薬たくさん買わなくちゃ。あの人胃の調子よくないみたいなのよ」
そうぐちっていた。
天羽くんだって本当は毎日ハリネズミにひっつかれているような気持ちなんだろう。紡に見せる表情は明るいけれども、一、二年目の「おちゃらけ評議天羽くん」から、三年目「女子の敵・最低評議の天羽忠文」と罵られるのはかなりきついだろう。男子たちには早めに事情を説明したのでみな、表面上はうまくやっているようすだ。どんなに落ちても片岡くん以下にはならないという読みもあったのだろう。
天羽くんは女子に対して、露骨に罵ったりはしなかった。紡をリンチにかけようとしている現場にいなければ、大抵の罵詈暴言は笑顔で流す余裕を持っていた。バラエティ番組の最新ネタは適度に使用し、野郎仲間を相手にがははと笑っている。「サイテー男」と聞こえよがしにささやかれるたび、紡に流し目をやりながら、 「ま、俺は女子といえばひとりでよかですたい」 と、笑顔で交わしていた。
──意味のない方言使うのはどうかと思うけど。
やる気なしげに窓の外を眺めているのは、やっぱりいつもの紡だった。
もう夏服。襟元のリボンをわざと小さめに結び、パリっ子っぽく着こなしてみたりする。帰りにはさりげなくリボンの色を変えてみたりもする。
「ところで近江ちゃん、今日のとこは暇?」
「なによまた寄席? 出るのが若手の漫才師ばかりだったらやめとくわよ」
「いやそれがさ」
耳もとで、テレビにも良く出ている有名漫才コンビの名前をささやいてきた。
思いっきり大きい声で叫んでしまった。
「うそ、まじで青潟なんかにくるの?」
「チケット、少々お高いけれど、よろすおますか、おねえさん」
「もちろん買いよ。押えといて!」
紡はしっかり公演日時を手帳にメモした。まかり間違ってもこの日に予定を入れることはないようにせねば。最近の紡は、ビデオを駆使して演芸番組および漫才関係の情報を集めることに情熱を燃やしている。天羽くんの友だちたる仲間とも漫才のことで共通の話題ができたし、清坂さんも少しずつ洗脳していくきっかけにもなるし、いいこと尽くめってところだった。
ほっと一息つくと、紡は天羽くんに話し掛けた。髪がだいぶ伸びてきているようだった。そろそろバリカンでさっぱりしたいという。
「丸刈りにすると、運動部ばりって感じね」
「頭突きやりたくなりまーす」
天羽くんは壁に頭を打ち付ける振りをした。
「脳みそこれ以上ぶっこわれたらどうするのよ」
「まあそれはそれでいいっしょお。それよりさ」
傍目からみたら、ふたりとも公認のカップルに見えるのだろう。意識はしていた。天羽くんも麗しき誤解を楽しんでいるようだった。本当だったら紡も笑ってごまかしたいところなのだが。
「試用期間」はまだ延長中ってことだった。
西月さんの声が教室に響く瞬間をを聞き逃さないようにしようと決めていた。
あの人がちょっと油断した隙に新たな展開が待っているかもしれないから。
──いつ、演技が乱れるのだろう。
つい半年前までぎゃんぎゃんホームルームでくだらない提案をしてしらけさせていた声が響かなくなりはや一ヶ月近く経とうとしていた。
「小春ちゃん、おはよ」
西月さんに対しては温かく包み込もうとしている女子たちの群れ。バリケードだった。自分よりも弱い人にはいくらでもやさしくできる、自分たちに得なことをしてくれればいくらでも応援する、そんな子たちばかりだった。
「泉州さん、小春ちゃんに聞いてくれる? 席なんだけど私たちの後ろでいい?」
珍しく髪の毛を洗ってきたのだろう。前髪の分け目がそれほど目立たなかった。泉州さんが髪の毛をかきながら尋ねる。おかっぱ髪の西月さんは、小さく泉州さんに口を開けて意志を伝えているようだった。発声はしていなかった。
「小春ちゃん、どんどん楽しんじゃおうね! 今度の『砂のマレイ』映画版、観に行く?」
母と同じように身体へ呪文をかけ、同情を引こうとする態度が紡には見え見えだった。
西月さんは指で何かを表すように形をこしらえ、泉州さんに見せた。西月さん専属の通訳者となった泉州さんは立ち上がり、何かを他の子に説明している。人気アニメ映画の話題で盛り上がっているらしい。漫才の話ではないので当然、紡にはわからない。
──一週間も、よく演じているわよね。
狩野先生が事情を考慮し、最初の二日間くらいは「E組」もとい、駒方先生の担当する部屋で自習させるようにしていたはずだった。詳しい事情は話さなかったものの、女子を中心にすぐ情報は伝わった。「西月さんが天羽くんと近江さんに嫌がらせをされて、恐怖のあまり口が利けなくなった」と広まり、先生も見過ごすわけにはいかなかったのだろう。すばやく天羽くんも手を打ってあったのでとりわけ何が起こったというわけでもない。紡がたまに嫌味を女子に言われる程度のことだ。「嫌がらせ」ではなく、「交際解消」の話し合いなのだという証拠は、カセットテープにも、マイクロテープにも残っている。堂々と開き直っていればいい。
しかし、西月さんは四日後A組に戻ってきた。たぶん本人の希望なのだろう。授業についていけなくなるのを恐れたのか、たとえ嫌われようとも天羽くんと同じ空間で過ごしたかったのか。その辺は定かではない。西月さんの望みならばということで、仲のよい女子たちおよび、二年の問題児・杉本さんがバリケードになって懸命に守っているようだった。女子の集団が机の周りにごちゃっとたかるたび、男子たちがどれだけ恐怖感を感じているか、知らないふりをしているらしい。特に天羽くんが、何度か近づこうとして話し掛けようとした時も、瞬時に泉州さんの「スカンク攻撃」……別に屁をこいたわけではないのだけれども、黙っていても漂う独特の体臭はその名にふさわしいと思う……に逆襲され、すごすご退散した。
天羽くんも紡や仲間の男子たちと話す時以外、堂々とおちゃらけることは少なくなった。
いやおうなしに、西月さんの方を目で追い、時たま唇をぎゅっとかみ締める姿を何度か紡は目撃していた。
女子たちに罵られても、何を言われても、あえて言い返さずに通り過ぎる天羽くん。
──「E組」に行きっぱなしでいいのに。
天羽くんのことを本当に思っているならば、それが一番いい解決策なのだと、西月さんはなぜ気付かないのだろう。
──本当に鈍いのよ。最低だわ。
紡は二年の杉本さんという人のことを思い出した。西月さんが面倒を見てあげていたという問題児のことだった。休み時間、ちょろちょろとA組に顔を出すようになった。たぶん、西月さんを自分が面倒を見る、という意識を持つようになったのだろう。問題児同士、どっちもどっちである。
周りの女子たちに事情知られるのも時間の問題だと思っていた。もっとも本当だと認めたら、かの片岡くん下着ドロ事件と同じことになるだろう。のらりくらりと交わすのが一番。紡も適度にあしらっていた。
「近江さん、小春ちゃんに何を言ったのよ! あんたって最低よね!」
ただ「サイテー!」と怒鳴るだけだ。もっと語彙を持っていないのか、君たち、もっと読書しなさいよと言いたくなる。返事するのもかったるい。
「私が関わっている証拠あるの?」
大抵天羽くんに割って入られる。ずいぶん目配り気配りしているものだ。ひとりで片づけられるのに。
面倒なことはやらせておいて、肩をすくめて大抵は終りだった。
西月さん本人もいろいろ考えるところがあるらしい。泉州さんたちがエキサイトしそうになると腕をひっぱって止めてくれた。ありがたいが感謝する気はさらさらない。
「小春ちゃんこんなんじゃだめだよ! 言いたいことあるんだったらはっきり言わなくちゃ!」
と泉州さんがわめいても首を振っていた。ただうつむいたまま、女子たちにいじらしげなまなざしを投げていた。ものをもっと言うべき相手の紡や天羽くんには一切目を合わせなかった。何度か苦しげなまなざしの天羽くんが近づいて来た時も、すぐに目をそらしうつむいたまま、顔を上げなかった。顔を見るのが相当、怖いらしい。別に取って食うわけでもないのにだ。
紡からすると、今までずいぶんふんぞり返ってわめきちらしてきた分だけ、ざまあみろというのが正直なところだった。むしろ天羽くんがやたらと自分を責めている様子がいらいらしてならない。天羽くんはちゃんと、言うべきことをちゃんと伝えただけなのだ。もちろんシュチュエーションにはいろいろ問題があったとはいえ、それでも懸命に西月さんを立てるように努力していた。少なくとも紡にはそう見えた。なのに結局は「ひどい振られ方をして傷ついた女子」の顔をして、周りの同情を集めている。二年間、天羽くんに不愉快なことばかり要求して嫌がられていたにもかかわらず、気付かないふりをして押し通していた西月さんがである。結局世の中は、西月さんや母のような、「いざとなったら病気で同情を集める」タイプの女子のものなのだろう。狩野先生の言う通り、「人の心は自分の心では計れない」のだろう。狩野先生も天羽くんの心がどれだけ西月さんに踏みにじられていたか、計ることのできない人なのだろう。きっと紡の本心も計れない計りの持ち主なのだ。
──天羽くんに振られてから男子にはもてているからいいじゃないの。
やかましい女子評議から一転、言葉を失った西月さんには「守ってあげたい」と思う奴らが後を絶たない。あまりおおっぴらには聞いてないが、三年に入ってからは他クラスからも恋文がじゃんじゃん届いたとか届かないとか。親友の泉州さんが取り仕切り、さっさと追っ払っている。
まだ天羽くんに未練たらたらだから、せっかくの新しい恋のチャンスを受け取ることすらできないらしい。もったいないことをするものだ。身のほどを知れ、と言いたかった。このままだと、片岡くんの薔薇攻撃にひれ伏すはめになるかもしれないのに。下着ドロの彼女なんてことになったらどうするのだろう。今まで守ってくれた女子たちが、冷たい視線でそっぽを向くのは目に見えている。天羽くん以外にも好いてくれている相手がいるのだから、その辺さっさと妥協したらどうだろうか。
修学旅行準備でふたりっきりだった。放課後それぞれの評議委員が、自分たちの教室に残る時はこっそりとコンビニで買出しに行くのが習慣だった。天羽くんがおごってくれる時もあれば、紡が出す時もあった。お互い懐はは淋しい。木戸銭貧乏ともいう。
「さってと、今日は何にするんだ?」
「私ねえ、やっぱり女の子らしく、ストロベリー味にしようかしらん」
「女の子ってだあれがだよ」
紡は自分の鼻を差して見せた。ひょい、と天羽くんがアイスキャンディー一本五十円の奴を摘み上げ、ほっぺたにぴたっと乗せた。
「つ、冷たいぞこれは!」
「これ俺な、これ食えば完璧、間接キッスのできあがり!」
何をバカなことを、と突っ込みを入れながら紡は自分のキャンディーを選びレジに持っていこうとした。聞き覚えのある声と、肩に手を置かれたのとが同時だった。
「ちょっと、A組評議のおふたりさん、買い食いはいけないんじゃないですか」
しゃれで言えばたぶん軽く聞こえるだろう。だが、声の響きは重たく、おちゃらけていなかった。女子の声。ふたり同時に振り返った。
「なんか用?」
それしか言いようがなく、紡は手を振り払った。一日たってだいぶ油っぽくなった泉州さんの、ふけだらけの頭が目の前にあった。
「なんっすか、いったい」
泉州さんの前ではおちゃらけないようにしていた天羽くんだけど不意を食らって動揺したのだろう。少しどもっていた。
「話があるんだけど」
「これから学校に戻ってしおり作るんだけど。別の場所でなくちゃだめなわけ?」
紡が聞き返すとと、泉州さんは当たり前じゃないかとばかりに髪の毛をかき上げた。午後を過ぎるとと髪に油がじわっと浮いてきている。これは相当なふけ症と見た。
まずはレジで会計を済ませ、その場で大急ぎ、アイスキャンディーをなめた。かじったと言うほうが正しい。天羽くんも焦って飲み込んでいた。頭にきんと音が鳴った。頭痛がした。
先頭を切って歩き出した泉州さんを、適度な距離を置いた格好で追いかけた。これから戻らなくてはならないことを考えると、あまり校舎から離れてほしくない。でも泉州さんの都合にあわせざるを得ない。無理だろう。本当だったらもっとあっさり振り切ってしまいたかったのだけど、天羽くんは完璧に、言いなり状態だった。弱みを握られている、とでもいうのだろうか。
不安げに天羽くんは小声で耳もとにささやいた。
「近江ちゃん先に帰れよ。用があるのは俺だけだ」
「泉州さんの文句言いたい相手って、たぶん私よ。女子ってね、振った相手よりも、相手の女を恨むもんなんだって。相手じゃないって言ってもわかんないよね」
天羽くんは答えなかった。紡の髪を触れようとした。だいぶ伸びたので「セシールカット」ほどのたわし頭ではなくなった。
思ったよりも遠いところでなくてよかった。たどり着いたのは別のコンビニ前の駐車場だった。小型車が六台駐車できるスペース。三台置かれている。その脇に自転車が一台横付けされていた。 天羽くんが「あれ、すげえいい自転車じゃん」とつぶやいた。
脇にひとり、白いワイシャツ姿でネクタイだけちゃんと締めた男子の姿が見えた。見覚えがあるようでない。なんとなくポーズがきざだった。
「片岡だな」
短く答えた天羽くんは、一度立ち止まるとぐいと顎を引いた。
「奴には殴られる義務があるんでな。ごめん、近江ちゃん先に教室に戻ってれ」
「一応私も担任の妹だから暴力沙汰は止める義務があるのよね」
泉州さんも片岡くんらしき男子へ軽く手を振り、顎で紡たちを差した。結局こいつらもグルなのかと納得した。
片岡くんの立ち姿は、見慣れた制服ながら隙が全くなかった。ブレザー制服をきちんと整えて着こなすところはどこか立村評議委員長にも似ている。違うのは顔の彫りが深く、ちょっと見日本人には珍しい雰囲気だろうか。和服よりもタキシードが似合うタイプだ。一見、「下着ドロ」の過去がある相手とは思えなかった。
「なんだよ、片岡かよ、なんか用か」
かすかに天羽くんは頬をほころばせた。少し安心している様子だった。もちろん用心はしているけれども泉州さんよりは親しみの持つことができる相手なのだろう。。「下着ドロ告白」のホームルーム前後から、天羽くんは片岡くんを何かと気にかけていた。修学旅行のグループ分けの時も、さすがに自分の仲間内には入れなかったものの、他のクラスのグループに混ぜてもらえるよう口を利いてやっていた。少しでも片岡くんを、A組で居心地よくしてやろうとする行動は実に模範的評議委員のものだった。きっと片岡くん本人も、天羽くんには感謝していることだろう。なにせ、自分が好きで好きでならなかった女子をゆずってくれさえしたのだ。パシリになってもおかしくあるまい。
片岡くんは何も言わなかった。自転車の後ろにくくりつけていたかばんを外すと、何かを探していた。時折天羽くんの方をにらみすえるようにして、また中を漁った。
隣りで棒立ちしているのは泉州さんだった。この人も決して顔立ちが整ってないわけではないと思うのだが、せっかくのよさを不潔感でもって打ち消している。女を捨てた態度がもともと紡は好きになれなかった。
「片岡、あんたもとろいね。もっとてきぱきやんないと立派な社長さんになれないよ」
──いきなり仲良しになっちゃってどうしたってのよ。
泉州さんも告白事件後最初のうちは、西月さんを守るために片岡くんを目の仇にしていたはずだ。例の西月さん行方不明事件をきっかけに急接近し始めた。たぶんあの日の三時間目以降に展開が起こったのではないだろうか。女子たちの前でも平気で泉州さんは、片岡くんと話をするようになり、たまにふたり隅で内緒話をしたりしている。男子連中も片岡くんの事情は理解しているのであまりうるさいこと言わないが、女子はおぞけ立つ思いで見守っていたようだ。
あの日以来片岡くんは休み時間ずっと参考書にかじりつくようになった。昨日の英語抜き打ちテストでも、立村委員長に次ぐ二番の成績を収めたのは記憶に新しい。きっと一学期の通知表「行動記録欄」には「最近みるみる学業態度が変わり、積極的に勉学に励むようになりました」と記入されることだろう。
もっとも、そこで「下着ドロ」の汚名が晴れたわけでもなく、相変わらずみな冷たい態度を取っているのは定めだろう。ひとりでも話してくれる友だちができただけでも喜ばしいことではないか。紡には関係のないことだ。
烏が「かあかあ」と繰り返し鳴いた。泉州さんが片岡くんの肩ごしに覗き込んだ。
「見つかった?」
「これ」
低く響く声で一言答え、片岡くんはカセットテープを取り出した。
見覚えのあるケースに入っていた。
隣りで天羽くんが息を呑むのが分かる。
──これって、あの時の、あのテープ?
紡はついと肘で天羽くんをつついた。なんとなく、天羽くんひとりがびびっているように思えた。きっといきなり出されたもんだから焦っているのだろう。でも別にまずくはないはずだ。すでに狩野先生にも聞かせて、さりげない嫌味だけ言われた程度ですんだし、今更片岡くんが持ち出してもどうしようもないはずだ。さらに言うなら、天羽くんは中身について、かなり言葉を選んでしゃべっている。ばれても問題が起こらないように、聞き間違えた西月さんが悪いと判断するはず。 どことなくねめっちい。何かたくらんでいるとしか思えない片岡くんの瞳。悪寒を覚えた。
片岡くんは紡と天羽くんを一秒程度じとっと見つめた後、
「天羽、ここに録音されていたことは本当か?」
指でつまんだまますっと差し出した。嘘を言われたら殺す、言いたげだった。ふたりとも中身をしっかと聞いたらしかった。
度胸ありげに胸を張り、天羽くんは答えた。無理にでもそうしないと、震えかけた肩がごまかせそうになかったからだろう。隣りの紡からは声が上ずっているのがよくわかる。
「ああ本当だよ。俺のうちにもう一本、マイクロテープで同じものを持っているんだ」
「予備にか」
念を押すように、カセットテープをぶらぶらさせた。
「一言も嘘は言っちゃいない」
棒読みの返事だが、かなり焦っていることには違いない。何も心苦しいことがないから、ちゃんと西月さんに渡したつもりだったろうに、天羽くんときたらかなり焦ってしまっている。背中をどんと押してやりたかった。
「開き直るんじゃないよ! 小春ちゃん、口きけなくなっちゃったんだよ!」
「俺、その日のうちに狩野先生へマイクロテープバージョンを渡して聞いてもらったぜ。なんも問題ないって言われたんだ」
「さすが近江さんのお兄さんだよね。最低な担任だよ」
──ここで嘘を言ってしまったらろくでもないことになるってわかっているでしょ!
どう考えてもここで本音を言うのはいい結果にならないだろう。冗談言ってもかまわない雰囲気だったら思いっきり関西弁のつっこみをいれてやりたかった。
「うっかり聞き間違えられたら近江ちゃんに被害が及ぶと思ってさ」
肩をくいっと上げて紡の方を見下ろすのはやめてほしかった。
「近江さんに被害ってどういうことよ! 小春ちゃんが復讐しようとしているとでも思ったわけ。やっぱり後ろめたいって意識はあるわけね」
次の言葉は平手打ちの音に取って代わられた。
天羽くんが横をちらっと向いた。ひっぱたいたのは泉州さんの、真っ黒い爪の手だった。
「近江さんなんか今ごろ青潟川の中にどざえもんになっているかもしれないのに、小春ちゃん一生懸命『絶対しないでね』、って筆談で話してるんだよ!」
「もし近江ちゃんに手出ししたら、って俺が口止めしておいたんだ」
──天羽くんってば、いったいなんでここまで墓穴掘るわけ、このぼけ!
ひっぱたかれようが罵られようが、天羽くんの口からは謝り文句が出てこなかった。
「あんた、そこまで根性腐っているんだったら、それなりに覚悟はあるんだろうね」
とうとう泉州さんのがまんの緒が切れたらしい。両こぶしを握り締め、ぐいと一歩前に近づいた。臭そうだ。油くさくて吐きそうだ。天羽くんが息を止めているのがわかる。うっすらと夕陽の混ざった風もなかなか匂いを吹き飛ばしてくれなかった。 顔を逸らしたまま今度は片岡くんに視線を向けた。天羽くんの眼は泉州さんに対してのみしかめっつらだったけれど、片岡くんには笑顔を向ける余裕があったらしかった。
「片岡、まだ西月をくどききってないんだろ?」
持っているカセットテープのケースを握り締め、片岡くんは三白眼のまなざしをで唇を振るわせた。黙っていれば古風な少年俳優として通用しそうな顔立ちだった。いい表情している。ぼんやり思った。
「最初、天羽、言ってたよな」
もれた言葉も震えていた。怒っているのかどうかも読み取りずらい。
「何をだよ」
「西月さんのためだと言っていただろう。そうじゃなかったのか」
やはり、天羽くんと片岡くんとの間に、西月さん譲渡条約のようなものが結ばれたに違いない。そっと聞き耳を立てた。
「わざと冷たい行動を取って、西月さんが振ってもいいように演じて、決して傷つけないようにしたいからって言っていただろう? 違ったのか」
鼻の下を人差し指でこすると、天羽くんはふっと笑った。
「片岡には嘘ついちまったようで悪かったな」
「最初から西月さんを痛めつけるためだったのか」
「それだけは言いたくねかったけどな。普通のやり方じゃああきらめてくれねえからさ。最終兵器、使うしかなかったんだ。けど、これで西月もあきらめてくれるだろうなあ」
口をガムテープでふさいでやりたくなってきた。片岡くんと差しで話をするのならば理を尽くすこともできるけれど、目の前には感情生物の泉州さんがいる。
片岡くんは立ち上がった。のどぼとけが何度か上下した。必死に平静を装っている風だった。少し泣きそうになりつつも、何かを飲み下して落ち着かせているようだった。
「最初から嫌いだったって本当なのか」
「初対面からな」
「宗教の修行のためだったってのも、本当か?」
「自分の目標を少しずつ達成していけば、死んでから天国に入ることができるってガキの頃から叩き込まれていたんだ。今じゃあお笑いだけどな」
「近江さんが好きになったから、心変わりした、申しわけないけどって、僕には話してくれただろう」
「一番の理由だ、嘘はついちゃあいない」
照れる場所で言われたら別だけど、こんなところでどきまきしていられない。
──天羽くんとことん墓穴掘りまくってるよ。
「傷つけて平気だったのか。テープではあんなに泣いていたんだろう。天羽に嫌われないためだったらなんでもするって話していたのに、それでも嫌いになるしかできなかったのか」
紡の方を天羽くんはちらっと見た。目の端から涙ではない光りを感じた。
「言葉の綾だ。勘弁な」
「だったらなんで」
静かながらも、震える声で片岡くんはにらみすえた。紡とひとまとめにして、目がぶっこわれるくらいに。咽の奥からは泣いた時に出るようなか細い音が何度か聞こえた。
「一年だけだろ、それくらいどうして騙してやれなかったんだよ。二年の半ばって言ってただろう? 半年間がまんしてたんだったら、どうしてあと一年、夢を見させてあげられなかったんだよ。ひどすぎるよ」
すっかり声変わりしているというのに、言葉の幼さに紡は唖然としつつ片岡くんを眺めていた。時折涙ぐむしぐさをして、指先のカセットテープを何度も振る。どのくらい聞き返したのだろうか。西月さんの半ばヒステリックな物言いに不快感を感じなかったのだろうか。それでも想いは冷めなかったのだろうか。それが紡には不思議だった。そばでうんうんと頷いている泉州さんも、片岡くんの想いを認めているのだろう。しかしなぜ、そこまで恋しているのだったら、あっさり天羽くんから奪い取ろうとしないのだろう。やはり頭の悪い人はやることがわからない。
「片岡、お前もわかってないなあ」
険悪な雰囲気をかもし出しているというのに天羽くんの口調は穏やかだった。
西月さんに関することだけ容赦なくののしるのは、一滴の希望も断ち切るための意地だろう。一種の思いやりに決まっている。紡には天羽くんがわかる。
「片岡、お前は二年間ずっと西月以外の女子に目なんてくれなかったよなあ。西月もずっと二年間、お前には毎朝挨拶をして手を振ってやってた。そんな中、好きでもねえ俺があいつと付き合うっていうこと自体、不自然なことだったんだぞ」
片岡くんが唇をさらに震わせ、言葉をかみ締めていた。妙にこっけいだった。売れない芸人のしらけたギャグに似たものがあった。
「西月さんに謝ってくれよ、天羽」
う、う、と何度かうめくような声を出し、片岡くんが小さく首を振った。
「僕みたいな奴が近づいたって、西月さんは嫌がるだけだ。天羽でなくちゃだめなんだ」
「俺の言ったことは嘘じゃない。死んだって認めねえよ」
「責任あるだろ! 口利けなくなったんだ!」
天羽くんの襟元を掴もうとした。全く抵抗しようとせず、ふら付いて両手を付きかけた天羽くんに驚いたのか、ひょこっと手を引いた。背中で
「片岡、あんたなに引いてるのよ。ばか」
と罵る泉州さんにそのままうなだれた。
──なんであんな優しい目、してるんだろう。天羽くん。
隣りで紡は、天羽くんの言葉を待った。西月さんに対して発した言葉よりもはるかにやわらかく、暖かかった。
「片岡、お前は偉えよ。よく言ったな。嘘じゃねえよ。いろいろあったにせよ、俺あん時は感動した。自分のやらかしたことをきちんとけじめつけてから、西月を守りたいってことなんだよな。わかるぜ。お前、ほんとに本気だったんだなって思った。だったらそれでいいじゃねえか。俺にはあいつを嫌いになる権利があるけれどもいじめる権利はない。きちんと、筋は通したってことだ。あとはお前に任せて去るぜ」
違うだろ、と口の中でつぶやいていた。片岡くんは懸命だった。
「それは勝手な言い分だろう。天羽しか西月さんは見てないんだって。僕には何もできないんだよ。僕とそんなことになったら、西月さんはもう馬鹿にされてしまうって分かっているって、そのくらいわかっている。だから、だから」
「馬鹿野郎!」
天羽くんが思いっきり片岡くんの頭をこづいた。今度は片岡くんがふらつく番だった。やり返してもいいのに片岡くんは目を丸くしたまま動かずにいた。
「お前、西月のことを本気で惚れてるだろ。俺も二年間お前と西月を見てきて、きっとお似合いだろうって思ってた。ほんとのこと言うと、俺も去年の夏あたりから一刻も早く縁を切ってしまいたかったんだ。けど、俺がさんざん気を持たせてきた以上、責任持って西月が惨めにならない形で後釜用意しようと思ってた。片岡、お前だったらあいつの欲しがる薔薇も毎日持っていける、ビーズの指輪も作ってやれるさ。いつもひっついてつまらんぬいぐるみとか見て喜んでやれるさ。意味不明な言葉をぐちられても優しくしてやれる。なによりも、俺のしゃべったテープの内容と、西月の泣き喚いた様子を聴いても、全然気持ちを変えないでいられるのは、片岡、お前しかいない」
──天羽くんってば、私と同じこと考えている。
だんだん何かが重なってきたのを感じた。天羽くんの言葉はしばしに、紡と重なるものの言い合い。
泉州さんが口をまんまるく開けた。口が臭い。胃が悪いんだろうか。
「嫌う奴なんて、いるのかよ」
片岡くんは首を振った。唇をかみ締めると顔をかすかにゆがめた。いい男風の表情に決まっている。醜くはなかった。
「あんなに精一杯お前のこと好きだって言われて、どうしてあんなひどい言い方できたんだよ。西月さんかわいそうすぎるよ」
「そうだよ、天羽、あんた血が通っていない冷血人間だよ!」
──問題はそれを言って伝わる相手と伝わらない相手がいるってことよ。
肩をすくめて軽蔑のポーズを取るかと思ったが、片岡くんにだけは天羽くん、真面目に話していた。それが紡には意外だった。片岡くんを見上げるようにし、大きく深呼吸をした。
「いいか片岡、西月にお前、なに引け目感じてるんだよ。もうあいつは評議でもないし、E組送りの扱いをされている単なる女子だ。ちゃんとクラスの連中に頭を下げた片岡がびくつく必要なんてないんだ。レベルが合わないとか言って馬鹿にする女子連中の悪口なんて無視しろ。『世界でお前なんかを好きになれるのは俺だけだ』って、俺様気分で奪ってやれ。はっきり言って俺は、西月なんかに片岡はもったいないと思っている。片岡、お前は十分自信持っていい男なんだ。わかったか」
目の前にいる黒い爪の持ち主、泉州さんの逆襲を待った。始まった。
「筋なんか通してないじゃないのよ!」
わきがなんだろうか。脇の間からすっぱいにおいを漂わせるのは止めて欲しかった。
「小春ちゃん今でも、毎日、奇跡が起こるんじゃないかっておまじないしてるような子なんだよ。ペアリングの指輪ビーズでこしらえて待っているんだよ。そんな姿見ていたら、いくら片岡が小春ちゃんのこと好きだって、手を出しようないじゃないのさ。小春ちゃんあんたの写真ばっかり見ているんだよ。ほら、『奇岩城』の台本を」
「あれ俺、生ごみと一緒に処分した」
汗と油のにおい。目の前にはえたいの知れないまなざしの二人。
吐き気がこみ上げてくる。口を抑えたかった。つばを飲み込みこらえた。ハンカチを取り出し、口を抑え、かすかな石鹸のにおいで正気を保った。
「謝りなさいよ! 小春ちゃんの前で土下座して謝りなさいよ!」
紡の目の前で天羽くんは襟首を捕まれて突き飛ばされていた。倒れはしなかったがふら付いた。反抗しようとしなかった。
──結局おふたりとも、何をしたいわけ?
紡は天羽くんの側に寄り添った。一歩前に出た。懸命に止める片岡くんと、腕をぶんぶん振り回すだけの泉州さんを見下ろした。天羽くんの前に立ちはだかった。
「聞きたいんだけど、結局天羽くんは何をすればいいわけ? 話聞いている限りだと、片岡くんが言うには西月さんとよりを戻してもらいたいみたいだし。泉州さんは天羽くんに土下座してもらいたいみたいだし。今の見ていたら、ただ単に天羽くんをどつきまわしたいだけみたいだし。支離滅裂で何がなんだかわかんないのよね」
「近江ちゃん」
横目でにらんで黙らせた。
「結局どうしたいかがわからないから、こちらとしても対処のしようがないのよ。天羽くんの言い分は、片岡くんをA組の人間として受け入れてあげたいってことでしょう。西月さんが好きだったらフリーにしてあげて堂々と口説きなさい、ってアドバイスしてあげただけよ。もちろん西月さんはまだ天羽くんに未練あるみたいだからそう簡単にはいかないけど、泉州さん」
できるだけ顔を背けたかった。
「本当は、西月さんと片岡くんを応援していたんじゃないの? 写生の授業が終わってから二人で探しに行ったんじゃないの。だって天羽くん、このテープに録音されているように、もともと西月さんのことが大嫌いで、これ以上嫌いにならないよう努力している真っ最中なんだから、親友だったらそんな相手と一緒にいて欲しくないでしょう」
「ふざけないでよ! あんた、人の彼氏取っておいて」
「彼氏だと思い込んでいたのは西月さんひとりだけでしょ」
咽元まででかかった言葉を飲み込んだ。
「天羽くんだって人間だから、どんなに努力したって嫌いって気持ちがあふれ出たこと多いと思うのよ。私、その辺はよくわからないけれど、嫌がられているって気持ちを感じられないほど鈍い西月さんに一番の問題があると思うんだけどどうかしら。西月さんがもし、早い段階で天羽くんのことを見限っているか、同じ評議仲間としてだけ割り切って付き合えればきっと、細く長いお付き合いができたし、天羽くんももしかしたらクラスメートのひとりとして受け入れてあげたかもしれないわよ」
「口先だけで言うんじゃない! 小春ちゃん一生懸命だったのに。天羽のこと一筋に考えて必死に尽くしてきて、それで」
「悪いけど、尽くすとか一生懸命とか、嫌いな相手にとっては拷問なのよ」
紡は見据えた。かすかに漂う臭気の中、汚いエプロン姿の母が浮かんでは消えた。
片岡くんだけがうつむいたままこぶしを握り締めている。
「でも、西月さんの鈍感さを責めたってどうしようもないわね。それより目的はもう決まっているでしょ。一本に絞ったらいいんじゃないの。天羽くんは西月さんと縁を切りたい、片岡くんは西月さんのことが大好き、ってことは簡単よ。西月さんが片岡くんと付き合う気になるよう、説得すればいいのよ。できるよね、泉州さん」
激昂した泉州さんの手が紡の襟元に飛んだ。真っ黒い爪垢が目の前にちらりと掠めた。さっき食べたアイスクリームが胃から逆流しそうだった。しゃべれば新鮮な空気が入ってきて楽になる。紡は身をかわした。
「あんた何様のつもりよ! たかが担任の妹だからって。あんただって所詮コネのくせに!」
「恥ずかしいこと? 天羽くんも話していたでしょ。A組は縁故入学のクラスだって」
冷たく言い返した。すぐに反論が帰ってこない。すかさず突いた。
「泉州さん、もしかしてとっくに試してみたの? 西月さん、説得できなかったの?」
ビンゴだ。
紡はかすかに唇へ笑みを浮かべてみた。軽蔑しきった、よくフランス映画に登場する男性があきれた表情に浮かべるものと同じ。伝わらなかったらしく、泉州さんは体臭と熱気をごったまぜにしてさらに接近した。紡は冷静に交わし続けるのみだった。
「私なら簡単に説得する自信、あるわ。ためしてみる? 修学旅行までにはちゃんと答えを出してあげる」
「あんた、小春ちゃんをここまで馬鹿にして楽しいわけなの?」
「あきれてはいるけれど、楽しくはないわ。でも、できれば修学旅行の前にけりをつけたいのよ。天羽くんもそうだし、片岡くんも、私も、ほら、泉州さんだって本当はそうしたいんでしょ。担任の妹としても、やる気なしなしの評議委員としても、やはりこの状況は心苦しいものがあるもの。まかせてもらえる? 決して悪いようにはしないわ」
もう言葉なんて泉州さんには届かなかった。襟元を捕まれた。天羽くんが、
「やめろ! 近江ちゃんに手を出すな!」
と怒鳴りながら背中を抱えてくれたが間に合わなかった。爪で頬に、猫のひっかき傷のようなものが残った。ひりひりする痛みよりも、泉州さんの指に頬が触れてしまったことが何よりも気持ち悪かった。片岡くんが泉州さんの肩を両手でを押さえて、
「だめだよ、暴力はよくない、泉州さん」
とわめいているのをのを、紡は天羽くんの胸から眺めていた。自然、抱き合うような格好を取らざるを得なかった。白いシャツから伝わってくるものは男子くさかったけれど、泉州さんの体臭にくらべたらはるかにましだった。
「近江ちゃん、もういい、いいよ」
小さな声が、ぴくんと突き出たのどぼとけから聞こえた。男子の生臭さがいっぱいなのに、なぜか落ち着いていく自分がわからなかった。胸の中にもたれたまま少し口を覆い、体勢を立て直した。こくっと頷くだけにとどめた。天羽くんは離してくれなかった。さらに力をこめてくる。ふたり相手の言葉なのだろう。言葉が震えて聞こえた。
「わかった。西月には俺の方からきちんと謝る。けど、ひとつだけ頼むな」
「また条件つけるわけね」
鼻で笑うような口調の泉州さん。声を聞いているだけで、胃がひっくり返りそうだった。
「近江ちゃんにだけは一切、手を出さないでくれ」
──天羽くん、あんた謝る必要なんてないよ。なんでそんなことするわけ!
──ちゃんと西月さんの前で天羽くんは、理由を説明したじゃないの。
──「あの人」だって、テープ聞いて何も言わなかったじゃないの。
──西月さんは逃げてるだけなのよ。天羽くんにふさわしくないレベルの自分だってことを、絶対に認めたくないだけなんだから。だから私たちを嫌いになることすら怖くて、それで同情を引こうとしているだけなんだから。
──わかる? 天羽くんならわかっているはずよ。
──あんな女に謝るってことはね、お母さんに謝れっていうのと同じことなのよ!
──ああいう人たちってね、自分が欲しいものを手に入れるためには、自分が具合悪くなったりすることくらい、お茶の子さいさいなのよ。私にはわかるもん、お姉ちゃんだってその犠牲になったんだから。西月さんなんかに謝ったら、だめになるよ。なにもかも。
混乱してきた自分のことば。顔を無意識のうちに天羽くんへ押し付けていた。たぶん不自然に甘えて泣いているように思われたかもしれない。そんなのどうでもよかった。天羽くんに言いたいのに、言葉が胸の中を駆け巡るだけ。だから必死に顔を押し付けた。そうすればきっと、心臓の音と一緒に紡の言いたいことがみな、伝わりそうな気がしたからだった。お姉ちゃんの腕に抱きしめられて、言葉のない思いをなんど伝えたことだろう。大好きなお姉ちゃんにいつもだったら叫びたい言葉。それを今の紡は、天羽くんに伝えたかった。母に泣き落とされ、いつもあきらめていたお姉ちゃんと同じになってほしくない。
──天羽くんには、西月さんに負けてほしくなんかないんだから!
わめき散らしている泉州さんの声と、懸命になだめている片岡くんの男っぽい声を背中で聞いた。天羽くんがさらに言葉を重ねて、
「実言うと、今度の土曜にな。評議委員会の『弾劾裁判』受けることになってるんだ」
「弾劾?」
片岡くんと泉州さんの言葉が同時だった。
「そ。弾劾なんだ。うちの委員長から呼び出しくらった。おまえさんたちが聞いたこのテープ、聞かせて事情を説明したんだけどな。うちの委員長そういうところ潔癖な奴だから、『弾劾』に回すってすげえ激怒しやがったんだ。俺も最初は頭来たけど、そうだよな。当然だよ。俺、西月を人間としてやっちゃいけないところまで傷つけてしまったんだ。どういう結論になるかわかんねえけど、俺は俺なりにきちんとけじめをつける。いつか、西月がふつうにしゃべることができるようになるまで、とことん償いたいと思ってる。許してもらいたいなんて思ってねえよ。お前らも殴りたいとか、文句言いたいっていうならそのまま受けるから」
絶句したのは紡も一緒だった。
そんな話、聞いていなかった。青大附中の制度、「弾劾裁判」に天羽くんがかけられるなんて。
──なんで天羽くん、自分の言いたいことを必死に伝えただけなのに、ああいう同情を買うような女子にさんざん痛めつけられなくちゃいけないわけ?
「ふうん、『弾劾』ね。そんなんで一発殴られて、それで終りなんてことなんて甘いこと考えるんじゃないよ。そんなことで小春ちゃんが許してくれるなんて、勝手な言い分だよ」
「許してくれなんて言わねえよ」
不承不承ながら泉州さんも納得したらしい。両腕を後ろへぐるんぐるんと回した。また悪臭が広がる。紡は顔を上げた。泣いてはいないが、たぶんべそかいている風に見えただろう。片岡くんは嗅覚がもともとおかしい奴らしく、全く平気のへいざで泉州さんへ、
「行こうよ」
とささやいていた。たぶんあいつなら、バキュームカーの汲み取り現場にいても、つらっとした顔しつづけるだろう。
「じゃあ、今言ったこと、天羽、覚えときなよ。忘れたとは言わせないからね!」
思わずふけのドアップを見てしまい、また吐き気がこみ上げてきた。
「ああ、約束する」
じゃあ、と泉州さんは片岡くんに顎で合図をした。行こうか、ってことだろうか。
片岡くんはもう一度紡と天羽くんを眺めた後、
「一度でも、西月さんに、あの、そうしてやったこと、あったのか」
文節を区切り、尋ねてきた。天羽くんはふいっと鼻の穴を天に向けた。
「今度お前がしてやることだろう。がんばれよ、片岡」
二人は遠ざかっていった。自然と汗ばんだ匂いもかすれていったようだった。自転車を押していく羽音めいたものが遠くにひっぱられ消えていった。
天羽くんは身体から紡の頭を離してくれなかった。指先が汗ばんでいるのか、すべり悪かった。顔を見上げると、ちっちゃめに頬をほころばせた。目が合った後、ごくんとつばを飲み込んだ。
「俺、西月にきちんと謝るよ」
「そんなこと、あんたする必要ないって言ってるでしょ。それになによ。『弾劾』って。テープ、委員長に聞かせたらそんな勘違いした返事されたわけ? それっておかしいわよ。そんなの出る必要なんであるのよ」
恨みがましく言ってしまったのが恥ずかしくて、紡は顔を伏せた。すぐにいつもの調子に戻したかった。また目が合った。
天羽くんには似合わない、俳優めいたしぐさで首を振った。
「わかってもらえねえようだったら何度でも。分かってもらえるまでどこまでも話すから、。まずは『弾劾裁判』だなあ。覚悟はしてたんだ」
「わからない人にわかるように説明しただけなのに、なんでそんなに責められなくちゃいけないのよ! いつもそうなんだから。やりたいことやろうとするたび、かならずあんなふうに泣いて、泣いて泣いて、泣き落とすのがあの手の人たちの癖なのよ。天羽くん負けないでよ。あんな人たちに負けたら、許さないから」
傍目から見たらラブロマンスの現場だろうが、今の紡にはそれどころではなかった。明日中にけりをつけるための計画を、天羽くんの白いワイシャツの上で描いていた。
「近江ちゃん俺の胸にどーんと飛び込んできなさい」
知ってか知らずか、天羽くんは脳天気な言葉を口にしながら、また紡の頭に手を当てた。
──「弾劾裁判」なんて、本当の意味と違うのに、いったい立村委員長も何考えているんだろう。
──面倒なのはこれからよ、全く手間のかかる男子なんだから、天羽くんってば。
──西月さんには、ほんの一言言うだけですむのに。なんでこんなに面倒なわけ?
「まだ試用期間中なんだからね」
紡はしばらく天羽くんのしたいようにさせておいた。