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 天羽くんという人は底知れない奴だ。

 泣きじゃくる西月さんを放り出したまま、天羽くんは大学の中庭にもぐりこみ十分くらいで写生を仕上げた。その後さっさと教室に戻って水彩絵の具で色をつけ、三十分前後で全て完成させた。もともと絵が得意なのは知っていたけれども、きっちりと校舎と藤棚の鮮やかな写生画をこしらえるなんて、尋常じゃない。修羅場後に気持ちが落ち着かないだろうという紡の心配もどこ吹く風。時折、

「しゃーないなあ、俺って才能ありすぎるからなあ。色が決まらないんだわなあ。どう、どの色がいいっすか、近江ちゃん」

と話し掛けられるのには参った。

 さすがに紡は、西月さんとのことを心にひっかけたまま、なかなか筆が進まなかった。

 天羽くんが釘をさしてくれたとはいえ、西月さんに恨まれない保証はない。

 取り巻きのおばかな女子たちがうっとおしい。彼女たちに、正当な理由は通じない。また、西月さんの親友・青潟警察署勤務のお父様をお持ちの彼女に職務質問されるのも疲れるだけだ。別に悪いことをしたわけではないし、いざとなったらちゃんとぺらぺらしゃべって、ぎゃふんと言わせればそれでいいのだが。紡は色鉛筆を握り締め、ところどころぐりぐりと芯を押しつぶすように塗った。


 少しずつ、他の連中が三年A組の教室に戻ってきた。グループでまとまって行動するように、という教師サイドの指示は無視されている。それぞれ適当に形だけこしらえた後、さっさと自分たちのおしゃべりタイムに切り替えた奴、公認のデートタイムに設定した奴、さまざまだったらしい。空の水入れとスケッチブックを机に置いて、男子は天羽くんに話し掛け、女子は言いたいことを腹に収めたまま紡をにらみつけてきた。さっきまで紡の悪口大会が行われたのだろう。面と言ってくれても別にかまわない。

「あれ、小春ちゃんは?」

 ふけと油が髪に浮いた女子だった。ぼりぼりと頭を掻きながら、教室の中を見回している。

「天羽くん、小春ちゃんどこいったか知らない?」

「林の中に置いてきた。そこで描くってたから」

「ちょっとあんた、そこに置いてきたって、どういうことよ!」

 天羽くんの欠点・言葉を軽く使いすぎる。

「ひとりで描いていたかったみたいだから」

「あんたが勝手に連れていったんでしょ! なにいきなりハブにするわけなの」

「別に、本人が来たいって言ったから連れて行っただけだろ。俺たちといたくない、って言ったから置いてきた、ただそれだけシンプルなもんっすよ」

 天羽くんの問題点・女子を激昂させやすい言葉は慎むべき。

「まさか近江さんとふたりで、なんかしたんじゃないでしょうね!」

「なんかって、別に、話しただけよ」

 嘘ではないのでそれだけ言っておいた。

「話? まさかまた小春ちゃんにひどいこと言ったんじゃないよね。ちょっと天羽、あんたってば一体何が目的で小春ちゃんをいじめてるわけ? いじめ反対の立場だったくせに、評議のあんたがいじめてどうするのよ! いい、ホームルームにかけるよ」

「どうぞご自由に。証拠物件持ってます」

 簡単に言っちゃっていいのだろうか。他人事ながらぞくっとする。

「必要だったら、先生に話しとくけど、向こうの名誉ってもんもあるからな」

「じゃあ、証拠物件、見せなさいよ」

 天羽くんは紡に目配せした。筆でちょん、と紡の描いている画用紙をつついた。赤が一滴ぽつんと筆から落ちた。 ポケットからマイクロレコーダーを取り出し、天羽くんに渡した。

「誤解曲解避けるため、話し合いの結果を一応録音しておいたんだ。けどな、あんたらに聞かせるには相手の了解も得ねえとな」

 無理やり奪い取ろうと手を伸ばしたところへ、天羽くんはさっと水入れを置いた。ジャストタイミング、彼女の手で勢い良く弾かれ、天羽くんの机および床が水浸し、画用紙もびしょぬれ、大惨事。

「あらら、困ったざんすねえ」

 怒りもしないで天羽くんは、机の前にひっかけてある雑巾を取り出し、さっさと床、机を拭いた。

「ご、ごめん」

「別にいいよ。俺、気にしないから」

 無理やり会話を終わらせるには、相手に気まずい思いをさせて言葉を断つのが一番だ。マイクロレコーダーを天羽くんはかばんにしまい込み、雑巾を絞りに教室から出て行った。もう半分以上完成しているのでそれほど騒ぐことではなかったらしい。ご苦労様。


 西月さんは結局、姿をそれきり見せなかった。

 女子たちが授業そっちのけでひそひそ話をしている。心配しているのか好奇心なのか、そこらへんを追及しはしない。しっかしうるさい。先生たちも頭に来たらしい。五人くらいの女子が怒鳴られ、うち三人が廊下に立たされた。無気力A組にしては珍しいことだった。

「どいつもこいつも、夏が近づいたから頭のねじが緩んだのか! しゃべるのやめ!」

 理科の先生がいらだって黒板を叩いているのを、紡はノート取るためにだけ眺めた。

 いきなり机を雑に鳴らす音が響いた。

「どうした、泉州さん」

「西月さんが戻ってこないんです。先生、私、心配なんで外、見に行っていいですか?」

 西月さんの親友で、かつ不潔極まりない女子だった。

「一、二時間目は来ていたのかい?」

「はい、写生の間はいました。けど、まだ戻ってきてないんです」

「よろしい、それなら狩野先生に知らせておいたほうがいいから、少し待ってなさい。泉州さんは行かなくていいよ」

 泉州さんはむすうとした顔で口を尖らせた。しぶしぶ席についた。先生の言うことはごもっともだ。生徒に呼びに行かせたはいいが、一緒にとんずらされるとも限らない。信用するもんじゃない。よたよたと、教室を出てあの人……狩野先生……に声をかけに行く先生を見送った。扉が閉まったとたん、女子たちのざわめきが破裂した。 泉州さんを囲んでバリケードが張り巡らされている。

「小春ちゃん、戻ってこないって変だよね!」

「うん、私も変だと思うんだ。だって小春ちゃん、授業をサボってしまう子じゃないもん。真面目だしね」



 紡は天羽くんの入っている男子グループに混ぜてもらった。クラス中、かっこいいと思われているらしいグループである。どこが、というのはあえて言及しない。派手に目立つことは確かだが、紡にとっては同じ感覚でしゃべることのできる、それだけの集団だ。冷やかし声をあしらうのも悪くはない。

「なんかしたんだな、天羽」

 天羽くんはにこりともしなかった。

「昼休みに状況説明の集会やるわ」

 ──状況説明?

「二次災害の恐れもあるんでな」

 男子が積極的に西月さんをかばわなかったということからして、早い段階で天羽くんは報告していたのかもしれない。女子たちと、一部の目立たない男子を除いて、天羽くんが西月さんを振ることについては賛成の意を表していたようだ。紡の方にぽんと「なあにさ、あんた」としなしなしてみせた男子が言う。

「あーあ、しっかし、お前らってよくわからないなあ。近江は女子専門だってのに、天羽は近江専門だろ、不毛な関係だよなあ」

「別に、あんたたちが思ってるほど不毛じゃないわよ、ねえ、天羽くん」

 一緒に落語や漫才聞きにいけるし。たまには解説者になってくれるし。困った顔で天羽くんは頷いた。

「近江ちゃんは手ごわくてねえ」

「けどな、おめえらも気、つけろよ」

 声を潜めて、ひとりがささやいた。

「女子が団結した時は怖いものなしだからなあ。間違っていることを、あいつら集団の論理で、無理やり押し付けるからなあ」

「『一途』とか『一生懸命』とかいう言葉でね」

 話の腰を折るようだが言わずにはいられなかった。

「『一途』な思いは、暴力と一緒よ」

 五人で大受けしてしまったので、「暴力的」女子の視線で背中を貫かれた。怖い怖い。

 理科の先生が戻ってきてそれ以上はなにごとも起こらなかった。


  四時間目が始まった。社会・歴史の授業だった。菱本先生が出席を取りながら「か」の行で止まった。

「おい、かたおかー、かたおか、つかさ、いるかあ? いないのかあ? めずらしいなあ。また課題どっさり出すぞー!」

 片岡くんの姿が席から消えていた。ざわめきが泡立ち消えた。

 横目で紡は泉州さんの様子をうかがった。相変わらずべたついた髪の毛が遠くからも目立っていた。

  やはり片岡くんの机に視線を流していた。不安そうだった。

 ──きっと、片岡くんが探しにいったか襲いに行ったかのどちらかだと思ってるわけね。

 

 天羽くんはどうして、修羅場の席にわざわざ紡を連れて行こうとしたのだろう。状況録音テープをダビングなしで二本こしらえたかったからではないだろう。西月さんとふたりっきりだと手に負えなくなるからだろうか。紡も男だったらそうするだろう。他人に聞かせてちゃんと言い訳できる内容を話せばこれほど強い味方もない。西月さんひとりがヒステリー起こしただけで、天羽くんはいたって冷静だった。もし西月さんが友だちや先生連中に聞かせて同情を買おうとしても無駄だ。あのテープ内には、みっともないくらい乱れた西月さんの声がありのまま残っている。天羽くんを追い詰めたつもりが西月さん自身の未練と恥をさらすことになる。どちらにしても、天羽くんは紡を選び、守った。西月さんに礼を尽くした。おそらく誰にも話したことのない秘密を話したというわけだ。それについては紡も納得だった。宗教がらみの理由ならば、「話す必要はない」だろうし、言うのも勇気がいるだろう。

 ──まあね、宗教がらみだとは思わなかったわ。

 理由はすとんと腹に落ちた。「かの子放送局」で仕入れた情報によると天羽くんのコネは書道家のお爺さんに関係しているらしい。芸術の著名人ということだと宗教団体の広告塔として利用されていた可能性は高い。子どもの頃から特有の神様を拝むなり、団体に参加させられるなりさせられていたのだろう。信じるのも安易といえばそれまでだが、小さい頃から刷り込まれていれば信じてしまうのも無理はないと思う。もっとも「嫌いな人を好きになろう」というのは教義ではないだろう。単なる道徳だ。大人が喜んで押し付けたがる白々しい願望に他ならない。

 小学校高学年から中学二年にかけての天羽くんは、そういうことを素直に信じる、おばかな子どもだったと紡は解釈している。

 なにかの拍子で「嫌いな奴を無理やり好きになる」なんてことが苦痛以外の何ものでもない、と気付いたとたんさぞや天羽くんは苦しんだだろう。いつか紡が、「親だからがまんしなくてはならない」とばかりに、お姉ちゃんの結婚式で花束贈呈させられた時のように。親の心子知らずとはいうけれど、紡からすれば押し付け以外の何ものでもなかった。

 もし西月さんと「付き合い」まで持っていかなければ天羽くんはとことん「人のいいおちゃらけ評議」を演じきって卒業したに違いない。紡もそれには騙されていた。余りにも完璧に「西月さんが大好きな天羽くん」を演じすぎたあまり、立村評議委員長を始めとした評議委員連中が懸命にふたりを公認カップルにしようとしたのも、よけいなお世話とはいえ当然の成り行きだったのかもしれない。「奇岩城」のキャスティングからしてそうだ。ルパンとレイモンドの恋人同士に天羽くんと西月さんをあてがうなんて。清坂さんも後悔していたけれども天羽くんの名演技には誰もが騙されるだろう。自分と西月さんとの間だったら、卒業と一緒に早く縁を切ることができただろう。評議委員会を巻き込んでしまった以上責任は取った。その辺、律儀な奴だ。西月さんのためではなく、周りのためだったのだろう。

 しかしなんで西月さんは、天羽くんの真っ黒い嫌悪感に気付かなかったのだろう? 二年間もくっついていて、それを肌で感じなかったことがなによりも不思議だ。 もちろん周りの友だちを騙すのは簡単だろうが、嫌いというサインはもっとあっさりと感じ取れるはずなのにだ。

 ──どんなに努力しても、頭の悪い人ってどうしようもないのよ。

 紡は西月さんに同情する気などさらさらなかった。


 片岡くんは一度昼休みに戻ってきた。給食に配られるコッペパンと紙パックの牛乳だけポケットに押し込み、黙ってかばんを持ち出て行った。直前に泉州さんへ近づき何かを耳打ちした。

「え、それほんとなの!」

 たまたま昼休みは男子一同みな、体育館でバレーボールかバスケかのどちらかに燃えているはずだった。一応そういうことになっている。天羽くんが状況説明をしているとは思っていない。教室には女子二、三人しかいなかった。集団で女子たちがざわめいている状況ではなかった。片岡くんだって話し掛けられなかっただろう「下着ドロ菌」がつくとか行って避けられない状態でなくてよかった。

  紡の顔を泉州さんはにらみつけると、つかつか近づいてきて真っ正面に立った。もわっとして臭い。

「聞きたいんだけど」

「何を。西月さんのこと?」

 早くけりをつけたかった。紡は机の前でとんとんとカンペンケースを立てた。

「よくわかってるわよね。小春ちゃんを置いて、天羽と何話してたってわけよ」

「だからあのテープに全部録音されているわ。頭の中、演芸と落語のことしかないような天羽くんがね、精一杯話をしていたわけよ。ただ西月さんに日本語は伝わらなかったって、それだけよ」

 いきり立った泉州さんに近づいてきてほしくなかった。片手で制止する真似をした。

「天羽くんも話し合いを録音したということは、ばれてもいいと覚悟したってことよ。西月さんにももう一本、あっちはカセットテープの方だけど渡してあるから、それを聞いてもらえば一目瞭然よ。安心して。私は別に、西月さんをいじめたいとなんて思ってないわ」

 鐘が鳴るまであと三分ほど。女子たちが廊下を走っているのが聞こえる。教室にもだんだん戻ってきている。一応は礼儀ということで、聞いてみた。

「さっき片岡くん何か話していたみたいだけど、どうしたの」

「あんたには関係ないわよ!」

 完全にぶち切れてしまった泉州さんは、髪からふけをぱらぱら落としながら……日の光が鮮やか過ぎて、空気の中に飛び散るごみが一緒に見えるのだ……教室から飛び出していった。紡はそっと肩のところをはたいた。ふけなんて落ちてないとわかっていた。


「評議のふたりは、放課後、生徒指導室まで来てください。修学旅行のことで少し、お話したいことがあります」

 いつもと変わらない銀縁めがねの「あの人」は、紡と天羽くんを静かに見つめた。

 五時間目、六時間目、結局片岡くんと西月さん、それから泉州さんの三人が戻ってこなかった教室の中、ひんやりした空気が漂っていた。だいぶ蒸してきているはずなのだが、女子たちの口から漏れるひそひそ話と、男子たちの重たい沈黙がどこか冷たかった。ターゲットにされているのが自分だと感じている紡と天羽くん。笑顔が戻ってこなかった。

 天羽くんに振り返り、もう一度頷いてみせた。天羽くんもじっとにらみすえるようにして親指を立てた。

 とりたてて感情が溢れているわけではなさそうだった。どうせ今日、評議委員会もないし、来週から修学旅行の準備をすればいいということで問題はなさそうだった。

 ──聞かれたら、答えればいい。それだけのことよ。

 天羽くんのマイクロレコーダーの中身を思い出した。ほんの少し紡は不安を覚えた。

 ──聞かせるつもりなのかしら。



 女子たちの牽制しあう視線を無視して紡はろうかに出た。天羽くんも男子たちに二言三言、何かを指示した後紡と並んだ。かばんをぶらさげて、鼻をすすった。

「修学旅行の話なわけないよね」

「ああ、そうだな」

 すっきりした、という気分ではなさそうだった。少なくとも演じているわけではなさそうだった。

「近江ちゃん、悪かったな。巻き込んじまって」

「どうせ言わなくちゃいけないことでしょ、当然よ。ただね」

 紡は数度、すれ違う他の男子たちに片手を振りながらつぶやいた。

「西月さんをそのまま置きっぱなしにしたのはまずかったかもね。ちゃんと言い含めて教室に戻すとこまでした方がよかったかも」

「そうか、そうだよなあ」

「天羽くんは昼休み、ちゃんと男子たちに話したわけ? 状況説明集会」

 理科の授業中に聞いたことを確認してみた。頷いて頭をぼりぼりとかいた。

「一応な。納得はしてもらった。体育館の隅っこで俺なりの理由とこうしたいってことをな」

「宗教団体の話も、したわけ?」

 立ち止まった天羽くんは、下を向いてしばらく片方のこぶしを握りしめたまま見つめた。

「いろいろ社会問題起こしている団体だからなあ、俺にとってのトップシークレット、だったんだ」

 確かに紡もその件は知らなかった。お姉ちゃんもかぎ出すことはできなかったらしい。

「けど、いつかはばれるもんなんだな。不自然なことしていると、大抵こっちの方からぼろがでるってわけなんだな」

「別に、クリスマスケーキ食べられて、お正月はお年玉もらえればそれでいいじゃないの」

「近江ちゃんとしゃべってると、世の中平和だなあって思うぜ」

 相変わらず、紡にだけは笑顔を見せてくれた。二時間目以降、初めての笑顔だ。

「たぶん大丈夫だとは思うけど、近江ちゃんにもしあいつらが、よけいなことしだしたら、その時は俺が近江ちゃんを守る。その点だけは安心してくんろ」

 なにが「守る」なのだろう。なんとなく違和感がある言葉だった。「付き合い」は一緒に馬鹿笑いできる演芸を見に行って、気軽におしゃべりできればそれで十分。別に「守られる」必要なんてない。

「別に、いいわよ」

 と遮ってはおいた。

 天羽くんにとって例の宗教問題というのは、どでかい重石だったのだろう。家族で脱退でもしない限りどうしても抜けられない底なし沼のような場所だったのかもしれない。本当だったら卒業まで内緒にしたかっただろうに。けどそのことを話さない限り、西月さん問題を片付けることはできないし、一度口にしてしまったら最後、天羽くんの方が色眼鏡で見られる可能性もある。「宗教団体がらみの献金によってコネ入学した」こともさることながら、「宗教団体がらみの目標でもって、嫌いな女子と付き合うとこまでいった」というのも軽蔑される原因となるだろう。周りの女子たちからは片岡くんと同じ目線で見られるかもしれない。

 女子にばれる前に、男子に手を回しておく。片岡くんの下着ドロ告白でもやった手回しのよさ。 つくづく、天羽くんというのは頭がいい奴だと思った。

 

 三階の生徒指導室の前にて、天羽くんがノックするのに任せた。

「失礼します、入りまっす」

 返事がないのでさっさとドアを開けた。夏が近いせいか、窓辺にはレースのカーテンで軽く目隠しされていた。聳え立つ大きな木が青々としていてまぶしかった。寒くも暑くもない、ちょうどいい部屋だった。

「返事しなくて申しわけないです。こちらに座ってもらえますか」

 相変わらず生徒にも敬語を使う「あの人」……狩野先生……は黙ったまま、ソファーを指差した。おそろいのソファーカバーが整えられていた。飲み物を用意しようとしているらしく、缶ジュースを二本取り出した。自分の分はいらないらしい。

 天羽くんを内側に、紡は出口側に腰掛けた。「あの人」は真向かいに白衣のまま座った。表情は一切読み取れなかった。いつも通りとも思えるし、またそうでもないとも感じられた。

「天羽くん、今日どうして来てもらったかは、きっと気付いていると思います」

 ──何もここで素直にうなだれるのはやめなさいよ。全く根性なし!

「僕の方からは何も言えません」

 ──だから何のことですかって返事しなさいよ!

 紡が隣りの天羽くんを罵っている間、無言となった天羽くんは膝を広げた間に顔を突っ込むようにしてうなった。

「聞かせてもらえますか」

 ──とぼけなさいよ!

 西月さんが泣きながら直訴したのだろう。先に帰るかなんかしたのだろう。ついでに泉州さんあたりの援助射撃もあれば完璧だ。

  アイスキャンデー型の顔をした「あの人」は、鵜呑みにしてしまったのだろう。

 少なくとも天羽くんは西月さんをいじめたわけではない。

「ほら、聞かせてあげなさいよ」

 ささやいた。 「あんたは悪いことをしているわけじゃないんだから」

 きっと「あの人」を見つめ返した。全く動じない瞳の「あの人」は、ただ黙っている。こうやって返事させて、反省させて、泣かせようとするのが大人のやり方とするならば、紡は受けて立ちたい。

「先生、天羽くんは決して悪いことをしたわけではないので、理由を聞いても問題はないかと思います。私も立ち会っていました」

「それは聞いてますよ。でも、第三者からではなく、直接本人から聞いた言葉を信じたいんですよ」

 ──誰から聞いたんだか。

 担任たる「あの人」を信じられるかどうかは別としても、すべてをあっけらかんと話してしまった方があとあと楽なはずだった。紡は天羽くんをもう一度つついた。 「かばんからテープ、出しなさいよ。聞かせてやりなさいよ、洗いざらい」

 のろのろと天羽くんはかばんに手をかけた。意志も紡に操られるまま、といった風だった。

「先生、すんません」

 ──だからなんで謝る必要あるのよ!

「俺、近江ちゃんを守り切れなかった」

 ──だから勘違いするんじゃないわよ! 誰が守ってほしいなんて思ってるのよ。

 天羽くんの紡に対する勘違い、そのものだ。

 とうとう、顔をゆがめて天羽くんはマイクロレコーダーを机に置いた。ポケットに納まる程度の細長いレコーダーを受け取り「あの人」はしばらく眺めていた。

「これは?」

「俺、この前付き合いかけた時、ちゃんと西月……さんとけりつけて、近江ちゃんにも迷惑かけねえようにするって約束したはずなんだけど、結局へまやっちまいました」

 ──あんたちょっと、勘違いしているんじゃないの?

 だんだんわけがわからなくなってきた。紡が口をあけたまま天羽くんの横顔を見つめている間、ひたすらこぶしを握り締めつつ語り始めるのはなぜなんだろう。しかもなぜ、紡のことを「守れなかった」とか、意味不明なことを言うのだろうか。

「一通りこれをまず聞きます。話はそれから、ゆっくりしましょう」

 マイクロレコーダーのスピーカー部分を耳に当てるようにして、「あの人」は窓辺に立った。唇をかみ締めるように、外の木々を眺めながら、じっと遠くを眺めていた。 その間天羽くんはじっと紡の方を見つめ、かすかな声でささやいた。

「俺、近江ちゃんがいたから、自分を見失わないですんだんだ」

 ──だからなんだってのよ。

 つっこみを入れるのはあきらめた。なんとなく笑ってみたくなった。

「だから、もし女子たちが近江ちゃんに手出ししたら、その時は容赦なくぶった切る」

「そんなやわじゃなくってよ」

 古風な言い方をしてみた。


 「あの人」が聞き終えるのはあっという間だった。

 すぐに聞き終えたらしい「あの人」は、ぶらんとマイクロレコーダーを持ったまま向かいの席に座り込んだ。大きくため息を吐いた。

「もし、ここで西月さんに謝るチャンスを僕がこしらえたとしたら、天羽くん、あやまりに行きますか」

 ぐっと息を呑んだ様子。天羽くんはうつむいたままだった。

「今、西月さんがどんな思いをしているかを、考えてみましたか?」

「けど、俺は、言ったことを後悔してません」

 背を伸ばし両手をテーブルについて、天羽くんは前かがみのまま言い切った。

「確かに、すげえきついことを言ってしまったとは思うし、向こうを傷つけてしまったのは申しわけないと思うけど、だけど」

「だけど?」  めがね越しのまなざしがちくっと光ったように見えた。

「俺が今言ったことは、みな本当のことだから、消すことはできねえってことです」

「本当のことだから?」

「そう、俺、ずっと西月……さんのことが嫌いだったってことは本当なんだってことです」

「クラスメートとしての付き合いも難しいくらいにですか?」

「もう、限界を超えてしまってるし」

 唇をかみ締めるとまたうなだれた。ガラスのテーブルに置かれた缶ジュースを握り締め、

「言いたいこと言われて、べたべたひっつかれて、裏表あるおしゃべりに付き合わされて、受けもしないギャグを飛ばす羽目になって。評議委員として、一緒にやっていくだけなんだから、うまくあわせるつもりでやってきたけど、でも、心底おげっとくるくらい、ああいう女子が嫌いだってことに気付いてから、もう俺は学校辞めたくなるくらい、がまんできなくなったんです」

「退学ですか」

 A組は二年の夏休み後に退学者を出している。。

「西月さんが悪いわけじゃない。俺とたまたま相性が悪かっただけだし、俺がもう少しわかりやすく向こうを遠ざけるかすればよかったと思うけど、もう俺も変になりそうでした。近江ちゃんがいなかったら、ほんと、俺」

 じんと、蛍光灯の方から音が響くだけ、あとは天羽くんの言葉だけだった。

「好きと嫌いの概念ってやつ、ぶっ壊れたままだったかもしれないです」  

  喜怒哀楽の感情を一切見せない目の前の「あの人」は、肩をかすかに落とした。

「天羽くん、明日以降、教室に戻ってきた西月さんにはどう接するつもりでいますか?」

「えっと」

 鼻をすすり上げると、天羽くんは天井を見上げ頭を抱えた。

「他の、しゃべらねえ女子と同じようにすればいいかなって思ってます」

「つまり、話し掛けない、何も言わない、ですか」

 答えられずに天羽くんはそのままうつむいた。

「無視は、しません。ってかそうすると、女子たちが片岡に対してやってるのと同じになっちまうから、話し掛けたらそれだけ返事して、って感じで」

 ──もう話し掛けないわよ。あれだけ露骨に拒否されたら。それともあの人鈍感だから、何やっても無駄かしら。

「だって、うっかりすると、たぶん俺は、クラスのいじめをもっかいやっちまう可能性あるからです。俺はそんなことするべきじゃねえって思ってるし、やめさせたいけれど、けど、あの女……西月さんの顔見ているとどうしようもなくむかつくだけなんで、自分で自分の約束を守れなくなっちまうから。だからできるだけ接触しないようにしたいんです」

 「あの人」は手を組み合わせて、もう一度ため息を吐いた。


 何を天羽くんは求めているのだろう。

 どうしたいんだろう。

 紡はしばらく黙りこくった男ふたりの間を、視線だけうろうろさせた。

 答えが出ないのだろうか。「あの人」も教師だ。本音がどこにあるとはいえ、天羽くんのことを素直に認めるわけにはいかないだろう。

「そんなのはお前の身勝手だ! 天羽、お前がやってることは自分の好みだけで勝手にいじめているだけだ」と怒鳴るかもしれないし、「努力したのは立派だ。なぜそう押し通さない?」と説得するかもしれない。また、「西月さんは傷ついている。謝りにいきなさい」と指導するかもしれない。

 どの答えも出そうとはせず、天羽くんの様子をずっと観察しているだけだった。

 ──表面だけよくして、適当に先生の前だけで謝っておいて、後は無視すればいいのよ。

 紡だったらそうするだろう。面倒なことはいやだ。表面上は仮面をかぶればいい。

 天羽くんはやはり紡が思った以上に純情だったらしい。林の中での言葉をすべて録音し、担任に聞かせようとするなんてことをするくらいだ。へたしたら揚げ足取られてとことん罵られないとも限らないというのに。紡からしたら甘いとしかいいようない。本当に嫌いな奴から縁を切るのだったら、方法を選んではいられないはずだ。

 紳士としてきっちりとけりをつけたい、そう天羽くんは言っていた。

 紡にふさわしい男として接したい、そんなことも口にしていたような気がする。

 でも、それって不可能なことじゃないだろうか。人間として頭のいい女子相手にだったら、天羽くんのやり方も通用したかもしれない。早い段階で「あ、この人私のこと嫌ってるのね、じゃあ早いうちに普通のお友だちで通しましょ」と割り切ってきれただろう。西月さんは救いようのないバカ女子だった。だから、天羽くんの出した拒絶を一切読み取らずに張り付いてきた。紡からすると自業自得だと思う。頭が悪いということは、それだけで犯罪だ。

 男子は幸い、天羽くんがなんとか話をつけたらしいが、女子が問題だ。西月さんが泣けば、それだけでみな同情票を入れるだろう。天羽くんが二年間、理不尽な行動に苦しみ、自分が新興宗教関連に入れられていたこととかを口に出せず悩んでいたなんて、全く考えようとしないだろう。片岡くんがあやまったにも関わらず今だ「あの、下着ドロが」と軽蔑しているのと同じように、天羽くんも同じことになるだろう。


「すみません、どうでもいいんですがいいですか」

 男子ふたりの間に割り込むのもなにかと思ったがしかたない。紡は少し大人っぽく聞こえるような言い方をしてみた。「あの人」は紡にかすかに笑みを浮かべた。

「どうしたの」

 あら、敬語を遣わない。珍しい。思いつつ紡は思いつくまま並べてみることにした。

「私も、天羽くんと西月さんが話をしているところに立ち会ったんです。このテープを聞くだけだと、たぶんみな天羽くんが悪いと思うかもしれないので、私なりに補足したいんですけれどいいですか」

「近江ちゃん!」 

 素早く膝に手を置いてやった。すぐに手を引いた。黙った。

「この時に初めて私も知ったことですけど、天羽くんの場合、昔入っていた宗教の問題がからんでいたらしいですね。天羽くんなりにも悩んでいたようですけど、それはどうでもいいんです。私としてはそれ、関係ないです。ただ、問題なのはどうして天羽くんが、そのことを他の男子たちに話せなかったかってことです」

「な、なんだよ」

「あんたは黙ってて」

 唇に熱を込めて制止した。

「少し話が飛びますけれど、A組は以前から『縁故入学クラス』と呼ばれてきています。実際私だってそうですし、ほとんどの人がそうだということを自覚しているはずです。どうしてもそのあたりで引け目を感じている人が多いはずなんです。もちろんぺらぺら言いふらすことではないですし、そのことによって周りからやっかまれることもかなり多いでしょうから、隠すのは仕方ないでしょう。でも、『縁故入学』そのものを神経質に隠したりするのはどうかな、と思います。私からすると『縁故入学』はひとつのきっかけに過ぎなくて、それから先が問題だって気がするんです。一般入学した人たちからすればもちろん『ずる』をした風に見えるだろうし、こういっちゃなんだけど裕福でもあるのは否定できないかなと思います」

 

  お姉ちゃんの旦那さま、大好きなお姉ちゃんを奪った人。

 この人が学校で悪いことをしていることがわかれば、お姉ちゃんと別れさせることができる。六年の秋、そう思いついて青大附中を受験したいと言った時のことだった。縁故入学なんて言葉も知らなかった。母が「あの人」に話をしてくれると聞いた時、わざと甘えた風に、

「私、お兄さんのクラスに入りたいなあ。どんな生活しているかわからないもんねえ」

とつぶやいた。それが本当になるとは思わなかったし、「あの人」からも直接、

「紡ちゃんは成績だけでもちゃんと青大附属に入ることができるんだから、自信持っていいんだよ」

と言われていた。彼なりの思いやりだったのだろう。そんな優男の仮面をひっぺがして、お姉ちゃんに悪口言いつけてやって、できれば生徒に手をつけているというスキャンダルを発見して、離婚まで持って行ってやる、そう決めていた。幼すぎる十二歳の決意だった。

 今思えば笑える。紡なりに計画立てて、事細かに「あの人」の行動を観察していたけれども、味もそっけもない地味な教師という以外、非の打ち所がないという現実に打ちのめされていた。もちろん生徒同士での教師批評なども耳にしたけれども、狩野皇人という中学教師がある意味紡と相性の合う担任だったということを思い知らされていた。

 クラスの連中には不必要に干渉しない。そのくせ見るところはしっかり見ている。敬語で話すのは、自分が教師である以上、無意識のうちに見下す態度が出てしまうことを防ぐためだという。片岡くんの事件の時も素早く対処してクラスに情報が漏れないように処理した。クラスから出た退学者にも最後の最後まで面倒を見て、公立中学に転校した後も定期的に連絡を取っているらしいとお姉ちゃんから聞いている。「E組」のことだって、本当は駒方先生だけがひとりで担当するつもりでいたのに、あの人が自分から立候補したらしいということも。傷を上から見下ろすのではなく、同じ位置に立ちたい、そうお姉ちゃんにいつも晩酌の時に語っていることも。

 悪いところを見つけたい、そう思いつづけていた二年間なのにだ。

 結局は、お姉ちゃんが惚れる理由ばかりを発見するだけだった。


「私が提案したいのは、天羽くんのように本当に言いたいことを押えている人が、もっと楽に呼吸できるよう、A組を居心地よくすることです。まず最初に『縁故入学』このことをもっとおおっぴらにすることです。せっかく同じクラスに『縁故入学』の生徒が集まっているわけですから、同じような悩みを持っている人もいるでしょうし、もっと気軽に話しができれば、もっと楽な形で片付けることができたと思います。西月さんのことについてもそうです。男子たちがもっと早く気付いて、女子たちの反応をうかがいながら処置をすることもできたでしょう。先生にも早く情報が届いたでしょう。少なくとも天羽くんがここまで神経ぼろぼろになるくらい傷ついて、周りから反発を食らうこともなかったでしょう」

 ここで一息。ジュースを飲む。天羽くんがおそるおそるといった風に自分の分をずらしてよこした。

「今までは西月さんがやたらと、『縁故入学』という言葉に過剰反応してしまい女子を中心に決して言ってはいけないことという意識を植え付けてきました。それが悪いとは言いませんけど、本当のことを言いたくても言えないという息苦しさがあったのは否定できません。それに、片岡くんのことだってそうです。あの事件の時、もっと早く片岡くんを犯人としてあげて謝らせることができれば、二年も引きずることなく済んだはずです。あの問題も結局は噂が噂を読んで、金でけりをつけたんじゃないかという情報が流れて、それでみんなから嫌われてしまったってことです。もったいないことをしたんじゃないでしょうか」

 この辺は本当のことだから、たくさん語る必要はない。

「ですので、今後は日常的に『自分らは縁故入学してきたんだ』ということを話すことのできる環境に持っていき、A組の中だけでも一息つける状態にすることが大切なのではないでしょうか。そうすれば天羽くんや片岡くんのようなことは少なくなるでしょうし、これ以上退学者も出てこないでしょう」

 気取った言い方だと自分でも思う。

「私もこの二年間、天羽くんと西月さんを見てきましたけれども、天羽くんは必死に妥協しようとしていたのが見え見えでした。別にそんなじろじろ見ていたわけではないですけれども、嫌いな相手によくぞあそこまで妥協してきたなあって思いましたし。天羽くんの言うとおり、これは個人の好みであって西月さん本人が悪いわけではないですけれど、いるだけでむかつく相手である以上、できれば遠ざけたいってのも本音です。天羽くんが偉いのは、それでもきちんと人間として付き合っていきたいと言っているところです。西月さんがどう思っているかは正直なところ想像つきませんけれど、お願いできるならば天羽くんに『嫌う権利』だけ認めてあげてほしいと思います」

「『嫌う権利』とは?」

 手元が暗くなってきた。心なしかジュースの味が苦い。

「お互い距離を保つ代わりに、心の中でどう嫌っても文句を言わないでほしいってことです。反対に言えば、西月さんも天羽くんや私を憎んでもいいんです。きっと先生たちは、天羽くんに『嫌いになるな!』というでしょうけれど、そんなことをしたらまた天羽くんは不安定な状態になってしまうでしょう。無理に大嫌いな相手に優しくしすぎて、かなり神経にもきちゃってるんじゃないかって思います。これ以上天羽くんが苦しむのを観るのは、こういっちゃなんですけれども心苦しいので、そういうことだけを西月さんにお願いしたいと思ってます」

 ──『嫌う権利』勝手に口から出ちゃった。

 思いつくものをすべて言い尽くした。目の前の「あの人」はじっと紡の口元を見つめていた。時折光っていたまなざしは部屋の中が暗くなると同時にすすけて見えなくなってきた。天羽くんだけがすっかり後頭部をかかえるようにしてうつむいている。紡は咽が渇いたので一気にジュースを飲み干した。

「では、そのことを他の人たちには言えますか? 聞く人にとっては抵抗を覚える提案かもしれませんよ」

 波のない言葉に、紡は数秒考えた後答えた。

「大丈夫です。クラスの人たちには別のやり方で伝えます」

「どのようにですか?」

「天羽くんにまず、『縁故入学』に関することの説明と自覚を持ってもらうための演説をしてもらいます。最初のうちは女子たちあたりがぶうぶう言うでしょうけれど、そんなの相手にしたってばかばかしいので無視します。どうせ時間が立てばそれも普通になると思います」

「それから、『嫌う権利』は」

「あまり波風立てるのは私の趣味じゃありませんし、さっきのテープにも録音されていたように天羽くん、すでに西月さんへ何度も『嫌っていい』と言ってます。本人がそれを覚えているようでしたらそれで済んでます。わからない行動を取られたら、天羽くん本人に何度も言ってもらえればいいです。そこんところは私も関知しません。女子たちにはむしろ、片岡くんの問題ということで理解してもらったほうがいいです。片岡くんの『下着ドロ』事件は女子にとってどうしても受け入れられないことです。だからこそ女子にも『嫌う権利』を認めさせてあげることが必要だと思います。その代わり、露骨に嫌いだというのではなく、表面上はきちんとクラスメートの行動を取ることを約束してもらうんです。何も隣りの机になったら露骨に離すとか、給食を運ぶ時に片岡くんの席にだけじゃんけんで決めるとか、そういう行動は一切なくする代わり、心の中ではいくら毒づいてもいいんだってことを伝えてほしいんです。本当だったら私がするべきところでしょうが、見事に嫌われてますから、別の機会にでも先生が話してくれればいいと思います」

 「あの人」……狩野先生はゆっくりと頷いた。

「このことを行うとなると、一日、二日ではすみません。評議委員として時間をかけないとできないことですよ。それでもいいですか、紡……近江さん」

 迷わず答えた。

「かまいません」

「そうですか」

 軽く咳払いをした後、狩野先生はもう一度ふたりの方を見た。かすかにめがねが光っていた。

「ひとつだけ忘れないでいてほしいのは、おふたりが思っているより遥かに、傷ついている人がいるということです。わかりますか」

「傷ついている?」

 やっぱり西月さんのことを反省させようとしているのだろうか。天羽くんは身動きしなかった。

「さっき、西月さんの様子を確認しました。想像以上に彼女は傷ついてます。たぶん、おふたりが考えているよりもはるかに、です」 「でもそれ以上に天羽くんは傷つけられてきたのに」

 言いかけた紡を遮った。

「人の心の傷は、自分の心では計れないものです。だからひとつだけお願いしたいのは、明日以降西月さんがひと一倍傷ついた状態でいることを忘れないでほしいのです」

 ──またうちの母さんみたく、「私ってかわいそうでしょ!」って泣いた真似するのよしょせん。

「天羽くんがどんなに努力しても、西月さんを好きになれなかったのは仕方ないことでしょう。人間誰しも好き嫌いがあります。あと一年ちょっとだけがまんしていってくれるのだったら、僕は何も言いません。ただ、これだけは忘れないで下さい」

 しつこくて、聞き流したかった。

「西月さんは僕たちが想像している以上に傷ついているということだけ、心に留めておいてください。その傷が癒えることだけを祈ってあげてください。どんな理由があろうとも、天羽くん、君の言葉で確実に西月さんは悲しんだと言うことを忘れないでください」

 結局この人も、根は教師だってことらしい。味方じゃない。


 帰り際、「あの人」は紡を呼び止めた。 「紡ちゃん」  と呼んだ。

「今夜、僕は家に帰れそうにないのでうちに泊まっていらっしゃい」

「え?」

 言っている意味が掴みかねた。かすかに微笑んでいた。「かの子ひとりだと無用心だから、紡ちゃんに居てもらったほうが助かります。かの子も淋しがってますよ。紡ちゃんが最近遊んでくれないといって。ほら、『アルベルチーヌ』という喫茶店のケーキをまた食べに行きたいとか言ってますよ」

 ──お姉ちゃんがそう言ってるんだ!  

 言いたいことをしゃべり尽くした快感と、明日から続くであろう評議委員としての重たい仕事、天羽くんの落ち込み気分の伝染、などなど混じったへんてこな気分で紡はOKした。

「では、家に連絡しておきますね」

「どこか行くんですか」

 ──まさか浮気?

「かの子に変なことを言わないでくださいね。あの人は本気で心配しますから」

 曖昧は返事をした後、駒方先生の名刺を渡してくれた。

「なにかがありましたら、駒方先生のところに電話を入れてください。すぐに僕に連絡してくれます」

 ──浮気だったらラッキーだったのに!


 紡はこくっと頭を下げて、先に出た天羽くんを追いかけた。すでに廊下のところで元気回復している様子だった。後ろに手を回し、ピノキオみたいに歩いて見せた。

「近江ちゃん、さっきは、あの……ありがとござんす」

「無理しておちゃらけてても無駄。落ち込む時は落ち込んでれば」

「いやあのう、近江ちゃん、なんであんなこと、いきなり」

 ここでうっかり、誤解されるとまずいので釘をさしておいた。

「前から言ってるでしょう。私の好みは女子専門だって。色恋沙汰のお付き合いは一切なし」


 一日おいて次の日、紡は義兄が口にした言葉の意味を、初めて知ることになった。

 ──西月さんは僕たちが想像している以上に傷ついているということだけ、心に留めておいてください。

 西月さんは、ものいう言葉を失っていた。  

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