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お姉ちゃんと『アルベルチーヌ』で会う約束をしている。さっさと教室から出たくて、紡はずっと時計を眺めていた。腕時計は持ってきていない。お姉ちゃんのくれたアンティーク時計がもう壊れているし、安物なんて使いたくない。
「先生がいない時だからこそ、これから考えなくてはならないんじゃないでしょうか」
いつもながらヒステリックなお言葉。耳がぎんぎんする。周りの連中も退屈そうにあくびをしている。教壇で懸命にがなりたてているのは、教師と呼ばれる人種ではない。ただの同級生。たまたま『評議委員』といわれてのぼせ上がっている彼女ひとりだけだ。
「この前の期末試験でも、A組は学年で平均以下の点数しか取れなかったって言われました。体育大会でも、カルタ大会でも、合唱コンクールでも、いっつもそうです。これから三年になるにしたがって、私たちはあらためて、A組としてのプライドを持たなくてはならないと思うんです。違いますか!」
──振られたばかりだからって、こっちに矛先向けなくたって、いいじゃない。
嫌い、というだけの関心は持っていない。むしろ、目障りなだけだ。
紡はポケットから一作、文庫本を取り出した。名刺代わりにいつかちらっと見せつけてやろうかと思うのに、チャンスがない。フランソワーズ・サガンの「悲しみよ、こんにちは」。試してみようと思ってすぐにやめた。このクラス、学校内で、サガンなんて読んでいる奴がいるわけない。なによりも、紡のことを「セシル」って呼ぶのはお姉ちゃんだけだ。
西月さんが教壇の上でわめき散らしている間は、まだ教室から出られない。もう少しで終業式。どうせ持ち上がりのクラスなのだ。わざわざクラス全員を残して、貴重な放課後を浪費させることはないだろうに。彼女言うには三年進級の前に、どうしても話しておかなくてはならないことなのだそうだ。
「そりゃあ、確かにA組って、他のクラスに比べて団結力弱いなあって思います。球技大会の時だって、他のクラスが自主練習始めたり、中には朝連なんかもしているとこだってあったのに、どうしてでしょうか。去年だって、私たち評議委員や体育委員のみんなが頼んでやっと動き出したなんて、やっぱりみんなやる気ないんだと思います」
──やる気あるあなただけでがんばって。
紡だけではないらしい。退屈しているのは。斜め前の女子はノートを千切って、手紙を書き始めた。前の席で伸びをしている男子は、持ち込み禁止となっているゲームウオッチを取り出し、ぴこぴこボタンを押してよろこんでいる。男子って単純なゲームが好きなのだろう。あほらしい。
「近江さん! ちゃんと話、聞いてください!」
今度は紡に矢が放たれた。手紙やゲームウオッチは見慣れた光景だからかまわないのだろうが、文庫本……しかも大人の読むような本……をめくるなんて、めったにないことなのだろう。西月さんにもたぶん、理解不能なんだろう。誓ってもいい。西月さんはサガンの名前も「悲しみよ、こんにちは」も知らないだろう。
「聞いてます」
あまりとんがった声で返事するとさらにつけこまれる。適度に気持ちよく答えるよう勤めている。波風は面倒だし立てたくない。
「いつも思うんですけど、近江さん、もう少しクラスのことについて、真剣に考えてみようとは思わないんですか! いつも、A組の人間は馬鹿ばっかりだとか、頭悪いとか、そういわれていることくらい、わかっているんじゃないですか」
ため息を隠せないのはまだまだ未熟。自分に舌打ちしつつも紡は答えた。
「別にいいんじゃないですか」
──私には関係ないもの。
一番の本音までまで言ってしまうとしゃれにならなくなる。紡は本をポケットにしまった。自衛自衛。
「よくありません!」
紡の読みは外れた。西月さん、正義に燃えると見境なくなる人だと思っていたが、まったくもってその通り。くそまじめっていうのは、決していいことじゃないと紡は思っているのだが、世の中は西月さんのようなタイプが評価高いのだからわからないものだ。
「近江さんも考えてください! この前、私、他のクラスの人に何気なく言われました。『A組は、どうせコネ入学のクラスなんだから、ばかでも当然だよな』って。みんな、誤解されているんです。青大附中がコネなんかで生徒を集めるわけがないのに、どうしてみんな、勝手にそんなこと思い込むんでしょうか。みんな実力で入ってきたのに、いわれのない誤解と偏見で、私たちのプライドはずたずたです。みんな、A組に入ってから、みな一度は経験しているはずです。A組はコネの集団だとか、インチキ入学者だとか、さんざん悪口言われているはずです。ひどすぎます」
──ほんとのことだもの、しょうがないじゃない。
うんざりした。こんなくだらない議論で、お姉ちゃんと語る時間が奪われるのはうんざりだ。他の生徒たちを窓際、前、後ろと、動かない程度に観察してみる。みな、西月さんの話なんか聞いちゃいない。一部、シンパと思われる連中が頷きあっている程度だ。こういう話を、なぜ担任の前でしないのか? たぶん、本当のことだと認められるのが怖いのだろう。コネクラス二年A組。本当のことなんだから、素直に認めれば楽なのにだ。
そんなこと、どうだっていいし、本音を言えば、だからこのクラスの奴らは頭が悪いのだと思う。紡の知っている限り、資産家のお坊ちゃんお嬢さまが五人くらい、有名なピアニストの血を引く息子さんがひとり、なんらかの事情で失脚している元政治家の子どもがひとり。その他、かなり細かいコネを使って入学していることを知っている。別に入学してしまえば同じなのだろうが、学力試験をいいかげんにしてしまったゆえに、どうしても学力の差が出てきてしまうのは、しかたないことだと紡は思う。唇がほころび、くしゃみを一発。悪意はない。
「近江さん!」
「すみません。もうそろそろいいですか」
耳もとのほつれ毛が乱れていた。軽く髪の毛を整えた。
「これから用事があるので、特に問題ないようでしたら帰ります」
「待ちなさい! まだ話し合いは終わってません!」
「別に話し合うことないんじゃないですか?」
立ち上がると、またひとり、腰を浮かす男子がいた。同じく評議委員の天羽くんだった。かなりおちゃらけ好きの兄ちゃんだが、男子たちからの信頼は厚いらしい。真剣に討議に参加するよう求められたら、西月さんよりは交わしづらそうだ。決して紡もけんかを売りたくてこういうことをしているわけではないのだから、少し迷った。でも言っておいたほうが、あとあとすっきりするだろう。
「コネの問題だったら、みな分かりきっていることだから、話し合っても無駄でしょう。私なんて究極のコネ入学だし、それはみんな知っているでしょう」
「なんで、そんな言い方するの! そんな、誰も近江さんのことをそんな言い方してないでしょ!」
みんな知っている、堂々たるコネ。
自分が使いたくて使ったこと。責任もってやったこと。だから後悔してない。
「これから待ち合わせなので、お先に」
天羽くんと眼を合わせた。丸顔にいがぐり頭。三月にいきなり頭を丸めた時は、何か事件が起こったのかと期待したのだが、たいしたことない。付き合っていた相手と別れたらしい。責任を取ったってことらしいが、冬場にそんなことすると風邪を引くだけじゃないかと紡は感じていた。実際、一週間くらい寝込んでいたらしい。
「そうだな、俺たちも近江ちゃんの意見と同じだ。ってことで、今日の問題提議はまた、みんなが時間ある時にしよう。これは俺の意見だ」
最後の一言は、あきらかに西月さんへのあてつけだった。周りの女子たちが少しキー高めに、天羽くんと紡への悪口をささやき出していた。悪口をきにしない性格の紡は、なんでもない。でも気にしてしまうタイプの難波くんは腕を組んで立ちんぼうのままだった。
「ちょっと待ってください! まだ話は終わってません」
「俺が二年A組の評議委員として、終了を要求する!」
──ここまできっぱり嫌いになれるってのも、すごいわね。
関係ないことを感心して、紡はありがたく教室から退出させていただいた。女子たちの悪口は、対象になる相手が消えるとその倍増えるもの。いつものことだけれども、ああいうタイプの女子たちと付き合うのってエネルギーが本当に要る。こういう時は、ほんとに好きな人と会って、気持ちよくしてもらうのが一番だった。 廊下から見える梅のつぼみに目を留め、咲きかけの花ひとつ、手のひらに乗せた。
──お姉ちゃんにこれ持って行ってあげようかな。
紡に続く奴は誰もいなかった。A組の連中はまだ、西月さんの命令のもと、答えの出ない議論に突き合わされているらしい。ご愁傷様でした。
青潟大学附属中学の入試試験は、表向き筆記試験と面接のみで合否が決まるとされている。実際それは否定しない。青潟市内の優秀な小学六年生からさらに選び抜くのだから当然だろう。たぶんほとんどの人はそれを信じているだろう。なにせ青大附中生というのは、無意識のうちに「優秀な生徒」という目で見られるし、親の自慢にもなる、紡も何度か、母の鼻高々な顔を見たことがある。近所の人たちには「うちの娘、青大附中に通っているんですけどね」という前置きが、かなり強烈に響くらしい。
だが、と紡は思う。
実際中に入ると、隠してきたことも簡単にばれるものなのだと。
クラス分けでこうも露骨に、縁故入学者がまとまるように構成するのはいかがなものかと。きっと周りの人たちが黙っていることを期待しているんだろう。子どもだから気付かないと思っているのだろう。とんでもない、紡は入学式当日から、A組というクラスが大人たちの安易な発想で組まれたところなのだと感じてしまった。十二歳の子どもにすらそう思わせる学校側のいい加減さに、肩を竦めたくなった。
入学後すぐに行われる実力試験から始まり、他クラスと比べてレベルの低い授業。進度が遅すぎて結局終わらないことの多い教科書。自習の多さ。どれひとつとってもうんざりだ。もちろん自分で勉強している人も多いだろうし、塾に通っている比率は他クラスよりも高いだろう。噂によるとD組は学年平均を少し越える程度のランクだが、ひとりひとりの科目別順位が相当高いという。B組はガリ勉主義担任の影響も大きいのだろうが、みなが必死に宿題と格闘し、四クラス中一位の学年平均点を保っている。女子のミーハー振りが目に余ると呼ばれるC組も、やる時はやる。体育大会、球技大会、その他女子の応援団が活躍する場面では圧倒的な強さを誇る。
──担任に似るのよきっと。
細面の、めがねをかけて倒れそうな顔の狩野先生は、クラス運営に関心があるのかどうかわからない。激怒したり体罰を与えたりしたところを見たことがない。ただ最低限の注意をし、礼儀を重視する程度。こちらから質問を投げかければそれなりに返事は返ってくるが、それだけだ。数学科なのになぜ、白衣を着て行動するのか、その辺も謎だ。ただ、意外なのはクラスから弾かれた生徒たちには異様に人気があるらしい。一応、既婚者なのにだ。紡には理解できない。自分でドロップアウトしたのだから、自分で責任を持て、と言いたい。甘ったれるな、と。学年で二年の夏休み後、女子が退学したけれど、その子のクラスがA組だったというのが噂に輪をかけたのだろう。
──やっぱり「コネ組」A組だもんね。
否定はしない。西月さんが騒ぎ立てるように
「A組って、誰かの紹介で合格した奴ばっかりなんでしょ!」
と聞かれることが多い。悪意はないからうんと頷くことが多いが、それ以上誰も突っ込んでこないので説明しない。
──いいじゃないの。コネで結構。あとは何も考えないでエスカレーターに乗っていけばいいじゃない。
そう言ってやりたいけれども、たぶん反論が返ってくる。女子には決して言わない。
「だって、近江さんは、コネがあってもなくても成績がいいから文句言われないのよ。他のA組の子なんて大変なんだからね。ちょっとしくじったくらいで、すぐに『やっぱりコネ組だもんな』って言われるのよ」
──だから、こういうばかげたクラス構成を行う学校側に問題があるんじゃないの。
どうでもいい。紡はただ、自分の成績をある程度よくしておいて、親に文句を言われない程度に勉強しておけばいいだけのこと。難しくない。青大附中に入った目的はひとつだけ。
──お姉ちゃん、もう来てるかな?
伸びかけた前髪に、ムースを塗ってつんつんにしてみせた。こうすると、お姉ちゃんの大好きな「セシール・カット」風に見える。実際どんなものだか紡も見たことはないけれど、お姉ちゃんがご機嫌になるのだけは確か。駅まで自転車を漕ぎ、コインロッカーに制服を詰め込み、公衆トイレの中で黒いニットのワンピースに着換えた。シルバーのネックレス……お姉ちゃんから十四の誕生日にもらったもの……を首からかけて、白いリップを塗った。赤いよりも真珠っぽく見えるほうがいい。似合う。
手鏡の中で口角を上げてみる。切れ長のきつねっぽい瞳が、ずうっと大人っぽく見えた。お姉ちゃんはきっと、ふわふわ可愛い感じでまとめてくるだろうから、バランスも取れてちょうどいい。今日はお姉ちゃんの恋人だ。コインロッカーの鍵を定期入れの中に押し込み、紡は駅を出た。まだ寒い。
まだコートがほしい時期だった。黒の集団の中で、ひとり光っていたかった。
喫茶 『アルベルチーヌ』に通い詰めたのは、小学校五年の頃からだった。今ではもう常連だ。
初めて連れてこられた時、母に内緒でそろえたという黒尽くめのフリルドレスを纏った姉の異様さが怖かった。一緒にいる紡の髪型があまりにも姉の服装にに似合わなさ過ぎる、という分かりやすいことにも気付いて、震え上がりそうだった。
──それがいまではこうだもんね。
ひとりで通うのも平気。下手したら補導されるかもしれない。それでも平気で放課後、紡は『アルベルチーヌ』に向かった。青潟駅からちょうど離れた一軒家だった。ちょっと小じゃれた民家にしか見えない。よくよく覗き込めば、茶色いペンキの上に『アルベルチーヌ』とフランス語で綴られているらしい。フランス語を読めない紡には関係ない。意味は、お姉ちゃんをはじめ、分かる人にはぴんとくるらしい。
「セシル、こっちよ」
やはり、今日も全身黒尽くめのフリルワンピース姿だった。甘ったれた口調は結婚前より変わらない。
「さ、今日は学校で何があったのか、教えてね!」
──話してほしいのは、お姉ちゃんの方よね。
襟足だけが妙に細くすんなり伸びている自分の髪の毛。下手したらいがぐり坊主の髪型になりそうなところを、前髪と耳もとの不ぞろいな伸ばし方によって「女」っぽくみせている。髪を伸ばしても悪くはないだろう。でも、髪型を替える気はいまのところ、さらさらない。
──お姉ちゃんに似合うもの。男役だもん、今の私だったら。
身体にぴったり添ったワンピースを滑らせて、紡は姉の待つソファーへと向かった。昼間のせいか、他のお客さんはいないらしい。店のお姉さん……おばさん、という言葉は部屋の中に置いて厳禁である……が、紡にジンジャエールを持ってきてくれた。もう三年近くも通っているのだから、完璧に紡の好みを覚えられていたとしても不思議はない。
「ねえ、セシル、今日も学校つまらなかったの?」
くねくねしながらお姉ちゃんは、ノンアルコールビールを口にしながら紡の右手を取った。爪の先を撫でて、
「マニキュアしてるね」
「エナメルだけ」
学校にはばれない程度に爪を磨いている。形もひっかくことができるくらいに整えたいのだが、いかんせん中学二年、これ以上は限界だ。
「高校に行ったら付け爪するから」
「OK、私が教えてあげるね」
──お姉ちゃん、うちにいたら手と足の爪、全部してもらえたのに。
紡はさらにジンジャエールをすすり、足を組んだ。男役の心意気だ。
隣りでお姉ちゃんがふわふわに膨らませた髪を後ろに結ぶようなしぐさをした。お姉ちゃんが結婚するまでは、両親がうるさくていつも大人しい髪型にしていた。それでも紡とふたりで出かける時は、ちゃんと近所のスーパートイレでおめかしし直していた。
──『あの人』も、まだ知らないんだわ。お姉ちゃんの秘密。
お姉ちゃんの結婚相手はきっと、黒いレースふりふりのドレスをお姉ちゃんが着て歩いていることを知らないのだろう。せいぜいピンクのかわいらしい格好しかしていないと思っているのだろう。騙されているのだ。馬鹿だ。今更とはいえ、紡は罵倒しまくりたかった。
「あーあ、それで、最新情報はなによ」
スタイルとしては大人っぽく決めた以上、お姉ちゃんの彼氏風に決めたい。
「ほらほら、しょうがない。あのね、セシル。今年に入ってからあの人が、『E組』の担当になったって知ってる?」
「E組?」
知らない。青大附中生の自分が知らない。第一、クラスは全学年、D組までだ。四クラス。
「全学年トータルで集めた『E組』っていうのを作るんだって言ってたわよ。学級でもてあまされた困ったちゃんたちを集めて、定期授業をおこなうんだって。最近、青大附中も大変みたいだもんねえ。セシル、あんたもよおくその辺は知っているんでしょ」
「『あの人』から聞いた通りよ。お姉ちゃん」
──『あの人』とお姉ちゃん、毎日、することしてるんだろうか。
信じられない。今目の前にいる、黒尽くめの女が、『あの人』は自分の奥さんだと気付くだろうか。『アルベルチーヌ』に通い詰め、ふたりでこっそりデートしているなんて、きっと知らないだろう。『アルベルチーヌ』が喫茶店兼、女性カップルのみのデート場だなんて、きっと想像もしていないに決まっている。
「頭の悪い人ばっかりだと、疲れるわ」
ほんとはいい女だったら、煙草をくゆらせるのだろう。それとも思いっきりお姉ちゃんの肩にもたれて、甘ったれた眼を向けるのもいい。「セシル」……三年前、いがぐり坊主ぎりぎりの髪型に美容院で仕立ててもらった。最初はショックだったし泣いてしまったけれども、お姉ちゃんの心には叶ったらしい。お姉ちゃんの愛読書「悲しみよ、こんにちは」の主人公から取ったものだという。紡も一応、名前の由来を知りたくて読んだけれども、フランスの生活とかやたらお金持ち風の世界が鼻についてしかたなかった。お姉ちゃんが言うには、「悲しみよ、こんにちは」が映画化された時、「セシールカット」という、紡の髪型が非常にはやったらしい。リアルタイムで見ているわけではないけれども、それを信じることにした。セシル、いい名前、気に入っている。だいぶ髪の毛が伸び、セシールカットよりも女の匂いが強くなった今でも、やっぱり紡はセシルと呼ばれたかった。フランソワーズ・サガンに敬意を表して、毎日「悲しみよ、こんにちは」を持ち歩いているのはそういうところに理由あり。
「ふうん、セシル、どうしたの。なんか疲れてるわよ。もっと近寄って、ね、前みたいに」
──そんなことないと思うけど、『あの人』に、私がしゃべったことみんなばらさないでしょうね。
ふと不安になる。絶対、きっと、ありえないと信じたいけれど、お姉ちゃんの口の軽さと来たらすさまじいもの。秘密は絶対に話せない。問題の無いところ、およびばれてもかまわないところまで取り捨て選択しなくてはならないのが面倒だった。
──まあいいか。なるようになるわ。
黒いフリルをつまみ、紡はそっとお姉ちゃんの腕に掴まった。頬ずりしてくれた。お姉ちゃんと一緒に住んでいた頃は、毎朝夜、両親に隠れてこっそり、こんなことやあんなことをしていた。普通の姉妹としては、かなり濃密なことだった。おやすみのキスも欠かさなかった。たまには抱き合って眠ったこともあった。人と比べたことはないけれども、紡には自然なことであっても他の女子にとっては想像を絶することらしいので言わないだけだ。
「お姉ちゃんに前話したでしょ。最近ね、うちのクラスで騒ぎになっていることがあるのよ。なにせうちのクラスA組だから」
『A組』。力をこめた。
「ああ、あのことね」
頭を数回撫でまわし、紡は猫の気分でさらに頬を摺り寄せた。
「A組がどういうクラスか、本人以外の誰もがみんな知っているのにね。馬鹿みたいよ。大真面目に『私たちはA組の名誉を守りましょう! 馬鹿にされないようにがんばりましょう!』って叫ぶ評議委員の女がいるの。ほんっとうっとおしいったらないわ」
「嫌いなの?」
「そこまで関心持ってないわ。むしろ、視界に入れたくないからさっさと帰りたい、それだけよ。お姉ちゃんにも悪いし。知らん振りするようにしていたのよ、これでも」
三十分前の出来事を思い起こす。腹は立たなかった。ただ春の生暖かさに似たねとっとした感触ががまんできないだけだった。本当だったら、さっさとエスケープしたいところなのだけど、お姉ちゃんのためにはそれもできない。
「セシルね、そういうとこがやっぱり、鋭いわ」
「でしょ、でねえ、お姉ちゃん。今日もその女が叫び始めたもんだから、私だけ黙って聞いていたのね。そうしたらいきなり、私を指名して、『近江さんはどうしていつも無関心なんですか!』って罵り出したのよ。ばかね、って言ってあげたかったけど黙ってたの」
「どうして黙ってるのよ。そんな奴、言い返せばいいじゃないの」
「だって、面倒」
──お姉ちゃんはどちらの味方なのだろう?
結婚する前だったら紡も判断できただろう。無条件で紡の味方でいてくれると信じられただろう。でも今は、『あの人』の側で眠り、食べ、抱き合っている。信じられないけれども、そうしているはずだ。
だから、これ以上のことは話さない。一緒に暮らして三年。一緒に暮らして十年。紡の方がずっと、お姉ちゃんの好みと嗜好も理解しているつもりなのだけど、どうしてもできないことがあり、それを男たる『あの人』に任せることになる。
──私が、他人で、男、ううん、女でお姉ちゃんの好みだったら。
叶うわけのない夢。三年前にあきらめたはずの幻だ。
──私、一生、お姉ちゃんと一緒に暮らすの! 親から離れて、ふたりっきりでね。
小さい頃の幻を、ここまで引きずっているなんて。仲良し姉妹の幼い思慕と割り切っているのだろうか。
──だから、言わない。お姉ちゃんにはここまでしか言わないわ。
紡がいることを許される時間は過ぎた。
「お姉ちゃん、そろそろ家に帰らないの?」
いくら『あの人』が仕事忙しいとはいえ、夕飯時には帰らないとまずいだろう。別に帰らなくたっていいのよ、という台詞を期待してもいたけれど。
「ううん、大丈夫。セシル、今日のことお母さんには内緒よ」
「言うわけないじゃない」
──共通の敵だもの。
口の軽い姉が唯一、決して秘密を漏らさなかった相手。
三年前まではいつも、どうやって親の眼をごまかすか、どうやって本当の気持ちを隠しつづけるか、ふたりで作戦を練っていた。十二歳違いの姉妹。実の母よりもずっと、お母さんらしいお姉ちゃん。初めての生理が来た時も、決して母には打ち明けずに姉に告白した。どうやって、母に隠しとおすか。知られたら「お赤飯炊きましょうね」と言い出すに決まっている。そういう恥ずかしい行為をさせないで、すべてをさらりと流し、終わらせるか。お姉ちゃんは裏道をたくさん知っていた。
三年前まではお姉ちゃんのすべてが、紡のものだった。
唇も、フリルに覆われた胸もともすべてが。
──『あの人』が、みんな奪ったんだ。
──私のお姉ちゃんを、何もかも。
紡が唯一、願いたいことは、
──お姉ちゃんの本当の秘密を、『あの人』が知らないでいること。
ふたりと入れ違いに、もう一組の女子カップルが入ってきた。近くの高校生だろう。女子商業高校の制服で、紺に白いスカーフ、似合っていた。
「あの二人、きっと、そうね」
お姉ちゃんのささやきに、紡は思いっきり耳をくっつけ、腕を絡み合わせた。誰もが男と女、くっつき会うわけじゃないのだと、教えてくれたのはお姉ちゃんだった。
──セシル、あのね。
初めて「アルベルチーヌ」に連れてこられた時、紡はまだ十一才になったばかりだった。
──私、ふつうのお嫁さんにはなれないかもしれないわ。
就職したばかりで、きっと不安定だったのだろう。やさしいお姉ちゃんがいきなり、耳もとにささやいた。ちょうど今のように。春の夕暮れ時、風が時折強く吹き、黒いワンピースが膨らむのを抑えながら。
──だって、私は、男の人よりも女の子の方が好き。今だって、セシルとこうしている方がいいんだもの。
人気のない公園で、いきなり紡を抱きしめた。いつも甘えてだっこしてもらっているのとは違う、重たいだっこだった。
、 ──こうされても、セシルにだったらかまわないって思うのにね、今付き合っている人とだと、想像できないのよ。私。
当時、お姉ちゃんが付き合っていたのは『あの人』ではなかった。『あの人』とは、見合いで出会った。一緒に写真を見た段階でつき返すだろうと思っていたのに、どうしてか縁談はとんとん拍子でまとまり、紡が泣き顔で映っている結婚式親戚一同写真が残ってしまったわけだ。一生の不覚!
──ねえ、お姉ちゃん、キスするのもいやなの?
──セシルとだったら平気なのにね、どうしてだろうね。
そんな会話が交わされた後、すぐにお姉ちゃんは当時の彼氏に会って、別れを告げたらしい。詳しいことはさすがにお姉ちゃんも教えてくれなかったけれども、相当修羅場があったらしい。いつもはふわふわりんとした桜色のワンピース姿で、いかにもお姫様風のお姉ちゃんが、自分で別れ話を持ちかけたのだから、簡単には決着つかなかっただろう。
──お姉ちゃん、もしかして、レズなの?
本で読みかじった知識を総動員し、紡は尋ねた。
──うん、きっと、そうなのかもしれない。
十二歳下の妹に打ち明けるしかなかった状況、紡にも分かる。両親がそういう異端の感覚を受け入れる人でないこともわかっている。お姉ちゃんの友だちにそういう嗜好を理解してくれるような奴も、きっといなかっただろう。
たった一人、自分だけなのだ。
セシールカットで、一見、少年の姿を持つ自分。
──お姉ちゃん、私は、お姉ちゃんのことを一生好きでいるつもり。私は、お姉ちゃんと一生一緒に暮らしたっていいよ。だって、私も。
その時、時計の針みたいなものが、胸の奥でぴくんと動いた。「12」の文字盤の上。ぼんぼんと、鐘も鳴った。
「私も、男のことを好きになんて、絶対にならないから」
約束した三年前。なのに、舌の根もかわかぬうちにお姉ちゃんは、すぐにお見合いして『あの人』の妻になってしまった。お姉ちゃんがどうしても着たかったという、有名ブランド……フリルがいっぱいのドレスだった……をまとい、無表情な『あの人』の側に寄り添い、微笑んでいた姿。あれはどうみても死装束。姉への花束贈呈を意地で拒否したのに、当日になって無理やり母に説得され、花束贈答をさせられた。本当だったら『あの人』を花束でぶんなぐってやりたかった。そうするためだったら真っ赤なとげつきの薔薇を持って行ってもよかった。でも結局できたのは、花束を押し付けたまま、式が終わるまで泣きつづけることだけだった。
「紡ちゃん、大切なお姉さんをもらってしまって、ごめんね」
『あの人』が何度も、細いめがねを外した顔で、頭を下げてくれた。
お姉ちゃんの好みとは全然違う、陰気な感じの男だった。
ほそっこくて、太陽の陽射しの中で解けてしまいそうなミルクキャンディー。さっさと解けて、消えて掃除してしまえ!
一週間泣きつづけ、『あの人』をのろいつづけた挙句、紡はひとつ、決断した。
同じ春の嵐が吹く夜に。
「あっ! 迎えにきてくれたんだ! 皇人さーん」
──まさか、迎えになんて!
お姉ちゃんはやっぱり口が軽い。大好きなお姉ちゃんだけど、たった一つ許せない、もしくは信じられないのが、秘密を守れない体質だ。紡は真っ正面から、軽く手を振って近づいてくる、黒い人影を見据えた。お姉ちゃんの腕に巻きついている鎖型の時計を覗き込む。五時半過ぎだった。まだ仕事あるんじゃないのか、終業式近いっていうのに。
「じゃあね、セシル、また電話ちょうだいね」
駆け寄っていく姿は、ふつうの「男を好きな女」にしか見えなかった。一度、丁寧に礼をした。もうお姉ちゃんの腕に手を回して甘えていた、五十メートル前の自分ではない。さらに近づいてくる姿、ふたりが肩を並べている姿。紡は全身、無気力の優等生に仮面を切り替えた。
「紡ちゃん」
銀縁めがねの、ほんの少し背の高い『あの人』。
いつも白衣姿で行動している数学の教師だった。
教室でもほとんど、必要事項しか話さない、波のない口調。お姉ちゃんと紡だけがいる時、たらんと言葉がやわらかくなる。今ここにいる三人しか、知らない『あの人』の言葉遣いだった。
「今は先生です」
「いいよ、かの子といる時は僕も紡ちゃんの担任じゃない」
教壇の上から見下ろし、朝の挨拶や連絡事項をたんたんと述べている『あの人』。
教室の中では、周りのみな知っているぞ、という視線を無視して、窓の外を眺めていた。そんな事実ないかのように。
「ねえ、セシルったら、もう。不器用なんだから、もう、お、と、し、ご、ろ?」
打って変わって、お姉ちゃんの口調は母にそっくりになる。お姉ちゃんだって大嫌いな人。どうして『あの人』の前だと、お姉ちゃんは紡の苦手な人にはや代わりするのだろう。
「それでは失礼します」 こくっともう一礼した後、紡は背を向けた。帰りの会で、全員が評議委員の号令にあわせて、礼をするのと同じ形だった。呼び止められた。
「紡ちゃん、学校では先生でもいいけれど、かの子の前ではその呼び方、考えてもらえないかな」
「わかりました」
声を背中で跳ね返し、紡は振り向かず歩きつづけた。銀縁めがねの『あの人』が、今どこまでかぎつけているのかはわからない。これから多かれ少なかれ、クラスでの大騒ぎが始まることだろう。そんなの紡が知ったことではない。黙って受け流し、評議委員の騒ぎたがり女がわめきつづけるのを耳ふさぎつつ寝ていればいい。紡が青大附中に入った目的は、クラスの連中と疲れる会話を交わすことではないし、情熱的に学校行事に燃えるためでもない。目的はひとつだけ。
──『あの人』にいったいどうしてお姉ちゃんが惚れたのか、そのわけを知りたいだけ。
担任は年齢不詳だと言われている。奥さんがいるなんて信じられない。ちゃんと夫婦生活できているんだろうか? クラスの連中が好奇心満々なことをでも紡は知っている。
青潟大学附属中学二年A組担任、狩野皇人教諭は今年もって二十九歳。
妻・かの子……旧姓近江かの子……との仲は、悔しいくらい良好だということを。