好きだらけの怪獣
「お楽しみだった?」
風呂から上がってしっかり服も着たアリスが、部屋で待っていた僕と同僚にそんなことを言う。見知らぬ人間が部屋に居るのを見て最初の台詞がそれか。
タオルで頭を拭いているが、ドライヤーを使ってしっかり乾かすものじゃないのだろうか。
「どうでもいいから髪乾かして来な」
「ドライヤー分かんなかった」
「ああ、そうか……」
仕方ないので僕が取ってくることにする。
今のアリスは寝巻き用に渡したジャージを着て、ゆったりスタイルだ。前のファスナーが結構開いているため下に着ているTシャツが見えており、一部特徴的な体型を隠すまでには至らない。
「うっわ、マジで可愛いじゃん……てかおっぱいでかっ」
同僚はそんなアリスの胸元を凝視していた。同僚も小さくはないが、アリスのそれは年齢不相応に見えるからなあ……。
「誰?」
とろんとした目と、キスを求めるように小さく開いた口の、所謂デフォルトの表情で、アリスが僕に問う。というかお楽しみ云々以前にそれを最初に聞くべきだろ全く。
しかしこうなった以上紹介するしかない。恥ずかしいとか気まずいとか、パッとしない上にダサいとしか言えない感情がないでもないけれど、それ以上に同僚を呪いに巻き込みたくはない。何とか理解してもらい、アリスにも協力してもらわなければ。
「僕の会社の同僚」
「元カノだよん」
「余計なこと言うなよ」
持ってきたドライヤーをアリスに手渡す。
アリスは素直に受け取った。
「あらー? 叔父さんは恥ずかしいみたいね?」
「いい加減にしないと追い出すからな」
「こわー」
とはいえ、元カノと聞いても、アリスからは特に大きな反応は無かった。ただチラとこちらを見た後、同僚の方に寄って行って目の前の床にちょこんと座るだけ。いや、だけとは言いつつ、アリスがベッドに座らないだなんてビックリである。主張が小さい割に態度は不遜なアリスが、こうしてただ大人しくしているというのは、僕から見ると最早不気味に感じる位だ。
「元カノ?」
「そうよ。アリスちゃん私がドライヤー当てたげよっか。叔父さんから事情はちょっとだけ聞いてるよ」
同僚が世話焼きおばさんと化している。僕のことを叔父さんと呼ぶのは止めて欲しい。僕がさっき説明した作り話を元にすれば、確かにアリスから見て従兄弟叔父ってことになるから、間違ってはいないけれど。
「ん、お願いします。付き合ってた時の叔父さんの話聞きたい」
そんで興味を持つなアリス。もしくは興味持ってないくせに話の妥当性だけで聞くな。しかもどうやってかは知らないが、これは恐らく僕の作り話を把握しているらしい。またぞろ『魔女だから』とか何とか謎の理屈なんだろう。ただ、親戚設定を合わせてくれているのは良いのだが、その展開は全く嬉しくないぞ。絶対同僚が調子に乗る。
「あは、興味津々じゃん。そだねー、何がいいかな……」
嬉々として語り始める同僚に諦めがつき、溜め息を一つ吐いてからキッチンへ戻った。丁度加熱調理が終わった夕食の配膳をするのだ。
「去年のクリスマスにね」
「その話はマジですんな」
アリスと口裏を合わせる必要は、本当に全く無かった。僕と同僚の話を余さず聞いていたらしく、従兄弟の娘(従兄弟姪と呼ぶらしい)なんて設定に上手に乗ってくれていた。……僕が同僚に押し倒されたことも把握されているのか?
「凝ったもの作ろうとしてポトフってもう本当ヤバいよね」
「うるさい、食い終わってから言うなよ。文句言う割にがっつり食ってたし」
「いいじゃんお腹空いてたし」
「お前が食った分、僕のが減ってるんだからな? そこんとこマジで理解しとけよ?」
まさか育ち盛り(たぶん)のアリスの分を減らすわけにもいかず、渋々僕のを分けてやった。後でカップ麺でも開けるか……。
「ふっふ、余は満足じゃぁ」
何が満足だよ、手抜き飯とか言っていた癖に。
発泡酒の缶を殆ど自分で空けて大分酔いが回っているらしく、変なノリの台詞を吐いた後、同僚は炬燵の天板に突っ伏して動かなくなった。昔から同僚は、すぐ酔う癖に量を飲む。
「……すー」
完全に寝落ちしている。
「なあ、アリス」
同僚が呪いに侵されたりは。
「多分、大丈夫。起きてる間は」
眠たげな、しかしはっきりとした口調でアリスは言った。
言葉少なだが、『アリスが眠ることで周囲に影響を及ぼす仕様になっているから、アリスが起きている間は大丈夫』ということか。
「そっか……」
少しほっとして、同僚の肩にブランケットをかけてやる。急に来たと思えば騒ぐだけ騒いで一人だけ寝落ちるなんて、何がしたかったのやら。
「今も好き?」
ふと、アリスがそんなことを聞いてくる。
当然、僕が元カノを、という意味だろう。
「どうだろうな……」
僕はパッとしないまま浮かんだイメージで、変にならないよう言葉を選ぶ。
正直、少しずつ落ち着いて来たとは思うけれど。
「ただ、振られた時のことを思い出すと、まだ苦しいよ」
答えながら、なるべく笑顔になるように表情を動かした。上手く笑えているかは自信がない。
「そう……」
アリスは言って、寝ている同僚の右手に自分の手を乗せた。
……濃い靄の中に立っていた。気づいた途端そうで、だからこれは。
……夢の中なのだろう。
そしてこれが、ただの夢でもないことを、自分は本能的に知っている。
過去にもあった感覚。子供の頃に見たような、体に収まらない程の全能感を伴う夢。実際に見た夢を覚えていなくても、確かにあった感覚が、今ある。良くない薬のように、脳を蕩かす。
だから間違いなく夢なのだ。
『彼女が僕の頬を両手で挟み、うっとりした目でこちらを見ている』
『僕は彼女の視線に応えるように微笑み、顔を寄せ、唇を重ねる』
ああ、こんなことは現実では起こりえない。絶対にあり得ない。昔ならいざ知らず、決定的に行き違った後の今の二人にこんなシチュエーションは許されない。
湿った唇のリアルな感触と頭を揺らす全能感がひたすら思考を混濁させる。判断力を奪う。甘える隙を生む。
だから、こんな巫山戯た夢からは覚めなければ。夢であると信じられるうちに。
「さて、後片付けは済んだし……」
食器乾燥機のスイッチを入れて部屋に戻り、まだ寝落ちたままの同僚の背に視線を向ける。
「こいつをどうするかな」
「んー……」
相変わらず定位置のベッドの上に座るアリスも、そろそろ限界が近いらしく、既に片方の目が閉じてしまっている。何その無意識にはできなさそうな半分寝ている状態。
取り敢えず同僚を起こすべく肩を揺さぶってみる。この状況既視感あるな……。
「おーい、同僚さん、おかえりの時間だぞー」
「んー……やだー」
「やだって……子供か」
幼児退行されるとこっちが恥ずかしいのでやめて欲しい。アリスもいるのに。
「いいから起きろって」
「うごきたくない、とまる」
「それはダメだ」
「なんでよー」
こたつに顔を伏せたままブーたれる同僚。可愛いとは断じて思っていない。くっそ、付き合っていた頃でさえこんなに甘えてくることは無かっただろ。
「……なんか今日変だぞ、何かあった? 会社か?」
「……何も」
会社関係じゃ無ければ、ストーカーとか? もしくは家族がらみのことか……?
同僚が困っているなら力になりたい。パッとしない僕でも人手には違いないのだから、助けられることがあれば喜んで協力する。
「一応これでも歳上だし、何かあるなら頼れよ?」
心配して言うと、同僚は急に顔を上げ、こちらを睨む。
「何もないわばかー!」
そして叫んだかと思うと、ブランケットを脱いで立ち上がり、掛けていた上着と鞄を掴んで少しフラつきながら玄関へずんずん歩いていく。
「ちょ、大丈夫か?」
「うるさい、来んな!」
来るなと言われては駆け寄ることもできない。アリスの方を見ると同僚の声で少し目が覚めたのか、とろんとした目をパチクリさせていた。しばし目が合う。
そうしている間に、同僚は玄関扉を体重で押し開けて出て行ってしまった。
「あー」
僕は何を言うか迷った挙句。
「取り敢えず、あれが大人の女性だとは思わないように」
アリスにそう言い残して、同僚を追いかけた。本当に、パッとしない。