混じりないイマジナリィ
とある魔女が人間の男に恋をした。
こうした書き出しをすると、どこか御伽噺じみた響きで、夢も幸福もありそうな印象を与える嫌いがある。
御伽噺。
確かに魔女や呪いに登場されると最早御伽噺にしか聞こえないのだが、直前に見た不可思議な光景が、彼女の言葉は間違いなく事実だということを裏付けている。そしてそれは、僕のパッとしない思考を揺さぶるための根拠としては十分な量だ。
とある魔女が人間の男に恋をした。
しかしその地では魔女は恐れられる存在として伝わっており、彼女が男に近づくためには姿も名前も存在さえも偽らなければならなかった。たとえ自己の存在を否定してでも、その男の愛を独占したいと考えた魔女は、自らの力を封印したという。物語などでは魔法や呪術などと呼ばれる力の一切を捨てることで、彼女はただの人間の女となった。
御伽噺の人魚姫は、自らの声を犠牲にして人間になり、王子様に会いに行ったという。魔女もまた、それほどまでに焦がれていたのかもしれない。パッとしない想像力では、その程度にしか感じられないけれど。
その存在まで偽って、魔女は男に近づき、男は彼女を受け入れた。勿論一時結ばれただけでは魔女は満足しない。男との幸せな生活を得るため、知恵の一切を巡らし策謀の全てを検討し魔術を十全に駆使した。それからの数年は夫婦としてそれはそれは幸せな日々を過ごしたという。
だから魔女にとって誤算だったのは、生まれないはずの子供が、それも娘が、生まれてしまったこと以外にないだろう。
魔女は魔を失い、生まれた子を呪い夫のもとを去り。
男は妻を失い、娘にかけた呪いによってこの世を去った。
遺された娘は呪いに身体を蝕まれながら、いつ死ぬと知れない身体を引きずってただふらふらと生きている。
これが、全部御伽噺でないというのか。
「僕が見たのは、全部幻覚だったのか」
話を聞く間に落ち着いてきて、調子も戻ってきた。
黒い靄から始まった異常な現象。あれら全てが幻覚、アリスを現在進行形で蝕んでいる呪いによって、僕にもたらされたものなのだろう。
「そう。望むものと、死と」
今や安全になった万能ナイフに視線を遣る。アリスに止められた時、持っていたナイフの感触がまだ僕の手の中にある。恐怖も思い出せる。
……待てよ。
「望むもの?」
望むものって言ったか?
望むものってなんだ。さっきはナイフと、それを持ったアリスしか現れなかった。
「その人物が、潜在的に持つ欲求」
僕のつぶやきに応えて、アリスが口を開いた。
「お金が欲しい、認められたい、彼女が欲しい」
「三つ目が悲愴だ……」
「そういう思いが、幻覚の半分を形作ってる。無かった?」
アリスの問いに僕は答えかねる。提示された三つのどれも幻覚の中には出てこなかった。穿って見ればアリスの登場は"彼女が欲しい"を表しているのかもしれないが、どうもしっくり来ない。あとは単純に"死にたい"と思っていたのか、と、これは自分ではあり得ないと思うけれど。
「あのさ、僕の見た幻覚はアリスには共有されないの?」
「アリスは自分の見る幻覚しか、見れないから」
アリスも一応幻覚を見てはいたのか。しかし気にはなっても、どんな幻覚なんだろう、とワクワクすることは絶対ない。恐ろしいものに違いないのだから。アリスの望むものなど、それこそ僕の知れるものじゃない。僕が知って、精神をマトモにしていられるものじゃない。
「もしかしたら、ナイフに注目さえしなければ他に見えるものがあったのかもしれないな……」
「裸のお姉さんとか、いなかった?」
「男子中学生かよ」
そんなストレートな欲望が……。
「あ……」
「……?」
声を漏らして固まった僕に、アリスが疑問符を浮かべて首を傾げる。
意識していなかったけれど、まさか。いや、他に考えられない以上まさかではなくそれなのだろう。
「どうか、した?」
「いや……何も」
不思議そうにするアリスに首を振って誤魔化すものの、頭の中ではパニックが大暴れしている。刹那の気づきから、さながら神話生物を知覚したかのような狂気。
自分の中にそんな欲求があること自体悍ましい、気持ちが悪いけれど、全く否定できない僕がいる。そうだ、否定できない。
しかし絶対に、いい歳した大人が、望んでいいものではない。
「その呪い、解くことはできないのか?」
罪悪感を埋めるように、その台詞は自然と口をついて出た。
アリスは呆けた様子でこちらを見ているような見ていないような微妙な表情をしている。
「……むずかしい」
難しいと来たか。逆に言えばそれはつまり、可能ではあるということ。
「方法は三つ」
パッとしないままに無駄に思考を巡らす僕に、アリスはその方法とやらを順番に短く述べる。
「一つは、魔力を溜め込むこと。生物がほんの少し持ってる、魔を、殺したり食べたりして、体に溜め込む」
「うっ……殺すのか……肉とか魚食べるだけじゃダメ?」
「ちょっとずつ溜まるけど、一生かかる、と思う」
「それじゃ意味ないよなあ……」
そもそもその程度で助かるなら難しいとは言わないだろうし、今のはいくらなんでもパッとしなさすぎた。
アリスは続けて言う。
「二つ目は、正しい手順で解呪の儀式をすること。動物とか、いろいろイケニエにしないといけない」
「イケニエか……」
「呪いが二つあるから、片方の正規手順が、もう片方の禁忌だったりして、かなりふくざつ。時間もかかる。アリスが妙齢になるくらい」
「かかるなあ……」
感情の少ないアリスが、めんどくさそうな雰囲気を声に少し纏わせるほどには、手間も時間もかかる方法らしかった。
「儀式のやり方は分かってるのか?」
「ん」
迷いなく頷いて。
「魔女だから」
謎の理屈を披露する。
最早僕は、アリスが魔女であることを疑ってはいないものの、それを理屈にされるとどうしても反応しづらい。アリスにとっては魔女であることは良いことに分類されるのだろうか。単に説明がめんどくさいのか、誤魔化されたのか、この一日でそれが判断できるなら、僕はもう少しパッとしている。
「三つ目、呪いを解かないで、身代わりになすりつける。これがいちばん簡単」
「簡単でもエグいな……」
「でも身代わりにも条件がある。女の子とか、髪長いとか……」
「それなりに制約があるわけか」
漫画の知識では、人形やぬいぐるみに移したりと、移す対象は大体人型ならなんでも良さそうな雰囲気ではあった。しかし、アリスのそれはどうも一筋縄ではいかないらしい。
「ん、呪いはもともと対象が曖昧なもの。呪いの根源と関わりの深いものに影響を及ぼしていく」
アリスの場合、その呪いの根源は「アリス」という名前そのもの、ということになる。持ち主に影響があるのは当然として、たった一日呼び続けただけの僕にあれだけの影響があるのだから、パッとしない僕の語彙力では恐ろしいと表現する外ない。
「他にも、泊めて、ご飯も食べて、おっぱい触ったでしょ?」
「おかしい、要求に答えただけで呪いに巻き込まれてる」
「おっぱいは頼んでない」
「そもそも当たっただけで触ってないから」
「痴漢はみんなそういう」
「痴漢はむしろ当たってないって言うんじゃないかなあ」
いや分かんないけど。話が逸れすぎたので戻し。
ともかく名前が根源なのだから、名前ごと他人に呪いを移して仕舞えばいいという話らしい。
しかしそうなると、母親にかけられた呪いは出自が前後してしまっているが。
「そこは、二つの呪いとアリスの魔力がくっついた時に混ざり合ったみたい」
「都合がいいのか適当なのか」
「呪いは、対象が曖昧だから」
だから簡単なことでずれたり、跳ね返ったりする。と、そういうことらしい。
なんにせよ、三つの方法のどれを取っても、今すぐに解決するものではないようだった。
「呪いを解く前に僕が死にそうだ」
「…………」
「あ、いや……」
黙ったアリスを見て焦る。
ただのパッとしない反応を、眠気に襲われているタイミングならともかく、今のアリスはしないだろう。何か含みがあるそれは、僕の軽口を咎めるものだったか。それとも、そこまでは意図していないのか。
前者なら、アリスの呪いによって亡くなった父親や前の男のケージとやら、もしくは他の同じような被害者を連想させてしまったかもしれない。
自己紹介の時の「人も殺してる」という一言と関係があるかもしれない。想像するしかできないが、アリスの言う「殺した」は、きっと呪いによるもので意図的ではなかったのだろう。ただ、アリス自身がそれを避け得る事柄だったと思っている限り、その後悔は楔としてアリスの胸中に残り続けるに違いない。
とかなんとか、大袈裟な想像をしながら、それが思い過ごしであることを望んでいる。そして、その可能性が低いだろうことも感じている。
矛盾してるなあ、だから僕はパッとしない。
「…………ぁふ」
アリスは、僕の思考を読んだのか読んでいないのか、気にしていないと示すように欠伸を一つ零すだけだった。