赤と黒と
パッとしない夢だった。
いや、パッとしないことはないけれど、不謹慎な上に大して良くもない夢だった。欲はあった。
救いは、だから目を覚ますまでもなくそれが夢だと確信できたことくらいか。いくら夢を見るのが自由でもこれはない。
靄のかかった視界、レースの飾りがついたピンクの下着をつけた、背が低く顔の幼い女の子がいる。下着以外には何もつけていない。ロリータファッションの影も形もない。余りにも目に毒な姿をして僕のベッドの上で寝息を立てている。いや、裸でないだけマシかもしれない。僕の良心がかろうじて仕事をしているのかもしれない。下着をつけた寝姿というのも、何処か現実味がないけれど。細長く大きなサイズの写真に収めればそのまま抱き枕カバーにプリントできそうだ。
脱ぐと尚のこと胸が大きく見えるのは、僕の妄想も入っているのか、本当にこのサイズなのか。静かな呼吸に合わせてゆっくりと上下しているのを見ながら、僕は唾を飲み込んだ。
靄が濃くなる。視界が霞む。
僕はというと、そんな彼女の眠るベッドに足を掛けている。僕の方は裸でもなく、下着でもなく、休日に着るようなパッとしない普段着だ。多少自制が利いているのかもしれない。僕のパッとしない裸なんて僕自身見たくないけれど。学生の頃はいざ知らず、今じゃめっきり運動をしなくなったから全身こんにゃくのような体になっているはずだ。
僕は彼女の顔を見つめる。
彼女は僕が近づいても目を覚まさない。夢の外で魔女を名乗っていた気がするけれど、こうして見るとむしろ魔女に呪いを掛けられた眠り姫のようだ。国中の糸車を焼いてももう遅い。目を覚まさせるのは真実の愛のみ。
彼女の口元は電車で眠っていた時のように小さく開いていて、やはりキスを求めているようにしか見えない。意識なのか無意識なのか。
眠り姫に目覚めのキス、そんな考えが浮かぶけれど、僕は出会ったばかりの女の子にそこまでの感情は抱かない。王子様ほど惚れやすくはない。惚れやすくはないけれど。
ふう、とため息をつく。
靄が濃くなった。視界が彼女を残して全て白く溶ける。
まるで集中しろと言うような。そんな夢の動きだ。
集中も何も、さっきから釘付けだというのに。
いや、こんな夢はもう覚めてしまった方がいいのだけれど。いくら夢の中とはいえ、中学生くらいの女の子の下着姿をいつまでも眺めているのは気が引けるというか、なんというか。
子供でも発育している部分はしっかり発育しているのが、とても心臓に悪い。
でもなあ。夢だしなあ。
現実の彼女は全くの無警戒で今頃ベッドを占領しているんだろう。ロリータ服のままで。現実の彼女に手を出したら犯罪なのだから、いっそこの夢の中でしちゃえばいいんじゃないだろうか。夢の中までは規制もされまい。
あれ、この思考危険だなあ。
心のどこかで自制する声が響きつつも男の本能には抗えず。いや、夢の中だから本能ではないか。濁音付いて煩悩だな。僕は彼女の体の上に覆いかぶさるようにして四つん這いの姿勢をとった。ここまで近づけば寝息も聞こえる。心臓の動悸は電車の時の比じゃないくらいには高速で脈打っている。熱い。心臓だけで汗をかきそうだ。
夢の中の彼女は、近くで見ても現実の彼女となんら遜色のない可愛らしい顔をしていた。顔だけでなく姿もか。僕の想像力はパッとしないなりに以外とバカにできないようで、幼い顔もそれに不釣り合いな大きさの胸も、きめの細かい柔らかそうな肌も全部ここにあった。下着に関しては見たこともないくせに彼女によく似合うものがつけられている。ここまでだと流石に変態じみてきたな。
不意に首元に手が当てられる。
彼女の手だ。細い肩から僕の首まで腕が伸び、両腕で掴むようにして締められる。最初は小さな力で、馴染むように少しずつ強く。
一拍遅れて彼女の顔を見ると、目が開いていて僕を見ていた。覆いかぶさる僕の顔を眠そうな目でじっと見ているのだ。眠そうなこと以外には感情が見えない。
首を絞められていると、だんだんとそれが気持ちよくなってくる。冷たい彼女の手に僕の首の熱が冷まされて、興奮していた心が落ち着いてくる。動悸もさっきの半分ほどの速さしかない。
その気持ち良さも段々と息苦しさに変わっていく。これはまずいなあ。夢の中で死んでしまいそうだ。これ現実ではどんな状況なんだ。それとも本当はこれこそが現実なのか。混乱していく。ゆっくりと。
そして、視界全てが靄に覆われた。
「もご……」
顔に毛布が絡まっている。
うぺ、毛が口に入った。というか、暑苦しい。腕の自由がきかなくてなかなか解けない。
数分格闘してやっと顔が出せると、もう朝だった。今日も仕事だ。
「うっ……腰が痛い」
床で寝たせいか腰だけでなく体の節々が痛い。
起き上がりながらベッドの方を見ると、そこはもう空になっていた。
「……アリス?」
念のため部屋中確認したものの、姿は見えず。
玄関の鍵はしまっていた。窓も開けられた形跡はない。
「え、露と消えたんだけど。ああん?」
混乱してきた。昨日のあれはなんだったんだ。僕の妄想か?
なんか夢の中でもこんな感じで混乱していた気がするけれど、どんな夢を見たのかはもう忘れてしまった。夢とはそういうものである。決して後ろめたさから記憶を消したとかじゃないと思う。そう思いたい。
とはいえ、アリスと昨日出会ったことは夢ではないはずなので、今朝いないことは不自然だ。仕事は……。
「……休むか」
なんで素性も知らない女の子のために仕事を休まなくてはいけないのだろう。僕はどうやらパッとしないくせにお人好しらしい。損をする性格だな。だから今までパッとしなかったんだ。
関係ないか。
部屋には書き置きも靴も何も残っていなかった。いや、食パンが1枚減っていた。どうやら食べたらしい。
靴がないことから、鍵を持って玄関から出たと仮定して彼女を探しにいくことにする。
職場には親戚の見舞いで休むというようなことを電話で伝えた。電話に出た上司は心配してくれたが自分のために嘘をついてるわけじゃないからか妙に罪悪感が薄かった。
玄関を出てまずは駐車場を見下ろす。アリスの服は目立つので遠目にも分かるはずだけれど。
「着替えていたらわからないな」
見える位置には少なくともいなさそうなので、階段を降りる。
マジでこんな地道な探し方するのか。連絡先とか聞いておけばよかったな。いやアリスってケータイとかスマホとか持ってるんだろうか。嫌だなあ、今からでも会社に行きたいなあ。
マンションの玄関を出たところで黒猫が横切りながらこちらに振り返ったのが見えた。なんだっけ、あんまりいい意味じゃなかったと思うんだけど。無駄に心配するからやめて欲しい。
かあ、とカラスの声も聞こえる。不気味に思って見上げればこちらもまた電柱から飛び立つところだった。何かの暗示かよまじで。
という僕の心配も虚しく。結論から言えば割とすぐに見つかった。
もともと子供の彼女に土地勘のない場所で遠くまで行くことはできなかったのだ。電車に乗っていたことを考えるとお金は多少持っているようだけれど。今回はそれも使わなかったらしい。
僕に心配させた彼女、アリスはというと。
「起きた?」
「起きたじゃないよなんで部屋にいない」
「…………」
マンションの裏手の公園、ベンチと砂場と小さな遊具が一つあるだけの寂しい公園で猫を抱えてベンチに座っていた。昨日と同じ例のロリータファッションである。猫の方はもしかしたら先ほど横切った黒猫かも知れない。いや見分けはつかないけれど。
「卑猥な夢を見ていたみたいだったから」
「だからさあ、ここマンションなんだよ。僕のご近所さんからの評価が下がるようなこと普通に言うのやめてくれない?」
「朝起きてから一人の時間必要?」
「なんのことやらさっぱりですね」
「そう?」
「おい股間を見るな」
そういう知識を異性にいうのは感心しないなあ。じゃなくて。
「せめて外に出るなら書き置きくらいして行ってくれ。無駄に心配して仕事休んじゃったよ」
僕が言うと彼女が顔を上げた。僕の顔をまっすぐ見る。
「心配した?」
「そう言ってる」
しばらく僕の顔を珍しそうに眺めて、やがて目線を逸らし、膝の上の猫を撫でながら呟いた。
「……ごめん」
「……いいから次からそうしてくれよ」
次からって言い方がもう住み込むのを許しているみたいなセリフだけれど。他の言い方が思いつかなかった。まあいいんじゃないだろうか。僕の理性が若干心配ではあるけども、それよりも彼女が一人でいることの方が僕には寂しいことのように感じられた。
思ったんだけど。
「ロリータ服の女の子一人連れ込んでる時点でご近所さんの評価ヤバそう」
「そうね」
「頷くなよ原因」