電車ショック
いつだろうとどこだろうと関係なく、至る所に「パッとしない連中」っていうのがいると思う。
僕はそんな「パッとしない連中」のうちの一人で、だから自分と同じような「パッとしない連中」がいればついつい目につく。見たいわけでもないのに。仕方がないけれど。
パッとしない学校を出て、パッとしない職場で、パッとしない仕事を、パッとしない出来栄えでこなすような。
後はパッとしない恋愛を経験して、パッとしない失恋もして、未だ独り身。
だからというわけじゃ絶対ないけれど、今この状況は僕にとっちゃレアなシーンだ。それも、幸運な意味での。
中学生ぐらいか、高校生には流石に見えないが、しかし胸が無ければいっそ小学生に見えていたかもしれない。
濃い赤と白でハイコントラストの、どことなく個性的なロリータファッション、いわゆるひらひらのふわふわを可愛らしく着こなした少女。髪が長くもふもふと波打っていて量があり、しかも少し赤の入った明るい色をしている。
顔は幼く、綺麗というよりは可愛い。絵本から飛び出してきたかのような愛らしさで、スヤスヤと寝息を立てている。小さく口が開いているのがキスを求めているようで、なんというか、なんとも言えなくてただ一言、そそる。
そんな女の子が、電車の座席の、僕の隣にいる。座っている。いや、座っているというか、寝ているせいか僕の方に凭れかかってきている。
顔はこちらに向いている。僕の右肩にほんのり重みがあって、すぐ横に顔があるのが分かる。耳が寝息を拾うせいで、肩にのる頭の重さが艶かしい。言ってしまえばただの重さなのに。
もふもふの髪が少し頰に触れている。女の子特有のほのかに甘い香りが髪から漂ってくる。きっとシャンプーか何かの香りなのだろうけれど、それが可愛い女の子の髪から香ってくると思うと思い切り吸い込みたくなる。僕は変態なのか。
幼い顔にミスマッチな少し大きめの胸の膨らみは、僕の体に触れこそしていないけれど、僕がほんの少し身動ぎすれば触れてしまいそうな位置で健気に服の胸元を押し上げている。電車がガタゴトと揺れる度にふよんと動くのには参った。目のやり場に困るだけじゃなく、うっかり腕が触れれば僕は痴漢になってしまうんじゃないかと気が気でない。気がないつもりが気になる。
そんな状態で、こんな状況で、周りから見て恋人同士に見えるなら儲け物だななんてパッとしないことを考えたりしてる場合じゃない。僕が挙動不審すぎて恋人には絶対見えないし。
これくらいの歳の子からすれば、アラサーに足を突っ込み手を突っ込み首も突っ込みそうな僕なんてもうおじさんレベルなんじゃなかろうか。おじさんじゃなきゃおっさんだ。でもこの子はそんなおっさんの肩に頭を乗せてスヤスヤ夢の中。
たまたま隣に座っていただけとはいえ、この子のガードの緩さに意味もなく心配性になる。お父さんは心配だぞ。いや僕はお父さんなんて歳じゃな……待てよ同級生にはもう子供がいるやついたな。まあ間違っても中学生の娘息子はいないけれど。ダメだ、頭の中でパッとしない思考が横断歩道を渡れずにいる。
そうこうしているうちに僕の最寄駅が近くなる。都会の近郊でも田舎の方の終点に近いためか同じ車両に乗客は少ない。そういえばこの子は駅大丈夫なのか。
多少肩に触れても、起こしてやるのが親切だよな? 痴漢じゃないよな?
パッとしない頭の中で必死にパッとしない予防線を張る僕だった。
とんとん、と彼女の僕にくっついているのとは反対側の肩を指で叩く。不可抗力で右腕に彼女の胸がちょんと触れた。いや触れたのは僕だけれど。いっそ気が触れそうだ。
「お嬢さん、お嬢さん、駅大丈夫?」
呼びかけてみるが反応はない。少しぴくりと動いた気もする。でもそれだけでまだ静かに寝息を立てている。
指で叩いてダメなら揺すってみるかと、実行に移すもそれも不発だった。強いて言うなら指で叩くより不可抗力がひどくてこれ以上はパッとしないなりにヤバイ。
幸い彼女の反対側は座席の端だ。本当なんでこの子はこっち側に凭れているんだ。あまり勢いよく当たると金属の手すりが痛いだろうと、そっと、ゆっくり彼女の体を押して反対側へ凭れさせる。さすがに注意したから今回は不可抗力などない。痴漢じゃないぞ。
「……ん」
と、そこでもぞもぞと小さく動く音、それと声。
さすがに姿勢が変われば目を覚ましたかなと思って顔を向けようとしたタイミングで、今さっき押し退けた重みが肩に帰ってきた。しかも今度は身動ぎするまでもなく最初から完全に当たっている。
首を動かせば向こうの頭にぶつかるんじゃないかという距離。もちろん首を動かせるわけもない。
完全に反対側まで体重を送ったはずなのに、姿勢をわざわざ変えて戻ってくるか普通。何かがおかしい。全く笑えない。ラノベじゃラッキースケベの範疇だろうに、全然笑えない。いつなんどき「この人痴漢です」の声が出るかと思えば冷や汗が止まらない。
一方で頭の中のパッとしない悪魔が、いや狼か、そいつが襲っちまえよと僕に囁く。いやいや、犯罪はダメだって。イエスロリコンノータッチ。いや僕ロリコンじゃないし。何やってんだ僕。これだから男はよお。男ってやつはよお。
幸い周りの乗客は少し離れているためか僕の奮闘に全く気づきもしない。幸いじゃないな。誰か助けろし。
本当は起きてるんじゃないだろうか。起きていて僕をからかっているんじゃないだろうか。パッとしない男なら安全とか思ってるんじゃないだろうか。少しでも指を動かせば叫んでやろうとか思ってるんじゃないだろうか。
いやいや思い直しなさい。この寝顔と寝息に悪意が感じられますか。これは天使の寝顔と寝息でしょうと、悪意などあるわけないでしょうと、頭の中のパッとしない天使が、いやなんだこれ、よくわからないけど名状しがたい何かが僕に囁いた。人の悪意が読み取れたら今頃パッとしてるんだよ。お前の言葉には絶対耳を貸さないからな。そもそもお前は何者なんだマジで。
そうだ、彼女が退かないなら僕が退けばいい。駅も近いのだし、もう立っていよう。疎ら極まる車内だ。間違いや悪意で痴漢などと叫ばれる可能性は万に一つもない。
そう思って立ち上がろうとして、僕の腕が動くのに合わせて彼女の胸がもにゅと形を変えるのを意識するでなく意識しながら腰を浮かそうとして、ぎ、と体が急に重くなった。まるで枷をはめられているような感覚。いや、枷をはめられたことなんてないから正確にはわからないけれど。
ちらと彼女を見る。
掴んでいた。
きゅ、と可愛らしく、でも妙に強い力で僕の上着の袖を。
クロだ。
「おい」
思わず声が出ていた。
「どういうつもりだ」
焦りもあった。でもこれは、なんだろう、怒りのようで違う、不安でもなさそうな。眉が硬くなる。語気が強くなる。パッとしない連中はパッとしないなりに臨界点がそこらにあることのいい例かもしれない。
「起きてるんだろう? なあ」
僕の言葉に彼女がゆっくり目を開けた。上着の袖を掴んだままこちらを見据える。今起きたという様子でもない。つまりは起きていたんだ。
「からかってんじゃねえよ。チッ」
威嚇を込めて舌打ち。パッとしない僕が考えそうな、演じそうなことである。
ともあれこれで解決。これ以上彼女もからかっては来ないだろう。安心するとさっきまでのレアなシーンが五感とともに鮮明に記憶に焼き付いてくる。しばらく悶々としそうだな。だって可愛いんだもの。いやロリコンじゃないし。
彼女のせいで頭がぼーっとしている間に最寄駅に着いた。ぼーっとしたまま電車を降りて、改札を出て、てくてくとマンションに。
階段を3階まで上がって部屋の前について、ぼーっとしながら鍵を取り出したところで、初めて自分が歩いてきた方を見た。
多分もっと早く気付くべきだっただろう。何せ足音は人数分あったはずなのだから。恨むべきは自分の無警戒さ。彼女のことを言えやしない。お父さんはお前のことも心配だぞと僕の父が言うだろう。要はパッとしない連中とはこの程度なのである。
「泊めて」
僕の家を特定した彼女はそう言った。