スタートテープ、ゴールライン
号砲が鳴る。
視界がひらけた。
湧きあがる歓声。遠のいていく背中。
風にたなびくテープが、切られた。
「位置について」
おぼろげになったラインにつま先を揃えると、四人が横一線に並んだ。原色の空なのに、地面との境は滲んだようにぼかされ、知らぬ間に開いていた口には、ぽつりとしょっぱさが広がった。
「よーい」
突き上げられる右腕は、まるで「一位」を示しているかのようで。
待ち受ける白線は、白波のようにまぶしい。
号砲が鳴った。
一斉に飛び出す足が、白線を削る。
湧きあがる歓声。
遠のいていく背中――。
スタートラインはみんな同じなのに。
ゴールテープを切れるのは――たった一人だ。
運動会に行こうと誘ったのは、たまたま来ていた回覧板を思い出したからだった。
「来週の日曜日だって。行ってみよう?」
お知らせのチラシを一枚引き抜いて冷蔵庫に貼りながら、明るく声をかけてみる。本を読んでいたあの子は、私を少し振り返ったものの、またすぐに本に戻っていった。
「……うん、いいよ」
歯切れ悪い、ぼそぼそとした答え。それでも「嫌」とは言わなかったので、そこから先は半ば強引に話を進めた。
「せっかくだから、なんか競技に出ようよ」
「……見るだけでいいよ」
「そんなこと言わないでさあ。いいじゃないのお」
「……うん、いいよ」
最先端の流行ネタもあっけなく流され、腰を折られたようにしょんぼりしていると「なにがあるの」と聞かれたので、慌ててチラシを走り読んだ。
「えーっと、障害物競走でしょ、借り物競走でしょ、パン食い競走、徒競走、リレー……」
以上。の文字を見て、しまったなぁと、こっそり舌先を出した。
「……走るのばっかりじゃん。玉系は無いの?」
「玉系はね……シニア種目だって」
「……キャタピラは?」
「障害物の中にはあるんじゃない?」
「……障害物か……」
相変わらずの気の無い相槌だったが、さっきと違って苦っぽさが混じっていた。運動の苦手なあの子は走るのが大嫌いなのだ。
そのまま黙りこんでしまったので、やっぱり参加はやめておこうかと、口を開きかけた時だった。
「……それ、見せて」
ふいにあの子が手を伸ばしてきた。私は少し驚きながら、種目の書かれたチラシを渡してやる。小さく礼を言って受け取ってくれたあの子は、太字になった種目名に目をとめては唸り、とめては唸り、を繰り返した。
これはしばらくかかりそうだと思って、夕飯の支度にとりかかろうとした矢先、あの子は新雪のようにほろりと訊いてきた。
「……母さんは、何に出るの?」
「へぇっ?」
他に類を見ない奇声が生まれた。誘うばかりで、そんなことは微塵も考えていなかった。だが無理矢理と言えば無理矢理な提案をしたことに若干の後ろめたさがあった私に「出ない」と言いきる勇気は無かった。まさか出ないの? と訝しげに顔をあげたあの子の視線を断つように、たっぷり「あー」と発しながら、目に付いたそれに決めた。
「母さんは――パン食い競走に出ようかな。パン食べられるし」
「……だと思った」
突発的に決めたが、じっくり考えてもパン食いを選んでいたことに気付いた。タダで食べ物がもらえるとあれば、そっちにつられてしまうのが大食いの性だ――なんて言ってやると、だよねぇと笑って返ってきた。けれどそれきり、あの子はまたチラシとにらめっこを再開した。
「なにをそんなに悩んでいるの?」
夕飯に使う材料を全部切り終えても、まだにらめっこが続いていたので、さすがに呆れた声で訊ねた。
「……どれが一番マシかなぁと思って」
なにが「マシ」でなにがそうじゃないのか分からない。しかし、あの子なりの基準が存在しているらしく、チラシの上を、視線はゆっくりと行ったり来たりしていた。
「借り物競走とか、あんまり走らなくてもよさそうじゃない?」
「……うん……」
「リレーも徒競走も、そんなに距離ないと思うよ?」
「……そうだなぁ……」
元々優柔不断なところがあるためか、はっきりした返事を出さない。やりたくなければそう言えばいいのにそれも言わない。ただ「出ろ」と言われたから出るのだろう。あの子の言葉に、芯はなかった。
「じゃあ、一緒にパン食い出ようよ。おやつゲットしよう」
「……おんなじの出たら面白くないじゃん」
かと思えば、そんな妙なこだわりを見せる。偏ることを好まないあの子は、選択肢があれば人と違うものを選ぼうとするのだ。
私はなんだか腑に落ちない気持ちになりながら大鍋に水を入れた。ざばざばと勢いよく溜まった水は、危なげに右へ左へと打ち寄せる。コンロに置いて火にかけてから、思い出したようにフタをした。
「それか、キャタピラやりたいなら障害物にしたら? なにがあるか分からないし、もしかしたら勝てるかもしれないよ?」
「やだ。障害物は絶対、嫌」
はっきり喋ったと思ったら、今度はダメ押しの否定だった。今までが随分うわの空な返事だったために一瞬面食らってしまったが、あの子は決して言いたいことが言えない子ではない。
カタカタ騒ぎ出したフタを開けると、絵に描いた餅のように背伸びをした湯気が視界を覆った。角ばった野菜とコンソメキューブを突っ込んで再びフタをし、奥のコンロへ移して中火にかけた。空いたコンロにはフライパンが乗り、たっぷりと面積を広げた油を温めていく。
今日の夕飯はクリームシチューと八宝菜、それにひじき煮という和洋折衷メニューである。料理は得意じゃないが、家族全員そろってよく食べる。ありがたいことにあの子の好き嫌いもすっかり無くなり、この家ではごはん粒ひとつ余ることは無い。作るうえでは量もそうだが、品数を多くするように心がけている。だから、コンロはやはり三口あるほうがいい。
「……今日の夕飯、なに?」
漂い始めた匂いにつられてあの子が顔をあげた。ジャージャー賑やかにフライパンで踊る野菜たちに負けじと、少し声を張り上げる。
「今日はシチューとひじきと八宝菜」
「……明日は?」
「まだ決めてないけど……。何、作ってくれるの?」
「……そりゃ、いいよ」
のろのろ立ち上がって冷蔵庫を開けると、あの子は中身をちゃんと見る前に「なにもないね」と言った。明日、買い物に行くか確認しながら閉めた冷蔵庫の扉には、運動会のチラシが磁石で留められていた。
一人暮らしを機に、人並みに料理が出来るようになったあの子は、たまに夕飯を作ってくれるようになった。お世辞にも手際が良いとは言えないが、面倒くさがりな私が普段作らないようなものを作ってくれる。カレー粉と間違えて粉からしで野菜を炒めていた頃を思えば、この数年であの子は確かに成長した。
そして。
あの子は家に帰ってきた。
色々置いてきたような、芯の無い表情で。
「……使ったほうがいいものあれば使うけど」
「あるものなんでも使っていいよ――あ。キャベツはそろそろ使いきったほうがいいかも」
「……キャベツかあ」
パソコンの前に向かうと、レシピのサイトを開いてあの子はまた唸り始めた。完成した料理の写真から、ロールキャベツを作ろうとしているらしい。トマト缶がどうたらこうたら聞こえたので、味付けをどうするか決めかねているようだった。
寝ぐせそのままの頭に猫背で丸まった背筋は、数年の月日を感じさせない。
だが、まるで厚い甲羅に覆われているように、あの子という存在は、ずっとずっと遠くに感じる。
「今日は父さん帰り遅いから、先にご飯食べちゃおう」
出来たおかずから次々お皿に盛り付けていく。空いている場所を埋めるように並んだ皿は、二人分とは思えないほど食卓を賑やかに彩った。
パソコンを閉じ、あの子はすり足で戻ってきた。そしてなんとなくテレビを付けて、チャンネルをひと通り回していく。六時を過ぎたばかりのこの時間はどこもニュース番組で、今日の出来事をキャスターが順に読み上げていた。
「……運動会だけど」
七時からのクイズ番組に合わせて決定したチャンネルでは、赤と白の帽子をかぶった子供たちが一斉に走り出した映像が出たところだった。
「……徒競走にするよ」
か細いけれど、くっきりと残る低い声。
あの子の輪郭がぼやけて見えたのは、きっと立ちのぼる湯気のせいだ。
役者になりたいから専門学校へ行くと聞いたのは、いよいよ出発の一ヶ月前だった。勤めていた会社にもいつの間にか退職願を出し、入学準備も引っ越し先もすでに決めた後のことで、話し合おうとしても「もう決めたんだ。もう行くんだ」の一点張り。どうしてそうしたいのか、そこで何がやりたいのか、具体的にはなにも言ってくれなかった。
どうしてなにも相談してくれないの? どうしてもっと頼ってくれないの?
私だって、あなたのやりたいことを、夢を、応援してあげたい。
けれど、あの子は「頑張るからね」と言うだけだった。
思いと裏腹に、心配と不安ばかりが、私の胸の中を埋めていく。
夢に満ちたあの子は、勢いよくスタートテープを切って行った。
何の変哲もない学生マンションのワンルームには、コンロは一口しかなかった。
だから今でも、三口どころか二口を同時進行させることが出来ないでいる。
リビングの五分進んだ時計が、ちょうど五時を差した。
冷凍庫から出しておいたミンチ肉は、程よい柔らかさを取り戻していた。袋を引きちぎってボウルに移している途中で、豆腐の水切りを思い出す。肉でベタついた手を洗いながら、豆腐の準備を先にするべきだったとため息を漏らした。
豆腐を丁寧にキッチンペーパーでくるんでレンジに入れる。加熱を待つ間に、キャベツの葉を外す作業に取り掛かった。
一枚ずつ慎重にはがそうとするのを嘲笑うように、めくった端から葉っぱはふたつに裂けていく。根元に切り込みを入れればいいと思い出したのは、最後の一枚に亀裂を走らせた後だった。
レンジが鳴った。無視してざぶざぶ葉っぱを洗っていると、「早く出せ」と言わんばかりに、また鳴った。
もうもうと立ち上る湯気が落ち着くまで冷ましてから、ボウルで肉と合わせる。数回こねた後で味付けをしていないことに気づいて、手に着いたタネを渋々とそぎ落とした。
醤油とニンニクとショウガを、ろくに計りもしないでボウルに入れた。塩コショウを振ってまた素手でこね始める。充分になじませ、いざ包もうという時になって、キャベツがパリパリの生だったことを思い出した。
料理は出来るようになったと思う。けれどそれは、上手になったとは違うのだ。
レシピでは下準備五分と書いてあったのに、時計を見ると、すでに長針は右下を差していた。
頭は良くも悪くもない程度だったが、進路は希望した通りに順当に決まっていった。
役者という現実味のない世界への憧れは、あれもこれもやりたがりでコロコロと意見が変わる自分にとって、長らく抱き続けた夢だった。学生時代は部活に専念し、高校卒業後は学費を貯めるべく就職の道を選んだ。
曖昧な世界を目指していくには、自分自身が強くなるべきだ。両親にいつまでも頼っていては駄目だ――そう言い聞かせて、社会へ繰り出した。
だが、現実には予想外のことばかり突きつけられた。とりわけ手際が悪く、覚えも悪かった。毎日のように失敗し、仕事を溜めこんでいき、数年経っても、先輩に初歩的なことを聞いては呆れられていた。
これまで特につまずいたことのなかった自分の人生の中で、初めてぶつかった壁にショックを受けると同時に、焦りと危機感を覚えた。
失敗するのは集中力が足りないから、覚えが悪いのはやる気が足りないだけだと決めつけて、誰にも相談せず、愚痴も言わず、ただ一人、耐え忍んだ。毎日帰りの電車で泣いて、家に着くまでに泣きやんで、両親の前では笑って過ごす。
そんな生活から逃げ出したくて、続けたくなくて。
きっと、やりたいことなら頑張れる――。
最初とは違う思いに戸惑いながら、強引に夢への一歩を踏み出した。
「あなたは、なんでもそつなくこなすよね――」
先生は腕組をしたまま、ため息のような唸り声をあげた。
褒め言葉じゃないことは、もう知っている。
「話の持っていきかたも悪くないし、声も明るくていいんだけど……それだけって感じ。綺麗にまとまり過ぎてて、もう伸びしろがないように見えるんだよね。若いんだからさ。もっとこう、ドーンとして、バァーンと行くぐらいに自分を出して――」
綺麗にまとめていけるのが個性――には、ならなかった。
理屈の世界は岩のように難しくて分からない。
でも、感覚の世界は霧のようになにも見えなくて、もっと分からない。
一体なにが普通で、なにが個性なんだろう。
考えようとするたびに、頭は真っ白になった。
見えない壁が静かに四方を囲んだように、焦りと恐怖が、襲いかかってくる。
事態は突然としてやってくる。それがいいものとは限らない。
「真面目なのは、分かるんだけどね――」
店長は頭を掻きながら視線を二、三転がして、「ごめんね」と言葉を濁した。
驚きはない。そうなる気が、していた。
大体三ヶ月――長く使ってもらえたほうだ。店長の判断は正しかった。
手際も、物覚えも悪かった。同じことを何度も何度も聞いて、メモは最後まで手放せなかった。「最初のうちは大丈夫」と言ってくれた先輩達も、「普通、もうこのくらい出来るでしょう」と言いたげな色が浮かんでいた。
「なんと言うか……楽しそうに見えないんだよね――」
こういう時振り返ってみると、自分はこうだったなとあれこれ思い出してくる。
自分のことでいっぱいいっぱいで余裕がない。簡単なことも出来ていなくて、もどかしくて、焦って、怖くて、最後には笑顔すら消えてなくなっていく。
どこに行こうと、結局同じなのだ。
「――この仕事やってみて、どうだった? 楽しかったかな?」
しばらく店長を見つめた後、弱々しくはにかみながら、首を横に振った。
仕事が楽しいも、お客様のためも――よく分からない。
晩秋の夜空は、深く澄んだ色を広げている。
最後となったバイトの帰り道は、どこもかしこも滲んで見えた。
真っ暗な家に帰ると、ご飯も作らず布団へ倒れ込んだ。投げるように下ろしたカバンから飛びだした携帯が小さく瞬いていた。
自動的にフォルダ分けされたメールは、身内ボックスに入っていた。
『元気? 最近全然連絡ないけど、風邪ひいてない? 母さんはこの前まで熱が出てたよ。寒くなってきたから、手洗いうがいをしっかりね。そうそう。先週、稲刈りが終わって新米パーティーしたよ。そっちにも送っておいたからいっぱい食べてね』
絵文字で彩られた文面は、なんとなくよそよそしくも見える。
そして二行の空白の下には、ぽつりと呟くように一文、添えられていた。
『なにかあったら、いつでも相談してね』
自分でやらなくちゃいけないと、そう決めたはずなのに。
ちゃんと自分のことは出来ると伝えたかった。
自分で考えて行動出来ると示したかった。
成長したと、安心して欲しかった。
なのに――。
携帯を閉じて仰向けに転がる。見上げた天井はどこもかしこもぐにゃぐにゃしていた。
失敗して、そのたびに溜めこんで塞ぎこんで、疎遠になっていく。
なんて連絡したらいい? なんて顔して帰ればいい?
勝手に夢を追いかけて、勝手に家を飛び出したのに、なにひとつ、出来ていない。
これをバネに――とは、ならなかった。
ああ。自分はこんなに、甘っちょろくて、弱かったんだ――。
トマトベースの豆腐入りロールキャベツが完成した。
スープはトマトの味がする、不味くはない、普通のロールキャベツ。
盛り付けたお皿を並べた横に、後足し用のケチャップボトルを置いた。
六時になった時計の針は、「一」を差すかのように真っ直ぐに伸びている。
「食べられる」料理は作れても、「美味しい」料理は作れない。
障害物よりも徒競走がいい――。
「僅かな可能性」よりも「潔く諦める」ほうが、マシだ――。
そうやって逃げてきた自分を待っているのは、いつだってゴールラインだ。
号砲が二度、鳴った。
歓声が拍手に変わる。
ゴールラインを越えた足は、ガクガクと震えていた。
息をするたびに喉の奥がすうっと冷たくなる。全員が走り終わって退場しても、まだ少しドキドキしていた。
トラックの周りに建てられたテントの隙間を抜けると、簡素なプレハブ小屋が見えた。その日陰にいた母さんが、日傘を上下に振って待っていた。
「お疲れ様。頑張ったね」
母さんはそう言って、パン食いでゲットしたあんぱんを差し出した。受け取りはしたものの、なんとなく真っ直ぐ見れなくて、テントのほうへ視線を逃がす。
「……別に。ビリだったし」
「なに言ってんの。全力で走ってたじゃない。ゴールした時、一番、息上がってたよ」
次の号砲に、テントから歓声が湧きあがる。
振り返ると、母さんはニコニコ笑ってこっちを見ていた。
「また頑張ろうね」
ちょっと張り上げた声は、歓声よりも力強くて。
鼻の奥がキュッとなって、パンを握りしめながら小さくうなずいた。
いつか、ゴールテープを切れる日がくるかもしれない。
それは明日か、一年後か、もっともっと先かもしれないけれど。
たぶん今は、それでいいんだと思う。
踏み越えたラインはきっと。
次へのスタートになるのだから。
夢を追いかけたその後ということで、母親と子供視点から書いてみました。
子供の性別は特に決めていません。皆様におまかせします。
時間軸が二重三重に混ざってしまい、読みづらかったかもしれませんが
なにか伝わるものがあれば幸いです。