これでもう最後にするんだ
泡立て器も、ボウルも、キッチンは美乃梨のお気に入りで満ちている。
食器類はもちろんのこと、冷蔵庫や、その扉に貼られた子犬のマグネットに至るまで、よく吟味して少しずつ集めたものばかりなのだ。
土曜日の午前十時半。物柔らかな陽光が窓から燦々と降り注いでいる。
桜貝色のテーブルと、敷かれた白布の上に並ぶ品々──卵、薄力粉、グラニュー糖に、よく冷えたバター。さらにはリンゴやレーズン、シナモンなどが、美乃梨に何かを強く訴えかけるようにして、そこにある。
「どうしてこんな魅惑的な材料が揃っているのよぅ!?」
いや、もちろん自分で買ってきて、美乃梨が自分でテーブルに並べたのだが。
ふらふらと手を伸ばしかけて、ふと思い直して首を振り、なおも諦めきれずに見つめているうちに再び手を伸ばし……。さんざん繰り返した末、ついに美乃梨は誘いに抗えず若草色のボウルを手に取った。
──… * * * …──
豊がドアを開けると、美乃梨はハッとして振り返った。
キッチンには甘く香ばしい匂いが満ちている。流し台の三角コーナーには、細長く丁寧に剥かれたリンゴの皮。オーブンの中で回っているパイ生地。そして、まるで浮気現場に踏み込まれたかのように口元を手で抑え、硬直する美乃梨。
一瞬のうちに目聡く全てを見取った豊は、深いため息をついた。
「美乃梨……またアップルパイ?」
「だって、これは、その」
パイはすでに仕上げの段階に入っているらしく、食欲をそそる良い色になっている。
美乃梨の作るお菓子は美味い。特にアップルパイは逸品だ。婚約者の贔屓目を差し引いても豊はそう思う。一緒に作るのも楽しいし、土曜のおやつに彼女のお手製パイでティータイムというのも幸せな一時だろう。現に今までだって何度もそういう時を過ごしてきた。
けれど。
「分かってるのかな。式までもう三週間切ってるんだぞ?」
「うぅ、分かってるよぉ」
美乃梨の情けない声に、オーブンの回る音が静かに重なる。
「分かってるなら、今まさに焼き上がる寸前の、この美味そうなパイはなんだろうな? ん? 空気抜きの切り込みのところがふっくら持ち上がって、実に美味そうだな?」
「あ……あのね、甘さ控えめにしてあるの」
「ほう。だから太らないとでも?」
「食べたら絶対ジムで消費するから」
「これだけのカロリーを消費するのには、一体どれだけ運動すりゃいいんだろうな」
「ウォーキングも追加するよぅ」
「ああ、目に浮かぶようだよ。ウェディングドレスのファスナーが閉まらないー、って半泣きの美乃梨が」
「あぅう……」
しょんぼりうなだれた美乃梨だったが、オーブンのタイマーが澄んだ音を発すると、途端に顔を上げて豊とオーブンを交互に見つめる。
音を上げたのは豊のほうだ。
「あーもう……ほんっとに仕方ないな。美乃梨、これでもう最後にするんだぞ?」
「するするっ! 金輪際、お菓子なんて食べません。式が済むまでは我慢しますっ!」
美乃梨はいそいそとクマ柄の鍋掴みを取り出して、躍るような足取りでオーブンに向かう。
“式が済むまで”の部分が無意識に強調されていたことに気づいたのは、どうやら豊だけのようである。
カーテンを揺らす六月の風と、湯気を上げるアップルパイと、嬉しげな美乃梨。
(ファスナーが気になって多少動きのぎこちない花嫁でも、まあ、いいかな……)
豊は苦笑しながら桜貝色のテーブルについた。