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海月

作者: 水無飛沫
掲載日:2026/09/10


父は船乗りをしていたが、ある日帰ってこなくなった。

母はそんな父の帰りを毎日のように海に行って待っていたが――やがて現実に耐えられなくなったのだろう――気が違い海に沈んでしまった。

僕がひとりになってしまってから、とても長い時間が過ぎた。


蝉の声も大人しくなってきた頃合い、僕は実家に帰ってきていた。

誰も手入れすることがなくなって久しい。

積もった埃が恨めしそうに僕の帰りを迎え入れた。


ライターで線香に火をつけて、軽く振ってから香炉に立てる。

汚れるままに膝を付き、仏壇に手を合わせた。

目をつむり両親と祖父母に長らくの不在を詫びる。

彼らは怒っているだろうか。それとも喜んでくれているだろうか。

せめて……お墓は手入れしていこう。

それが形だけのものだとしても、不在の詫びにはなってくれるだろう。


目を開けると、十数年ぶりの実家の思い出を巡る。

荒んではしまっているけど、これでも僕の生家なのだ。

傷のひとつにも思い出が刻まれている。



夕暮れ時、諸々を終えた僕は海に行く。かつて母がそうしていたように。

堤防から沈んでいく夕日を眺める。未だ輝けない白い月が綺麗な円を描いていた。

今夜は満月らしい。

クラゲのようなその姿を眺めながら、少し冷たくなってきた風を身に受ける。

母はいつもここで父の帰りを待っていた。

母を泣かせ、いつまでも帰ってこない父を恨んだこともあったが、今では母を支えきれなかったことへの後悔が勝る。

けれどどれも大切な、思い出だった。


空の色が橙から白、そして藍色へと変わっていくのを傍目に、僕の意識は港へと向けられる。

立派な漁船から、ボートと呼ぶことすら躊躇われるような小さな木舟まで一通り揃っている。

僕は打ち捨てられて今にも沈んでしまいそうな木舟を選ぶと、係留するロープを取り外して、その上に寝転んだ。

誰かに見つからないかとドキドキして。幼少期の遊びを思い出す。

いろんな悪戯をしたなぁと思い出して、思わず笑ってしまう。


満月に引きずられるように、僕の乗る舟は沖へと流されていく。

人里の明りが次第に遠ざかって行く様子を見ながら、もう引き返せないと実感が湧く。

誰にもバレないように捨てられた舟を選んだのだ。捜索されることもないだろう。

周囲は夜だというのに満月のおかげで明るくて、キラキラと揺れる水面と潮騒がにぎやかで、寂しさや悲しさを感じるようなことはなかった。


少し転寝をしている間に、月が頂上に到達していた。

いよいよだ、と僕は思う。

海面を見るとまんまるで青白い、たくさんのクラゲが浮かんでいた。

そのどれもが人の顔をしている。

僕は恐怖に引き攣りながらも、そのひとつひとつを確認していく。

そして、見つける。

優しかった祖母、厳しかった祖父、帰らなかった父親、狂ってしまった母親の青白い顔を。

その誰もが目をつむり、眠るように安らかな表情を浮かべている。

海へ帰った彼らは幸福そうにしている。僕はその光景に安堵する。

それから、少しだけ罪悪感を募らせて視線を外す。

もうひとり、僕には探したい人がいた。

思えば僕はずっと、彼女を探しているのかもしれない。


さらに海を漂っていると――ひときわ整った顔を見つける。

雪花石膏のように白くて美味しそうな色合いで。

ツンと澄ました表情で目を閉ざしている。

月の光が彼女を輝かせているようだ。


僕の乗る舟はゆっくりと彼女へと引き寄せられていく。

人間離れした美しさに、僕の脳が警鐘を鳴らす。

――それ以上見るな。帰れなくなるぞ。

帰(・)れ(・)な(・)く(・)な(・)る(・)? どこへ帰ると言うのだ、今更。

やがて舟は彼女の隣を陣取った。

僕は欲望の赴くままに、彼女へと手を伸ばす。

その芸術品のような頬は柔らかくて、吸いつくよな弾力を伴っていた。

彼女は目覚めない。

僕は舟の上から身を乗り出して、その唇を吸う。


チクリ。


痛みが僕の舌を刺した。

慌てて口を離す。

まるで性急さを怒られてしまったようだ。

そうだね、夜はまだ長い。

今度は海中に手を入れて、彼女の首筋を撫でる。

ふにゃふにゃとした柔らかな弾力が僕の手のひらに広がった。

指でその感触を楽しんでいると、手の甲にぷつりと針のような痛みが走る。

また刺されてしまった。

そう思っていると、女のその顔に、唇にわずかに血色が宿る。

瞳は未だ閉じたままであったが、想い人に会ったかのように、美味しいものを食べたかのように、可憐な笑顔が咲く。

もう我慢する必要はないだろう。僕はその笑顔をもっと味わいたくなって、海に入ってその身体を抱きしめた。


夏にしてなお冷たい水温であったが、女の身体からは確かに熱を感じられた。

柔らかく吸いつくような肌を重ねて、唇を重ねて、快楽のような痛みを感じる。

命の灯が彼女に還っていく。

満たされた。ちゃんと、全部――。


こぽり


水泡が浮かび上がっていく。

真っ黒な海中でなお白く美しい女の顔が、最後に見る光景となる。



綺麗な海月だ。







――ただいま





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