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婚約者が好きすぎて初対面から鼻血を噴いた令嬢ですが、実は溺愛されていたのは私の方でした

作者: 上田 成
掲載日:2026/07/20

 プリシラとクラウスの婚約は政略的なものである。

 プリシラのスエズ子爵家とクラウスのアスワン伯爵家が、事業提携によって結ばれた婚約だ。

 次女であるプリシラと嫡男であるクラウスなら後継的にも問題ないし、二人の年齢が二つしか変わらなかったことも婚約を後押しした。


 しかし、父親から婚約の話をされたプリシラは戸惑っていた。

 一応貴族令嬢とはいえ、それまで程々に自由に育てられたプリシラにとって、会ったこともない男の子と将来結婚すると言われてもピンとくるわけがない。

 しかも今まで誰か特定の人物に恋慕なる想いを抱いたことがなかったため、好きという概念も気持ちもわからない。

 結婚も婚約も正直よくわからないというのに、婚約者と言われてもピンとこないというのが本音だった。


 昔から好きだと公言していた幼馴染の子爵令息と婚約できた姉は、数日ハイテンションを振りまき踊りながら過ごしていたので、恋とはなんぞやと聞いてみたことがあるが「苦しくなって悲しくなって、でもとびきり嬉しくなるものよ」という意味不明な回答が返ってきて途方に暮れた。

 プリシラは、苦しいと悲しいは嫌なことの筈なのに何で嬉しくなるのか訳が分からず、姉はドМなのかもしれないと密に母に相談して呆れられた。


 そんな恋愛のれの字もわからないプリシラに一抹の不安を覚えつつも婚約を決めた両親は、顔見せ会があるから婚約者と仲良くして愛を育みなさい、と言ってきたのだ。


 会ったこともない婚約者と仲良く? 友達でもないのに? それは無茶というものだろう。


 プリシラはそう思った。

 だから婚約者との顔見せ会なんて全く乗り気ではなかったはずだった、のだが……。



 婚約者であるクラウスと出会った瞬間、ピシャーンとプリシラの身体に電撃が走った。

 何故ならクラウスの顔がプリシラの好みドンピシャだったからである。


「スェ、スエズ子爵家が次女プリシラです」


 第一声は噛んだ上に変に裏返ってしまったが、一応貴族令嬢の端くれとして何とか挨拶はしたプリシラ。

 だが、淑女としての体裁を保てたのはそこまでであった。

 急速に舞い上がった恋の炎は完全にプリシラの理性を燃えつくし、灰さえもどこかへ吹き飛んでしまい、気づけば心の声を解放していたのである。


「クラウス様、好きです! 顔がいいです。最高です!」


 初対面でいきなり宣言されたクラウスは面食らった。

 いや、クラウスだけでなくその場にいたプリシラ以外の全員が固まった。


「む、娘は正直者なんです」


 しんっと静まった席で、最初に我に返ったのはプリシラの母親だった。

 何とか苦しい言い訳をしたスエズ夫人に、クラウスの父親も場をとりなそうと努めて明るく振舞う。


「し、正直ないい子ですな。な、クラウス」

「いや、俺の顔はたいしてよくな……」


 父親に肩を叩かれたクラウスが冷静に切り替えそうとしたが、その言葉はずずいっと身を乗り出したプリシラによって遮られた。


「ものすごく素敵です! 地上に降りた天使です! 大好きです!」


 鼻息荒く豪語したプリシラに、アスワン伯爵家の面々は苦笑いを浮かべるしかない。


「シュッとした鼻筋、切れ長の瞳、色気だらけの薄い唇、はぁはぁ……顔が良すぎてやばい!」


 やばいのは娘の頭の方だろうが、他家の前でこれ以上醜態を晒すわけにはいかない父親が、興奮するプリシラを席に押しとどめる。


「プ、プリシラ。少し落ち着け、な」

「お父様、これが落ち着いていられますか? 好みドンピシャのご尊顔が目の前にあるのですよ! 胸が鷲掴みされて動悸が半端ないです! 興奮して鼻血がダブルで出そうです!」


 宥める父親に向かって、感嘆符てんこもりで力説したプリシラの鼻の穴から勢いよく鮮血が噴き出す。

 一応先に宣言はされたものの「令嬢がダブルで鼻血はだめだろう……」その場にいる全員がそう思った。


 結局、流血騒ぎになってしまったためお見合いは中止となった。


「クラウス様と離れたくない~」と鼻血を噴き出しながら泣き叫ぶプリシラ。

 それを抑え込む引き攣った顔のスエズ子爵と夫人。

 クラウスの両親であるアスワン伯爵夫妻は終始困惑気味で、ひたすら微笑を浮かべていることしかできなかった。


 こうして顔合わせの場は、両親に引き摺られる格好の退場となったプリシラだが、彼女にとって本日二度目の僥倖が起こる。

 なんとクラウスがハンカチを差し出し優しく語りかけてきたのである。


「婚約したんだから、また会えるよ」


 目の前に真っ白なハンカチを差し出したクラウスに、プリシラが涙を止めて(絶賛鼻血は放出中であるが)彼を見上げた。


「本当ですか?」


 涙と鼻血で酷い有様になっているプリシラだったが、クラウスは微笑みを絶やさない。


「うん。だから今日は一旦落ち着いて鼻血を止めた方がいいよ」

「わかりましたわ!」


 両手を合わせて拝んでからクラウスのハンカチを大事にしまおうとするプリシラに、クラウスが少し不機嫌そうな声音になる。


「それ、ちゃんと使って?」

「え? 使ったら汚れてしまうので嫌ですわ。家宝にするのですもの」


 きょとんとするプリシラ。

 ちなみにスエズ子爵夫妻が両脇からプリシラの鼻へ咄嗟に突っ込んだハンカチは、既にダブル鼻血をたっぷりと含んでいて、いつ決壊してもおかしくない。

 それなのに渡されたハンカチをしまおうとするプリシラに、クラウスは笑みを深めた。


「使って」

「……そんな……勿体なくて無理ですわ」


 この世の終わりのような表情を浮かべるプリシラに、クラウスは溜息を一つ吐くとハンカチを取り上げて鼻へ宛がう。


 傍から見れば、令嬢を優しく介抱する令息の絵図。

 しかし、令息が拭っているのは令嬢の鼻血である。

 婚約者との顔合わせに来たのに、何故介護の状態になっているのだろう?


 プリシラ以外の人はそう思ったが、好きな人に触れられた(介護だが)プリシラの脳内ドキドキメーターは振り切れてしまった。


「好きがすぎる! もうキャパオーバー! だが、わが生涯に一片の悔いなし!」


 令嬢らしからぬ(既に十分令嬢らしからぬが)東洋の武士のような科白(と鼻血)をぶちまけて盛大に気絶したプリシラに、クラウス達家族は目が点になるしかない。

「オホホホホホホ」とプリシラの母親が無駄に笑いながら、父親をせっついて素早くプリシラを回収すると「ごめんあそばせ!」と、呆気にとられるアスワン伯爵家の目前から脱兎の如く逃げ去ったのであった。


 そんなこんなで史上最大の黒歴史と両親が渾名し、今でも思いだすと胃がキリキリと痛むと言って憚らない顔合わせではあったが、両家の利益が絡む政略結婚という意味もあってか、プリシラとクラウスの婚約は解消されなかった。


 プリシラが狂喜乱舞したのは言うまでもない。

 しかし婚約者と会う度に鼻血を噴いていては嫌われるかもしれないと、両親に事の顛末を聞いた姉に諭され、プリシラは危機感を覚えた。


 確かに淑女として鼻血はだめである。

 姉に泣きつき何とか解決方法を捻りだすプリシラ。

 クラウスとのお茶会は興奮するプリシラが鼻血を噴かないように物理的な距離をとり、会を重ねるごとに徐々に近づいてゆく「人見知りの猫ちゃんへのアプローチ」みたいな方法で交流を図ることにする。


 そんな突拍子もない提案をしたプリシラに、クラウスは苦笑しつつも文句も言わず付き合ってくれた。

 そのお陰もあって次第に自然な距離間でも鼻血を噴かなくなると、お茶会や手繋ぎデートまで出来るようになった。


 そうして仲を深めて? いく間に、やがてプリシラは学園に入学する。

 2年先にクラウスが入学した時は「追いていかないでくださいませ~」と泣いて縋ったものだが、学園に入学できる年齢は決まっているため渋々諦めた。


 鼻血は出さなくなったものの、プリシラのクラウスへの好意は揺るがなかった。

 それどころかクラウスの内面を知れば知るほど尚更好きはどんどん加速して、むしろ悪化していた。

 プリシラにとってクラウスは大好き過ぎて、絶対の存在になっていたのである。


「クラウス様、今日も素敵です!」

「プリシラ、ストップ」

「はい!」


 学園に登校したら、プリシラはすぐにクラウスの元へ向かう。

 近づこうとして制止されたプリシラが返事と共にピタリと止まる。


「躓いて転んだら危ないよ」


 言われたプリシラが下を見れば、すぐ前に小石が落ちていた。


「優しい! 大好き!」


 今日もテンション高めのプリシラに、にこやかに微笑むクラウス。

 学園の朝の日常である。



 昼休み、プリシラは教室までクラウスを迎えに行き食堂へやってくると、自分の分のランチを受け取った途端に脇目もふらずに、クラウスの元へ駆け戻る。


「クラウス様、今日のランチもご一緒できて幸せですわ!」

「プリシラ、ステイ」

「はい!」


 大きく片手を振るプリシラに掌を翳し、クラウスがトレイを持つようにジェスチャーする。


「トレイは両手で持たないとバランスが悪いよ」


 振っていた手をトレイに戻したおかげで、プリシラはランチが零れ落ちるのを回避できた。


「頼れる! 大好き!」


 隣に座ったクラウスにランチの間も暇さえあれば好きを連発するプリシラは、学園の昼の日常になりつつあるので、だれも突っ込まない。



 下校時、授業が終わったプリシラはクラウスの元へ一目散に駆けてゆく。


「クラウス様、会えなくて寂しかったです!」

「プリシラ、スロー」

「は……い……!」


 朝、昼、帰りと会いに来ているのに、何で寂しいんだ? というツッコミは最早誰も言わない。

 クラウスの言葉に、ここまで猛ダッシュで来た時とは打って変わって、プリシラは混み合う教室を、返事までゆっくりにして牛歩で進んだ。


「他の生徒や机にぶつかったら危ないからね」

「気遣い! 大好き!」


 夕方になっても衰えないプリシラの好き好きアピールだが、クラウスは慣れているのか頬を染めることもせず、淡々と帰り支度を済ませるとさりげなくプリシラの荷物を持つ。


「天使様に持ってもらうわけには……むしろ私がクラウス様の荷物をお持ちしますわ!」

「だめ。私の言うことがきけない?」


 慌てて取り返そうとするプリシラに、微笑みながら首を傾げるクラウス。

 クラウスにそう言われてしまえばプリシラは「きゃああ! 天使が、天使が降臨なされたわ!」と両手で拝むのに精一杯で反論できなくなり、その隙に彼女と自分の荷物を持ってクラウスは教室を後にする。


 学園に入学してから、すっかり見慣れた光景に周囲の生徒は「今日も平和な一日だったなぁ」と、ほっこりして帰路につくのがもはや日課となっていた。

 そうして教室を出て暫く歩いていると、特別棟へ向かう渡り廊下の所でクラウスが立ち止まる。


「今日は生徒会があるから、ここでお別れだね」

「では、クラウス様の用事が終わるまでカフェでお待ちしていますわ」

「遅くなると思うから先に帰っててもいいんだよ」


 申し訳なさそうに、やんわりと帰宅を促すクラウスをプリシラが見つめ返す。


「お待ちしていますわ」

「そう、わかった」


 強引に一緒に帰る約束を取り付けるのはプリシラにとってはいつものことである。それにクラウスが折れるのまでがセットだ。

 承諾の返事が得られたプリシラは意気揚々とカフェへ向かおうとして足を止める。

 婚約者を見送っていたクラウスが、立ち止まったプリシラに怪訝な顔をする中、振り返ったプリシラは満面の笑顔で言い切った。


「クラウス様、大好きです!」

「うん、ありがとう」


 プリシラはクラウスに会う度に好きだと告げなければ落ち着かないらしい。

 すっきりした表情で足取り軽く歩くプリシラの背後で、クラウスが困ったように眉尻を下げるが、これもいつものことなので周囲は気にも止めない。


 好意丸出しのプリシラと、少し素気ないもののなんだかんだで優しいクラウス。

 これが二人の日常だ。


 プリシラの暴走気味の愛情に当初は若干引き気味だったクラウスの両親も、婚約者同士の仲が良いのはいいことであるし、息子を手放しで好きだと公言するプリシラを無下にできるはずもなく、今ではすっかり慣れてしまい彼女を実の娘のように可愛がっている。


 二人の間に障害はなく誰の目にも、このままの関係が結婚まで変わらず続くと思われていた。


 ◇◇◇



「あんなふうに毎回好き好きアピールとか俺だったら耐えられないな」

「しかもクラウスに全然相手にされてないのに、よく恥ずかしげもなくできるもんだ」

「婚約者とはいえ、政略的に決まった相手にしつこくされても困るよな」


 すぐにカフェに行っても暇を持て余しそうなので、図書室で本を借りてから向かうことにしたプリシラは、頭上から聞こえてきた声に目当ての本へ伸ばしていた手を止めた。


 換気のためか開いていた窓から聞こえてきた声は、上階からのようだ。

 そういえば図書室は生徒会室の真下だったとプリシラは思い出す。

 

 今期の生徒会長はクラウスと同学年の侯爵令息で、優秀で格好いいと女子生徒から人気があった。

 集会等の挨拶で覚えがあったことと優秀なクラウスの婚約者という立場からか、やたらとプリシラへ話しかけてくるため声の主は会長で間違いないだろう。


 しかしプリシラが反応したのは聞こえてきた会話に「クラウス」が登場したからだ。

 会長の話など微塵も興味はないが、クラウスに関係するならば話は別である。

 盗み聞きは悪いことという常識に蓋をして、階上に全集中して聞き耳を立てたプリシラの存在など知らずに、会話は続いてゆく。


「なあ、プリシラ嬢から束縛されて、クラウスだって本当は迷惑してるんだろう?」


 ドキリとプリシラの心臓が跳ねた。

 どうやら、いい話ではないようだと唇を噛む。


「クラウス様もいたんだ……それは、そうよね。先程生徒会室へ行くと言ってらしたものね」


 ドキンドキンと鳴り響く心音の中、プリシラは祈るようにクラウスの返事を待つ。

 しかし、幾ら聞き耳を立てても階上から愛しい人の声は聞こえなかった。


「クラウスは、まただんまりか。まぁ、本音は嫌がってても、政略的な婚約者の悪口を言うわけにはいかないものな」


 生徒会長の声だけが虚しく木霊した後、プリシラは窓辺から後退る。

 沈黙は肯定と同義だ。と、どこかで聞いたことがある気がして足が震えた。


「迷惑だった?」


 独り言ちてブンブンと頭を振る。

 口数は少ないがクラウスは嫌なことは嫌だとはっきり言うタイプだ。

 それにクラウスは、否定はしなかったが肯定もしなかった。

 だから迷惑ではないはず……。


 クラウスと婚約して初めて、プリシラは胸がモヤモヤとする経験を味わいながら、図書室を去ったのだった。



 鉛を飲み込んだような気持ちのままプリシラが学園のカフェに向かうと、何故か人だかりができていた。


「いい加減、お前の束縛にはうんざりなんだよ! 何でもかんでも監視しやがって!」

「私は貴方のことが好きだから、どんなことでも把握していたいの! 私達は婚約者なんだから相手の行動を知りたいって思うのは当然でしょう!」

「親が決めた婚約者に好きも嫌いもあるかよ!」

「そんな……」

「好きでもない奴に好きとか言われても迷惑なんだよ! 婚約だって破棄できるものなら破棄したいくらいだ!」


 男子生徒は吐きだすよう言い捨てると、ショックのあまり呆然と立ち尽くす女子生徒を置き去りに、カフェから出て行ってしまった。

 呆然としていた女子生徒の方もやがて騒ぎを聞きつけたのか友人らしき令嬢が回収していったので、野次馬達も掃けてゆく。

 そんな中、プリシラだけは真っ青な顔で一人立ち竦んでいた。


 プリシラとクラウスの婚約も政略的なものだ。

 一目ぼれしたプリシラが好き好きアピールをしているが、クラウスにとって自分は?


 人の振り見て我が振り直せとはよく言ったものだが、プリシラはその言葉の重みに押しつぶされそうになっていた。


「大丈夫、だってクラウス様は私が好きって言ったら頷いてくれるもの。……あれ? でも好きって言ってるのは私だけ? ……あれ? もしかして好きなのは私だけ?」


 ひんやりとしたものが背筋を流れる。


「好きでもない奴に好きとか言われたら迷惑……婚約だって破棄したい……」


 先程、知らない男子生徒が投げつけた言葉が胸を抉る。


「ま、待って……私、このままではクラウス様に婚約破棄されるのでは?」


 考え出したら、急に怖くなって足元がふらつく。

 カフェに入って休もうかと考えて、ふとクラウスとの会話が蘇った。

 プリシラはカフェで待っていると告げたが、クラウスは先に帰ってしまっていいと言っていた。


「帰っていいではなく……帰ってくれ、だったのかもしれないわ」


 一度負の方向に考え出すと何もかも不安になってゆく。

 ガタガタと震えだしてプリシラはカフェを素通りすると校舎のほうへ向かう。

 ぐるぐると脳内で巡る悪い予感に、校内を闇雲に歩いているうちに、生徒会の仕事が終わったのかクラウスの後ろ姿を見つけた。


「あ! クラ……」


 いつもの癖でクラウス様と呼んで駆け付けようとして足を止める。

 くるりと踵を返すと、クラウスとは逆方向へ立ち去った。

 クラウスから逃げるなど、婚約してから初めてだった。


 一人で停車場までやってきたプリシラにアスワン伯爵家とスエズ子爵家の馭者達が非常に驚いた顔をしたが、先に帰ることを告げると益々驚愕の表情を浮かべる。

 そんな馭者達を見て「やっぱりしつこく付き纏いすぎていたんだわ」とプリシラは自嘲した。


「用事を思い出したから先に帰ることにしたの」


 そう言って自分の家の馬車に乗り込んだため、子爵家の馭者は戸惑いつつも出発してくれたが、プリシラの乗った馬車を呆然と見送ったアスワン伯爵家の馭者が、青褪めた顔で主を探しにいったことなど知る由もなかった。


 ◇◇◇


 翌日からプリシラはクラウスを避けることに決めた。


 クラウスに会ったら好きだと言わずにはいられない。だがそれはクラウスにとっては迷惑なのだから我慢しようと思ったのだ。


 昨日、カフェで待つと言いながら先に帰ったプリシラを、クラウスが問い質しに来ることはなかった。

 それは自分に関心がないということと同義で、つまり今までの付き纏い行為は迷惑ということの証だと思い項垂れた。


 登校するなりクラウスの元へ行くプリシラが珍しく(というか入学以来初めて)自分の席に着いているのを見てクラスメイトは目を丸くする。

 その中で少し意地悪な女子生徒が声をかけた。


「プリシラ様、今朝はアスワン伯爵令息の所へ行かなくていいのですか?」

「はい……今までちょっとしつこくし過ぎたかなって反省しまして……」

「まぁ、やっとお気づきになったんですのね」


 嫌味たっぷりに見下した女子生徒だったが、プリシラは素直に頷いた。


「ええ。考えてみれば私が好きだと言っても、クラウス様から返されたことはありませんでしたもの」


 俯くプリシラに女子生徒の方が目を丸くする。


「え? あれだけ好きだと告げていたのに返されたことがない? 一度も?」

「はい。クラウス様にとっては……迷惑だったのかもしれませんね」

「ですが、お二人は婚約者なのですわよね?」

「でも政略ですから」


 力なく微笑んだプリシラの瞳に涙が浮かぶ。

 それを瞬きで誤魔化したプリシラの肩を女子生徒がグッと掴んだ。


「政略でもお互いに歩み寄ろうとする努力は必要ですわ」

「では歩みよりたくないということですかね。好きだと伝え続けていれば、いつかきっと同じように愛してもらえると思っていたのですが、どうやら私の独りよがりのようだと今更気づくなんて愚かですよね」


 耐えきれずポロッと涙を零したプリシラが慌てて目元を拭い、唇を噛みしめる。

 その姿に教室にいた生徒達が抱いていたプリシラ像が、婚約者に好き好きアピールをするメンタル最強令嬢から、健気な令嬢に切り替わった。


 ちょっと意地悪をしてやろうと思っていた女子生徒も慌ててフォローを入れる。


「プリシラ様は愚かではありませんわ」


 嫌味を言いにきたはずなのに、気遣わせてしまい申し訳ないとプリシラは眉尻を下げる。


「お気遣いありがとうございます。でも傍から見ても、今までの私って見苦しかったですよね? 申し訳ありませんでした」


 弱々しく謝罪したプリシラの肩を女子生徒が大きく揺さぶる。


「何を謝ることがあると言うのです! プリシラ様は何も悪くありませんわ! 酷いのは婚約者の健気な気持ちを無下にするアスワン伯爵令息です」


 会話を聞いていた他の生徒たちも何だか痛ましい者を見る目になっている。

 だが当のプリシラはクラウスが悪く言われたことに、すぐさま目の色を変えた。


「クラウス様は酷くありません! クラウス様は誰よりも優しくて素敵で恰好よくて、お顔のパーツも全てが極上の、まさに地上に降りた天使。バランスの取れた体格に程よい筋肉、鍛えられた体幹のお陰で動作はしなやか、身長は高過ぎず体重は軽すぎず、白皙の肌は頬ずりしたいほど滑らかで、いえ、クラウス様の体ならどんな状態でも素晴らしいのですけれど、うっかり触れてしまったらサラサラの髪も形のよい耳も、少し骨ばった指も何もかも撫でくりまわしたい衝動に駆られるのは必定なので我慢している次第であります。それに無駄がない適格な物言いは頭が切れる証です。そして限りない優しさと気遣いまでできる素晴らしいお方なのです。あれだけ麗しいお姿をしているのに頭までよくて性格まで素敵だなんてまさに天使! 天使が酷いなどありえません。ですが、そう! 天使だからこそ私には勿体ない方で……そう、勿体ないんです! 全てはクラウス様がかっこよすぎるせいなのです! ああ、よすぎて辛い! これはもう神様の意地悪としか言いようがありませんわ!」


 全力で捲し立てたプリシラのクラウス愛に、知ってはいたが女子生徒も他の生徒も引きつった顔しかできない。


 実際のところクラウスの顔は大分ひいき目に見ても上の下、こげ茶色の髪と群青の瞳も良く言えば落ち着いているが悪くいえば地味。

 平均身長平均体重であり体格も至って平凡、学園の成績は常に首位であり教師達からは天才などと言われているが、口数が少ないため目立たない。

 伯爵家の嫡男であるという点はポイントが高いが、婚約者を押しのけてまで得たいかと言われれば否だろう。

 そう、クラウスはプリシラにとっては好みドンピシャというだけで、他の令嬢から見れば普通のいわゆるモブ令息という位置付けなのである。


 一方のプリシラはクラウス大好き言動が痛すぎて奇異の目で見られているが、少し癖のある艶やかなペールブルーの髪と、ぱっちりとしたピンクゴールドの瞳をもつ美少女であり、黙っていればかなり可愛い部類に入る容姿だ。

 婚約者がいるのは彼女の言動から周知の事実であるが、密かに狙っている令息も多い。


 成績もクラウスと同じ順位で名前を書かれたいという理由で上位をキープしている。

 クラウスが卒業する前に何とか首位になるのが夢だが、未だに果たされず、毎回貼りだされた成績表を見ては項垂れ、クラウスに慰められていた。

 それはそれでプリシラにとってはご褒美なのだが、やはりもっと近くの順位がいいということで、日々勉学に励んでいる。


 そんな努力家でもある彼女を生徒会長である侯爵令息も気になっているという噂だが、プリシラがクラウス以外眼中にないことは明白なので、素直に玉砕覚悟で言い寄る勇気はないらしく、頻繁にやっかみを込めた苦言を呈してることは有名だ。


 生徒会長に淡い恋心を抱いていた女子生徒はそのことが面白くなくて嫌味を言おうとしたのだが、当のプリシラはクラウス以外本当に興味がなく、婚約者を一途に想っていることに、同じ恋する者として感銘を受けてしまっていた。


「そんなに慕っているアスワン伯爵令息と離れてプリシラ様は平気なのですか?」

「平気ではないですけど、大好きだからこそ嫌われないように頑張って距離を取りたいと思います」


 いじらしい言葉に、女子生徒は自分の敗北を悟る。

 生徒会長が振り向いてくれないからと言って、八つ当たりする自分はなんて情けない人間なのだろう。

 好きだからこそ身を引く、それこそ淑女としての美学だと思った。


「師匠と呼ばせてください!」

「へ?」


 面食らうプリシラの両手を女子生徒が握りしめる。

 そんな二人に教室中から拍手が沸き起こる。


 この日、プリシラに新たな友人が増えた。

 恥ずかしいので師匠はやめてほしいと懇願したため名前で呼んでくれることとなったが、ランチも彼女と一緒に摂ったプリシラを、他の教室の生徒は戸惑いと驚愕の眼差しで見ていたのだった。


 ◇◇◇


 一方――。

 クラウスは婚約者のプリシラのことが大好きである。

 見た目も可愛らしいが、それ以上に好きだと素直に告げてくれるところが可愛くて愛おしい。

 婚約が決まって初顔合わせの時のダブル鼻血には驚いたが、それさえも自分が好きすぎて噴き出してしまったものだと認識したら、嬉しさがこみ上げたものだ。


 口下手なクラウスに対して、臆面もなく恰好いい、最高、大好きを連発するプリシラに、どちらかといえばネガティブ寄りの思考を持っていた彼の世界は明るく染まった。


 貴族の令息だからとおべっかを使う者もいるが、プリシラの誉め言葉は嘘がない。

 言葉と行動、全力でクラウスを肯定してくれる存在の有難さに、気がつけばクラウスの方が夢中になっていた。

 自分の地味な顔が好きだと言うプリシラに、内面も好きになってもらいたくて学業やそれ以外のことも頑張った。

 プリシラの大好きが、クラウスの優秀さの原動力になっていた。


 初めて会った時も(鼻血塗れではあったが)可愛い子だと思ったが、成長するにつれプリシラは益々可愛くなっていった。


 生徒会だって彼女と一緒の時間が減るため本当は入りたくなかったが、ある事情と会長である侯爵令息がプリシラを目で追っていることに気づいて敵情視察を兼ねて所属を決めた。


 会長はクラウスに、好きだと公言するプリシラを呆れているような発言をし度々話を振ってくるが、ここでクラウスが曖昧な返事をすれば婚約が不満だという噂をばら撒かれるし、否定すればやっかみを受ける。


「あんなふうに毎回好き好きアピールとか俺だったら耐えられないな」

(はっ! 嬉しすぎて心臓が耐えられないんだろう?)


「しかも全然相手にされてないのに、よく恥ずかしげもなくできるよな」

(相手にはしているが? むしろどんと来いだが?)


「クラウスだって本当は迷惑してるんだろう?」

(いや、全然? 迷惑どころか大歓迎。貴様も言われたいんだろうが、そんな未来は永久に来ない、来させやしない。プリシラの好きは絶対誰にも渡さない)


 相手が高位貴族の令息なので曖昧に微笑んでいるが、クラウスは毎回内心で毒を吐きながら腸が煮えくり返っていた。


 しかし、そんな荒んだ生徒会室での日々もプリシラの笑顔で癒される。

 朝、昼、夕、と婚約者の顔が見られるなんて幸せだった。

 本音を言えばもっと見たいと思い、自分からも会いに行こうと提案したが、プリシラから「行き違いになったら会う時間が減ってしまいますので、待っていてくださると嬉しいです!」と言われてしまい自重していた。

 ところが、だ。


「いない?」


 すこぶる不快な生徒会の仕事を爆速で仕上げて、愛しいプリシラに会うためカフェへやってきたクラウスだったが、いくら目を凝らして見渡してもペールブルーの髪色が見えない。

 何よりいつもはクラウスが探さなくともプリシラから駆け寄ってくるはずだった。


 不審に思いながらプリシラの教室へ行ってみたが誰もおらず、心配して校内中を探しまわっていたら、同じように自分を探していた馭者に用事を思い出したから先に帰ったと告げられた。

 急用なら仕方がないと思ったが、こんなことは入学以来初めてで嫌な予感に胸が押しつぶされそうになる。


 停車場までの道のりに彼女が隣にいないことが酷く寂しく、帰宅後はどんどん不安が募るばかりだった。


「連絡を取ってもいいだろうか? だが用事があるようだし、忙しい時に連絡などして迷惑になってはいけない。でも心配だ。だが……でも……」


 この晩、クラウスは「だが」と「でも」を繰り返し考えてたら、朝になってしまっていた。



 鬱々とした気持ちを切り替え学園に向かうも、その日登校中に彼女はやってこなかった。

 スエズ子爵家の馬車は停まっていたので登校はしているはずだ。

 それなのにプリシラが自分の所に来ない。


 行き違いになったら困るというプリシラの言葉を噛みしめ、いつもより数倍ゆっくり教室へ向かうも、クラウスと同じように困惑顔の生徒たちが見えるだけで、輝くばかりの笑顔の主は見当たらない。

 そのままクラウスは昼休みもずっと教室で待ち続け、昼食を摂り損ねた。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ。


 午後の授業の間中、竜が唸るような腹の鳴る音が教室中に響くが、音の発信者であるクラウスの険しい表情に、教師も生徒も何も言えないまま迎えた下校時。

 さすがに我慢ができずにプリシラの教室へやってきたクラウスに、プリシラは目を見張るも、すぐに笑顔を貼り付けた。


「クラウス様……ごきげんよう」

「あ、ああ」


 返事はしたもののクラウスは頭を殴られたかのような衝撃を受けていた。

 何故ならプリシラが笑顔を貼り付けたからだ。

 長年、彼女から嘘偽りない笑顔を向けられ続けたクラウスにとって、作られた笑顔は耐えがたいものだった。

 それなのに、当のプリシラは気づいていないと思っているのか、平然と話を続ける。


「今日も生徒会ですか?」

「いや、今日はないよ」

「そうですか」


 立ち上がったプリシラから「では一緒に帰れますね、嬉しいです!」と言われることに一縷の望みを持って待っていたのだが……。


「では失礼します。クラウス様もお気をつけてお帰りくださいね」


 プリシラの言葉にクラウスの心が真っ黒に染まった。


「プリシラ!」

「はい?」


 呼び止めたものの、今は頭がうまく回らない。


「あ……いや、昨日は何故先に帰ったのかと思って……」

「すみません、急用ができたものですから。お待ちしますと伝えていたのに申し訳ありませんでした」

「そう……」

「それでは」


 背を向けて自分から遠ざかるプリシラにクラウスの心中が逆巻く。

 いきなり素っ気なくなった彼女の気持ちがわからない。


 今になって地味な自分に気づいて気持ちが離れてしまったのだろうか?

 恋は魔法だと言うが魔法が解けてしまったから、ぱっとしない自分など好きではなくなった?


 不安が不安を呼び、比例するように黒く昏く心が塗りつぶされてゆく。

「一緒に帰ろう」プリシラがずっと言ってくれていた一言が、貼り付けた笑顔を見せられたクラウスには言えず、氷のような眼差しで婚約者が立ち去った廊下を見続けていた。


 ◇◇◇


 プリシラがクラウスに付き纏わなくなって数日、二人の関係が学園に流れるのはあっという間だった。

 毎日のように好き好きアピールをしていたのだ。当然といえば当然である。


 そんな不穏な空気に、誰よりも早く、そして歓喜と共に飛びついたのは、やはり生徒会長であった。

 彼は今こそプリシラを我が物にするチャンスだと狂喜乱舞する。


 そんなある日の放課後、クラウスを避けて一人で帰路に就こうとしていたプリシラの前に、会長はこれみよがしな極上の笑みを浮かべて現れたのだった。


「やあ、プリシラ嬢。最近、クラウスとは随分冷え切っているようだね。やっと、あんな地味で愛想のない男には魅力がないと気づいたみたいで安心したよ。よければ、これからは優秀で美しく家柄もあるこの私が、君の隣に立ってあげようと思うがどうかな? 私ならば君のしつこい求愛にもこたえてあげるだけの度量があるよ」


 流し目を送る生徒会長は他の女子生徒が見れば頬を染める美貌である。

 だがプリシラにしてみればクラウス以外の男性など、目と鼻と口のついた人間という感覚しかない。

 そんなことよりも彼がクラウスのことを「地味」で「魅力がない」と言ったことの方が問題であった。

 プリシラの脳内スピーカーが、淑女の仮面をバリバリと引き破って雄叫びをあげる。


(は? クラウス様に魅力がないですって? あの計算され尽くした奇跡の造形美を地味ですって? これだから至高の美しさがわからない無知蒙昧の輩は困るのよ! クラウス様は最高! それはもう、まごうことなき真実なんだから! 侯爵家なら良く見える眼鏡を買ってもらいなさいよ!)


 しかし、今のプリシラは自分のことをクラウスに迷惑をかけている存在だと思い込んでいる身である。

 ここでクラウスと同じ生徒会役員である会長に下手な反論をすれば、更に嫌われるかもしれない。

 プリシラはぎゅっと拳を握りしめ、淑女の笑顔を貼り付けた。


「申し訳ありません、家柄がよろしくない私には会長の仰っている意味がわかりませんわ」

「へぇ、嫌っても婚約者の悪口は言わないなんて、益々気に入ったよ。手に入れるのが楽しみだ」


 生徒会長は意味深に口元を歪めると、その場を去っていく。

 彼の放った言葉は本当に理解不能だったが、クラウスを悪く言った会長にプリシラは嫌悪感しかなく、立ち去る背中に向かって心の中で何度も拳を叩きつけていた。


 そんな二人を冷ややかな眼差しで見つめる人物には気づかずに……。


 ◇◇◇


 翌日、学園の掲示板の前に沢山の人だかりができていた。

 そこにはクラウスが生徒会の公金を横領したとされる告発文書が、大きく貼り出されていたのである。


 実は全くの事実無根の冤罪なのだが、自分になびかないプリシラに業を煮やした生徒会長が、クラウスを貶め傷心の彼女を強引に奪うために仕掛けた卑劣な罠だった。


 しかし、そんなこととは知らない生徒たちは顔を顰めて囁きあう。


「アスワン伯爵令息が公金を横領していたなんて……」

「伯爵家ってそんなに困窮していたのかしら」

「プリシラ様に冷たくされて自棄になったのじゃない?」

「自業自得ですのに、愚かな真似をなさったこと」


 周囲の生徒たちがざわつき疑惑の目を向ける中、渦中のクラウスがやってきて掲示板へ目を向ける。

 そこへ生徒会長が颯爽と現れ、勝ち誇った顔でクラウスを指さした。


「残念だよ、クラウス。君を信用して会計を任せていたのに横領だなんて。君のような犯罪者は学園を退学し、プリシラ嬢との婚約も破棄されるべきだ!」


 クラウスを糾弾する会長は得意の絶頂にいた。

 そんな自信漲る会長の姿に、数名の女子生徒が喚声をあげる。

 対してクラウスは、いつも通り淡々と、しかし冷徹な瞳で会長を見返した。


 一触即発の気配だが、告発文書と会長が放った言葉により周囲はクラウスに冷たい視線を向けており、状況はあまりに彼に不利である。

 そこへ、ペールブルーの髪を振り乱したプリシラが猛然と割り込んできた。


「冤罪で天使を汚すとは何事ですの!」


 その場にいる全員が「は?」となったがプリシラはとまらない。

 師弟関係から友人、そして親友に昇格した女子生徒が掲示板のことを知らせに来てくれた時、プリシラの顔は般若のよう(あまりの顔の怖さに女子生徒は泣くかと思った)であった。

 今もまだ、彼女の怒りは収まらない。


「クラウス様が横領ですって? 天使がそんなことする必要があると思って? クラウス様といえば高潔で優しく、学園の平和と私の安全までを考えてくださる素晴らしい方ですのよ! それをこんな安っぽい偽造文書で貶めようとするなんて……はっ! まさか、これは天使を堕天させるために悪魔が仕組んだ罠かもしれないわ」


 いや、だから、その天使がクラウスと結びつかないんだって、という周囲の心の声はプリシラには届かない。

 素っ頓狂な推理を始めたプリシラに、追いついてきた親友は額を手で押さえる一方で、こんな時でも一途にクラウスを信じている彼女は、やはり師匠だと感服していた。


 ちなみにプリシラと行動を共にするようになってから、彼女を貶めるような失礼なことを言いつつ粉をかける生徒会長の歪な執愛に気づいたため、あんな顔だけ男は一途に想う相手には相応しくないと断じて、今では彼を好きだったことは黒歴史となっている。


 クラウスと対峙していた生徒会長は、プリシラに睨みつけられ一瞬たじろぐも、悔しそうに掲示板の文書を叩きつけた。


「くそ! まだ地味なクラウスを庇うのか。強情な女だ! だが横領なんてした以上、奴との婚約は破棄決定だ! だから……」


 こちらへ向かって距離を詰める生徒会長に、クラウスを地味と言われブチ切れたプリシラが今度こそ本当に拳を叩きつけてやろうとした時、二人の間にこげ茶色の影が割り込む。


「プリシラ、ストップ!」

「はい!」


 絶対的存在の声に、いつものように返事をして拳を止めたプリシラを、影の主クラウスが振り返って微笑んだ。


「庇ってくれてありがとう。でも、ここは私に任せて。君にこれ以上、他の男と会話してほしくないし、たとえ拳だとしても触れさせたくないんだ」


 クラウスの冷ややかな、しかし絶対的な自信に満ちた声が響く。

 いつも穏やかな表情をしていたため、あんな怜悧な顔もできたのか、と周囲がおののく中、彼は掲示板を見上げて薄く笑った。


「この告発文書を掲示したのは会長ですね」

「そ、それがどうした! 私は正義の告発をしたのだ!」


 まだ誰も登校していない早朝に、こっそりと匿名で貼りだした告発文書を貼ったのが自分だと断定され生徒会長は動揺したが、勝利を確信しているためか、あっさりと認める。

 余裕を見せる会長にクラウスも笑みを湛えたまま首を傾げた。


「会長の正義はともかく……この告発文には『クラウスが昨夜、生徒会室の金庫から金貨50枚を盗み出した』と書かれていますが、間違いありませんか?」

「ああ! 今朝生徒会室の金庫を確認したら、きっちり金貨50枚分の帳尻が合わなくなっていたからな! 私が証人だ! 言い逃れはできんぞ!」

「なるほど。でも、おかしいですね。貴族とはいえ学生が大金を管理するのは不用心だからと、金庫にあった金貨は全て先週の時点で学園長室へ移動したはずなのに」

「な、なに!?」

「あくまで試験的でしたので、事情を知らない他の役員が混乱しないよう偽金貨を置いてはおきましたが……。本物の金貨が一枚もない金庫から、どうやって私は昨夜金貨50枚を横領したのでしょう?」

「生徒会の金を移動なんて、私は聞いてないぞ!」

「ああ、いつも書類に目を通さないまま決済印を押下なさいますものね。学園長室に保管されている資金移動の同意書には会長のサインと印がしっかりありますよ」


 さりげなく会長の無能さを暴露したクラウスに周囲が戸惑うように眉を寄せる。

 バツが悪くなった会長は、流れを再び自分有利に変えるべく声を張り上げた。


「き、金額の問題ではない! たとえそれが偽金貨でも、金庫から金を盗みだそうとした、その行為が罪だ! そして、その現場を昨夜私はこの目でしっかりと見た!」

「昨夜見たのに、今朝金庫を確認したのですか? その場で糾弾しなかった理由は?」

「そ、それは……」

「大体、私は先週学園長と金庫を確認してから、偽金貨に触ってはいません」

「そんな証拠はないだろう!」

「それが、あるんですよね。生徒会室の金庫の偽金貨には、触れると数時間後に光りだす絶対に落ちない特殊なインクを塗っておいたので」

「光るインク……?」


 慌てて、だが周囲には気づかれないように、さりげなく自分の手を確認した会長が、光っていないことに安堵して胸を撫でおろす。

 クラウスは、そんな会長を冷めた瞳で見下ろしながら軽く溜息を吐いた。


「実は以前から生徒会費の収支が合わないと学園長から相談を受けていましてね。生徒会なんて入るつもりはなかったのですが、学園長に、どうせ入学して数か月で卒業単位は取得してしまったのだから、婚約者の安全で健全な学園生活のために横領者を特定してくれと懇願されてしまいまして。ああ、そういえば収支が合わなくなったのは、貴方が会長になってまもなくでしたね」

「そ、そんなものは、ただの偶然だ!」


 瞳を彷徨わせながらも反論する会長を無視して、クラウスは笑みを深くする。


「ところで会長、昨夜まではやけに生徒会室の警備が強化されていたのに、今朝は誰もいなかったのは不自然だとは思いませんでしたか?」

「ま……まさか……」

「罠にかけるために敢えてそうした、とは犯人は考えなかったんでしょうね。警備が緩くなったので、これ幸いと誰もいない生徒会室の金庫を開け偽金貨を鞄に詰め込んだ犯人は、中身が本物かどうか確認もしなかったのでしょう。今まで何度も盗んできたので、今回も本物だと確信して油断したんでしょうね。偽金貨な上に、まさか特殊なインクが塗られているなんて思いもしないで……。ああ、今朝早い時間に偽金貨に触れたのなら、そろそろ光りだす時間ですね」


 クラウスの発言に、再度己の手を確認した会長の顔色が、さあっと目に見えて青褪める。

 制服の両袖をしきりに引っ張り手を隠そうとする様は中々に情けないが、クラウスはわざとおどけたように目を丸くした。


「あれ? 会長、手を隠してどうされたんです? あれれ? なんだか光っていませんか? え? もしかして犯人は……」

「こ、これは違う! 今朝、そう! 今朝、絵画を嗜んだ時に付いた特殊な絵の具で……」

「会長、知ってます? 偽金貨に塗ったインクは私が開発した特殊なもので、国が管理している製品なんですよ。だから光り方も絵の具とは全然違うんですよね」

「いや、だからこれは特殊な絵の具で……」

「そこまでだ!」


 苦しい言い訳を始めた会長に周囲にいた生徒たちも白い視線を向ける中、事態を収拾するために現れたのは学園長だった。

 学園の警備員と共に現れた学園長によって、偽金貨が会長のロッカーから見つかったことと、袖を捲られ手の発光の証拠を突き付けられた会長は、がっくりと項垂れる。


 あまりにも鮮やかな断罪返しに生徒たちは唖然とし、警備兵に拘束された会長が呆然とする様子に、学園長は呆れたように苦笑した。


 クラウスは口数が少なく見た目も相まって地味な印象ではあるが、常に学園首位であり、彼の発明品は国が管理を申し出るほどの天才と称され、既にアスワン伯爵家でも次期当主として情報収集能力と冷徹な策略を巡らせていることは貴族社会では有名な話だ。

 実家の侯爵家の権力と華やかな容姿だけで生徒会長になった一令息程度が、敵う相手ではなかったのである。


 今まで尊敬と憧れの的であった生徒会長は、軽蔑の眼差しを向けられながら学園長と警備兵に引きずられ惨めに退場していった。

 学園内での不祥事であったため今まで横領した金額を弁償さえすれば、本来なら会長職の罷免と謹慎処分で済むはずだが、世間体を気にした侯爵により自主退学になるだろうし、家督も弟が後継し彼は廃嫡されるだろう。

 遊ぶ金欲しさに軽い気持ちで横領に手を染めたことで、お先真っ暗な未来になってしまったわけだが、クラウスもプリシラも知ったことではなかった。


「クラウス様、素敵でしたわ! 今回は最高に知的で、でもいつも通り素敵で、もう何度も昇天しかけましたわ!」


 いつもの調子で褒め称えるプリシラだったが、すぐにハッと我に返り悲し気に視線を落とす。


「申し訳ありません。あの、すぐに視界から消えますので……」

「プリシラ、ステイ!」

「はい!」


 離れようとしたプリシラだったが、やはり絶対的存在のクラウスに言われてしまえば逆らえない。

 止まった彼女の手をクラウスが優しく掴む。だが、その手は少し震えていた。


「お願いだから私から離れようとしないでほしい。私はプリシラを迷惑だなんて思ったことは一度だってないよ」

「え?」

「生徒会室での会話を聞かれていたなんて知らなかった。下の図書室に君がいるとは思わなかったから」


 何故かプリシラが盗み聞きしていたことがばれている。

 しかし、あの日、図書室の窓辺にはプリシラしかいなかったはずだ。


 クラウスが、あらゆる手管を使って情報を集めたことなど知らないプリシラは瞳を瞬かせるが、それよりも今はクラウスの本当の気持ちを聞くことの方が大事だった。


「でもクラウス様は会長の言葉を否定なさらなかったので、本当はしつこく付き纏う私のことを、迷惑だと思っていたのでしょう?」


 自分で言って悲しくて泣きそうになるプリシラに、クラウスが慌てて否定する。


「違う! それは絶対に違うよ、プリシラ。あそこで下手に言い返したら、君へのやっかみが増えると思って耐えていたんだ。私は、私は……本当に君が会う度に贈ってくれる大好きが嬉しいんだ」


 耳まで真っ赤に染めながら、クラウスは生まれて初めて、内に秘めていた熱い本音を爆発させる。


「プリシラが急に会いにこなくなって、大好きが聞けなくなって、この数日、私がどれだけ生きた心地がしなかったかわかる? 君にかかった魔法が解けて、私のことが嫌いになったのかと思うと、不安で気が狂いそうだった」

「私、魔法なんてかかっていませんわ」


 キョトンとするプリシラにクラウスが困ったように頬を掻く。


「君以外は、そう思っていないんだけどね」


 周りを見れば気拙そうに視線を逸らした生徒たちに、クラウスが苦笑する。


「まあ、自分が地味なのは自覚しているし、プリシラが好きでいてくれたら別にいいんだ。でも離れられるのは耐えられない……本当は、もう少し待つように懇願されていたんだけど……」


 クラウスは深く息を吸い込むと、プリシラへ蕩けるような笑顔を向けた。


「私の可愛いプリシラ、大好きだよ」

「へ?」


 零れんばかりに大きくピンクゴールドの瞳をかっぴろげたプリシラが固まる。

 完全に停止した婚約者の顔を何故か心配そうにクラウスが覗き込み、ホッと安堵の息を吐いた。


「あ、大丈夫みたいだね。よかった、これで心置きなく想いを伝えられるよ」


 よかった、よかったと微笑むクラウスに、周囲は困惑するしかない。

 そっけなかった態度とは裏腹にクラウスも相当プリシラしか目に入ってないということに、ようやく気付いた生徒たちだが、では何故これまで想いを伝えなかったのかが気になった。

 そんな周囲の空気を読んだのか、はたまた自分が知りたいだけなのか(たぶん後者だが)プリシラと親友になった女子生徒が、戸惑うように声を掛ける。


「あの……どういうことですの?」


 疑問の色を浮かべる女子生徒に、クラウスは笑みを浮かべてはいるが、固まったままのプリシラをまだ心配そうに見つめたまま口を開いた。

 ちなみに彼が視線を送るのは、彼女の顔の中心である。


「私がプリシラに好きだと告げたら、彼女の鼻の粘膜が耐えきれないんだよ。なにせ最初の顔合わせの後、出血多量で死にかけたそうだから。興奮する彼女を少しずつ私に慣れさせようってプリシラの家族から言われてしまってね、だからずっと想いを返すことができなかったんだ」

「はい?」


 目を点にする女子生徒を他所にクラウスが物憂げに溜息を吐く。


「令嬢が人前で鼻血を出すのも尊厳が失われるから自重してくれとも言われてね。私はプリシラならどんな状態でも可愛いと思うけど、彼女の命と尊厳のためだから好きとは言えなくて……プリシラと一緒にいるためだから耐えたけど、こんなに大好きなのに伝えられないなんて拷問だよね」


 まだ固まっているプリシラのペールブルーの髪を、愛おしそうに撫でるクラウスは、やっと好きだと言えて幸せそうだ。


 しかし女子生徒をはじめ周囲は、クラウスがプリシラの命と尊厳を守るために、溢れんばかりの愛情を必死に抑えこんでいたのだという衝撃の事実に、口をあんぐりと開けるしかなかった。


 そこへ、漸く我に返ったプリシラが、ギギギとクラウスを見つめ返す。


「ク、クラウス様……で、では、私達は両思い的な間柄ということで……よろしいのでしょうか?」

「的じゃないよ。私は世界で一番君を愛している」


 そう言ってクラウスは極上の笑みをプリシラに向けた。

 地味なモブ令息? とんでもない。

 プリシラにとってクラウスは創造主すら平伏するレベルの神々しき存在にしか見えない。

 ましてやそんな彼に愛を捧げられたときたら……。


「キャ、キャパオーバー……! 好きが、好きが限界を突破してる……だが、やはり……わが生涯に一片の悔いなし!」


 力強くぶちまけたセリフと共に、プリシラの両鼻から、かつての顔合わせの時をも凌駕する勢いで鮮血が天高く舞い上がる。


「プリシラ!? くっ、やっぱり駄目だったか……ハンカチじゃ防ぎきれない! ああ、早く粘膜強化薬の開発を急がなくては! とにかくスロー、スローだ、プリシラ!」


 大慌てで、どこに隠しもっていたのかバスタオルを鼻へ宛がい、婚約者を抱きかかえて保健室へダッシュするクラウス。

 一方、好きな人に抱えられたプリシラは大量出血で青褪めた顔をしつつも、クラウスの言葉に従い出血量までゆっくりにしてみせ、これ以上ないほど幸福そうな笑みを浮かべていた。



 こうして学園最大の事件(と令嬢流血惨事)は幕を閉じ、プリシラとクラウスの誤解は無事に解けた。

 学園にはいつも通り(いや、以前よりも確実に糖度の増した)「ストップ」「ステイ」「スロー」と叫ぶクラウスと、「大好きです!」と突撃するプリシラの騒がしくも平和な日常が戻ってきて、他の生徒たちは「平和だな~」とほっこりしているのであった。


主人公が貴族令嬢なのに全然淑女じゃないという……温かい目で見てくだされば幸いです。

ご高覧くださりありがとうございました。

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増血剤も開発してあげてください(°▽°)このままじゃ嫁に行く前に出血多量で違うとこに逝っちゃうがな(,,・д・)
何も学校やら外出先で好きだと言わなくても、婚約者同士のお茶会等で好きと告げれば良くないかな? 別々に帰ろうとした時も、断られるかもと思ったとしても、たった一言、今日用事がないなら帰らないかと声をかけ…
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