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迷宮

作者: 中村遠
掲載日:2025/12/02

 ボヘミアン・ラプソディを観た。Rはクイーンを聞きながら、悠然と駅まで歩いた。彼らの曲は力強かった。

 普段なら、怖じ気づいて決してやらないようなこと――たとえば街中で見ず知らずの他人をすれ違いざまに殴るような、理由なき衝動に、今なら身を任せられる。そう思った次の瞬間には、Rは見ず知らずの男を殴っていた。男は激しく路上に尻餅を着き、殴られた頬に手をそえて唸った。

 Rはこのとき、生まれて初めて人を殴った。Rはそっと手をさしのべると、丁寧な謝罪の言葉とともに、『ボヘミアン・ラプソディ』に感動したあまりの行動だったこと、けれども映画やクイーンにはなんの罪もないことを、至って真剣に述べた。


 男はRを許したどころか、差し出された手を強く握り返した。名をKといった。聞けば彼の父親もまたクイーンの往年のファンだという。

 RはKを引き上げると、せめてもの罪滅ぼしに自分を殴ってくれと懇願した。手にはまだ、Kを殴った余韻が残っており、手の甲は熱かった。


 Kは殴ってくれなかった。

 ひとまず、ふたりは連絡先を交換して別れた。じつのところ、Kは突然殴られたショックが大きく、心の整理をつけられずにいたのだ。ようやく精神に落ち着きを取り戻した二週間後、Kは、やはり君を殴れない、というニュアンスのメールをRに送った。

 Kに殴られないかぎり、罪は消えない。なんとしてでもRはKに殴られるつもりだった。その後、数通のメールのやりとりの末に、週末にKと駅前の喫茶店で会う約束をした。


 当日、やはりKはRを殴らなかった。コーヒーの香りと味を楽しむのに夢中で、Rの忘れかけていた本来の目的は、店内のスピーカーから流れてきたクイーンの『Radio Ga Ga』を耳にした瞬間、一気に引き戻された。


 俺を殴ってくれ、Rは言った。喫茶店ということもあり、最初は普段よりもやや抑えた声量だったが、いくら頼んでもKが頑なに断るため、おもわず大声で、こんなに頼んでるのに殴ってくれないのか! いったい何様のつもりだ! と叫ぶに及んだ。Kは小ぶりなコーヒーカップをテーブルに置くと、重々しい口調で「申し訳ないんだが、今はとてもそんな気分になれないんだ。父が……」


 とKが言ったとき、Rはむやみに彼を責めてしまったことを恥じた。しばし無言でKの言葉に耳を傾けた。

 父がいきなり歯の矯正をしたいって言い出したんだ。俺は納得できなかった。父はどこからどう見ても歯並びがいいほうだったし、なんなら親戚一族全員を集めても、一番歯並びが良いんじゃないかってくらいだったから、矯正する必要はないだろうって俺は反対したんだけど、父はフレディになりたいってきかなかった。自ら上顎前突になりたいだなんて……。


 家族がなにを言っても、父親は矯正すると言って譲らなかった。家族会議の場で協議を重ねた末、家族は歯医者に行く父を見送った。専門家の意見ならおとなしく従うだろうという思惑があった。やがて、出かけるときに着用していた白のランニングシャツを破り裂いて父は帰ってきた。話にならない。家の敷居をまたぐなり父はそう吐き捨てた。家族の全員が利用しているかかりつけ医をさんざ罵倒したあげく、あそこはヤブ医者だ、と言い切った。

 しかし、父に話をくわしく聞いてみると、歯医者が治療費として思わぬ高額を要求してきたのが気に入らなかったらしい。ともあれ、Kをはじめとして、家族の皆が内心で胸をなで下ろした。


 ところがそれで事は済まなかった。ちょうどそのとき、Kの父は近所の三河屋の主人とやけに親しくなった。父は暇さえあれば三河屋に足を運ぶ。そろいの髪型、そろいの洋服、そろいのサンダル、そろいのランニングシャツは母が最寄りのイトーヨーカドーで買ってきたものだった。すべてが同じでないと気が済まないと言わんばかりにふたりは同じ格好をした。偶然にも背丈もほぼ同じで、似たような体格と顔つきをしていたから、家に回覧板を届けに来た近所の佐藤さんに「おたくのご主人、三河屋のご主人とそっくりねえ。じつは双子だったりして」などと家族としては笑うに笑えない冗談を言われる始末だった。しかしその言葉も、ほどなくして冗談では済ませられなくなり、Kの父を自分のダミーとして店番させて三河屋の主人がパチンコに興じたり、腹を空かせた三河屋の主人がKの父に扮してK一家の食卓に紛れ込んだりした。日にまして姿かたちが似通ってくるふたりだった。やがて家族ですら、どちらなのかを一瞬で判断するのが困難となるほどで、しまいには当の本人らが名乗らねば確認のしようがないという事態にまで陥った。


「常に疑心暗鬼さ。俺はおまえの父親だなんて言われたって、本当は、目の前にいる父は偽物なんじゃないかって」こころなしKの顔色が悪い。あいにくKの父はもとより物覚えが致命的なくらいに悪く、思い出話をしてみても、それはなんの証明にもならなかった。どちらに過去を訊ねても、曖昧な答えしか返ってこない。

 DNA鑑定をしたら良いのでは、とRが指摘すると、Kは静かに首を横に振った。


「それは父が許さない。この間、そんなに俺が信用できないのならこの家を出て行けって怒鳴られたよ」


 言葉に窮し、Rは椅子の背もたれに身をあずけた。天井を見上げ思案した。このままでは、Kの父親は三河屋の主人に奪われ、三河屋の主人もまた、Kの父親に奪われたままだ。

 ほどなく、Rは行き詰まった。ぼんやりと薄汚れた白の天井を眺めた。店内には『Somebody To Love』が流れていた。


「やっぱり、クイーンしかないと思う」と、Kが口を開いたとき、彼の携帯電話が鳴った。悪い、と言ってKは電話に出ると、小声で相手と言葉を交わした。「もうすぐ着く? あと二、三分? わかった」と、電話を切るなりすぐさま話を戻した。「やっぱりクイーンしかないと思う」


 やっぱりとはどういうことだろうか。Rは首を傾げた。


「父を救えるのはクイーンしかいない。けど俺はクイーンをよく知らないうえに、映画も観ていない。父の話し相手すら務まらないのだから、見分けられないのは当然か」自嘲気味に笑うK。「メールでも言っていたが、君は映画を観て以来、クイーンを聞き続けているそうじゃないか」


 Kの真摯な眼差しがRに痛いほど突き刺さった。


「今から俺の父と思しき人物がここに来る。ボヘミアン・ラプソディに感動した友人がいるといったら、ぜひ会いたいと言ってきた。君に、俺の父親が本物の俺の父親かどうか見極めてほしい」


 Kの声がRの脳内で渦を巻き、居場所を求めてさまよった。果てしない螺旋に引き込まれた先に、一枚の扉があらわれ、震える手でドアノブを握る。喫茶店の入り口で、カランとベルが鳴ったとき、Rは暗闇の直中に立ち尽くしていた。

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