部誌 リレー小説
「皆さま、シートベルトを必ずお締めください」
キャビンアテンダントの声は落ち着いているけれど、どこか鋭い響きを帯びていた。
乗客たちはカチッ、カチッとベルトを締める。赤ん坊の甲高い泣き声が座席を揺らし、イヤホンから漏れるポップスのリズムが微かに空気に溶ける。誰も、次に何が起こるかなんて想像していない。いつも通りの、日常の延長のような時間だ。
──左舷の窓に、微かな「パチッ」という音が走った。
「……え?」
前列の男が呟いた。
目を凝らすと、窓の外に黒い傘がひとつ、まるで宙に浮かぶように止まっていた。風に揺れるわけでもなく、ただ静かに、そこにある。
小学生くらいの女の子が笑い声を漏らした。「わー、傘!」
しかしその瞬間、客室内の空気は凍るように変わった。
黒い傘が、一つ、また一つ……数が増え、視界を覆う。
──轟音とともに、最初の傘がエンジンに絡まった。火花が飛び散り、金属のきしむ音が耳を刺す。
機体は揺れ、座席に押し付けられた人々は体を強張らせる。赤ん坊の泣き声は次第に悲鳴に変わり、誰もが息を詰める。
「……エンジン、死んだ……左舷も……」
コックピットから聞こえる声は冷静さを装おうとしているが、震えが混ざっていた。手は小刻みに動き、計器の点滅が目に痛い。
隣に座る中年女性は必死に子どもを抱き寄せ、手のひらには汗が滲む。
前列の青年は窓に手を伸ばし、「なんで……なんでこんなことが……!」と叫ぶ。
赤ん坊をあやそうとしていた母親は声も出ず、ただ顔を覆うしかなかった。
荷物棚の扉がバタンと開き、重い荷物が床に落ちる。酸素マスクが揺れ、空気がざわめく。乗客たちは悲鳴を上げ、嗚咽が連鎖する。
後方の座席では、車椅子で搭乗していた男性が手を握り合い、涙を流していた。何もできない自分に、ただ絶望が押し寄せる。
──そのとき、最初の傘がコックピットの窓を突き破った。
布地が裂け、金属骨が操縦席を叩く。パイロットの絶叫がキャビンを揺るがす。
「やばい……もう……!」
滑走路は目の前にある。しかし機体は制御不能。傾き、燃料タンクに火花が散る。窓の外では、黒い傘の群れが街を覆うように見え、住民たちが悲鳴を上げて逃げ惑っている。
乗客たちの心臓は耳元でバクバク鳴り、呼吸は荒く、冷や汗が全身を覆う。
赤ん坊を抱える母親は必死に顔を伏せ、口からは震える嗚咽が漏れる。
「お、お母さん……助けて……」
小学生の姉妹は手を握り合い、震えながら目を閉じる。
窓の外の黒い傘は、雨のように降り注ぎ、あちこちで金属が砕ける音を立てる。
その中で、赤い傘の布だけが揺れていた。
まるで「まだ死にたくない」と囁くかのように、ゆらり、ゆらりと漂う。
──呪い。
人の命に直接触れるわけではない。
しかし、空傘が降ると、死は静かに、しかし確実に迫る。
「空傘」と呼ばれる暗殺者。
標的に呪いをかけると、最初は一本の傘が落ちる。
しかし、次第に数は増え、街を黒い雨で覆い、窓を叩き、屋根を壊し、人の身体を貫く。抵抗は無意味。
誰も、顔を知らない。誰も、姿を見たことがない。
今日も、どこかで、誰かが呪いを依頼するのを、彼は静かに待っている。
そして忘れるな──
あなたが誰かを呪うとき、その呪いは必ず、自分に返るのだ。