新しい顔を手に入れた!
他人の幸せそうな笑い声は耳障りだ。
全てが自分に対する嘲笑に聞こえるからだ。
誰も彼も、春の陽気を口実に、脳みそまで溶けているのだろうか。
あまり俺を刺激しないでほしい。
こちとら失う物など元より持ち合わせていない、無敵の男だ。
頭に血が上り過ぎれば、後先のことなど考えられなくなるほどトチ狂っているのだから。
俺は今日も、誰にも気づかれない優雅な亡霊として、夜道を歩く。
新天地にて、土地勘を覚える為だ。
あの閉塞感で息が詰まりそうな盆地の集落を晴れて脱出し、念願の都民になった。
それも、23区内だ。
憧れの、都心でのキャンパスライフ。
自由気ままな一人暮らし。
渇望していた生活を、ついに手に入れた。
地元では散々な目に遭ってきたが、今度は絶対にしくじらない。
今までの不運を全て覆してやる。
と、息巻いていたが、今日俺は、入学式をバックれてしまった。
やはり、人に会うのが怖かったのだ。
入学式は、都内の某武道館で行われたらしい。
流石は大都会のマンモス校、大仰な舞台だ。
きっと、夥しい数の人間が跋扈していたに違いない。
そのような百鬼夜行に単身乗り込むなど、まさに飛んで火に入る夏の虫だ。
行こうとはしたのだ。
だが、最寄駅までの、たかだか徒歩10分未満の距離ですら、ビクビクしながら歩く始末。
この世に、俺に勝る小心者は存在しない。
駅に着けば、大勢の人間が改札を入れ替わり立ち替わり、出入りしている。
その様の、なんたる恐ろしいことか。
電車などに乗れば、隣に座る他人、前に立つ他人が恐ろしくて、とても正気など保てないだろう。
駅員も運転士も、清掃員ですら、例外なく恐ろしい。
彼らは敵だ。
俺を理由なく蔑視する、明確なる敵。
いつか倒さなければならない。
しかし、そんな度胸など、持ち合わせていない。
誰も彼も、醜すぎる俺の容姿を見て笑うに違いない。罵倒されるに違いない。
殴られるかもしれない。
吐き気と悪寒が止まらず、ついに俺は来た道を引き返してしまったのだ。
駅に向かう時はあんなにも重かった足取りが、逃げることを決意した瞬間、スキップすら出来てしまいそうなほどに軽やかだった。
情けない。なんとも情けない。
誰か俺を殺して欲しい。
今だって、人気のない夜の住宅街を歩いているだけなのに、ひどく怯えている。
あの曲がり角から、見知らぬ他人が歩いてきて、すれ違うかもしれないと、考えるだけで恐ろしい。
後方から自転車が迫ってくる音を聞いただけでも、ビクッと身体を痙攣させてしまう。
狭い歩道で、前方から若いカップルが歩いてきた。
男は女の肩に手を回し、2人並んでこっちに向かって来る。
こんな奴らが俺に道を譲るわけがない。
1人寂しく夜道を徘徊する俺を、馬鹿にしているに違いない。
俺は反射的に、出来る限り隅っこに身を寄せ、身体を極限まで縮ませた。
嗚呼、恐ろしい。嗚呼、憎たらしい。
嗚呼、許し難い。嗚呼、殺したい。
こいつらも、こんな自分も。
俺は目に留まったコンビニに入り、迷わず菓子パンコーナーに向かい、一切の吟味をせずにメロンパン手に取り、そそくさとレジに向かった。
コンビニで買い物をする。
こんなことですら、俺にとっては戦争なのだ。
いや、戦争は大袈裟だな。殉職者に対しても失礼だ。訂正しよう。
深夜の繁華街の路地裏、或いは路上で勃発する、不良同士の喧嘩だ。
レジの販売員は決まって、俺を汚物でも見るような目で見てくる。
否、見ようとしてこない者もまた多い。
誰だって、汚物など視界に入れたくないだろう。
同じ空気すら吸いたくない筈だ。
例えそれが、客だとしても。
嗚呼、生きていて、ごめんなさい。
しかし、こんな俺でも、恐れ多くも、人間としての営みを続ける以上、何かを食わなければならない。
コンビニとスーパーを利用することくらい、許して欲しいものだ。
釣り銭を返すときなど、絶対に俺の手に触れまいとする恐るべき執念が、ヒシヒシと伝わって来るものだ。
実際、俺は汚物なのだから仕方がない。
汚い物に率先して触れるような酔狂な人間など、そうそういるものではない。
しかし、見るからに弱者男性の、ハゲ散らかした不潔なフリーター風の中年店員に、鼻で笑った様な態度を取られたり、軽く扱われたり、下に見られるのは、流石の俺も屈辱だ。
実際、そういったことは多々ある。
こんな奴らにでさえ、俺は見下される存在なのかと、毎度のことながら、言葉では表現し得ない敗北感に打ちひしがれてしまう。
しかし、幸いにも、此度の店員は若い女だ。
学生だろうか。
歳は俺よりも1つ2つばかり上か。
こんな女が、俺を見下していない筈がない。
ぞんざいに扱われて当然。
いちいち傷ついていたらキリがない。
いつもの事だ。何も気にすることはない。
しかしどうだろう。
その女の店員から、思いもよらぬ反応を示された。
この俺が、懇切丁寧且つ笑顔で接客を受けたのだ。
たかがコンビニで、安い客の醜男の俺に。
前に並んでいた客に対する機械的な対応とは、天と地ほども違った。
明らかに、俺に対して好意的で、どこか緊張している様子だった。
しかも、気のせいかもしれないが、俺の顔を見てウットリしている様にすら見えたのだ。
そんな筈はない。
こんな事、これまでの人生で、只の一度たりともなかった。
あの奇妙な女店員は、一体何だったんだろう。
俺を誑かし、何かよからぬ事でも企んでいるのだろうか。
恐ろしい。悍ましい。
俺は警察に追われる逃亡犯の如く、何故かしきりに後ろを振り返りながら、走って家路についた。
六畳一間の、俺だけの城へ。
そして、実家の20分の1程の面積の狭き玄関で、目が覚めた。
失念していたのだ。
鏡を見る習慣など、なかったからだ。
鏡に映った自分の醜き姿など、見たくもなかった。
しかし、今は違うということを、すっかり忘れていた。
電気をつけ、靴箱の表面のガラスに映った自分の姿を見て、ハッとしたのだ。
そこには、モデル顔負けのイケメンがいた。
パッチリとした二重瞼。広い二重幅。
クリっとした瞳。
シュッと高い鼻。
女が思わずキスしたくなる様なキュートなおちょぼ口に、白く綺麗な歯。
そして整然な歯並び。
全部造り替えてもらったんだ。
若作りに全身全霊をかけている様な、整形外科医のおっさんに。
歯は、審美歯科にて、歯列矯正とホワイトニング。
そして、贅肉に塗れた見るに耐えない肉体は、過酷な筋力トレーニングとステロイド投与によって、細マッチョへと激変。
この肉体美を見れば、誰もが俺に抱かれたくなるに違いない。性別年齢国籍問わず、例外なく。
そうだ。俺はもうイケメンなんだ。
何も恐れるものなどないじゃないか。
鏡の前で微笑んだ。
綺麗な笑顔だ。我ながらウットリする。
何時間でも眺めていられる。
だが、この顔は偽物だ。
けれど、俺の人生には必要な仮面だ。
本物の俺は、既に死んだ。
この世には存在していない。
そう、俺は新しく生まれ変わったんだ。
不死鳥の様に、焦げた過去の灰から蘇ったんだ。
ようこそ、新しい人生。
これからもよろしくな、新しい俺。
いざ行かん、新世界へ。