【黒月の魔帝、眠りし魂】
それは、空の裂け目から覗いていた。
空気が凍るような静寂の中、空の彼方に現れた“それ”――
巨大な眼は、森を越え、世界を見下ろしていた。
否、“彼女”たちを正確に――射抜くように見ていた。
「……今、こっちを見た」
ソフィアの背筋が粟立つ。
「ああ……確実に“視られた”」
レイの声もかすかに震えていた。
瞳の奥に宿るのは、無機質な光。怒りでも、憎しみでもない。
ただ――観察。
実験体を見る研究者のような、冷たい眼差しだった。
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「七魔帝の……別の一体?」
ソフィアが言うと、レイが頷く。
「あまり情報はないが、あれは恐らく『黒月の魔帝』…」
そうレイが言いかけると空に浮かぶ巨大な眼は目を細めた。
次の瞬間――
ズン、と大気が震える。
空の裂け目から放たれた眼には、魔力とは違う“視線の圧”があった。
それは、魂を射抜き、記憶を抉る。
ソフィアはその場に膝をつく。
「っ……やめろ……見るな……!」
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視界の奥に、過去の幻影が流れ込んでくる。
――燃える街。
――泣き叫ぶ子ども。
――手を離した“あの子”。
「ミカ……っ!」
ソフィアが顔を上げると、世界が歪んで見えた。
空の眼が、にやりと笑ったように見えた――その時。
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「来るぞ!」
レイが叫び、地面に魔法陣を刻む。
その瞬間、森のあちこちから不気味な“足音”が響きはじめる。
ギィ……ガサガサ……ジャリ……
「もう位置を特定されたのか!」
木々の影から、灰色の死者たちが現れる。
その目は黒く濁り、口元には乾いた笑み。
生きていた頃の姿のまま、彼らは武器を構えていた。
「まさかあの眼が反転者を送ってきたのか!?」
ソフィアが立ち上がると同時に、刃が振り下ろされる。
彼女は咄嗟に受け止め、反撃するも、相手は再び立ち上がる。
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「これは、“死なない兵士”……!」
レイが叫ぶ。「魂が完全に支配されてる!……けど、ひとりだけ波長が違う!」
「誰のこと!?」
「あれだ、彼女だけ完全に取り込まれてない!」
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ソフィアの目が揺れる。
「ミカ……!」
震える手で刀を握る。だが今度は、恐れではない。
「……いい加減にしてよ」
「…たすけて」
ミカが、わずかに呟いた――その瞬間。
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「レイ、転送陣用意して!」
「発動まで15秒!」
「……十分!」
ソフィアが、炎を纏った刃を掲げる。
「燃えろ、《残火刀・紅葬》!!」
周囲の木々を焼き払い、死者を蹴散らしながら、彼女は駆ける。
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「ミカァァァ!!」
光の中、ソフィアの手が少女を抱き締めた――
「もう大丈夫。帰ろう、ミカ」
転送陣が発動し、二人の姿が光に包まれ消える。
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森に残された反転者たちが、空を見上げて嗤う。
空の裂け目の眼が、細く光ったあと――静かに閉じた。
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転送された先の丘で、ソフィアはミカをそっと寝かせた。
転送の光が消え、静かな丘に戻った。
ソフィアは優しくミカの頬に触れた。少女の胸が、かすかに上下する。
「ミカ……よかった、まだ生きてる」
しかし、その瞳は黒く濁り、魂の奥に闇が潜んでいるのが見て取れた。
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ミカは薄い夢の中で、朧げな記憶の断片を彷徨っていた。
燃え盛る村。
母の悲鳴。
ソフィアが手を引いて走る幼い自分。
でも、手を離してしまったあの日。
「おねえ……?」
揺れる意識の中で、誰かの声が優しく響く。
「ミカ、大丈夫。ここは安全だよ」
それはソフィアの声だった。だが、その声は遠く、霞んでいた。
「どうして……私、こんなに怖いの……?」
少女は目を閉じ、胸の奥の痛みを感じた。
死の恐怖に囚われ、闇の支配に抗う魂。
「これは……呪い……私の心が囚われている」
目覚めると、ミカは朦朧とした視界の中、ソフィアの顔を見つめた。
「おねえ……わたし、覚えてるよ……」
震える声でそう言うと、涙が頬を伝った。
「わたし……あの日、助けてもらえなかった……」
ソフィアは言葉を詰まらせ、ただミカの手を握った。
「もう、絶対に離さない」
戦火に包まれた村で、まだ幼かったミカは、焼け跡の中で震えていた。
助けに来たソフィアは懸命に少女を守ろうとしたが、敵の魔力に阻まれ、手を離さざるを得なかった。
「ごめん……ミカ……」
その時、ミカの心に、深い闇が入り込んだ。
絶望に囚われた魂は、何者かの魔術によって“反転者”となり、今までの記憶と感情を食い尽くしていた。
「でも……あんたが来てくれて、わたし、まだ……」
ミカは小さく微笑んだ。
「まだ、あんたの火が、わたしを守ってくれてる……」
ソフィアは強く頷いた。
「次は絶対に守るからね」
ミカは安心して目を閉じた。