【エピローグ】
春香が居なくなったあの日から、十年が過ぎた。
「はい、もしもし。はい、ウェディングブーケの予約ですね。かしこまりました。どんな花を使いたいですか? はい……桜は入れて欲しい、あとはおまかせですか。かしこまりました」
楓は七年前、県内でお花について学べる専門学校を卒業した。春香の思いを胸に刻みながらの学校生活は、決して楽なものではなかったが、それでも一度も辛いとは思わなかった。むしろ、毎日が充実していて、学びの中で何かを成し遂げることへの喜びを感じていた。
フラワーアレンジメントの作成や、花の種類の勉強、ブーケの作り方や店舗管理など、どれも自分が本当にやりたかったことだった。そして、その全てを全力で学び続けた結果、楓は「夢桜」というお店を立ち上げることができた。この店名も、春香と共に過ごした、夢の中での幻想的な桜のイメージから発想を得た。
今ではそのお店が全国的に有名となり、結婚式で使うブーケや母の日のギフトなど、多くの注文が殺到する日々を送っている。さらに、全国に株式公開を果たし、チェーン企業として規模を大きく広げている。
春香の願いも、そして度重なる努力のおかげで、少しずつではあるが確実に叶えられている。
このような結果にたどり着き、毎日が充実しているのも、すべて春香のおかげだ。辛い時はいつでも、あの桜の木のそばで春香に話しかける。もちろん、返事なんてかえってこないけれど、それが何よりの支えになっているのは間違いない。
春香の存在そのものが、楓の記憶の中でずっと生き続けている。だからこそ、寂しさを感じることは一度もなかった。
そんな時、事務所のドアが開いた。
「霧島店長!レジが混んでいるので、お願いできますか!」
「おう、すぐ行くよ」
今ではお店も大人気で、多くの従業員が楓の会社に来てくれる。
「ふぅ───春香、こっちは大忙しだよ。さ、じゃあ僕も腕を捲るとしますか」
どんなに忙しくても、楓にとってその日々は決して辛いものではなく、むしろ楽しさに満ち、幸せを感じる瞬間ばかりだった。
ある日の仕事終わり、帰り道を歩きながら、楓は春香の墓参りに行こうと思い立った。春香の墓には、定期的に様子を見に行っている。亡くなった後からは、頻繁に足を運んで彼女のために線香をあげる日々を送っていた。
今日は珍しく、誰かが春香の墓に来ているようだった。
「あれ?お母さん……?」
「楓……帰ってきたの?おかえり」
「いやいや、えっと、ただいま。お母さんも春香のために墓参り?」
「ええ、そうね。でも正確に言うなら、ここで楓の帰りを待っていたのよ」
「えっ?そうなの?」
「うん。渡したいものがあってね。それを渡すには、ここか、あの成長した桜の木のところが相応しいと思ったの」
墓参りに来ていたのは、楓の母親だった。母親も春香の墓参りには時々来ているのを知っていたが、まさかこんなタイミングで居合わせるとは思わなかった。
「それにしても、どうしてここに?」
「とにかく楓、まずはあの桜の木を見に行こう」
今は春の真ん中。暖かな季節が広がり、桜の開花が心地よい風に乗って感じられる。種から成長する桜の木は、約10年ほどの年月を要する。それを考えれば、この大きく成長した桜の木を確認しに行くのも、まさにいいタイミングだろう。
歩きながら実家に向かうと、目の前に幻想的で、まるで夢の中から出てきたような美しい桜の木が立っていた。大きな幹を持ち、しっかりと根を張り、枝の先には満開の桜の花が咲き誇っている。その花びらは、まるで春香そのもののように、目にするだけで心が温かくなる。
その桜の木に一歩近づくと、桜の花がまるで風のように舞い、辺りにふわりと香りが漂ってきた。まるで春香の存在が、そこにあるかのようだった。楓は無意識に立ち止まり、しばらくその木の前に立ち尽くしていた。
彼の胸の中で、桜の花がどこか懐かしく、そして切なく感じられる。春香がいなくなってからの10年間、楓は何度もこの桜の木を見てきた。そして今も、その度に春香の温もりや思い出が蘇ってくるようだった。
「春香、こんなにも美しい桜が咲いてるよ」
心の中で、楓は静かに春香に語りかけた。もう声に出すことはないが、これまでの道のりや想いを、言葉にすることで春香に届けようとしているようだった。
「それで、渡したいものって?」
母親に尋ねると、楓はその視線が母親の手元にズレた。その手には、楓が見慣れぬ物が握られている。
「これよ」
楓はその手に目を向けると、一通の手紙が渡された。それはシンプルな封筒で、少し黄ばんだような色合いをしていた。楓は何となくその手紙を見つめ、じっと手に取った。
「手紙……?」
「……春香ちゃんからよ。あの夏祭りの前日、彼女が、いつか桜の木が成長する日、この手紙を渡して欲しいってお願いされてね」
「……春香……から……?」
楓はその言葉に驚き、思わず手にした手紙を握りしめた。春香が、あの時、こんなことを頼んでいたなんて。まるで信じられないような気持ちが胸に広がったが、同時に深い感動がこみ上げてきた。
「ええ。彼女がどうしても、あなたに伝えたいことがあったんだろうね。だから、約束通りこの日を待っていたのよ」
母親は優しく言った。その言葉に、楓は胸が熱くなり、少しだけ目を伏せた。春香の思いが、今、手紙を通じて届くのだと思うと、どうしても心が震えるのを感じた。
「ゆっくり読んであげて。お母さんは邪魔になっちゃうから、一旦お家に戻るわね。読み終わったら…また教えてちょうだい」
「……うん」
楓は深く頷き、母親が立ち去るのを見送った。静かな風が吹き、桜の花びらが舞い上がる。楓はその風に乗せて、心の中で春香に語りかけた。
「ありがとう、春香。僕はちゃんと、君のことを忘れない」
ゆっくりと深呼吸をし、楓は手にした手紙を開いた。その紙は少ししわが寄っていたが、そこに書かれている文字が今、彼にとって最も大切なものとなっている。
「春香……」
楓はしばらく手紙をじっと見つめ、その文字を目で追い始めた。風が吹く中、桜の花びらが舞い散る。すべてが静かに、しかし確かに、春香からのメッセージを受け取るための準備が整っているかのようだった。
**
楓へ。
あなたがこの手紙を読んでいる頃、私はもうこの世界にはいないと思う。夏祭りの前日に急いで書いているから、少し読みにくいかもしれないけれど、どうか許してね。
私たち、たくさんすれ違ったこともあったけれど、それでも私はわかるんだ。これから迎える夏祭りが、きっと最高の形になるってことを。そして、私はもう、後悔を晴らせたって、心から思えているんだよ。
楓にお礼を言いたい。最後の最後まで、私をこんなにも幸せにしてくれて本当にありがとう。楓と一緒に過ごした日々が、どれだけ楽しかったか、どれだけ温かかったか、今でも思い出すたびに心がいっぱいになるよ。あなたといる時間が、私にとって何より大切な宝物だった。
楓が今、どこで何をしているのか、私にはわからないけれど、どんな道を歩んでいこうと、私はずっとあなたの味方だよ。だから、心配しないで。あなたの未来は、あなた自身のものだから、私はあなたが幸せに生きてくれることを、心から願っているし、応援し続けるよ。
本当に、今までありがとう。あなたの優しさ、温かさ、そして、何よりも私を愛してくれたこと、忘れないよ。これから先、どんなに時間が経っても、私はずっとあなたのそばにいるから。
これから先の人生、全てが楓のものだよ。あなたが歩む道が、どうか素晴らしいものでありますように。私は、遠くからでも、心の中でずっと応援し続けるからね。
頑張ってね。心から、愛を込めて。
春香より
**
その手紙は、便箋に丁寧な字で綴られた彼女の思いが、ひとつひとつ確かに込められていた。読み進めるうちに、楓は気づけば涙が止まらなくなっていた。嗚咽も漏れ、まさか自分がこんなにも泣いてしまうとは思っていなかった。手紙を読みながら、何度も胸が苦しくなり、目の前がぼやけていく。
春香が、最後に伝えたかったこと。彼女はきっと、楓との日々が幸せであったことを、何よりも伝えたかったのだろう。そして、その一言一言が、今の自分にどれほど深く響いたことか。涙があふれるのは、悲しみからではなく、彼女の温かい気持ちが全て伝わったからだ。
春香が言ってくれた「ありがとう」の一言が、楓の心にしっかりと刻まれている。それは、迷いや不安を抱えていた楓を、すっと支えてくれる言葉だった。彼女の気持ちが、今までの悩みをすべて消し去ってくれるような、そんな優しい力を持っていた。
この約束と別れという経験が、自分をここまで大きく変えてくれたのだと実感する。あの時、春香を救えなかったことは今も心に残っているけれど、それでも、春香が今こうして自分の側で微笑んでいるような気がする。そして、彼女の思いを胸に、今の自分が花屋を開くことができた。
「春香、ありがとう……」と、楓は静かに呟いた。
涙が一粒、また一粒と頬を伝い落ちる。けれど、それは悲しみの涙ではなく、彼女への感謝の涙だった。春香の思いが、この手紙を通して楓の心にしっかりと届き、これからも生きる力になっていく。これから先、楓がどんな困難に直面しても、春香の言葉が支えてくれると、そう信じられるような気がした。
その時、楓はふと思い出した。春香が言っていた「覚悟ができているのなら、絶対に悔いは残しては行けないよ」という言葉を。今度は楓が、春香に応えられるように、前を向いて歩いていこうと思った。春香が見守ってくれている。彼女の応援を胸に、楓はもう一度深く息を吸い込んだ。
そして手紙をそっと胸にしまい込むと、楓は目の前の桜の木を見上げた。あの日の約束を胸に、これからも進んでいくのだと、心の中で誓った。
「楓、読み終わった?」
「……うん…お母さん、ありがと。わざわざこれを渡す為だけに……」
「いいのよ。さぁ、楓。気持ちを落ち着かせるために、まずは自分の部屋でゆっくりしておいで。夕飯はできてるからね」
「ありがとう」
「きっと春香ちゃんも、最後の日を楽しめたってことを伝えたかったんだと思うわよ。楓のその成長した姿を、彼女にも自慢してあげなさい」
「……分かった」
そう言うと、母親はそっと部屋に戻っていった。楓は少し立ち尽くした後、ゆっくりと自室に向かった。
部屋に入ると、目に入るのはたくさんの花が飾られた棚と机。気づけば、部屋の中に花があふれていた。高橋からは、男なのに花が好きだと珍しがられたこともあったが、それでも楓は気にしなかった。大切なものは、ただ大切なのだ。それに尽きる。
「春香……僕は今でも、元気にやってる。これからも見守ってね」
机の上に飾った春香とのツーショットの写真を見つめ、静かに呟く。すると、ふと、彼女の声が聞こえた気がした。
『心配しないで、楓。私はいつでも、あなたの味方だよ』
その声に反射的に振り返る。もちろん、そこに春香の姿はない。しかし、幻聴とは思えなかった。心の中に鮮明に響いたその声は、確かに彼女のものだった。天国にいる春香は、今でも楓のそばにいてくれる。彼女の温かな気持ちが、楓を包み込んでいるような気がした。
心の中に咲かせた、二人だけの思い出。それがある限り、春香との絆は決して色あせることはない。どんなに時が流れても、どんなに場所が変わっても、その絆だけは永遠に消えることはないと、楓は強く感じた。
そうだ。これからも前を向いて生きていこう。春香との約束を果たすために、そして彼女の思いを大切にしていくために。
「───明日もお仕事頑張るか」
心の中で呟く。そう言ってベッドに横たわり、目を閉じる。
どんな形であれ、春香はいつも楓のそばにいてくれる。心の中で、何度でも春香と再会できるのだから、寂しさなんて感じる必要はない。楓は、これからも彼女の思いを胸に歩き続ける。
以前のように夢の中で彼女に会うことはないだろう。でも、それでも構わない。なぜなら───いつであろうと、どんな場所であろうと、楓の心の中に咲かせた、桜井春香という、幻想的で幸せを象る『夢の花』が、枯れることは無いのだから。
【完】
『春風のような君へ、もう一度最高の思い出を』を最後までお読み下さり、ありがとうございます。
「死」という、誰もが辿る同じ運命に対し、そこへ辿り着くまでの一つ一つの行動や経験が意味を変える、そんなテーマ性を持って、今回の作品を執筆しました。
執筆中、今まで読んできたたくさんの小説の中からインスピレーションを受け、その中でも印象的だったセリフやテーマ性の部分を切り取る形で、プロットを作りました。どんな形であれ、この作品から命や人との関わりの大切さについて、より考えるきっかけを提供できたかと思います。
春香の「死に戻り」という事実、そして彼女の二度目の死が避けられないと知ったとき、楓のとった行動に対して皆様はどのように感じたでしょうか?
楓は最初、春香を救う方法を探すことを理由に現実から逃げ続けましたが、最終的には彼女と向き合い、共に最期の時間を過ごすという選択をしました。これは「同じ死という結末」に対して「まったく違う意味」を見出した瞬間であり、物語の核ともいえる部分です。
誰かを失うことは、一生のうちで避けられないことだと思いますが、そのような経験を、前へ進むきっかけへと転換し、「記憶に残す」事も、大切なのです。人は二度死ぬ、一回目は現実から消えた時、二回目は死の事実が忘れられた時……という、私の好きな小説家のある作品で触れられた台詞があります。この台詞のように、誰かの記憶に残しておくことが出来るのなら、その人は心の中でも生き続けられると言ったものです。
ここで少し裏話をさせてください。
実は、咲良の「偽名」と「本名」については制作中に何度も悩みました。当初は「水瀬咲良」の漢字だけを変える案や、そもそも偽名を使わない案も検討していました。ただ、春香というキャラクターは「春の花」のイメージを持つ大切な存在でしたので、その印象を損なわないよう「桜井春香」という名前に最終的に決めました。執筆を進める中で、この名前にどんどん愛着が湧き、彼女の存在をさらに大切に感じるようになりました。
さて、この作品について話したいことは山々ですが、長くなれば読者さんも飽きてしまうかもしれないのでここまでにしようと思います。
改めて、今作を完読下さりありがとうございました。感想等もぜひ教えてください。ここまで大作になると思いもしていませんでした。締め切りに間に合い、本当に胸をなでおろしております。
この作品を通して、読者の方々に何かを伝えられたら光栄です。この物語のテーマでもある、人との関わり、今という時間の生き方について、もう一度考えるきっかけを作れたら、それだけで嬉しい限りです。
それではまた、どこかでお会い出来ることを願いつつ。
───2025年6月28日 Hayate
*この物語はフィクションであり、実在する人物、団体等とは一切関係ありません。