表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

【第5話】無償の愛

 春香は、目の前の桜の大木にそっと手を触れた。桜の木はまるで、彼女の言葉を待っているかのように静かに佇んでいる。


「あなたが疑問に思っていること、たくさんあるよね。全部を解消するには時間がかかるけど、まずはあなた自身の過去について話させてほしいの」

 春香の口元が、一瞬だけ震えたように見えた。それは楓にとって見逃せない仕草だった。彼女がここまで躊躇うということは、語ろうとしている内容がどれほど痛ましいものかを物語っている。


「あなたはね、あの事故に遭う前は、今とはまったく違う性格だったの。明るくて、社交的で、みんなに囲まれるような存在だった。今のあなたみたいに無気力じゃなくて……もっと、生命力に溢れていた。」


 春香の声は穏やかだったが、その奥には悲しみが滲んでいた。楓は彼女の言葉を黙って受け止めることしかできない。


「私とあなたは、幼い頃からずっと一緒だったの。それは、あなたが見ていたあの夢が証明している」

 春香が手を広げると、楓の視界がぼんやりと歪み、気づけば夢の中にいた。桜の木の下、幼い少女と少年が無邪気に笑い合っている。───まるで夢の中でさらに夢を見ているような不思議な感覚だった。


 その中で、少女の声が響く。

 ───「私たち、一緒に夢の花を咲かせようね!」


 その言葉が鮮明に蘇った瞬間、楓は息を呑んだ。この場面は、ただの夢ではなかった。幼い頃の春香と共に過ごした記憶そのものだ。


「昔ね、私のお母さんと楓のお母さんが仲良しだったの。家も近くて、どちらかの家で一緒に遊ぶことが日常だったの。事故に遭って死ぬ運命なんて知らずに、あなたとたくさん笑って、たくさん遊んだ。」


 春香の声は淡々としていたが、その背後には深い後悔が滲んでいるように感じられた。


「……」


 楓は答えることができなかった。その幼い日の記憶は、彼の中でぼんやりとした影のように漂っているだけだったからだ。


「ねえ、今の楓にとって、『夢の花を咲かせる』っていう約束の真相は、なんだと思う?」

 突然の問いかけに、楓は戸惑った。幼い頃から繰り返し夢に現れていたその言葉。その真意を問われても、彼はどう答えるべきか分からなかった。


「……分からない。」

 結局、それが楓の正直な答えだった。彼の声には、自分自身へのもどかしさが混じっている。

 しかし、春香は微笑みながら首を横に振った。怒ることもなく、ただ静かに続ける。


「小さい頃の私はね、夢とかお花とか、そういう幻想的なものにすごく憧れてたの。きっと、『ずっと一緒にいたい』って伝えたかったんだと思うの。」


「……一緒にいたい、か。」

 その言葉が、楓の心に小さな波紋を広げた。


「でもね、それが叶わなくなった今、私は思うの。あの時の私は無意識に……未来の自分がこうなることを知っていて、だからこそ『あなたの記憶に私を刻みたい』って願ったんじゃないかって。」

 春香の声は、どこか遠くを見つめるようだった。その解釈は、彼女自身の痛みと希望が入り混じったものだった。


「私がこの言葉を使ったのは、ただ一緒にいたいだけじゃなくて、私という存在を、あなたの中に残したかったからかもしれない。だから、『夢の花を咲かせる』っていう言葉に、そういう意味が込められていたんじゃないかな」

 楓は、春香の言葉を噛み締めた。『夢の花』──それはただの言葉遊びではなく、彼女の命そのものを繋ぐ象徴だったのかもしれない。

 

「あなたは私の記憶を、夢を通して見た。それが、死に戻りの副産物なの。夢は、真相に気づくための手がかりのひとつなんだ。」

 春香は、楓を見つめながら続けた。

「それに、夢の中で、私が小さい頃に語ったこと、覚えてるでしょ?『お花屋さんを開きたい』っていう夢を話したこと。まぁ、楓はもっと楽しいことがしたいって言って、渋々聞いてたけどね。」

 楓は心の奥で確かにその場面を思い出していた。幼い自分が、お花屋さんなんて面白くない、と言い返した記憶が蘇る。


「……っ」

「あなたが夢の中で見た秘密基地。あそこはあの公園だよ。あの場所、四つ葉のクローバーが見つけやすいの、覚えてる?」


 その言葉と同時に、楓の脳裏に浮かぶ夢の断片───。


───「ほらこれ!四つ葉のクローバー!さっきからずっと探してたんだけど、本当にあったの!」

 空白だった部分が鮮明に埋まる。夢の中の少女が、四つ葉のクローバーを見つけた喜びで声を弾ませていたあの瞬間。まさにそれが、現実に起きた出来事だったのだと理解した。


「じゃあ……小学生くらいの頃に喧嘩した記憶は───?」

「それはね……私たちの考え方がぶつかった時のこと。あれは、私と楓が初めてお互いの違いに気づいた時だった。小学生の高学年の頃の話。一回だけ、些細なことから喧嘩したんだ。」

「でも、それだけじゃなかったんじゃないかな。もっと深い原因があった気がする。」

「……やっぱり、気づいてたんだね。」


 楓は息をのんだ。その原因がなんとなく察せられたからだ。夢の中で聞こえた、春香の言ったセリフの断片。

「私たち、あの時約束したじゃない! 夢の花を咲かせようって……!」というセリフを。


「喧嘩の理由……それは多分、あの夢の花の約束だろう。あなたは、夢の花を咲かせるって約束が、自分にとってどれだけ特別なものかを知って欲しかった。きっと、他の人に邪魔されたくなかったんじゃないかな」

「……うん。正直に言うと、そうだったのかもしれない。それだけ、きっと想いがあったんだと思う」


 春香の表情が曇る。

「子どもの頃の私はね、ほんとにひねくれてたの。世間で言う『メンヘラ』みたいな要素が、もうこんな小さい時から出てたんだなって、今では思うよ。」

 彼女の言葉に、楓は首を横に振った。

「いや、それは違うよ。春香の性格がひねくれてるだなんて、そんなこと思ったことない」

「……えっ?そうなの?」

 思わずぽかんとする春香を見て、楓は肩の力を抜いて微笑む。

「そうだよ。むしろ、昔の春香があったからこそ、今の春香がいるんだと思う。過去のことを否定する必要なんてない。」


 その言葉に、春香の表情が少しだけ柔らかくなった。

 楓はもう一度、夢のことについて尋ねようとした。しかし、その言葉が口から出る直前、一瞬だけ無意識に躊躇してしまう。そのわずかな間を、春香は見逃さなかった。


「ふふ、次の記憶は───あなたの初恋の記憶、だね。」

「……そうだな。」

 楓は自分の記憶に手を伸ばすような気持ちで頷いた。


「中学生くらいの時から、想いを寄せてたのは……ちょっと意外だったけどね。」

 春香は少しからかうように微笑む。

 再び、夢の情景が楓の目の前に広がった。それはまるで、一本の映画を見ているかのような鮮やかな映像だった。グラウンドの桜の木に手を添える少女が、切なげな声で語りかける。


「───あのね、私、願い事の一つがね……『ずっと一緒にいたい』だったの。」

 その言葉が空気を揺らし、楓の胸の奥に静かに響く。


「今となっては……あのセリフも、私の想いが無意識に溢れて紡がれた告白だったのかもしれない。」

 春香は少し恥ずかしそうに目を伏せる。

「……好きって、言いたかったのかもしれないね。」

 その声に込められた柔らかい感情が、楓の心を満たしていく。

「……春香……」

 気づけば、自然と彼女の名前を呼んでいる。その響きには、過去の記憶がまるで体に染み付いていたかのような親しみがあった。

 春香は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「あなたとの思い出は、たくさんある。でも、特に印象に残っているのは、こうして夢で見た記憶の数々だよ。」

 春香の声が、楓の胸に深く染み入る。それは単なる回想ではなく、彼女の言葉ひとつひとつが楓の心に刻まれていくようだった。

 しかし、次の瞬間彼女の表情は変わった。それは───話の切り替えと同時に、なにか悔しみのようなものを感じさせた。


「あの事故で私がこの世を去ったあと、楓は奇跡的にも一命を取り留めた。記憶を失ったとはいえ、体の損傷はそこまで激しくなく、学校に戻ることは出来たの。ただ、学校側は───私の死の真相だけを、楓に言及することは無かった」

「……それは…」

 その言葉に衝撃を受けた。


「どういう意味?なんで……」

「……きっと、名目上は楓の心理的負担を減らすため。生徒たちも先生のやり方に賛同したんだ。高橋や、ほかの友達、先生や、あなたの好きな事嫌いなこと、そのほとんどを思い出していながら私の事だけを知らなかったのは───それが理由だった」


 彼女は語り続ける。

 春香の言っていることは事実だという。事故の後、集中治療によって記憶を失いつつも何とか生きた楓は、事故があったことも忘れ───春香の死のことを何も覚えていなかったという。


「家族や先生方も見舞いに来る中、もう一度彼女の死を、楓に直接伝えるのは……と考えた結果、それに反対する者が多かった」

 春香の声がわずかに震えた。


「あの日以来、楓は以前の社交的で明るい性格を失うだけでなく、友達の関わりも減った。それでも、負担に感じなかった、いや、何も感じなかったのは───きっと彼女を失ったという、亡き記憶から蘇る喪失感がそうさせていたのかもと、みんな思ったの」

 楓は言葉を失った。胸の奥に何かが重くのしかかる。

「桜井春香という、生徒ひとりを失った高校側や友達は、相当なショックを受けていた。でも、あなたがそのことを何も思い出さず、後悔をしないままでいるなら───それが一番だと考えたんだ。」


 春香は静かに目を伏せた。

「実際、あの高校には、私の存在を証明するための関連するものは全て別室に保管されて、楓の目のつかないようになっていた。そして、密かに私の墓参りに向かう先生もいたんだ」


 学校側の「死の隠蔽」───。

 確かに、考えてみればそのような判断をせざるを得なかったのかもしれない。しかし、もしこれが真実だと言うのなら、なぜ春香が死に戻りして現世に帰ってきた時、咲良を見て誰もが自然と話しかけていたのだろう。

 それには疑問があった。


「じゃあ、なんで『水瀬さん』が現実に現れた時……それにみんなは気づく素振りを見せなかったの?」

「……それは、数多くある、死に戻りにおける代償のひとつなんだ」

 彼女の口は重く、その言葉の一つ一つが息苦しさを増すようだった。


「死に戻りによって現世に舞い降りた個体は───私の過去の姿、功績、人柄を完全に忘れ、ただの人として関わるようになるの。その違和感に気づくのは、あくまでもその対象だけなんだ」

 春香の言葉は静かだが、その一言一言が胸に刺さるようだった。


「失われた記憶を復元するためには、それ以外の手段がないの。記憶や真相、それに気づくのは自分自身でないといけない。もし仮に他の者に告げられてその凄惨な過去を知ることになれば───きっと、自ら過去を理解し受け止めることの数倍の苦痛を伴う」

 その説明を聞きながら、胸の奥に得体の知れない不安が膨らんでいく。


「……」

 言葉が出ない。春香は少し目を伏せてから、再び口を開いた。


「通常、私の違和感に気づくことが出来るのは、あくまでも楓だけ。ただ、予想外のことが起きたの。私の行動になにか違和感を感じて、調査に協力していた、高橋っていう子。あの子だけ、例外だった」

「高橋が……例外……?」

 その名前を聞いた瞬間、脳裏に彼の笑顔が浮かぶ。なぜ、彼が?


「そう。私の正体について疑念を抱くことは、通常は楓以外有り得ないはずだった。けど、高橋が……」

 春香は少し言葉を切り、息を整えるようにして続けた。


───「当時の事故を目撃した第一発見者だったからこそ、この当たり前が崩れたんだ」


 心臓が一瞬止まったような感覚に襲われた。

 高橋が……事故の第一発見者……?


「そう。彼が救急車を呼んで、私と楓を運んでくれた。私は打ちどころが悪かったけど、少しでも遅れていたら、楓も危なかった」

 次々と、これまで知らなかった真相が春香の口から告げられていく。


「高橋は、そういった形で私たちの───実質的な死に関与した人物。だから、このような違和感が生まれたことで、死に戻りの本来のルールも、一部崩れたんだ。記憶を失ったあなたが、ただ夢だけを頼りに真相にたどり着くのは、ほぼ無理な話だったのに、高橋のおかげでそれがかなったの」


「……だから、あの時、高橋が重要人物だって言ってたのか」

「そういうこと」

 春香は静かに頷いた。その表情は、何かを悟っているようでありながらも、どこか憂いを帯びている。

 楓は言葉を失い、ただ春香の次の言葉を待った。だが、彼女の口が開かれる前に、胸を締め付けるような予感が押し寄せる。


「楓───」

 その呼びかけに、彼女の瞳を見つめる。言葉にできない感情がそこに宿っている。


「死に戻りには、代償が伴うの。それも、想像を絶するようなものが」

「……代償……。さっき言っていた、春香の存在を周りが忘れること以外にも何かあるのか……?」

「うん。例えば私には、限られた時間しか残されていないの。そして、その時間が尽きた時、後悔を晴らせていなかったら───」

 春香は一瞬言葉を飲み込み、再び楓を真っ直ぐ見つめる。


「その時、私が再び死ぬとき……もっと惨たらしいものになる。これはただの『死』にとどまらない。すべてが終わり、取り返しのつかない形で結末を迎えることになるの」

「……惨たらしい……って、それは……」

 楓の声が震える。彼女が何を言おうとしているのか、理解するのが恐ろしかった。


「詳細は……私にも分からない。だけど、二度目の人生を始める前、こう教えられたの。『後悔を抱えたまま二度目の死を迎えれば、その存在すら消え去る』と」

 楓の脳裏に、これまでの春香の行動が浮かび上がる。焦るように、けれど慎重に、真実へと楓を導こうとしていた理由が、今になって分かる気がした。


「もう一つ───私は、あなたに自分の正体を明かすことは許されていなかった。私が過去に死んだ存在であると、直接伝える形で気づかせてはいけないの。あなたが気づくまで、私は真相を言えなかった」

「なんで……?」

「もしそれを破れば、私は成仏することができなくなる。代わりに地縛霊として、この世界に囚われ続けるの。地縛霊としてこの世に残ると、ずっと苦痛に苛まれるだけでなく、周りにも迷惑をかけることもある」

 言葉の重みが、楓を深く沈み込ませる。春香の肩にどれだけの重圧がかかっているのか、想像を絶していた。


「だから、ヒントや手がかりには最善の注意を払ってきた。もし間違えれば、あなたを傷つけるだけでなく、私自身も終わる可能性があるから」

「そんな……」

 楓は拳を握りしめた。自分がどれだけ無力だったのか、改めて突きつけられる。


「そして、最後にもう一つ───死に戻りは、たった一度しか許されない」

「……一度きり……?」

「そう。もし、私が後悔を晴らせないまま、二度目の死を迎えたら……その後、もう一度死に戻ることはない。楓の前に現れることもできず、すべてが終わるの」

 楓は頭を抱えた。すべてが一度きりの賭け───それがどれほどの覚悟を春香に求めているのか、考えるだけで息が詰まる。


「だから、時間が迫る中で、私はすべてを賭けている。あなたが真相に気づいた今、私が後悔なく、責務を果たせるように……ね」

 春香の声は穏やかだったが、その裏には揺るぎない決意があった。楓は唇を噛み締め、静かに頷いた。


「最後にひとつ……楓が気になっているであろう、とある質問について、答えを出すよ」

 春香は静かにそう告げると、楓の方へ向き直り、その瞳をまっすぐ見つめた。


「質問って……?」

「あなたが希望を見いだしていたあの可能性について……だよ。死に戻りの代償を聞かされても、未だに可能性を信じていること───現実の『彼女』の死の運命は……変えられるのか、あるいは……今すぐに死ぬという事実を救えるのか、という質問に」


「……!」

 楓は息を呑む。心の奥底で抱えていた問いを突きつけられた気がした。この答え次第で変わるはず……。現実の彼女の後悔を救うことが出来れば───きっと死は、回避できるはずだ。そう信じていた。むしろ、回避ができなくとも、死のタイミングを遅らせ、まだ生き続けてくれるとも。


 だが、春香の冷静で冷酷とも言える口調が、そのわずかな期待を容赦なく打ち砕く。

「答えは……いいえ。あの彼女───現実の私、咲良は、どんな形であれ、一ヶ月後の夏祭りの夜、あの場所で再び死ぬ運命にある」

「えっ───」

 耳を疑うような言葉が、楓の胸に突き刺さる。希望が一瞬で砕け散る音が聞こえたようだった。

「そんな……!後悔を晴らせば、現実に残り続けることができるとか、死を延長できるとか……そういう話じゃないのかよ……」

 楓は顔を歪める。その目に宿った怒りと絶望の色を前に、春香は静かに首を振る。

「死に戻りは、過去や未練の清算が目的。それ以上でもそれ以下でもない。生きたかったという未練があったとしても───命そのものを取り戻すことは、絶対に叶わない」


「そんな……理不尽だよ!」

 楓の叫びが響く。それに対して、春香はひとつ息を吐き、静かに言葉を紡いだ。

「理不尽だと感じるのは当然だよ。でも、それが死に戻りの真実。私たちはこのルールの中でしか存在できないんだ」

「彼女を助ける術は……ないのか?僕がどれだけ努力しても、関係なく……?」

「そう。私の存在そのものが、それを証明しているでしょ?」

「……」

「死に戻りの代償、伝えていなかったことが後ひとつあるの。一番残酷で、一番誰もが納得を拒む代償。二度目の死は、『現実で死んだ場所、同じ日時』に行われる。そして、その死を避けることは出来ず、命日を基準に一年以内に未練を解消しないといけない」

 春香の声は低く、けれど揺るぎない確信が込められていた。


「じゃあ……もし、その未練が、生きたかったとか、長生きしたかったという未練だとしたら、どうなるんだよ!そんなの、清算できるわけないじゃないか!」

 楓の声は震えていた。自分の無力さを突きつけられた現実に、心が痛むと同時に、なんの意味もなさない怒りの感情が込み上げていた。


 春香は一瞬黙り込むが、再び口を開いた。

「未練を晴らすということは、過去を清算すること。その未練がどんなに叶わない願いだとしても、受け入れるしかない。そうしない限り、私は永遠に苦しみ続けることになるから」

「……」

「未練を抱えたまま二度目の死を迎えれば、私の存在そのものが、永遠に否定される。清算できなければ、私が救われる道はどこにもないの」


 楓は拳を握りしめ、深い絶望に沈む。だが、春香はその瞳を見つめ、淡々と続けた。

「でも───楓、あなたには選べる道がある」

「選べる道……?」

「そう。私を助けることはできないけど、過去と向き合う中で、あなた自身が未来へ進む道を選ぶことはできる。それが、私がここに戻ってきた本当の理由でもあるの」

「僕が未来を選ぶ……?」

「私のためじゃなく、あなた自身のために。それを間違えないでほしい。楓、あなたが私の過去を知り、受け止めたその先には、あなたの未来が待っているのだから」

 春香の言葉は、冷たいようでいてどこか温かく、楓の中に小さな光を灯した。


 少しして、春香は静かに立ち上がり、遠くの方へ歩き出した。その足取りは、どこか寂しげでもあり、覚悟を秘めたものでもある。そして振り向きざま、柔らかい声で楓に告げた。


「あなたが後悔のない選択をしてね。彼女の運命がどうなろうと、納得のいく未来を紡ぐことが大切だから。それじゃあ、私は行くよ。この夢の中で、見守っているから」

「……」

 楓は言葉を返せなかった。その背中を追いたい気持ちと、追えない現実が交錯する。


「その怒りの気持ちは理解できる……甘んじて受け止めるよ。でも、それが現実であることも受け入れてほしいな。私が示した答えをどう捉え、どう行動するかは、すべてあなた次第だから」

 その言葉を最後に、春香は歩き去っていった。


「……っ……夢が……終わってしまう……」

 楓の視界は徐々に靄に包まれ、不明瞭になっていく。そして、次の瞬間、不思議な夢の空間から意識を引き剥がされるように、現実の世界へと戻された。


**


「……彼女が死ぬだなんて……そんなの理不尽だ。現実と夢は相反するのに……どうして春香はあんなふうに断言できるんだよ……」

 目覚めた楓の心に残ったのは、自分の無力感と、今までの行動に対する憤怒だった。その怒りの火種は、少しずつ彼の中で大きな炎となっていく。


「……絶対に、彼女を救う術があるはずだ……絶対に……」

 春香の言葉───彼女は助からないという冷酷な断言。楓は、それこそが偽りだと思わずにはいられなかった。

 現実の彼女───水瀬咲良。それは楓にとって、気持ちを開けた唯一の相手だった。春香がかつて楓の命を救い、その代償として命を落とした少女だと理解していた。けれど、この広い世界のどこかで、毎日のように誰かが亡くなる現実を思うと、その中で未練を抱えながら去った人は春香以外にも無数にいるだろう。そんな天文学的な確率を超えて、彼女は死に戻り、再び楓の日常に現れた。そして、彼の日々に花を咲かせてくれた。そんな彼女が、もう一度死ぬなんて。


 はじめて彼女が「一ヶ月後に死ぬ」と告げられた時、楓はそれを信じるどころか、ただ「なぜだ?」という疑問ばかりが湧いていた。それでも、咲良の言葉や高橋の協力を頼りに調べ続けた。死に戻りという存在の真実に近づくほど、楓の胸には恐怖が募っていった。それでも、春香が「避けられない」と断言しなかったことを信じ、助ける方法があると信じていたのに───。

 

「方法を探そう……」

 楓は低く呟くように言った後、椅子から立ち上がると、そのまま部屋を飛び出した。


 息を荒げながら廊下を駆け抜ける中、彼の心には一つの決意しかなかった。待つ時間なんて、もう関係ない。じっとしている間にも、時間は無情に過ぎ去り、咲良との限られた瞬間が減っていく。それがたまらなく恐ろしかった。


 どうしても助けたい───その一心で、楓の頭は燃えるように熱を持ち始めた。考えを巡らせるたびに、胸の内から焦りが湧き上がり、全身を突き動かしていく。このまま何もしなければ、咲良は消えてしまう。それだけは絶対に嫌だった。


「どんな手を使ってでも……絶対に止めてみせる……!」

 口の中で小さく繰り返すその言葉は、まるで呪文のように楓の中で強さを増していった。


 もし「死に戻り」という存在の本質を全て知ることができれば、あるいは───その代償や運命を覆す方法がどこかにあるかもしれない。それが叶わないと誰が決めた?可能性がゼロであるとは限らない。どれだけ薄い可能性だとしても、掴み取るために何かをするべきだ。

 楓は、これまで避けてきた現実に向き合う覚悟を決めた。咲良を救うためなら、どんなに苦しいことでも、どんな危険な道でも構わない。自分の知らない「死に戻り」の秘密を探り、そこに隠された真実を暴き出す。

 記憶を辿る。彼女が時折見せた曖昧な言葉、ふとした仕草や目線。その全てが、これまで自分が見落としていたヒントの欠片だったかもしれない。足りないピースを一つ一つ埋めていけば、きっと答えが見つかるはずだ。

 だが、楓は分かっていた。その道のりが簡単なものではないことを。誰も信じてくれないかもしれない。咲良自身ですら、その方法を知らないのだとしたら、何を手掛かりにすればいいのかも分からない。それでも、諦めるわけにはいかなかった。


「……絶対に見つける……」


 その言葉に込められた感情は、焦燥だけではなかった。恐れ、不安、そして僅かな希望。全てが混ざり合い、楓の胸の中で渦を巻いていた。


 彼は走り続けた。答えがどこにあるのか、どれだけ時間がかかるのかも分からない。それでも止まらない。ただ、ひたすら前を向き、足を動かす。


 咲良を救う───その思いだけが、楓を突き動かしていた。


**


 手がかりは掴めないまま数週間が経った。

 楓は学校に通うだけの存在になり果てていた。授業中もノートにメモを取るふりをしながら、頭の中は咲良を救う方法で埋め尽くされている。授業が終わるとすぐに教室を飛び出し、図書館にこもるか、自室でインターネットの情報を漁る毎日だった。


 彼が調べているのは、生と死にまつわる伝承、未練や死に戻りに関するオカルト話、そして魂の輪廻に関する古文書のようなもの。明らかに信憑性の薄い情報でも、可能性がある限り必死に目を通し、書き留めていく。


「死に戻り……未練……リミット……」

 楓は静かな図書館の一角で呟いた。薄暗い灯りの下でページをめくる手が震えている。

「なんで……もっと詳しいものは無いのかよ……」


 周囲の人間の視線など、もはや気にならなかった。何冊もの分厚い本と書き込みで埋め尽くされたノートが机に広がっている。だが、いくら調べても核心に迫る情報は見つからない。現実的な答えが出ない苛立ちと焦りだけが、楓の心を蝕んでいた。


 学校では誰とも話さなくなっていた。咲良が何度も話しかけてくれたが、楓はそのたびに避けるように席を立った。昼休みも姿を消し、咲良の視線が自分に向いていることにさえ気づかないふりをする。


 高橋も気にかけて声をかけてきたが、楓はそれすら突き放してしまった。


「楓、大丈夫か?最近、ずっと様子が……」

「……悪いけど、今は話しかけないでくれ」

「お前、本当にどうしたんだよ?俺に言えよ」

「なんだよ……お前に何が分かるって言うんだよ……!」

 友人の心配に楓は苛立ちをぶつけ、図書館の出口に向かって立ち去った。


 ひたすら孤独に突き進む楓。いつの間にか、咲良も高橋も、教室で話しかけてくれる友人たちすら、楓に近寄らなくなっていた。


**


 楓の部屋は書類と資料の山に埋もれていた。壁には手書きのメモがびっしりと貼られ、机には検索履歴の山が開かれたままのパソコンが置かれている。


 彼のノートには、現実的な解決策を見つけようとする焦りと苦悩の跡が刻まれていた。

「“魂の輪廻”……“未練が消えると成仏”……何なんだよ、これ……」

 ページをめくる音だけが響く部屋の中で、楓はひとり、自分自身に問い続ける。それでも答えが見つからない虚無感が、彼の中にじわじわと広がっていく。

 咲良を救いたい。ただそれだけのために、楓は現実逃避ともいえる行動を続けていた。

 それでも、彼はどこかで気づいていた。


──このままじゃ、何も変わらないと。


**


 そして、再び学校の図書室。楓は今日もまた机に向かっていたが、その背中は日に日に小さく見えるようになっていた。こんな日々が続くにつれ、容赦なく咲良の死が迫る。あと少しで夏休みだ。夏休みに入ってしまえば……調べる余地なんて無くなる、そんな中、扉が開き、聞き慣れた声が聞こえてきた。


「楓、何してんだ?」

「……っ。高橋……悪い、邪魔しないで欲しい」

「またそれかよ……最近ずっとこんな感じだよな?」

「放っといてくれ!僕に構うな!お前には……関係の無い話だから…」

「……」

 図書室に入ってきた高橋は、机に向かって何かを探し続ける楓の姿をじっと見つめた。高橋から見ればその背中は、まるで孤立し、迷路の中で出口を見失ったかのように見えた。

 しばらく沈黙が続く中、高橋は息をつき、小さく声をかけた。

「お前さ……本当にこれでいいのかよ?」


 その一言に、楓の手がぴたりと止まった。しかし、顔を上げることはなく、低く呟く。


「僕の何がわかるっていうの……ほんとに……」

「はぁ…。楓がどんな状況で、何にそんなに焦ってるのか、俺には全部は分からないよ。でも、それを話さないのはお前だろ?それで俺に当たるのはおかしいだろ。」

 楓は唇を噛み、反論の言葉を飲み込む。


「何があったんだよ……楓。誰にも言わずに抱え込んで、そんなんでお前は楽になるのかよ?みんな心配してるんだよ、お前のこと」

 高橋の言葉に、楓の苛立ちは消えることなく胸の中で膨らみ続ける。そして、とうとう声を上げた。


「……もし誰かが、この先の未来で死ぬことを知っていたら、お前はどうするんだよ。僕なら……どんな手を使ってでも、絶対に助ける。僕にはもう、時間が無いんだ……!」

 楓の声は震えていた。その必死な様子に、高橋は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻す。そして、静かに言った。


「遠回しな言い方はやめてくれないか。直接言って欲しい」

「……」

「それって、水瀬のことだよな」

「……っ…」

 楓は顔を上げたが、高橋はまっすぐ彼を見つめ返していた。その視線に、楓はしばらく言葉を詰まらせた後、低く絞り出すように呟く。


「……水瀬さんが、このままだと消えてしまうんだ……!」

 その言葉を聞いた瞬間、高橋の目が僅かに見開かれた。驚きと動揺が表情に浮かぶが、それもすぐに押し隠される。


「……消えるって、どういうことだよ?」

「彼女は……死に戻りなんだ。過去に死んで、それでも……何かを成し遂げるために戻ってきた。でも、その代償として、今の世界にずっと居続けることはできない……。そんなの……僕には耐えられない!」

「……死に戻り…。楓の考察は合ってたのか」

「……」

「つまり…現世に帰った死に戻りの人間は再び死ぬ……そして避けられない運命ってことか…」


 楓の声には、焦りと恐怖が滲んでいた。高橋はしばらく黙り込んで考えた後、静かに口を開いた。


「……楓、悪いけど、それはどうしようもないことなんじゃないか?」

「何で……」

「もしそれが本当だとしたら、彼女がこの世界に留まり続けるのは無理なんだろう。それを無理矢理変えようとするのは……お前にできることじゃない。都市伝説だろうが…きっとこれは変えられるようなものじゃないと思う」

「そんなの……!そんなの嫌だよ……!」

 楓は拳を握りしめ、唇を震わせる。だが、高橋はその言葉に揺れることなく続けた。


「それよりも、彼女が後悔しない選択をするために、お前ができることを考えるべきだと思う。もし俺が楓なら……彼女に後悔させないべく、思い出の場所を巡ったりとか、最期の瞬間までを最高にできるよう注力する」

「……どうすればいいんだよ……そんなの……僕には分からない……!」

「それを探すのが、お前の役目だろう?『助ける』ってのは、無理をして現実を変えることじゃない。後悔を無くして送り出すことだって、助けることになるんじゃないのか?」

 楓は何も言い返せなかった。ただ肩を震わせると、何も持たずに図書室を飛び出していった。その背中を見送りながら、高橋は静かに息をついた。しかし、高橋はその楓の姿に不信感を覚えなかった。長年の付き合いで分かる、あの帰り際の背中は…きっと間違いに気づいたのだと、明確に示していたからだ。


**


 静まり返った図書室の隅から、咲良がゆっくりと姿を現した。目を伏せたまま高橋に近づき、微かに震えた声で言う。

「……高橋くん……ありがとう……」

「……水瀬…か。ずっと聞いてたんだな…」

 高橋の言葉に、咲良は小さく頷いた。そして、俯いたまま呟く。高橋は、咲良からのお願いで、楓のことについて少し聞いてきて欲しいとお願いされていたのだ。

 ずっと何かを探し続け、なかなか話しかけられず、孤独を作る楓と同様に、咲良までも孤立状態だった。この状況に耐えられず、咲良は高橋にお願いをしたのだ。


「私……ずっと、霧島くんに色々と嘘ついて隠してた。本当のことを言わずに、黙ってたのに……楓くんは、私を助けようとしてくれて……なのに、私は……」

 咲良の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。その肩を高橋は優しく叩いた。


「その涙は、俺に対してじゃなくて、楓に見せるものなはずだよ」

「え……?」

「水瀬の本当の気持ちを楓に伝えてあげれば、何か変わるのかもな」


 咲良はハッとした表情で顔を上げた。そして、涙を拭いながら小さく頷く。

「……ありがとう、高橋くん……」

「ま、まずは仲直りだな。ちゃんと向き合ってあげてな。楓は良い奴だから…拒んだりしないよ」

 高橋の言葉に、咲良は決意を込めて頷いた。


**


 現実逃避が間違いだった───。

 高橋の指摘には、反論する余地もなかった。確かに、避けられない死の現実を知っていながら、それを打開するのは簡単なことではない。

 死が避けられない結末なら、彼女が最後の瞬間まで幸せを感じられるよう寄り添うことこそが大切なのではないか。


 最近、咲良と話す機会はめっきり減っていた。どれだけ頑張ろうと、彼女がいずれ死ぬという事実は変わらない。

 もしも、このまま方法を探すことに没頭するばかりで、気づいた頃には彼女がもういない──そんな結果を迎えるのだとしたら、自分がしていることは正しいと言えるのだろうか。

 彼女がこの世を去る瞬間だけでも、幸せを感じられるようにする方がよほど良いのではないか。その考えが、楓の胸の中でじわじわと膨らんでいた。


「……あっ……水瀬さんからだ……」

 突然、スマホの通知音が鳴り響いた。画面に映った彼女の名前に、一瞬息を呑む。

 ここ最近、連絡すらままならなかった。どんな短い文章でも、それを一文字ずつ打ち込んでいる咲良の顔が頭に浮かび、自分のやってきたことが間違いだったのではないかと後悔の念が押し寄せる。


『この後、いつものあの公園で会わない?』

 彼女からのメッセージはそれだけだった。目的も理由も告げず、ただ「会いたい」とお願いしてきた。

 しかし、なぜ彼女が会いたいと言っているのか──その理由は、楓には痛いほど想像がついてしまった。


 大切な人との関わり。一度きりの人生の中で、後悔のない選択をするために、自分が取るべき行動はもう決まっていた。


『いいよ、何時にする?』

 そう返事を送ると、彼女からすぐに返信が届いた。その内容は、『今から会いたい』……だった。

 その言葉に、楓は「分かった」とだけ返事を送った。すると、ポップなイラスト調の女の子が「ありがとう」とお辞儀をしているスタンプが続けて送られてくる。

 画面を見つめながら、楓は静かに呟いた。


「……今から向かおう。彼女に……謝らないと……」

 制服姿のまま、楓は立ち上がり、あの公園へ向かうことにした。きっと、咲良はまだ学校の近くにいるはずだ。だから、なるべく早く到着し、気持ちを整理する時間が必要だった。

 ふと、玄関に向かう途中で母親が声をかけてきた。


「楓、何しに行くの?」

「……ちょっと、友達に会ってくる。遅くなるかも。」

「そう、わかったわ。気をつけて行ってらっしゃいね。」

「ありがとう。……それだけ言いに……?」

 ふと疑問が生まれた。最近、親と話す機会もほとんどなかった気がする。自分の行動を何一つ疑問視せず、全てを受け入れる家族の態度に、今になって妙な違和感を覚えた。

 咲良の死を、家族も知っているはずだった。

 咲良の死を、家族は楓に対し、伝えないという選択肢をとったのだ。その選択をしたというのなら───。

 今日までずっと家族は自分の心の傷に触れないよう、気を遣い続けてきたのだろうか──。


「うん、それだけ。楓、不安な時はいつでも、私たちにも頼りなさい。」

「……」

「夕飯は、ラップして置いとくから、帰ったら好きに食べてて。行ってらっしゃい。」

 母の言葉に、楓は曖昧に頷くしかなかった。

 ──無闇に家を出たり、部屋にこもったりすることが多かった自分を、家族は決して責めたりしなかった。それはきっと、見守りながらそっと寄り添ってくれていたからだろう。

 その優しさに、今さらながら気づく自分が情けなかった。楓は軽く息を吐き、意を決して公園へ向かうため、家を出た。


 家を出て公園に来ると、大きなあの桜の木の下にあるベンチに腰を下ろし、楓は咲良を待った。

 夏の暑さがわずかに残る夕暮れの中、桜の木の影が長く伸びている。蝉の鳴き声が遠くから聞こえ、空には少しずつ星空のカーテンが降り始めていた。


 楓は目の前の風景をぼんやりと眺めながら、何を言うべきかずっと頭を巡らせていた。

 謝らなければならない。自分のしてきたことを咲良に説明しなければならない。そう思えば思うほど、どんな言葉を選べばいいのか分からなくなっていく。


 彼女を傷つけてしまった────その思いが楓の胸を締め付けていた。

 せっかく仲良くなれたのに、そしてようやく「好きだ」と思える存在ができたのに、その相手を避け、自分勝手に距離を取っていた。それがどれほど咲良を悲しませたのか、想像するだけで胸が痛くなる。


 どれほど時間が経っただろうか。ふと顔を上げると、咲良がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 その姿に、楓は思わず呼吸を止めた。咲良の表情は穏やかだったが、どこか寂しげな影を帯びている。

 近づいてきた彼女に声をかけるべきだと分かっているのに、楓はなぜか視線を合わせることができなかった。


「……霧島くん……」

 静かで優しい声が耳に届く。咲良が自分の名前を呼んでくれた。

 だが、楓はすぐには何も返せなかった。ただ俯いて、その声の温かさに胸が苦しくなるばかりだった。

 二人の間に沈黙が流れる。

 どれだけの時間が過ぎたのか分からない。ただ、静かに夕暮れが夜に変わろうとしていた。


「───ごめん、水瀬さん」

 楓はようやく勇気を振り絞って、言葉を絞り出した。声はかすれていたが、それでも自分の気持ちを伝えたいという思いをこめた。


「……私も……ごめんなさい」

 意外な答えが返ってきた。

 楓は驚き、顔を上げた。謝らなければならないのは自分のはずだ。咲良には非などないのに、なぜ彼女まで謝るのだろう。


「どうして君が謝るんだ……?僕が悪いのに……」

 咲良は小さく首を振りながら、静かに言葉を紡いだ。

「霧島くんがどんなに苦しい思いをしてたのか、私、気づいてたのに……何もできなかった。もっと早く、話せばよかったのに……ずっと黙ってたのが、いけなかったんだと思うの」

「……いや、それは間違いだと思うよ…。水瀬さんは…直接僕に正体を明かしてはいけなかったんだよね…」

「……」

「……高橋の言葉で…僕も間違ってたのに気づいたよ。ごめん、現実逃避してた。君が死ぬ事が───信じられなくて」

「……霧島くん…」


 その声には、どこか自分を責めるような響きがあった。楓はその言葉に胸が締め付けられた。

「全部、僕が……君を信じられなくて、勝手に一人で焦ってたんだ」

 楓の言葉に、咲良は少し驚いたような顔をした。そして、静かに微笑んだ。


「そんな事ない……。気づいてくれただけでも嬉しいから」

「……水瀬さん…」

「確かに…この身はあの夏祭りの日までしか存在できないんだ。だけど……私は、せめて幸せだなって感じたまま死にたい。自分勝手かもだけど……ね」

「……」

 高橋の意見は、やはり真っ当だった。同じ気持ちを、咲良は抱いていた。


「水瀬さん……。あと少しの時間だけど……できる限り、君のそばにいたい」

「……。私も同じ。霧島くんが…そばに居てくれればきっと…後悔も無くせるから」

「……うん」

「……もう謝らなくていいよ…」

 咲良の優しい声に、楓は少しだけ肩の力が抜けた。


「それでね……」

 咲良は少し恥ずかしそうに俯きながら言った。

「仲直りの証に、もう一度お願いする形になっちゃうけど…。最後の夏祭り……私と一緒に回ってくれる?」


 楓は一瞬、答えに詰まったが、すぐに微笑み返した。

「……うん。ぜひ、一緒に行こう。今までに無いくらい、全力で楽しもう」

 その言葉を聞いた咲良の顔が、ほっとしたように柔らかくほころんだ。


「ありがとう、霧島くん───いや、楓くん。うーん……」

 彼女は少し首を傾げ、言葉を選んでいるようだった。


「やっぱり……ありがとう、楓。この呼び方がしっくりくるかな?」

「……うん、その呼び方がいいな」

「…ん、分かった。なんだか、ようやく解放された気分だよ。あの時みたいに、自然に呼べるようになったから。苗字で呼ぶと、どうしても距離がある感じがしちゃうよね」

「……確かに。思い返してみれば、何回か苗字呼びじゃなくて名前で呼び掛けてたのも、きっと過去の名残なんだね……」

「ふふ、それはしょうがないじゃん」

 彼女は軽く笑いながら、優しく楓の肩を叩いた。その仕草はどこか懐かしく、楓の胸に温かい感情を呼び起こす。

 公園からの帰り道。分かれ道で、彼女が立ち止まり、ふいに口を開いた。


「……ねぇ、楓。もう気づいているんでしょ?『水瀬咲良』っていう名前が偽名だってこと。それなら……あの時みたいに、本当の名前で呼んでほしいな」

「……」

「現実の私は、過去の私の投影みたいなもの。そして、あなたの夢の中にいる『私』は───死後の意識みたいな存在。そう考えれば、『彼女』と『私』は別の人みたいに見えるかもしれないけど……本質は同じだから」

「……分かった」


 楓は静かに頷いた。そして、目の前に立つ彼女を見つめ、そっと言葉を紡ぐ。

「───春香、一緒に夏祭り、楽しもう」

 その言葉に、春香は微笑んだ。そして、楓が差し伸べた手を迷いなく握りしめる。

「───うん、喜んで」

 春香の顔には、これまで見たことのないような、真っ直ぐで晴れやかな笑みが浮かんでいた。


**


 春香と約束をしてからというもの、楓は彼女と過ごす時間を大切にするよう心がけていた。定期的に連絡を取り合い、時には一緒に買い物に出かける。その度に、彼女と話す時間が増え、自然と笑顔がこぼれる日々が続いた。


 春香の方からも、積極的に話しかけてくれるようになり、彼女とのやり取りは楓にとって何よりも心地よい時間になっていた。そのおかげか、ここ最近は、楓の一日そのものが明るく、色彩を取り戻したかのように感じられた。春香と過ごす思い出が、彼女の「死」という影を忘れさせるほど輝いていたのだ。


 今日は、待ちに待った夏祭りの日。

 楓は数日前、少し勇気を出して春香に「浴衣姿を見てみたい」とお願いしてみた。理由は単に、過去の春香が、浴衣を着て夏祭りに参加していたからだ。恥じらいながらも了承してくれた彼女の姿を思い浮かべると、自然と胸が高鳴る。そんな春香と過ごす夏祭りが、今から楽しみで仕方なかった。


 不思議なことに、彼女の死が確実に近づいているはずだという現実に対する恐怖は、今はまるで感じられない。ただ、春香と過ごす時間が純粋に楽しくて、他のことを考える余裕すらなかった。


「……んっ?」

 スマホが短く鳴り、楓は画面を見る。春香からのメッセージだ。

 時計を見ると、時刻は午後の四時半頃。夏祭りは午後5時に始まり、7時から花火が打ち上がる予定だ。毎年決まったこのプログラムを知っているのに、今年の祭りは特別な意味を持っている…そんな感覚に浸る。


『楓、何時に行く?』

 ふいに届いたメッセージ。その馴れ馴れしい口調に、あの頃の懐かしさを覚え、自然と口元が緩んだ。お互いに気を遣わずにやりとりできるこの感じが、どこか心地いい。


『混むと思うし、夏祭り始まる十五分くらい前には着くように家出ようかな』

 スマホを見つめながら、指を動かす。いつものように早めの集合を提案した。人気の夏祭りだから、十五分前でもきっと人でいっぱいだろう。それでも、この時間なら余裕を持って会場の雰囲気を楽しめるはずだ。


『分かった!ちなみに、楓は今何してる?』

『特に何も。ただ、もう行けるように、汗ふき用のタオルとか財布とか、準備はちゃんと済ませたよ』

 何気ないやりとりの中でも、自然と細かいことを伝えてしまう自分が少しおかしくなる。それでも、楓は気に止めることは無い。春香はこういった自分の姿を、ずっと肯定してくれるからだ。


『はっや!そんなに楽しみだったの?嬉しいなぁ』

『からかうなってば』

 画面越しにからかってくる彼女の様子が目に浮かぶようだった。


『別にからかわれるのが嫌じゃないでしょ?私、楓のために頑張って浴衣選んだんだからね』

 その一言に、心臓が一瞬、跳ねるように高鳴った。

 楓のために───たったそれだけの言葉が、こんなにも心をくすぐるなんて。

 スマホを持つ手が、わずかに汗ばんでいるのに気づく。けれど、そんなことは気にせず、笑みはこぼれるばかりだ。


『そっか。じゃあ、僕もそれに負けないくらい、ちゃんとした格好で行かないと』

 そんな返事を打ちながら、鏡の前で自分の髪を軽く整えてみる。普段は気にしないシャツの皺すら、今日は妙に気になった。


『おお、楓にしてはやる気あるじゃん。期待しとくね!』

 軽快な文字のやりとりが続く。画面越しのやりとりなのに、まるで隣にいるかのように親近感が湧いてくるのが不思議だった。

 浴衣姿の彼女がどんなふうに笑うのか、どんな声で話しかけてくれるのか。もう、過去の彼女の表情や結末を気にする事はない。どんな形であれ、彼女がただ、たくさん笑って、沢山幸せを感じてくれる…それだけで楓も幸せになれると思った。そんなことを想像しながら、ふと窓の外に目を向けた。


───今日は、特別な夜になる気がする。そんな予感が、楓の胸を高鳴らせ、この出発までの時間が待ち遠しかった。


**

 

 いよいよその時間が来た。

 住宅街の交差点で待ち合わせることになったが、家から近いとはいえ、楓は落ち着かなかった。

 何か心がそわそわする。早く会いたいという気持ちと、どんな顔をすればいいのか分からないという戸惑いが混ざり合う。その結果、伝えていた時間より五分ほど早く家を出てしまった。


 交差点に着くと、夏らしい暖かい風が微かに肌を撫で、空はまだ淡い橙色を残している。

 楓は近くの電柱にもたれかかりながら、ふと自分の格好を確認した。無難に、爽やかさを演出できるシャツとジーンズ───これでよかったのだろうか、と少し不安になる。


 待ちながら、どうしても考えてしまうのは、春香の浴衣姿のことだ。あの時、浴衣姿を見てみたいとお願いをして、春香はそれに了承してくれた。どんな浴衣を着てくるのか、普段と印象も変わるはずだからか、どこか期待してしまう自分がいる。

 そんな中、明るく弾む声が楓の耳に届いた。


「楓〜!お待たせ〜!」

 声のする方を振り返ると、そこには春香の姿があった───そして、楓の目に飛び込んできたのは、鮮やかな浴衣を纏った彼女の姿だった。


 春香が着ていたのは、淡い水色を基調に、朝顔の花が描かれた浴衣。髪はいつもと違い、後ろでゆるくまとめられ、その横には小さな髪飾りが控えめに揺れていた。普段の活発な雰囲気とはまた違う、大人びた印象が漂っていたが、それでも彼女らしい明るさが溢れていた。


 楓は一瞬、息を呑んだ。

 驚きと戸惑い、それから……胸が締め付けられたかのような感覚がした。これが恐らく、心を掴まれたということだろうか。


「ん〜?どうしたの?」

 自分の反応に気づかれたのか、春香が笑いながら首を傾げる。その仕草がまた、楓の目に強く焼き付いた。


「……いや、その……」

 何か言おうとしても、うまく言葉が出てこない。


「ふふっ、もしかして、似合ってないとか?」

 春香はわざとらしく上目遣いで見つめながら、くすくすと笑った。


「いや、そうじゃなくて……その、すごく……」

 楓の顔がどんどん赤くなっていくのが、自分でも分かった。


「すごく?」

 春香は悪戯っぽく楓の言葉を促す。


「すごく、可愛い……」

 最後の言葉は、ほとんど聞き取れないくらいの声だったが、春香には十分に届いたらしい。言わされた───ではない。これは本心だった。


「えっ、なにそれー!楓がそんなこと言うなんて、珍しい!可愛いって思ってくれたんだね!」

 楽しそうに笑いながら、春香は楓の顔を覗き込む。


「うっ……もう、やめてくれ!」

 楓は思わず顔を背けた。だが、その仕草がさらに春香を楽しませているのが、背中越しにも伝わってくる。そして彼女は、楽しそうに歩み寄り背中の方から両肩に手を置くと、そのまま耳元まで近づいた。その距離───約五センチ未満だ。

 彼女のあざとさと可愛らしさの攻撃に、楓の鼓動は留まることを知らずどんどん加速していく。


「やめて欲しい?ふふ、楓が可愛いから、私はやめたくないなぁ」

「……っ……春香…!」

「だって楓、すっごく赤いんだもん!ほら、恥ずかしがらなくてもいいのに~」

 春香が軽く肩を叩く。その軽やかな笑い声に、楓はますますどうすればいいのか分からなくなった。


「は…早く行こう!祭り混むぞ!」

 楓は無理やり話題を切り替えようと、歩き始める。春香は少し遅れて後を追うが、その間も彼女の笑い声は止まらない。


「はーい!ふふ、楓って本当に分かりやすいよね~。私とずっと一緒にいたいって言ってくれたんだし、約束は絶対だよ!」

 夏の夕暮れ、賑やかな祭りの音が少しずつ近づく中で、二人のやり取りは、どこか微笑ましい光景を作り出していた。

 散々からかわれたりして、恥ずかしさも感じる反面、この瞬間が嫌だと感じることは微塵もない。もはや、彼女がここまで明るく元気に関わってくれることが、ただ幸せだった。


 電車に揺られ、町を歩きながら会場へと向かう。

 予定通り、祭りの開始十五分前には到着することができた。まだ開催前ということもあり、屋台やテントは準備されているものの、明かりは灯されておらず少し閑散としている。それでも目を凝らせば、ちらほらと知り合いの顔が見える。その中に、高橋の姿があった。


「おっ!楓じゃん!」

「高橋?お前も来てたのか」

「当たり前だろ!この街で一番盛り上がるイベントだぞ、逃すわけないだろー!……ん?おーい、水瀬も一緒ってことは、これはもうラブラブカップル成立ってやつですか~!」


 突然の茶化しに、楓はため息をつきながら振り返った。

「……おっけ。じゃあ水瀬さんと楽しんでくるから、お前はそっちで一人で騒いでろ」

「おいおい待てって!ごめんごめん、からかいすぎた!」

 いつものように調子に乗る高橋をあしらい、それを追いかけてくる。こんなやり取りはもはや定番で、謎の安心感すらあるのだから不思議だった。


 ふと、隣から小さな声が聞こえる。

「……楓、一応私のこと“水瀬”って呼んでてね」

 春香───いや、水瀬としての彼女がお願いしてくる。

 秘密にしておきたいのだろうか。それとも、これも「死に戻り」の代償なのだろうか。楓は深く追及することなく、小さく頷いた。


「ちょっとちょっと楓さん。お前、恋愛には興味ないとか言ってたくせに、水瀬にはだいぶデレデレじゃねぇか?」

「だるいぞ、お前。僕はただ、親友に夏祭りで会えて嬉しかったってだけだよ」

「嘘つけー!で、どうなんだよ?水瀬と」

「……よし、それ以上踏み込むなら普通にキレるからな」

「ひぇ~!こっわ!わかった、やめとくから!」


 高橋とのやり取りに楓は呆れつつも、隣を見ると春香が楽しそうに微笑んでいた。

「ふふ、楓、高橋くんと本当に仲良しだね」

 その穏やかな笑顔に、楓は少しだけ肩の力が抜けた。確かに高橋との会話は疲れるが、こうして話していられるだけで十分だった。少なくとも、誰とも話さないよりはずっといい。


「違うよ、水瀬さん。こいつとは腐れ縁なんだ」

「えっ、そうなの!?」

「おい!幼なじみなのに、その物言いはなんだよ!」

 高橋が抗議する声に、春香がさらに笑みを深める。その光景を見ているだけで、楓の心に少し温かいものが広がる気がした。


「春香、夏祭りもうすぐ始まるけど、行きたい屋台とかある?」

「え〜、そうだなぁ。かき氷食べたい!あと射的とかもいいし……でもね、楓に全部お任せしちゃおうかなぁ」

 春香は、少し首をかしげながら微笑む。その表情には、悪戯っぽさと無邪気さが混じっていて、楓の心臓が軽く跳ねた。


「お任せか……。僕、こういうのセンスないんだよな……」

「えー、そんなことないよ!こういうのってセンスとかじゃないからさ!楓が選んだのなら、それだけで楽しいもん!」

 にっこりと笑いながらそう言う春香の声が、妙に心に響く。


「じゃあ、楓は絶対行きたい屋台とかないの?」

「うーん……夕飯食べてないから、お腹すいてるのはあるかな。だから、食べ物系の屋台は行きたいかも」

「食べ物系ね!始まったら行こうよ!」

「うん、そうしよっかな。春香はご飯食べてきたの?」

「ううん、食べてないよ!」

 そこで春香はふっと顔を近づけ、小声で囁くように言った。

「だって───楓と一緒にシェアしたいから!……なんてねっ」

「えっ!?」

 唐突なその一言に、楓は固まった。

 シェア───同じ料理を二人で食べる、ということだろうか?その意味を頭の中で反芻するたび、体温がじわじわと上がる。嫌な気持ちは一切ない。むしろ嬉しいはずなのに、それ以上に戸惑いが勝っていた。春香の言葉や行動が、ここまで計算されているように感じられて、なんだか妙に落ち着かない。


「ふふ、どうしたの楓?もしかして意識しちゃった?」

 春香は楓の反応を見て楽しそうに微笑む。その笑顔は無邪気なのに、どこかからかうような雰囲気があった。


「えっ?あっ、いや……そういう訳では、ないけど……」

 楓の声はどもりがちになり、言葉に説得力がない。


「やっぱり意識してる!楓ったら、わかりやすいなぁ」

 春香は目を細め、軽く肩を揺らして笑う。その仕草は自然体なのに、どうしてこんなにも心を揺さぶられるのか。


「いいよ、楓。一緒にシェアして食べよう!その方がさ、なんだか特別感あるでしょ?」

「そ、そう、かな……?」

 楓は精一杯冷静を装おうとするが、心臓の高鳴りは誤魔化しようがなかった。

 春香の言葉には悪意なんて少しもなく、ただ純粋に楽しもうとしているだけなのだろう。それなのに、こんなにも翻弄される自分が少し情けない気がした。しかしその一方で、特別だと言われたことがどうしようもなく嬉しかった。


 夏祭りが始まると、会場には多くの客が流れ込み、あっという間に混雑状態となった。楓はあらかじめ、夏祭りのプログラムや、屋台の情報を調べてはいたので、今回の屋台がどんなものがあるかなどは一通り把握している。

 ふと思い出す。

 夢の中での夏祭り、過去の楓は射的が上手だった。つまり、今は春香に言ってなくても、腕が鈍っていることは無いはずだ。きっと射的をやればいい結果が出せるかもしれない。後で、散々からかってきた春香に、射的で勝負して仕返ししてやろうかと、心の中で計画しようとする。───しかし、その(よこしま)な企みも、無邪気で可愛らしい浴衣姿の春香に止められる羽目となった。


 ───左手に暖かい人肌の感触が感じられる。


「……?春香…?」

「……ん、手繋いでいて欲しいな。迷子になっちゃうから」

 そう言うと、彼女は少し恥ずかしがるような仕草で見つめてきた。突然の出来事に、楓も動揺する。

 

「……ふふ、全く。子供じゃないんだから」

「やだ?その顔は…嬉しそうな顔だね」

 楓の表情を見逃さない春香は、楓の嬉しそうな様子を気に入ったのか、また少しからかうような声色になった。

 

「春香、キミは本当に、察しが良すぎるよ」

「ふふ、そうかな?楓が分かりやすいだけじゃない?」

「そんな。だって……さ。この年頃で、異性に手を繋ぐって…ね」

「ふーん?ふふっ、楓ったら…。キミも、真面目そうな印象だけど、やっぱり『男の子』なんだね」

「なんだよその言い方は」

「ふふ、なんだろうね。とにかく、夏祭り中、手繋ぎたいな。もちろん、迷子になるかもしれないからって理由は、ただの口実だよ」

「……っ」

 分かりきっていたが、口実だということを考えると鼓動が早まる。彼女が…自然と楓の手を繋ぎたいと、そう純粋に思ってくれているのだから。


「ふふ、照れてる?」

「……うるさいなぁ。照れてないし」

「嘘だー。照れてるってハッキリわかるよ。だって、さっきから目合わせてくれないでしょ?」

「……それは…」

 彼女の言葉に反論できるわけが無い。

「ふふ、言い逃れできないの?それなら、照れてるって楓も認めて欲しいな〜」

「……春香…っ……」

 信じてはいなかったのだが、春香が前に、女の勘は当たると言っていた。これが本当なのかもしれないほど、本心を当ててくる。彼女にからかわれてばっかりの楓も悔しくなってきた。

 ドキドキしてるって───そんなの当たり前に決まっているだろう。何を今更…。

 春香の攻め方は、あまりにも狡猾(こうかつ)だ。どう答えても楓の本心を聞き出して喜び、嬉しそうにちょっかいを出してくる。春香の無邪気さに翻弄され、春香の思う壷だ。

 しかし、なんだかんだそれでもいいかもしれない。そう思う自分もいる。春香にからかわれてばかりでも、このやり取りの裏には…純粋で、ただ単に春香が、『春香』として楓を大切にしてくれていると分かるからだ。


 ───いや、だとしてもからかわれ過ぎている。

 咄嗟に思考を戻し、後で絶対、射的の勝負を持ちかけてやろうと思った。さすがに、彼女の隣に立つ人間が、ここまで言われたい放題されて手のひらの上に乗せられては面目が立たない。射的勝負で、隣のからかい上手な春香をギャフンと言わせてやるというわけだ。可愛いらしくてそれだけで愛おしいのは事実だが、こういう事を春香がしてくるのなら、仕返しされる覚悟もあるという解釈であっているだろう。

 これは、最後の思い出作りだ。少しくらい、大袈裟に楽しんでも悪くないだろう。彼女の幸せがより増えるのなら、楽しければそれだけで十分だからだ。

 

 まずは食べ物系の屋台へ足を運ぶ。

 鉄板焼きで作られる焼きそばの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。他にも、たこ焼き、ピザ、ポテトなど、魅力的な屋台が並び、楓も春香もお腹が空いてくるのを感じた。


「いい匂い…お腹空くね~」

「春香は何が食べたい?」

「え~、迷うなぁ。あっ、シェアしやすいやつがいいよね。まずは…あのポテトとか!あと、たこ焼きも食べたい!」

「ポテトね。たこ焼きは向こうの屋台だね。今日は、僕が奢るから」

「えっ?いやいや、それは割り勘で十分だよ?」

「ううん、いいの」


 一度でも言ってみたかった台詞だった。

 格好をつけたいという思いも少しはあったが、それ以上に、大切な人との夏祭りだから奢りたいという気持ちが自然に湧いていた。


「今日の主役は春香だから。主役が優待されるのは当たり前だと思うからね」

「……ほんと?じゃあ…甘えてもいいの?」

「いいよ、今日は特別な日だからね」

「……ありがと。優しいんだね」

「気にしないで。春香には、とにかく今を全力で楽しんでほしいな」

「楓…。そういう楓こそ、今を全力で楽しむんだからね!後悔が、ないように」

「もちろん」


 二人は笑い合いながら屋台の列に並んだ。春香の希望で、二種類のソースがかかったたこ焼き二パックとポテトを買い、近くの食事用スペースに腰を下ろす。


「さっそく食べよっか」

「もちろん!せーの──」

「「いただきます!」」


 声を揃えて挨拶を済ませると、まずはたこ焼きに手を伸ばした。楓は春香と向かい合いながら、できたてのたこ焼きを頬張る。外はカリっと香ばしく、中は熱々で、驚くほど美味しい。けれど、熱さに気づかず慌てることになった。


「あっつ…!…んん!美味しい!」

「そうだね。これ…中のタコが結構大きくて、食べ応えがあるね」

「分かる!んん~!このネギソースのたこ焼きも最高っ!」

「ふふ、楽しそうで何よりだよ。春香がそれだけ幸せそうにしてるのを見ると、僕も嬉しい」

「ふふ、そんなこと言ってくれるなんて…。嬉しいなぁ。楓が喜んでくれるのも嬉しいけど、奢られるなんて思ってなかったからね!」

 二人は笑いながら、目の前の料理を一口一口楽しむ。それは、まるで時間がゆっくりと流れるような、特別なひとときだった。


 食事を終えると、二人は射的の屋台へと向かった。

 射的台の枠には、カラフルなお菓子や大きなぬいぐるみ、小さなキーホルダーなど、さまざまな景品が並んでいる。その光景に春香は目を輝かせていた。


「春香、射的で勝負しない?」

 楓はさりげなく提案した。

 散々からかわれてきたこの流れを断ち切りたい、という少しの意地もある。しかし、それ以上に、彼女が楽しんでいる姿を見ると、やはり一緒に何かを競い合いたい気持ちが勝っていた。


「それいいね!でも、何で勝負するの?」

「一回分の弾で、どれだけ的を倒せるか勝負しよう。負けた方がジュース奢りっていうのはどう?」

「おー、いいね!でも楓、自信あるの?」

「それは春香の腕次第かな」

「ふーん?いいよ、また勝っちゃうかもしれないけど」

 春香の挑発的な笑みを見て、楓は心の中で少し焦りつつも笑った。負けたとしてもデメリットはジュース一本程度。それでも、勝負事において簡単に負けるわけにはいかない。


「いらっしゃい!三百円で五発挑戦できるよ!」

 元気よく迎え入れる店員の声に、二人は射的台の前に並ぶ。


「ねぇ楓、先攻どっちがいい?」

「うーん、じゃあ僕は後攻で」

「分かった!じゃあ私からね!」

 春香は自信満々の様子で300円を渡した。


「まいど!お嬢さん、ちょっと待ってな~」

 店員が準備を整え、銃と5発の弾を春香の前に置いた。


「えっと……ここに装填して、ここを引く……これでいいの?」

 慣れない手つきで銃を構える春香を見て、楓は少しだけ安堵した。


「そうそう、しっかり狙ってね」

「うん!じゃあ───あのキーホルダー狙おっかな!まずは一発目!」

 春香は真剣な表情で的に狙いを定め、引き金を引いた。

 パンッ───と銃の音が響く。

 乾いた音とともに弾が飛んだが、はじめの一発目は、惜しくも的の脇をかすめて外れる。


「あれ?あーもう、難しい!」

 楓は心の中で、狙ってる方向から若干左にズレているなと考えながら春香の挑戦を見守る。

 春香は肩を落としつつも、すぐに気持ちを切り替えて二発目を構えた。


「よし、次こそ当てるから!」

 次の一発。狙いを定め直して、慎重に引き金を引く。

 パンッ───と音がまた鳴り響く。

 今度は見事に的に命中し、先程の的よりも大きい、小さな箱のお菓子が落ちた。


「やったー!当たった!すごい、楽しい!」

「すごいね、リカバリーできるなんて、いいセンスしてるよ」

「ふふ、褒めるのは早いよ!まだまだこれからだから!……多分コツ掴んだし!」

 その発言は楓もびっくりした。

 コツを掴んだ、というのは本当のようで、三発目も、四発目も、五発目も──すべて的に命中。最後の一発でぬいぐるみまで落とし、大きな戦利品を手に入れた春香は大喜びだった。春香の戦績は、五発中四発の命中で、楓が勝つためには一発のミスも許されない、そんな状況になってしまう。


「すごいね、春香。最初のミスからリカバリーしてあと全部当たるなんて奇跡的だね」

 楓はそう言いつつ、内心は少しだけ焦っていた。春香がここまでやるとは思わなかったのだ。


「えへへ、どう?楓、プレッシャーかけちゃった?」

「いやいや、僕だって負けないよ。見てて」

 余裕を装いつつも、楓の手にはわずかに汗が滲んでいた。


「楓の番だね。頑張って!」

 春香に励まされながら、楓は銃を手に取る。これ以上簡単に負けるわけにはいかない──そう心に決めて的に狙いを定めた。


(春香の最初のミス……的の真ん中を狙って掠れたとするなら、多分狙いはこの辺りだな。)

 楓は春香の撃ち方を思い返しながら、慎重に狙いを定めた。

 祭りの射的とはいえ、ここでミスすれば春香から散々からかわれる未来は確実。僅かに手が震えていることに気づき、内心で落ち着けと自分に言い聞かせる。まずは大きな的を狙い、銃弾の軌道を確認することにした。そして──


「パンッ!」

 乾いた音とともに、銃弾は的の中心を貫き、見事に倒れる。


「えぇっ!?楓、射的めっちゃ上手いじゃん!」

「よし……あっぶな……」

 的が倒れた瞬間、楓は小さくガッツポーズをする。春香は目を丸くして驚き、すぐに子供のようにはしゃぎながら楓を褒めたたえ始めた。


「ど真ん中当たってたよ!楓、器用すぎでしょ!」

「いやいや、運が良かっただけだって。でも、まだあと四発あるからね」

 冷静を装って返す楓だが、春香の褒め言葉に少し気恥ずかしさを感じていた。

 春香の撃ち方を参考に、次の一発も慎重に撃つ。結果は見事に的中。三発目、四発目も全て命中し、残るは最後の一発となった。


「よし、ラスト一発だよ」

「これ当てたら私の負けなんでしょ?……外してよ、楓!」

 春香はそう言いながら、楓の肩に手を乗せて揺さぶってくる。


「春香、安心して。僕はちゃんと当てるから」

「じゃあ私、妨害していい?」

「いやダメだよ!それはずるいって!」

 最後の一発を前に、春香の無邪気な妨害に苦笑いしつつも、楓は集中を取り戻す。そして、ふと店員が話しかけてきた。


「お兄さん、この隣のお嬢さんと勝負してる感じ?」

「そうです。負けた方がジュース奢りってことで」

「いいね〜仲良しだね!さ、最後はどの的狙うんだい?」


「うーん……」

 楓は少し考え、最も小さい的を指差した。


「えっ!?あれ狙うの!?待って、私舐められてる感じ?」

「いや、違うよ。でも、これに当てたら春香がからかってきた借りを返せるかなと思ってさ」

「え〜なんでよ〜!私は楓が外すことにジュース賭けてるけど?」

「それは無理だな。見ててよ」

 楓は笑みを浮かべ、小さな的に向けて銃を構える。これまでの弾道のクセを考慮し、わずかに左に狙いを定める。そして、引き金を引いた。


「パンッ!」

 乾いた音の後、小さな的がぐらりと揺れ、そのまま倒れる。


「よし!」

「えぇっ!楓、ほんとすごい!当たっちゃったよ!」

「危なかった……外してたら一番恥ずかしいやつだったな」

 歓声を上げる春香に、楓は胸を撫で下ろす。

「負けたぁ……勝ったと思ったのに!」

「残念だったね、春香。でも約束だから、ジュース奢ってもらうよ」

「……あ、うん。でもさ、ジュース奢るだけでいいの?」

「ん?どういう意味?」

 キョトンとする春香の様子に、楓は思わず笑ってしまう。もしかすると、春香は楓が怒っているのではないかと心配したのだろう。だが、怒っているどころか、彼女の無邪気な一面が見られて嬉しい気持ちでいっぱいだった。


「安心して春香。からかわれたこと、別に嫌だったわけじゃないよ。ただ、男としてね、女子に手のひらで転がされっぱなしっていうのも悔しいなって思っただけ」

「そうなんだ……。──てか!射的得意ならハンデくらいつけてよ!」

「それは言いがかりだよ。勝った事実は変わらないから」

「ううっ、ムカつくー!」

「ふふ、でも、楽しめたでしょ?」

「……楓…。えへへ、めっちゃ楽しかったよ!」

 春香の言葉に楓は苦笑しながら応じる。その光景はまるで、軽やかな掛け合いを楽しむ二人だけの世界がそこに広がっているようだった。


 気づいた頃には、花火が上がる時間帯になっていた。気温も夏の暑さを和らげ、涼しさを感じさせる。人々が混雑するだろうと踏んで、早めに祭りの屋台を楽しんだあと、二人は静かなベンチを見つけて腰を下ろした。

 見晴らしのいい場所を確保できたことで、春香が計画性の良さを褒めてくれた。

 空が暗くなり、人々が集まり始めた頃、春香がぽつりと話しかけてきた。


「ねぇ、楓。過去に見た花火大会の情景から、君は何を感じた?」

「んっ? どういうこと?」

「夢の中で見た私の記憶の話だよ。あの時の私は───今の私より楽しんでたかな?」

「……」

 楓は少し考えてから、首を振った。

「いや、今回の春香のほうが、全力で楽しんでると思うよ」

 その言葉に、春香は目を丸くして微笑んだ。その笑顔を見ながら、楓の胸には一つの思いが込み上げてくる。

 春香が過去に、この世を去る前に抱えていた後悔。それは何だったのだろうか───。


「春香、君は……この先の未来を知ってるの?」

「……うん」

「それならさ……後悔は残すべきじゃないと思うんだ。いくつか、質問してもいい?」

「うん。なんでも聞いて」

 聞きたいことは山ほどあった。それでも、今、この花火が始まる前に聞きたかったのは───彼女自身の想いだった。


「春香は、この夏祭りが……最高の思い出になったかな?」

 その問いに、春香は一瞬驚いたような表情を見せた後、優しく微笑んだ。


「……楓……」

「春香の死が迫ってることを知ってから、正直、現実から逃げたかったんだ。でも、それが間違いだって思った。だから……君の傍にいようと努力した。この行動は……正しかったのかなって」

「……」

 春香は静かに息を吐き出し、微笑みながら答えた。

「最高だったよ。何しろ───君とまた、この世界で出会えただけじゃなく……過去よりもずっと幸せな時間を過ごせたから」

 彼女の笑顔には、一片の曇りもなかった。それでも楓の心には、尋ねずにはいられない疑問が残っていた。

「……本当はね、楓。私、何度も自分が“死に戻り”の人間だって言おうとしたんだよ。でも、それを言ったら───この世に縛られて、一生、この世界で地縛霊として存在し続けなきゃいけなくなる。それが“代償”なの」

「……それは、夢の中の君が教えてくれた。死に戻りの代償についても」

「そっか……。その話を聞いてくれてたんだね」

 春香の瞳はどこか寂しげだった。それでも、彼女の声には静かな強さが宿っている。

「“死に戻り”の現実って、なかなか受け入れがたいよね。後悔を残した人間がもう一度現れる。でも、それも一年限りで───再び死ぬ運命からは逃れられない……。そんな都市伝説、普通は信じられないよね」

「……」

 楓は彼女の言葉を飲み込みながら、ゆっくりと口を開いた。


「春香……過去に残した後悔って……なんだったの?」

 春香は視線を遠くに向けたまま、言葉を失ったように黙り込んだ。

 彼女の横顔に、揺れる花火の明かりが重なる。

 その表情に浮かぶのは、ほんのわずかな哀しみと、何かを決意したような影だった。


「私の後悔は───君に本当の気持ちを伝えられなかったこと」

 春香は、ふっと息を吐きながら言葉を紡いだ。その声は、遠い記憶の中から漏れ出したような儚さを帯びていた。


「本当の気持ち……か」

 楓は不意を突かれたように聞き返した。

「そう。前世の私は、楓のことが本当に大切だったの。私にとって───楓こそが生きる意味だったんだよ」

 春香の告白に、楓の胸が静かにざわめく。その瞬間、夜空に鮮やかな光が咲いた。大輪の花火が音を伴って広がり、色彩の波が二人を包み込む。


「幼い頃からずっと一緒で、私は楓のことをよくからかってたよね。さっきみたいに。それが楽しくて仕方なかったんだ。でも、本当は───ただ、君のそばにいたかっただけなの」

 春香の柔らかな笑顔が、一瞬だけ昔の幼さを宿す。

 楓はその言葉を胸に飲み込むように聞きながら、俯いてぽつりと呟いた。

「……春香…。ごめんね、忘れちゃって」

「ふふ、大丈夫だよ。楓が忘れちゃっても、私は全部覚えてるから」

 春香の声は優しく、楓の心の奥にまで染み渡るようだった。

 楓はふと、これまでの出来事を思い返した。自分が春香と過ごしてきたこの数ヶ月間。そのどれもが新鮮で、どこか懐かしかった。春香が何気なく見せる仕草や口癖、彼女の存在そのものが、記憶の奥底で眠る何かを揺さぶっていた。


「もし君が望むなら、昔のことを───沢山話してあげるよ。二人で遊んだ日々、君が見せてくれた笑顔、そして……夢の花の約束」

 春香の言葉が、静かに楓の胸を満たしていく。その中には、知らないはずの記憶がじんわりと蘇る感覚があった。


「綺麗だね、ここの花火。初めてこの場所で花火を見たときも……楓と一緒だった。それが嬉しくて、心にずっと残ってた。こんな風にまた君と一緒に見られるなんて、夢みたいだよね」

 春香の瞳には、遠い昔の思い出と今この瞬間が重なり合い、そして少し先に訪れる別れが映っているようだった。


「夢の花みたいだよね。こんなにも幻想的な花火は滅多に見られないからね」

 楓は呟きながら空を見上げた。次々に咲く光の花が、夜を照らしては消えていく。その儚さが、春香と過ごすこの時間そのもののように思えた。


──もう少し、この時間が続けばいいのに。

 楓の心の奥底から湧き上がるその願いは、彼自身にも制御できないほど強く膨らんでいく。

 だが、空を見上げる春香の横顔はどこか達観していて、静かな覚悟すら感じさせた。彼女にとって、この時間は「最後の贈り物」のようなものなのだろう。楓はそれに気づきながらも、どうすることもできない自分に歯がゆさを感じていた。

 花火の音が次第に小さくなり、夜空の輝きが終わりを告げ始める。最後の一発が空高く打ち上がり、無数の火の粉が夜の空へ散っていった。


「終わっちゃったね……」

 春香がぽつりと呟く。

「……ああ」

 楓もまた小さな声で応える。彼女の言葉には、「花火」だけではない何かが含まれているように感じられた。

 二人は静かに立ち上がり、夏祭りの喧騒から少し離れた道を歩き始める。春香がふと足を止めると、柔らかい声で言った。

「楓、ありがとう。今日は本当に楽しかった。……ずっと、こんな時間が過ごせたらいいなって思ってた。その願いが、叶えられてよかった」

 楓はその言葉の裏に潜む「別れ」の気配に気づいていた。それでも、彼女の笑顔を曇らせたくなくて、無理にでも微笑み返そうとする。

「僕も……すごく楽しかったよ。春香と一緒にいられてよかった」

 春香は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい微笑みを浮かべて言った。

 

「……ありがとう、楓。それだけで十分だよ」

 彼女の言葉の意味を考える暇もなく、ふと冷たい風が吹き抜けた。春香は微笑みを崩さないまま、ただ静かに夜空を見上げていた。

 風が止み、周囲は再び静寂に包まれる。楓の視線の先で、春香のシルエットが月明かりに照らされて揺れているように見えた。


「楓、行こう。『あの場所』へ」

 彼女の「2度目の終わり」が、確実に近づいている。

 それでも、最後まで彼女に幸せでいてもらうために…ついて行くと決めたことだ。断るつもりは無い。

「……うん、分かった」

「あの場所で……最後の話をしよう。悲しい最後は嫌だから、私も笑顔でいれるように頑張るから」


 そう言うと、二人は立ち上がった。目指すのは、あの交差点。記憶を失ってしまったあの日───事故が起きた例の場所へ。


 春香が最期の時を迎えるために。

 できるだけ後悔を残さないように───そして、自分自身も彼女を後悔なく送り出せるように───。


 夜の静けさが漂う道を並んで歩く。遠くで祭りの喧騒が聞こえていたが、彼らの歩みは別の世界にいるかのように静かだった。


 やがて、例の交差点にたどり着く。歩道で立ち止まると、楓は無意識に息を飲んだ。

 夜とはいえ、大きな交差点には絶え間なく車が行き交い、その音が耳を埋め尽くす。


 この場所───この場所こそが、彼女を失った場所。

 夢で何度も見た景色。そして、その事故風景と全く同じ場所が、そこには広がっていた。


「改めて、ありがとう。楓」

 彼女はそう言うと、交差点を縦横無尽に走る車を眺める。その様子は、何も後悔や未練を感じさせない、そんな姿だった。

「春香は、怖くない?」

 春香の気持ちを聞き出そうとしてみると、春香は優しく微笑み返事を返す。

「不思議なことに、怖くないんだよね」

 もう一度春香は小さく笑った。その笑顔は、夜の闇の中でもどこか柔らかく光を宿していた。


「きっと、楓がそばにいてくれるからだと思う。これから死ぬって分かってるけど……ひどく恐ろしい死を迎えるなんて気がしないんだ。自然にそう思えるの」

「……。あのさ、死に戻りしたとき、なんで学校に来るのが遅くなったの?春休みが開けた新学期の初めの時…いきなり転校生として来た時…既視感が生まれたのもあるけど…」

「……それは……」


 春香は少し言い淀んでから、小さく肩を竦めた。

「確か、あの時は引越しの準備で時間がかかったって言ったよね。あれは……本当の理由じゃないの。楓の顔を見て、平常心でいられる自信がなかったの。勇気が出なかった」

「……やっぱり」

「さすがにバレるよね」

 春香は照れくさそうに微笑んだ。

「私のヒント、一つ一つ、結構分かりやすかった?」

「まぁね」

「現実に帰る時、楓が記憶を失ってるため、未練を解消できる確率はかなり低いって言われてね。なるべく分かりやすいようにヒントを出したつもりだったんだ」

「……やっぱり、違和感の正体が消えなかったのも、今となれば納得だね」

「きっと、私の姿を見て、過去の記憶の断片が蘇ってたからだろうね」

 二人の会話が続く。


 楓は、ふと思う。この時間がずっとこのまま続けばいいのにと。

 ───終わってほしくない。

 わがままだと分かっていても、この瞬間だけは、永遠に閉じ込めてしまいたかった。


「もっと早くから、素直に気持ちを伝えておくべきだったね」

「それは僕も同じだね」

「ふふ、前世でいろんなことをしたかったな」

「……春香の憧れてた花畑に連れていきたかった」

「デートだって……もっとたくさんしたかったし」

「デートか……。春香と、卒業まで一緒に高校生活を送りたかった」

「旅行とかも行けたら行きたかったな」

「春香が大好きだった、あの花屋さんに連れて行ってあげたかった」

「私の家族に『私の自慢の彼氏です』って紹介してあげたかった」

「僕も同じ。『一番大切な彼女です』って自慢したかったよ」

「なんなら───子供も欲しかった」

「えっ……?」

 唐突な言葉に、楓は思わず驚いて目を見開いた。

 突拍子もない冗談だと思いながらも、返事に詰まる。それでも、彼女は表情を崩さず、真っ直ぐに楓を見つめていた。


「冗談じゃないからね」

 春香は柔らかな声で言い切った。その声には真剣さと優しさが混ざり合い、楓の心にそっと染み込むようだった。春香は楓の手を握り、静かにひと呼吸置いてから口を開いた。


「───私、楓のことが好き」


 その言葉が届いた瞬間、楓の胸が熱くなる。

 予期していなかった。でも、どこかでずっと聞きたかった───そんな言葉だった。


「……春香……」

「ふふ、そんな顔しないでよ」

 彼女は少し笑いながら、楓の額を軽く指で突いた。


「私の気持ち、これを伝えたくて現世に戻ってきたんだからね」

 春香の声には、揺るぎない決意と優しさが込められている。彼女の瞳は少し潤んでいた。それだけじゃない、頬も赤く染まっている。その愛おしい表情に、楓は心からの答えを返した。


「僕も……君のことが好きだよ」

「ふふ、嬉しい」

 春香は微笑みながら、そっと楓に歩み寄ると、その小さな体で楓を抱きしめた。

 彼女の温もりが楓を包む。優しくて、懐かしくて、二人が長い年月を共に過ごしてきたかのような、そんな安心感に満ちていた。

 けれど、その幸せな時間にも、確実に終わりが近づいているのが分かった。

 事故が起きた時間が、もうすぐやって来る。それまで残された時間は、わずか三十分。


 春香が語った未来が、なぜ現実にならないのだろう。

 こんなにも理不尽な世界に、楓は胸が張り裂けそうだった。

 気づけば二人の間に言葉はなくなり、ただ静かな時間が流れる。

 けれど、その沈黙の中で楓の心は崩れそうだった。涙が溢れて止まらない。頬を伝うその涙は、彼女の姿が消えてしまう現実を直視するたびに強くなる。


「楓、こっち向いて」

 春香が優しく言うと、楓の頬を流れる涙を指ですくい取る。その仕草に、楓の心が少しだけ温まる気がした。


「ねぇ、楓。この後、いつかきっと夢の中にまた私が現れる。そこで、楓の本当の気持ちを伝えてあげて。それが、私の最後のお願い」

「うん……分かった」


 楓の返事を聞くと、春香は腕時計を確認し、小さく微笑んだ。


「───私、あなたのことを好きになれて、本当に良かった」


 その言葉とともに、街灯が照らす時計の針が、ゆっくりと8時を指す。

 途端に世界が静止したかのように感じた。音が消え、視界がゆがむ。その中で───春香の体がドクンと跳ねる。その瞬間…何も残すことの無いような、幸せを体現したかのような笑顔のまま、彼女の身体に加わる力は抜けていく。


「春香!」

 楓が叫ぶ間もなく、彼女の身体はゆっくりと力を失い、その場に崩れ落ちる。


「春香!春香……っ!」

 楓は必死に彼女の名前を呼び続ける。

 けれど、返事はない。このまま彼女の目は閉じたまま、もう二度と開くことはない。

 あの優しい笑顔のまま、彼女は静かに息を引き取った。


「……っ……くっそ……!」

 楓は彼女の亡骸を抱きしめ、声を上げて泣き続けた。

 彼女の温もりが消えないうちに、何度も何度も名前を呼ぶ。それでも返事はなく、彼女は瞬く間に冷たくなっていく───。涙は止まらなかった。

 春香が最後に見せたあの笑顔───それは幸せそのものだった。

 だからこそ、楓の心はどうしようもなく壊れていく。それでも、彼女と過ごした一瞬一瞬が、胸に深く刻み込まれていた。

 春香を抱きしめたまま、楓は夜の喧騒の中で泣き続けた。

 その涙には、二度と戻らない愛おしい時間への思いが溢れていた。


**


 春香がこの世を去ったあと、楓はしばらく寝込んでいた。

 部屋にこもりきりで、外に出ることもなく、ただ無気力な日々が続いていた。

 あの夜、春香は病院に搬送され、死亡が確認された。

 救急車を呼んだのは高橋だった。人気のない夜道、街灯もほとんど届かない交差点で、春香の亡骸を抱きしめて泣き崩れている楓を見つけたのだという。

 楓は、高橋に促されるまま救急車に乗り込んだ。だが、病院に着いても自分には何一つできなかった。ただ、手術室の前で結果を待つだけ。

 その時間の中で、楓は何も考えられず、涙を流すことすら次第にできなくなっていった。涙が枯れ、立つ気力さえも失った彼の心は空虚そのものだった。


 それでも───高橋は楓を一切責めることはなかった。

「辛かったな……。お前がどう感じようと、きっと水瀬は、望んでいた形で結末を迎えたんだと思う。だから、絶対に自分を責めるなよ。彼女もきっと……そんな楓の姿を望んでいないはずだから」

 その言葉は、楓の心をそっと包み込んだ。

 本当なら、高橋だって言いたいことはあっただろう。「なぜもっと早く救急車を呼ばなかったのか」と責めたい気持ちを抱えながらも、それを飲み込んで楓のそばに寄り添い続けた。

 その優しさに、楓は涙を止めることができなかった。ただひたすらに、泣き続けることしかできなかった。


 病院で居合わせたのは高橋だけではなかった。クラスの同級生たちの中には、春香の死について何気なく楓を責めるような言葉を口にする者もいた。

「どうして彼女を守れなかったの?」「楓のせいで咲良ちゃんは……」などと、たくさん言われた。その言葉を聞く度に、自分の中に罪悪感の矢が突き刺さった。

 楓が最も深い喪失感に苛まれていることは彼らも理解しているはずだった。しかし、誰もがそれぞれの形で春香の死に向き合う中で、楓は春香に関与した人間として扱われた。


 だが───翌日の葬儀では、楓の涙に心を動かされた生徒たちがいた。葬式の中で…親族や同級生なども泣く中で、楓だけは声を荒らげ、ただ泣き続け、苦しんでいたところを見ていたのだろう。

「酷いことを言ってごめん……」

「霧島くんの気持ちを考えずに……私が馬鹿だったよ……」

 そんな謝罪の言葉が次々と楓に届けられたが、その言葉ですら彼の心を癒すことはなかった。春香のいない日々が、ただただ苦しかった。


 夜が来るたびに、楓は一人ぼっちの部屋で天井を見上げた。

「春香……もう分からないよ……」

 呟いた声は、自分にすら届かないほど小さかった。


 彼はただ、夜眠るときだけ、再び春香に会えることを願い続けていた。

「夢でいい……会いたい……。お願いだよ……もう…春香の声が聞けないなんて……嫌だよ……!」

 その思いを胸に抱いて、瞳を閉じる日々が続く。だが、春香は一向に夢の中に現れることはなかった。


 楓は希望だけを糧に、いつ訪れるとも知れない再会を待ち続けていた。それだけが、彼を辛うじて生き長らえさせる支えだった。


**


 そんなある日、楓は不思議な世界に立っていた。

 目を開けた瞬間、そこが夢だと直感した。この場所は現実ではない。

 淡い光に包まれた幻想的な世界。桜の花びらが風に舞い、空と大地の境界さえ曖昧な、見たこともない不思議な街の一角。

 そして───目の先には、あの人がいた。春香だ。

 楓は何度も夢で彼女に会うことを願い続けた。それがついに叶ったのだ。

「春香……」

 楓は無意識に名前を呼んでいた。

 春香は少し微笑みながら、こちらに向き直った。その姿は制服姿のままで、どこか懐かしく、愛おしい。けれど、その瞳の奥には、別れを悟ったような儚さが宿っていた。


「……春香は、いつまでここにいるの?」

 楓の問いに、春香は少しだけ目を伏せた後、優しい声で答えた。

「……長くは残れないよ」

 その言葉に楓は胸が締め付けられる思いだった。

「そんな……またいなくなるなんて……。春香がいない世界なんて、考えられないくらい辛いよ……」


 春香は静かに歩み寄り、楓の目をじっと見つめた。

「楓、大丈夫だよ」

 優しく語りかける声が、楓の心を包み込む。


「私ね、もう何も後悔はないんだ。今の私は、幸せそのものを感じてる。それも全部、楓がここまで頑張ってくれたおかげだよ」

 春香の表情は穏やかで、どこまでも優しい。だが、それがかえって楓の胸を締め付けた。


「春香……本当に、僕は頑張れていたのかな……? 本当はただ、逃げていただけなんじゃないかって……」

 楓の声は震えていた。彼の中に溜まっていた自責の念が、ぽつりぽつりと言葉となって零れ落ちる。

「僕は……春香を守れなかった。最後まで……手を伸ばせなかった……」


 楓が顔を伏せると、春香はそっと彼に歩み寄り、その肩に手を置いた。

「楓、そんなことないよ」

 驚いて顔を上げた楓の目を、春香は真っ直ぐに見つめた。


「楓は、あの日から今日まで、ずっと前を向こうと頑張ってきたじゃない。きっと辛かったよね。それでも、こうして私に会いに来てくれた。それだけで、十分なんだよ」

 春香の言葉は、楓の中で長い間固まっていた感情の氷をそっと溶かしていくようだった。

「でも、春香……僕は……君がいないと、これからもどうやって生きていけばいいのか……わからないよ……」

 涙をこぼしながら吐露する楓に、春香はそっと微笑んだ。そして、その手を楓の頬に触れさせる。

「楓なら、大丈夫だよ。だって、私がそう信じてるから」

 春香の手の温もりは、不思議なほどリアルだった。けれど、それが最後の瞬間を告げる合図であることを、楓もどこかで理解していた。

 涙を流しては行けない。彼女に促されて───ではなく、今度は自分から、彼女への気持ちを伝える時だ。

 

「───春香」

「……うん」

 春香の瞳がそっとこちらを向く。その澄んだ瞳に映る自分の姿が、なぜか胸を締めつけた。

 覚悟を決めて、言葉を紡ぐ。


「春香……あなたのことが、ずっと好きだった」

 その瞬間、言葉にならない感情が胸を埋め尽くした。何度も伝えたかった。でも、ずっと届かないと思っていた。それを今、ようやく───。

 春香は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。その笑顔には懐かしさと切なさが混じっている。


「ふふ……遅いじゃん」

「……え?」

「私ね、ずっと待ってたんだよ。楓が、ちゃんと自分の気持ちに気づいてくれるのを」

 彼女の声には、わずかな寂しさが滲んでいた。

 

「私のこと、覚えてなかったのは正直ショックだったけど……でも、こうして思い出してくれて、気持ちを伝えてくれて、本当に嬉しい」

「春香……」

 胸の奥が熱くなる。彼女の笑顔はどこか儚げで、それがまた心を締めつけた。


「ずっと好きだったって言葉、やっと聞けて安心した。ありがとう、楓」

 春香の言葉に、視界が滲む。彼女の温もりを、もっと確かめたくて、思わず手を伸ばす。けれど、その手はどこか空虚なものを掴むようで、不安に駆られる。


「……でも、もう時間みたい」

「……っ…」

 急に現実に引き戻される。春香の言葉に、胸がざわつく。


「私がここにいられる時間のことだよ。……そろそろ行かなきゃいけないの」

 その言葉に、恐ろしいほどの現実味が押し寄せる。


「待ってくれ……僕は、まだ……まだたくさん伝えたいことがあるのに!」

 声が震えるのを抑えきれない。春香はそんな楓を静かに見つめて、小さく首を振った。


「楓、私は大丈夫だよ。あなたがいてくれたから、もう何も怖くないよ。彼女の死が、後悔を残さない最高な形で終わりを迎えたんだもの」

「でも、僕は……春香がいなくなるなんて……」

 その時、春香はそっと楓の手を握った。その手の温もりが、まるで春の陽だまりのように優しい。


「楓。覚えてる? 私たち、ここで夢の花を咲かせようって約束したよね」

「……うん、覚えてる」

 春香は目の前の桜の木に触れた。

「ふふ…。なんて美しい桜の大木なんだろう……。本当に、夢の中じゃないと、こんな幻想的な世界は再現できないからね。───私たちはこの桜の木が大好きだった」

 春香の目が遠くの桜を見つめる。その姿があまりに美しく、楓は言葉を失った。


「夢の花はね、ちゃんと咲いたんだよ。あなたが私を思い出してくれたことで。だから、私は幸せだよ」

 彼女の言葉が胸に響く。いつの間にか涙が頬を伝っていた。涙を拭い彼女の瞳を見ると───同じように涙が溢れていた。でもそれは、悲しさや切なさの涙ではないと感じた。


「それでも……僕は、君ともっと一緒にいたかった……!」

「楓、ありがとうね。私のこと、思い出してくれて、好きだって言ってくれて」

 春香の声は震えているのに、その表情は崩れない。


「でも、もうお別れだね」

「……そんなの嫌だ……!」

 楓の声は風に溶けていく。春香はただ静かに微笑むと、楓の手を優しく握ってくれた。その温もりが少しずつ薄れていくような気がして、楓は全力で彼女を抱きしめた。


「泣かないで、楓。私、幸せだったんだよ」

「……春香……」

「幼い頃、私たちはこの桜の下で夢を語り合ったよね。……あの時のこと、ずっと覚えていてね。それが、私の夢だから」

「でも……」

「……私の夢だったお花屋さんの店員になってみたかったのは…叶えられなくてちょっと残念だったけどね。───楓がもし仮に、現実に戻って、将来私の志した道を受け継いでくれるなら、泣いて喜んじゃうかも」

 彼女の言葉に、楓は涙を止めることができなかった。


 春香は、目の前に広がる桜の木の下で、そっと息を吐くと、楓に向けて微笑んだ。

「桜の花びらは、寒い冬を乗り越え、春に開花し、風に乗って散っていく。それは桜の運命。でも、桜は散るからこそ、美しいもの。生きていれば死がいつか訪れる事と同じように、私の身が消えるのは、もう止められない。運命はそういうもの」

 春香は楓の全て───悲しみ、切なさ、恐怖を優しく包み込むように、そっと抱きしめた。


「春香………」

「私に限らず、楓もいずれたどり着く『死』は、誰もが辿る運命。私の最期は、大好きだったあなたを守ったことだった。後悔はないつもりだったけど、好きと伝えられなかったことが悔しかった」

「……」

 楓は声を出すことすらできず、ただ彼女の声を必死に聞いていた。


「これは終わりじゃなくて始まりだよ、楓。覚悟ができてるのなら───絶対に、悔いは残しちゃダメだよ」

 強く抱きしめる腕に伝わる、彼女の体温───それが、少しずつ消えていくように感じた。その感覚は切なく、辛く、苦しく感じてしまい涙が容赦なく流れる。


「私、もう一度あなたに出会えて幸せだったよ。だから───この一生に一度の経験は、ずっと心に残る。私たちで咲かせた、夢の花のように、ね」

 彼女の体が少しずつ消えていく───桜の花びらとともに。


「……っ! 待ってくれ春香っ!」

「……楓、大丈夫だから」

 最後の力で抱きしめる。視界は涙で彼女の顔すらぼやける。だが、次の瞬間───彼女の柔らかな唇が、楓の唇を覆った。


───今までありがとう、春香……

 心の中でそう叫んだ。彼女とのキスは、先ほどの辛さをかき消すほどの幸せを感じた。大好きだった人と───こうして繋がれた瞬間を忘れられない。


「さようなら───楓。あなたのこと、大好きだよ。あなたに、この夢の桜の木から作り出した、最も純粋で最も新しい新芽をあげる。これを現実で育てて欲しい。これは、私の楓の中に咲く夢の花を───枯らさないための約束」

 唇を離した春香の姿は、ゆっくりと桜の花びらとともに風に溶けていった。


 彼女の温もりも、声も、すべてが消え去った後、楓はただその場に立ち尽くしていた。

 そしてその手には……春香の大切にしていた桜の、1番純粋な苗木が残されていた。楓はそれを優しく握りしめ、春香との約束を胸に、静かに涙を流した。


**


 現実に戻ってくると、楓の頬を涙が静かに伝っていた。

 胸に残る春香の温もり、それだけで十分だった───そう思えた。

 ふと手元を見ると、小さな桜の苗木が握られていることに気づく。

 それは、夢の中の出来事が確かに現実だったのだと告げていた。


「桜の木……ちゃんと面倒見ないとだな、春香」

 楓は苗木を見つめながら、静かにそう呟いた。

 もちろん返事はない。それでも構わなかった。最後に彼女と抱き合えた、その記憶が何よりの支えになっていたからだ。


「……僕、決めたよ」

 楓はそっと苗木を胸に抱きしめる。

「僕、将来お花のことをもっと勉強して、花屋を開く。春香が夢見てたお店を、僕が形にするよ」

 その言葉を口にした瞬間、心の中に小さな決意の炎が灯った。

 春香が憧れていた夢。それを叶えることで、彼女がいつも傍にいてくれる気がした。春香のように優しく、誰かの心に寄り添える花を届ける───それが自分にできることだと感じたのだ。


「楓、おはよう」

 台所から聞こえてきた母親の声が、現実に引き戻す。


「おはよう、お母さん」

 楓はリビングに入りながら話を切り出した。

「僕、将来花屋を開きたい。それで、お花について勉強できる大学か専門学校を探したいんだ」


 母親は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。

「花屋さんね……いいと思うわ。あなたがやりたいことなら、お母さんは全力で応援するわ」

 その言葉に、楓の心は軽くなった。母親はいつも自分を否定せずに受け入れてくれる───だからこそ、今の気持ちを素直に伝えられたのだと思う。


「ありがとう、お母さん。それで、この苗木……育てたいんだ」

 楓は手にした桜の苗木をそっと見せた。


「これは……桜?」

 母親は苗木を見て少し考えた後、にっこりと笑った。

「じゃあ、庭の車庫の後ろ側にスペースがあるわ。そこに植えていいわよ。大切に育ててあげなさいね」


「……うん、ありがとう」

 楓は静かに応えると、苗木を持って外に出た。

 夏の朝は涼しい風が頬をかすめるが、不思議と心は温かかった。

 庭の一角に穴を掘り、桜の苗木をそっと植える。手のひらで優しく土をかけながら、楓はそっと呟いた。


「春香……夢の花は、僕の記憶に咲き続けているよ。この桜が大きくなる頃には……きっとこの記憶の夢の花も美しく反映すると思う」

 やがて、この桜の木はきっと成長し、春香のように優しく幻想的な花を咲かせるだろう。

 楓は苗木を見つめながら、春香のことを思い出していた。

 彼女と過ごした日々、その笑顔、声、そして最後に交わした言葉……そのすべてが、今も心の中で息づいている。


「春香、君は今、どこにいるんだろうな……」

 ふと空を見上げると、淡い雲が風に流れていく。


「きっと、僕のことを見守ってくれてるんだよな……ありがとう、春香」

 楓は深呼吸をすると、軽く目を閉じた。

 胸の奥に広がる温かさ。それは春香が最後に残してくれた希望だった。もう後ろを振り向くことは無い。


「僕、頑張るよ。春香の分まで───君が教えてくれた優しさを、たくさんの人に届けられるように」


 楓は決意を新たに、桜の苗木に水をやり始めた。

 それは、春香との別れではなく、彼女との約束の始まりだった。

 これからは、自分自身の人生として、春香の願いも背負いながら、前を向いて進んでいく。

 ゆっくりでいい。

 辛い時は立ち止まってもいい。

 それでも、自分の花を咲かせるために、楓はこれからも生きていく。


 桜の木が満開の花を咲かせ、その先───人生の終わりを迎えるその日まで、後悔なく生き抜こう。

 そう誓った楓の心には、春香の温もりが確かに宿っていた。

 ふと空を見上げると、淡い夏の雲の隙間から太陽の光が顔を出す。その先に広がる青空の向こう側に、春香が微笑んでいる気がした。


「春香……ありがとう。君がいてくれたから、僕は変われたよ」

 その声が風に溶けていくと、木々の間を抜ける風がそっと楓の頬を撫でた。まるで春香が、優しく応えてくれたように感じられた。


 新しい日々が始まる。

 桜の苗木が根を張り、やがて大地にしっかりと立つように───楓もまた、自分の未来を歩んでいく。

 そう、春香が教えてくれた優しさと強さを胸に抱いて。

 彼女の記憶とともに。

 ───そして、いつか桜が満開の花を咲かせる日、彼女にもう一度誇れる自分であれるように。


 楓は静かに苗木を見つめ、未来へ向かい大きな一歩を踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ