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【第4話】再び咲く花

 その日、楓は誰よりも早く学校へ向かった。

 ただでさえ人気の少ない朝の校舎は、どこか非現実的な雰囲気を漂わせている。周囲の空気が妙に冷たく感じられ、普段なら気にも留めない微かな足音が、やけに耳に響いた。


 咲良のことが頭から離れない。朝になれば何事もなかったかのように彼女が現れるはずだと自分に言い聞かせていたが、教室に着いても咲良の姿はない。しばらくしても、彼女が現れる気配はなかった。


(もしかして……また欠席か?)


 そう思い込もうとする一方で、胸の奥に湧き上がる得体の知れない不安を拭うことができない。あの夢の光景が、まるで刻印のように脳裏に焼き付いて離れないのだ。現実なのか、ただの悪夢なのか、その境界線すら曖昧に感じる。


(結局あの夢は……何だったんだ?)

 授業を受けるためではない。ただ、何か手がかりを掴むために学校へ来た──そう思えるほど、楓の心は荒れていた。


 ふと、廊下の向こうから足音が聞こえる。珍しく高橋が2番手で登校してきたようだった。


「よっ! おはよう楓!」

「……高橋か。早いね」

「いやいや、お前が早すぎんだって! 一番乗りになろうと思ってめっちゃ急いで準備したのにさー、先越されたわ!」


 高橋はいつものように軽い調子で話しかけてくるが、楓の心は上の空だった。


「……そうだったのか。でも……なんでわざわざ早く来ようなんて思ったんだ?」

「ん? なんとなくだよ、なんとなく。別に深い理由はないって」

 軽く肩をすくめて笑う高橋の様子に、楓は少し拍子抜けしたような気持ちになった。だが、それと同時に、“なんとなく”という言葉に引っかかりを覚える。


(なんとなく……か。そんな曖昧な理由でここまで早く来るなんて、高橋らしくない気がするけど……)

 楓の胸の中でざわつく感覚は、ますます大きくなるばかりだった。


「……まあ、そんなことはどうでもいいんだ。高橋、相談したいことがある」

「お? 楓から相談なんて珍しいな! いいぜ、何でも聞いてやるよ」


 高橋は意外そうに眉を上げた後、にやりと笑う。


「で、相談って何についてだ? やっぱり水瀬のことでまた悩んでんのか?」

「……まあ、そんなところかな」

 高橋に相談すると言ったものの、正直なところ相手は誰でもよかった。あの夢の正体を解明するきっかけが欲しい。それだけだった。


「ほらほら、悩みは早めに吐き出した方がいいんだぜ? どんなことでも聞いてやるから、話してみろよ」

 高橋の言葉に背中を押されるようにして、楓は夢の中で見た出来事をぼんやりと思い返していた。


(あの夢の光景……水瀬さんの姿……)

 迷いながらも、楓は少しずつ言葉を紡ぎ始める。

 夢の中で起こった出来事、咲良に容姿や声が酷似した少女、そして目の前で目撃した──あの少女の凄惨な死の瞬間。

 昨晩見た夢は、これまで感じていた漠然とした違和感にさらに拍車をかけるものだった。楓はその夢について、思い出せる限りのことを抜け目なく高橋に伝えた。


「水瀬さんに似た少女が、夢の中で死んだ……。しかもその前には、夏祭りの花火が上がっていて……」

「夏祭り、か。そりゃ、ただの夢って思うにはちょっと不気味だよな」

 高橋は眉をひそめながら、少し考え込むような表情を見せた。


「それだけじゃないんだ。僕……今年の花火大会に、水瀬さんに誘われたんだ」

「えっ、マジ?おめで───あっ、待てよ。心配してるのって、もしかして……」

 高橋は途中で気づいたように言葉を飲み込む。楓が抱えている不安の意味を察したようだった。


「そうなんだ……。夢で見た夏祭りの光景と、今年の花火大会の話がリンクしてる気がしてならない。それが……どうしようもなく怖いんだ」

「確かに、それは怖いな。もしさ……その夢が『予知夢(よちむ)』だったら、やばいかもな」

「予知夢?」

 楓は不意に耳慣れない言葉に反応した。


「未来に起こる出来事が、夢の中で先に現れるやつのことだよ。なんか、この国は何年何月何日に大地震が起きるみたいなことを書いた本とかがたまにあるけど、あーいうのも予知夢とかが根拠だったりするやつね」

「そんなのがあるのか……」

 楓はその言葉に引っかかりを覚えた。もし、あの夢が未来を暗示しているとしたら──。その考えだけで、胸の奥が冷たく締めつけられるようだった。

 未来であのような交通事故に遭う暗示……。もしそうだとすれば楓には防ぐ余地があるのか。しかし、未だはっきりしないあの少女の名前がずっと引っかかる。


「高橋、夢に関係する話とか、他にも何か知らないか?都市伝説とか……何でもいいから教えてほしい」

「夢の都市伝説か……ちょっと待ってな。すぐ調べるわ」

 高橋はスマホを取り出し、ネット検索を始めた。楓は黙ってその様子を見守る。しばらくすると、高橋が「これ、聞いたことある」と声を上げた。


「なにか見つかったのか?」

「ああ、『死に戻り』ってやつなんだけどさ……知ってる?」

「死に戻り?」

「過去に後悔を抱えて亡くなった人が、もう一度現世に戻ってきて、やり直そうとする話だよ。オカルトチックなやつだけどな」

 楓はその言葉に引き寄せられるように顔を上げた。


「……後悔を抱えて、戻る……」

 妙に耳に残るその響きが、楓の心をざわつかせた。


「あっ、いや、夢とは関係あるらしいけど詳しくは書いてないなこれ。ただ、この街含め、この辺りでは結構有名な都市伝説だって書いてある」

「死に戻り……都市伝説らしい感じがするな。現実味のなさがね……」

「むしろ、現実味のない感じが、夢と関係あるとか?」

「一概にそうとは言えないけど、可能性はあるよな」

「楓も調べてみるといいかもな」

「……そうだな。少し考えてみるよ。ありがとう、高橋」

 死に戻りという都市伝説が、昨晩の夢と何らかの関係があるのかもしれない。そう考える一方で、都市伝説をそのまま信用するのは早計に過ぎる。昼休みになれば、図書館で文献を調べ、夢や違和感に繋がりそうなものを探してみることにした。

 前回都市伝説を直接取り扱った本を探した際には、ほとんど何も得られなかったが、オカルトや心霊現象といった広い視点で探せば、手がかりとなる情報があるかもしれない。


 昼休み、楓は親が用意してくれた弁当を素早く平らげると、教室を出た。湿気を帯びた夏の空気が充満する渡り廊下を駆け抜け、冷房の効いた図書室へと急ぐ。

 ひんやりとした空気に触れると少しだけ気が楽になったが、時間の限られた昼休みでは悠長にしている暇もない。楓は一目散に書架へ向かい、関連する本を手当たり次第に探し始めた。


 オカルトや霊に関する本、民間伝承をまとめた資料、夢や心理に関する文献───可能性がありそうなものを次々に取り出してはページをめくり、ようやく一冊、興味を惹かれた書物に目が留まった。


「『影送りの少女』……なんだこれ……?」

 楓はその文献の一節を読み始める。

 影送りとは、亡くなった人の「影」を現世から天へ送り返す儀式を起源とする、日本の古い風習らしい。本来は供養(くよう)として死者の魂を慰めるものだったが、時代が経つにつれ「影を送り返すことで死者の未練を断ち切る」という解釈が生まれたそうだ。

 この影送りの儀式が現代に形を変えたものとして、ある都市伝説が語り継がれているらしく、それが「影送りの少女」という話だ。

 

 この都市伝説によれば、影送りの現象が現れる人にはいくつかの前兆があるという。

 一つ目として、夢の中に見知らぬ少女や少年が現れる。彼らはじっとこちらを見つめるが、声を発することはない。夢の最後には、自分や他人の影が消える場面が現れる。

 また、日常生活で自分の影が薄れて見えるようになるとも言われる。ただし、自分以外の誰も気づかないため、指摘しても「気のせいだ」と片付けられる。ある調査では、夢の中の少女が現実で見えたという事例も確認されているらしく、その少女は既に、影を失っていたという話も。

 最終的に影が完全に消える。その日、影を失った人は謎の事故や事件によって命を落とすと言われていて、逃れられないと言われている。


 楓は文献を読み終え、ページをめくる手が止まった。


「……影が薄れる……夢の中で影が消える……」

 昨晩の夢を思い出し、背筋が冷たくなった。夢の中で目撃した咲良に似た少女。あの最後の場面───花火の光が空に散る中で、彼女が倒れ、影が薄れて消えていった光景。それがこの影送りの都市伝説に酷似している。


「影を失った人間は命を落とす……」

 楓はその言葉を反芻する。まるで昨晩の夢が自分への警告だったかのように思えてくる。影送りが暗示する「死」は、咲良に関係しているのだろうか。いや、それとも……自分自身のことを指しているのか?

 この都市伝説が本当だとして、夢で見ていたあの少女は、影送りの少女と同一人物だとしたら、拭いきれない不幸が襲いかかる予感がしてならなかった。


 混乱と恐怖が楓の胸を支配していく。影送りの少女という都市伝説の存在が、今まで以上に現実味を帯びて感じられた。


「他の本も探してみよう」

 そう言って、さらに本を探す。影送りの少女という話から関連して、この夢の正体と影送りの関係性が有力になってきた。他にも数個、有力なものを楓の中に作り、あとから矛盾を導き出すのが効率がいいだろう。


 少しした後、気になる本が見つかった。

「これは……『死を案内する少女』……?」

 次の本は、『死を案内する少女』というものらしい。

 少女というキーワードから、何となくではあったが手に取ってみることにした。


 「死を案内する少女」という都市伝説は、特定の地域で語られている。この少女の姿は特徴的で、顔は鼻から上が見えないような形で隠されていると言われている。


 少女は、夕暮れ時や人けの少ない場所に現れることが多い。そして、目撃者と目が合うと、まるで誘うようにその場を離れ、どこかへと案内する素振りを見せる。少女について行くと、徐々に周囲の景色が薄れていき、やがて完全に消失するという。そして、案内された場所で少女が急に立ち止まり、ついてきた人の手を掴む。掴まれた者はそのまま「死の世界」へと引きずり込まれそうになるのだと言われている。

 実際にこの少女を見たとされる人々の証言には、以下のような共通点がある。

 少女を追っている最中に頭痛がしたり、身体が重く感じたりする。また、異様な寒気や鳥肌が立つなどの異常が報告されている。

 また、少女に近づくにつれて、説明できないような不安感や嫌悪感が募る。ある人は「その場から逃げ出したくなるような感覚だった」と語った。

 最後に少女が手を掴む場面に至らなかったとしても、足を引かれるような感覚や動けなくなる体験をした人もいる。


 この都市伝説には、一件だけ実際に人が亡くなったとされる事件もあり、ある男性が夜中に不審な少女を目撃し、彼女を追いかけた。その後、男性は遺体で発見され、死因は高所からの転落死だったという。目撃者の証言と符合する点が多く、以来この話はさらに広まったと言われている。

 

 楓は「死を案内する少女」の記述を読みながら、夢で見た咲良に似た少女のことを思い出していた。夢の中で少女が何かを案内しようとしたような気もしなくもない。その感覚は、記録にある「死を案内する少女」に手を掴まれる瞬間の描写に似ている点もあると思えた。

 また、時系列のように羅列された夢の中で少女が「どこかへ連れて行こうとしている」ように見えたことも、この都市伝説と関連しているように思えた。楓は、夢と現実の境界が曖昧になっていくような感覚に襲われ、頭の中で新たな疑問が生まれる。


「まさか……咲良がこの少女と何か関係しているとか……?」

 しかし、都市伝説にある「鼻から上が見えない」という特徴だけは、夢で見た咲良の姿と一致しない。楓は、自分の夢がこの話に基づいた単なる偶然なのか、それとも深い関連があるのかを確信できずに、混乱を深めていくのだった。


「でも……これは違うかなぁ」

 少女、という点では合致しているが、楓はその夢の中の少女について行こうとしても出来なかった。現実でその死を案内する少女が現れるとすれば、これは楓の経験と比較した時間違っている気もした。


「他を当たろう……」

 楓は一人きりで文献を探し続けた。


 「無人のクラスメート」「鏡に触れる少女」「呟く墓石」「五感が消失した少女」「怨みを抱いた地縛霊」……。次々と本をめくり、ネット検索を試し、それらの都市伝説を調べてみた。どれも部分的には夢や咲良の状況と似通っているものの、すべてが合致するものは存在しない。


 昼休みの残り時間はあっという間に過ぎ去り、ため息をつきながら楓は手に取っていた本を元の場所に戻した。指先から離れる本の感触が、何も成果を得られなかったという現実を一層際立たせるようだった。


 都市伝説に固執するのは間違いだったのだろうか?

 ふと、そう考えた。そもそも夢の内容や咲良の言動を、こんな形で結びつけること自体が無理があるのかもしれない。


 咲良のことについて、ただ深く考えすぎているだけなのだろうか?

 この行動になにか意味はあったのだろうか?

 予知夢だとしても、その未来をどうにか打開できないのだろうか?


 次から次へと疑問が頭を埋め尽くし、息苦しいような感覚に襲われる。なぜここまで必死になっているのか、自分でも分からなくなっていた。


 「……僕、どうしちゃったんだろうな」

 独り言のように呟いても、返事をしてくれる人はいない。図書室の冷たい空気だけが、楓の熱を奪うように静かに流れていた。

 それでも、どこかに何かがあるはずだと信じたかった。

 楓は小さく肩を落としながらも、授業に遅れる訳にはいかず、そのまま教室へ戻ろうと図書室を後にした。

 

 帰りのショートホームルームが終わり、楓はいつもよりも早く席を立った。クラスメートたちの笑い声や雑談が遠く聞こえる中、自分だけがまるで別の世界にいるような感覚に陥っていた。


 鞄を持って廊下を歩く足取りは重く、外に出ると夕焼けの赤い光が目に染みた。今日一日、自分が何かを掴めたのかと考えると、胸が苦しくなるような虚しさが広がるばかりだった。


「……何やってんだろうな」

 つぶやいた言葉は風に流され、誰の耳にも届かない。まるで何か大事なものを失ったような感覚に苛まれながら、楓はぼんやりと校門を出た。


 帰り道の途中、ふと思いつきでスマホを取り出し、咲良の連絡先を開いた。チャットリンクの画面には、咲良から送られてきた直近のメッセージが表示されている。それは数日前、花火大会に誘われたときのやり取りだった。


『今年の花火大会、一緒に楽しもうね』

『うん、そうだね。よろしくね』

 短い文章のやり取りが、妙に生々しく思えた。返信を打とうとする指が、画面の上で止まる。


 ───何を話せばいい?

 今日のことを話すべきなのか、それとも適当な話題で気を紛らわせるべきなのか。そもそも、自分が咲良にどう接するべきかすら分からない。ただ、咲良の存在が自分の中で大きくなりすぎている気がして怖かった。

 夢で咲良と似た少女が死ぬところを見た……?いや、そんな話題を切り出して手違いだったらどうする。


「……やっぱり、いいや」

 画面を閉じてスマホをポケットに戻すと、楓は小さく息を吐いた。そして、足を速めて家へ向かった。


 家に帰ると、誰もいないリビングの静けさが迎えてくれた。両親はまだ仕事で帰っていないらしい。鞄をソファに置き、制服のネクタイをゆるめると、楓は思わず大きく背もたれに身を預けた。

 頭の中では、「影送りの少女」や「死を案内する少女」、そして咲良のことがぐるぐると巡っている。あれだけ調べたのに、結局なにも掴めなかった自分が情けなく思えてきた。


「もっと調べないと……」

 机に向かい、パソコンを開いて再び検索を始める。7月初めの期末テストの勉強なんて、する気にもならない。だが、どちらにせよ、何を調べればいいのかすら分からなくなっていた。都市伝説、霊現象、予知夢……手当たり次第に検索ワードを入力してみるが、出てくる情報はどれも曖昧なものばかりだ。


 次第に、画面を見る目が疲れて重たくなる。手は動いているのに、頭がついていかない。結局何も手に入れられないまま、楓はパソコンの画面を閉じた。


「……もういいや」

 椅子に座ったまま天井を見上げると、心の底から無力感が押し寄せてきた。何もできない自分が、嫌でたまらない。


 気がつくと、楓はベッドの上に横になっていた。制服を着たまま寝落ちしてしまったらしい。時計を見ると、既に夜の10時を過ぎていた。疲労感が全身を包み込む中、目を閉じると自然と意識が遠のいていく。

 気乗りしない中で何とかお風呂を済ませてくると……そのまま眠りについた。


**

 

 夢を見た。

 これまでの夢とは違う。あの少女や少年の視点に囚われるものではなく、確かに「自分自身」、楓の視点だった。そして何よりも分かるのは、この夢の中で、自分の意思で動けるという感覚。


「……どういうことだ。夢の中で、自由に動ける……?」

 楓は周囲を見回した。目の前には大きな桜の大木がそびえ立っている。満開の花がキラキラと風に舞い、薄桃色の花弁が空に溶けるように消えていく。


 だが、季節感がおかしいことにすぐ気が付いた。今は夏のはずだ。こんな見事な桜が咲いているはずがない。そうだ、これは夢だからこそ見られる光景なのだろう。


「……ここはどこなんだ?」

 桜の大木の向こうに、長く続く平坦な道が伸びている。道はまるで地平線へと溶け込むように果てしなく続き、どこにも終わりが見えない。足元の地面を見下ろすと、それはアスファルトでもコンクリートでもない、どこか奇妙な質感を持つものだった。まるで、触れると吸い込まれそうな黒い靄が地面の表面を覆っているようだ。

 楓は戸惑いながらも、自然と足を動かしていた。桜の大木へと向かうその道を、一歩ずつ歩いていく。


 風が吹くたびに、桜の花弁が宙を舞い、肌に触れるかと思えば、触れた瞬間に消えてしまう。触覚すら幻想のように感じるこの感覚が、ここが現実ではないと訴えかけてくるようだった。


「……夢だ。だけど、何か意味がある気がする……」

 先へ進むほどに、桜の木は徐々に大きく見えてくる。だが、それと同時に、どこからか不思議な気配を感じ始めた。胸の奥がざわざわと騒ぎ、不安と期待が入り混じったような感情が込み上げてくる。


「この先に……何かがある?」

 足音が静かな空間に響く中、楓は桜の大木に向かって進み続けた。その場所が、これから自分に何を語りかけてくるのかも分からないまま───。


「……」

 目の前に、ひとりの少女が立っていた。

 少女は、大きな桜の木の下でじっと佇み、何かを待っているようだった。その姿には、どこか懐かしさと切なさが入り混じっている。吹く風に桜の花びらが揺れ、その影が彼女の表情を隠すように覆った。やがて、少女はこちらに気づき、ゆっくりと振り返った。


「君は───」

「……やっと、来てくれたんだ」


 その一言に、楓の胸に微かな既視感が走る。目の前の景色は、これまで夢で見てきたものとどこか似ていた。ただ、目の前の少女は少し違う。咲良のようにも見えるが、それとは微妙に異なる雰囲気を纏っている。


「水瀬さん……じゃないよね?」

「うん、半分正解で、半分不正解かな」

「どういう意味だ……?」

 楓は眉をひそめた。曖昧な言葉の中にある確信めいた響きに、不思議な違和感を覚える。


「まぁ、そんなことは今は気にしないで。大事なのは、あなたがここに辿り着いたってこと。つまり、あの『夢』をすべて見終えたってことなんじゃないかな」


 少女の言葉に、楓の心がざわめく。

「夢……?君は……どうして僕が夢を見ていたことを知っているんだ……?」

 その問いに、少女は微笑むような表情を見せる。しかし、どこか悲しげにも見えた。


「ううん、私に答えを聞いても無駄だよ。こういうのはね、自分で気付かないと意味がないんだよ」

 少女の声はどこか柔らかく、それでいて不可解な重みを持っていた。楓は反論しようと口を開きかけたが、結局何も言えなかった。その言葉が持つ奇妙な説得力が、彼の中にじわりと染み込む。


───気付かないといけない?何に?

 思考の霧が晴れないまま、少女はふいに桜の木を見上げ、ぽつりと話しかけた。


「ねぇ、楓くん。君は、あの水瀬咲良って子のこと、どう思ってる?」

「……えっ?」

 名前で呼ばれながらの唐突な質問に、楓は思考が止まった。


「彼女が何を抱えて君に関わっているのか、何のために君を選んだのか……考えたことはある?」

「それは……」

 楓は言葉に詰まり、視線を足元に落とした。考えたことがなかったわけではない。けれど、それ以上深く踏み込むことをどこかで恐れていた。自分が触れてはいけないものを暴いてしまう気がして───。


「質問してもいい?」

 少女の声が再び響く。今度は楓の名前を呼びながら、真っ直ぐに彼を見つめてきた。その視線には、奇妙な圧力が宿っているように感じられた。


「霧島楓くん、彼女のこと───好きだと思ってる?」

「……」

 突然の問いに、楓の心が大きく揺れた。

「この質問に曖昧な答えは要らない。はい、いいえ、どっち?」

 言葉は鋭く、逃げ道を断ち切るようだった。


「それは───」

 答えを紡ごうとするたびに、自分の中で渦巻く感情が邪魔をする。彼女に抱く感情。それは何なのか、自分でも掴みきれない。けれど、この問いに答えを出さないわけにはいかない───そんな予感が楓の胸を締めつけた。


「───好きだ」

「やっぱり。予想通りの答えだった」

 楓は、咲良に抱く気持ちを、ようやく言葉にした。

 それは、あまりにも自然に浮かんだ答えだった。

 咲良の優しさ、その一挙手一投足、笑顔、そして声───すべてが、楓の心に鮮明に刻まれている。彼女が放つ雰囲気に見とれていたのも、無理はない。彼女がどこか遠くに、触れることができない存在に思えても、どうしても気になって、惹かれてしまう自分がいた。

 だからこそ、あの夢が異常に怖く感じた。

 今まで感じたことのない恐怖だった。

 それがもし、本当のことなら───。


「でも、これで少しは楽になったかな?」

 少女の言葉が続く。

 楓はその言葉を呑み込んだ。彼はそれに答えることができず、ただ黙っていた。


「認められたことは、とてもいい事だと思う」

「……何が言いたいんだ…?」

「……はぁ、薄々君も気づいているはずだよ。私がなぜここにいて、なぜ君に話しかけるか───」

 少女の質問に、答えなんて出てこない。薄々気づいてるって、なんのことについて……?ずっと曖昧に話しかけているのにも、違和感は残るだけ。


 その時だった。

 少女が急に、言葉を変えた。

 その声が、まるで氷のように冷たく、真っ直ぐに楓の胸を貫く。


「残念な話をするけど───」


 その瞬間、楓の心臓が跳ねた。何かが胸を突き刺すような感覚が走る。

 そして、少女は続けた。


「───あの、水瀬咲良は、残り一ヶ月の命なんだ。」

「えっ……?」

 その言葉は、楓にとってまるで雷が落ちたかのような衝撃だった。

 一瞬、世界が静止したかのように思えた。周囲の音が遠く、薄れていく。楓はその場で動けなくなった。

 死───それは、あまりにも突然すぎた。


「死……?どういうことだ……?」

 楓は、思わずその言葉を口にしていた。だが、頭の中では言葉がうまく繋がらない。現実が信じられなかった。


「言葉のまんまの意味だよ。彼女は、あと一ヶ月後に死ぬ。彼女の運命はそう定められているんだ」

 少女はどこか冷静に言った。


「運命───そんなことがなんで言えるんだ……?」

 楓は震える声で呟いた。

 咲良が死ぬ───そんな現実が、まるで受け入れられない。しかし、あの少女がデタラメを言ってるようには見えなかった。

 その瞬間、楓の目の前に浮かぶのは、咲良の笑顔だった。

 あの笑顔が───もう、見られなくなるなんて。そんなこと、考えたくもない最悪の仮説だった。あの夢で見た少女が死ぬシーンが、現実の未来で起こるとでも言うのだろうか。

 その思いが胸に湧き上がり、楓は息が詰まりそうだった。


「一ヶ月後───じゃあ、どうして僕にそんなことを教えるんだ?」

 楓は、意を決してその質問を口にした。

 少女は、それに対して少し間をおいてから答えた。


「彼女のためにも、あなた自身のためにも……あなたには、思い出すべきものがある。そのために、少し急いだ方がいいって暗示しただけに過ぎないよ…」

 その答えは、難しいように言っているが、なにか答えにたどり着くためのヒントのようだ。だが、言葉にできない重さがあった。

 

「彼女のため……」

 楓の頭の中で、言葉がぐるぐると回る。咲良が死ぬ───それが確定したとき、楓がどうすればいいのか、全く分からない。そもそも、楓が何を失っているのか分からないのに、そのなにかを取り戻すヒント代わりとして咲良が死ぬ、そんな言い方は相応しくないと思える。

 そして、それを何とか受け入れようとした時、少女は再び口を開いた。


「……受け入れるかは自由だよ。それが、あなたの『選択』になるんだから。嫌なら、その失った記憶の真実から逃げたっていいんだからね」

 その言葉は楓に、重く、そして深く響いた。選択───何を選ぶべきか。

 その問いに答えるために、楓は自分の中の全てをかけて考える必要があった。

 だが、その時点では答えが見えなかった。

 ただ、咲良のことだけを思い浮かべる。

 彼女がどんなに優しく、真剣で、心の奥に隠した思いを抱えているかを───。


───でも、どうして一ヶ月後に死ぬって分かるんだ?一ヶ月後というと、夏祭りの日がまさにそれだった。そこで死ぬ事を事実として突きつけるなら、この少女こそが、夢の中の少女なのか?

 その問いが胸にこだまする。

 答えを求める間もなく、少女は静かに言葉を続けた。


「その答えも、あなたが探さなきゃいけないことだからね。私も答えを言いたいけど、それは私の事情で出来ないんだ」

 その言葉が楓の心を、さらに深い迷路へと導く。

 すべてが繋がる瞬間を感じながら、楓はその事実を噛み締めた。

 

「───そんなに分からないのなら、ヒントを出してあげるよ。君は、何かを失っているの。失ったものを取り戻すためには、まず彼女に付き添ってあげる必要がある」

「何かを失っている……?」

「うーん、咲良にしっかり付き添ったとして、それでも分からないなら、君の親友の高橋って子に、話を聞いてみたらいいかもね」


 その一言に、楓の心臓が一瞬止まった。

「なんで……高橋までも知ってるのか?」

 まさか、まさか高橋まで───どうして彼の名前がここで出てくるのだろうか。


「まぁね。とはいえ、ここで私から全てを聞いて、答えを見つけられるのは困るんだ。だから、知識面のサポートと、暗示くらいしか私にはできない」

 その言葉に、楓は頭を抱えたくなった。

 すべてが迷路の中に閉じ込められたように感じる。咲良の死が「確定」しているような言い回しに、まだ納得がいかない。信じたくない───でも、どうしてこんなに具体的に、そして淡々と語られるのだろうか?


「あなたは───誰なんだ?」

 その問いが、ついに口から出てしまう。どれだけ自分が混乱しているのか、どれだけ真実に触れたくないのかが、言葉になって漏れた。


「私?私は───。名前のヒントはあの夢で言っていた「はる」って言葉かな」

「はる……」

 その名前は楓にとって、まるで何かが引っかかるような、どこか馴染みがありそうで遠い名前だった。だが、そこに意味があるとは感じられなかった。はる、が本名では無いのは明白で、おそらく本当の名前があるはずだ。


「その場で考えても意味は無いよ。今のあなたでは、私が誰なんて分からないからね。それに、今このタイミングで私の名前を知っても、意味が無い」

 その言葉に、楓は強い違和感を覚えた。意味が無い───そう言われてしまうと、逆にその「意味」の中に何かを隠されているようで、無性に焦燥感が募る。


 自分が何か大切なことに気づいているようで、でもそれが何なのか分からない。

 少女の言葉のひとつひとつが、楓を迷わせ、焦らせる。


「高橋に話を聞く───水瀬さんに付き添う───」

 楓は呟きながら、胸の中でその言葉を繰り返す。だが、その意味を掴むことはできない。どうして高橋なのか───最近話したことと言ったら…都市伝説の死に戻りの話くらいだが、それが何を示しているのかも理解できないままだ。


───過去になにかあったのか、出来事を整理させて、死に戻りについても調べよう。

 現実に戻ったらこのようにしようと考えた。楓は一つの答えが自分の中で浮かんでくるような気がした。だが、それを答えと証明する手立てもない。


「あなたが言う『失ったもの』、それは『彼女に付き添う』ことが関係しているんだよね?」

 楓は確認するようにその言葉を繰り返す。


「うん、そうだよ。それが繋がって初めて、君は過去を取り戻すことができる。彼女もきっと、君のことを待ってるはずだよ」

「過去───?」

「うん、でもそれを取り戻すためには、君自身がその痛みを感じなきゃいけない」

 痛み───その言葉が楓の心を一瞬で冷やす。

 過去を取り戻すには、どうしてもその痛みと向き合わないといけない、というのは、楓自身、過去に事故に遭ったということなのか?

 夢の中で、うっすらと「楓」と少女が名前を呟いていた気がした。そのことを思い返すなら……。少女は少年を押したから、てっきり少年は事故に巻き込まれなかったと自己解釈していたが……そのことすらもどこか間違いがあるのだろうか。夢の正体についても、まだ過去の記憶と断定しきれない今、その解釈が真実に近づく鍵になるとは思えない。


「高橋って子、結構君の出自について知ってると思うけどな。彼は、結構特殊なタイプだね。私の知ってる事実に反することを、よくしていたから。だから、高橋くんも実はかなり大事なキーワードって思っておいてね」

 その言葉に、楓は再び震える。高橋が───そんなことまで知っているのか?


「どうして……」

 言葉を発しながらも、楓はその答えを求めることができない。理解できるはずがない。

───その『失ったもの』とは一体何なのか?

 それが、楓の胸に突き刺さる問いだった。


「あっ、そうだ。別れる前に、お願いがあるんだ」

「えっと…なにかな?」

「彼女には───強い言葉で尋問したり、圧迫感をかけないであげて欲しいな。それだけ」

「うん……。でも、まずは何をするべきなの?」

「最初のステップってこと?そうだね……。明日、君は土曜日でお休みのはずだよね。彼女の家に行ってみたら?それで、なんでその前の日に欠席していたのか、改めて聞いてみるといいんじゃないかな」

「……わかった」

 そう言うと少女は振り返り、先の見えない地平線の向こうへと歩いていく。振り向き「君がなるべく早く、この謎の正体に気づけることを願ってるよ」と言い残し、消えていった。

 しばらく夢だということを忘れていた。少女の声が完全に聞こえなくなり、姿まで見えなくなると……自然と意識が現実に引き戻されるような感覚になっていく。


 気づけば目覚め、部屋のカーテンの隙間から、夏の暖かい日差しが入り込んでいた。


**


 目が覚めた時、楓はしばらく考え込んでいた。

 今日は休日。本来ならテスト勉強に時間を割くべきなのだが、今の楓にはそれどころではなかった。時計を見ると、時刻は午前9時を少し回ったところ。どうやら少し寝すぎたらしい。

 楓は急いでスマートフォンを手に取り、チャットリンクを開いた。そして、咲良とのトーク画面に視線を落とす。何を話すべきかは決めていなかったが、昨日夢で出会った少女の言葉を思い出し、思い切って咲良に連絡を取ることにした。


『おはよう、水瀬さん』

 送信ボタンを押すと、数分もしないうちに返事が返ってきた。その速さに、少しだけ安心する。


『おはよう霧島くん。どうしたの?』

 しかし、その安堵も束の間だった。咲良が一ヶ月も経たないうちにこの世から居なくなる───夢の中で告げられたその言葉が、現実味を帯びて楓の胸を締め付ける。信じたくない。でも、向き合わなければならないのだと、夢の少女は言っていた。

 楓は気を落ち着け、なるべく自然な流れでメッセージを続けることにした。


『体調とか大丈夫?昨日学校休んでたみたいだけど……』

 咲良に余計な負担をかけないように、慎重に言葉を選ぶ。


『ううん、もう大丈夫だよ。心配してくれてありがとね。霧島くんくらいだよ、私のこと気にしてくれるの』

『そんなことないよ。でも、元気そうなら良かった』


 その言葉を見て、楓は少しホッとした。だが、その奥に潜む焦燥感を拭い去ることはできなかった。どんな形であれ、咲良と向き合うための行動を起こさなければならない──その思いが、楓を突き動かしていた。

 今日の予定は、ただ咲良の安否を確認するだけでは終わらせない。彼女の抱える不安や悩みに寄り添い、少しでも心を開いてもらうきっかけを作ること。それが、今の自分にできる精一杯のことだと感じていた。


 しかし、どうやってその一歩を踏み出すかが問題だった。

 夢の少女の言葉を頼りに、咲良の家を訪ねることは決めていたものの、理由もなく突然押しかけるのは理にかなっていない。それに、「君が死ぬ運命だと知らされた」などと打ち明けるわけにはいかない。もしそんなことを伝えれば、咲良を不安にさせるだけでなく、信頼を失うかもしれない。それだけは避けたい──楓は、改めて慎重に言葉を選ぶ必要があると感じていた。


 何か口実を考えなければならない。自然で、彼女を傷つけない方法で、自分の思いを伝えたい。楓は再びスマートフォンの画面を見つめ、しばらく考えに考え込んだ後、思い切ってメッセージを打ち込んだ。


『実は、最近少し悩んでて……誰かと話したいなって思ってたんだ。水瀬さんが元気なら、少しだけ時間もらえないかな』

 送信ボタンを押した瞬間、心臓が跳ねたように鼓動が速くなる。咲良がどう答えるか分からない。だが、無理に理由を作るよりも、自分の気持ちを素直に伝えた方が良いと思った。


『悩み?霧島くんがそんなこと言うなんて珍しいね』

『うん。ちょっとね。でも大したことじゃないから、もし迷惑なら無理しないで』

 数秒後、咲良から返事が返ってきた。

『そんなの、迷惑じゃないよ。むしろ嬉しいかも。私で良ければ、話聞くよ』

 その一言に、楓は胸を撫で下ろした。同時に、咲良の優しさに胸が締めつけられるような感覚を覚えた。彼女に会える安心感と、限られた時間の中で何ができるのかという焦燥感が入り混じる。


『ありがとう。それじゃあ、今日家に行っても大丈夫かな?』

 少しの間を置いて返ってきたのは、咲良の変わらない明るい返事だった。

『うん、昼過ぎくらいなら平気だよ。それまでにちゃんと掃除しておくね』

『気を使わなくて大丈夫だよ。でもありがとう。じゃあ、また後で』


 メッセージのやり取りを終えた後、楓は深く息を吐いた。咲良と直接会える。その事実だけで、彼の中にあった漠然とした不安が少しだけ和らぐ気がした。

 けれども、その一方で、これが本当に良い方向に進むのかどうかは分からない。残された時間の中で、自分が彼女に何を伝えられるのか──それを考えると、まだ胸の奥に重い影が落ちていることに気づいた。


 咲良の家は、楓の住む住宅街と同じエリアにあるアパートだ。以前、お見舞いに行ったときに教えてもらった部屋番号を頼りに、彼はその前に立った。静かな廊下に、緊張した自分の呼吸音が響いている気がする。

 意を決してインターホンを押すと、すぐに咲良の声が聞こえてきた。


「いらっしゃい、霧島くん」

 ドアを開けた咲良は、柔らかな笑顔を浮かべていた。

「こんにちは、水瀬さん……」

「ふふ、かしこまらないで。お茶を用意してるから、ゆっくりしてね」


 彼女に促されて部屋に入ると、目を奪われる。前にお見舞いに来た時はあまり気にする暇もなかったが、改めてよく見てみると、整頓された室内には、窓際や棚の上に花が飾られている。小瓶に挿したカスミソウやドライフラワーが、日の光に照らされて穏やかな雰囲気を作り出していた。

 テーブルに並べられたカップを受け取り、そのお茶を楓は一口飲んだ。

 

「爽やかな味で香りもよくて……すごく飲みやすいね」

「やだ、そんなに褒められると照れちゃうよ」

 咲良が照れ笑いを浮かべるのを見て、楓も思わず口元を緩める。


「カモミールティーって言うんだよ。リラックス効果があって、夜に飲むとよく眠れるんだって」

「カモミール……。なんだか懐かしい感じがする」

 その言葉を聞いた咲良は、ふと思い出したように立ち上がり、棚の上から小さな瓶を手に取った。そして、中に入った白と黄色の花を楓に見せる。

 

「カモミールってね、こんな花なの。この白い花びらと真ん中の黄色、可愛いと思わない?」

 楓は目の前の花に見入った。その形や色に、どこか見覚えがあるような気がしてならない。

「水瀬さん、花が好きなんだね。お部屋にもいろんな花が飾られてるし」

「ふふ、昔からね。お母さんがお花を育てるのが好きで、小さい頃はよく一緒に手伝ってたの。だからかな、花には特別な思いがあるんだ」

「へえ、すごいね……」


 咲良は少し視線を落としながら、カモミールの花をそっと撫でる。

「実は、一時期だけど、お花屋さんになりたいって思ったこともあったんだよ。お花って、不思議だよね。咲いてるだけで、誰かの心を癒やす力があるなんて……」

 その言葉に楓は、静かにうなずいた。カモミールの花を見つめる彼女の横顔は、どこか懐かしく、そして儚げに見えた。


「そうだ、相談したいことって何かな。言える範囲で大丈夫だよ、教えてほしいな」

 咲良が優しく微笑みながら問いかけてきた瞬間、楓は心の中で息を飲んだ。しまった──。悩み事があるというのは会いに行くための口実に過ぎず、肝心な設定を考えていなかったことに気づいたのだ。


 焦る楓を見て、咲良は少し首をかしげた。

「どうしたの?悩みって、そんなに難しいことなの?」

「いや、その……」

 なんとか言葉を探そうとする楓の様子を見て、咲良はふっといたずらっぽい笑みを浮かべた。

「もしかして、私に会いたかっただけとか?」

 その言葉に楓の胸が跳ねた。


「そ、それは……そうじゃなくて……。ちょっと、変なこと言うなよ」

 急いで否定するものの、声が上ずってしまう。図星を突かれたせいで、顔が熱くなるのを止められなかった。


「ふふ、霧島くん、わかりやすいね」

 咲良は楽しげに笑った。その明るい笑顔に楓は一瞬、言葉を失う。咲良が死ぬなんてことが、本当にあり得るのだろうか?そんなふうに考えてしまうほど、彼女は今、輝いて見えた。

 まるで彼女自身が、部屋に飾られた花々と同じように、その場を穏やかで暖かな空気で包み込んでいるかのようだった。


「……でも、もしそうだったとしても、嬉しいよ。わざわざ会いに来てくれるなんて」

 咲良がそう言ってふと視線を落とす仕草に、楓は思わず息を呑んだ。胸が高鳴るのが、自分でもはっきり分かる。


「な、なんでもないよ。ただ……たまにはこうして話すのも悪くないってだけだから」

 楓は必死にごまかしたが、その言葉にはどこかぎこちなさが混じっていた。それでも、咲良はそんな楓をじっと見つめ、静かに微笑んだ。


 彼女の用意してくれたカモミールティーを飲み終わると、咲良は自然とカップを洗って片付けてくれた。


「霧島くん、ねえ、もし時間があるならちょっと出かけない?」

「出かける?」

「うん。なんだか、霧島くんに会った途端に行きたくなった場所があって」

 咲良の提案に、楓は一瞬、戸惑った。自分に会った途端に行きたくなる場所なんて、一体どこだというのだろう。


「そこまで遠い場所じゃないよ。歩いてすぐのところ」

「……わかった。案内してくれる?」

「もちろん!」

 咲良が明るい笑顔を浮かべる。その笑顔を見ていると、なぜだか楓は断る理由が見つからなかった。彼女の言葉の裏に、何か特別な意味がある気がしてならなかったからだ。


「お待たせ。ここだよ」

 咲良に案内され、楓がたどり着いたのは広々とした芝生と池が印象的な公園だった。自然豊かなその場所は、穏やかな空気に包まれていて、子供たちが走り回ったり、犬を連れた人が散歩を楽しんでいるのが見える。


「ここ……来たことあったかな……?」

 楓はぼんやりと辺りを見回した。特に目を引いたのは、大きな桜の木だった。その木の下には木製のベンチがあり、咲良はそこを指差した。


「ここね、私のお気に入りの場所なの」

 咲良は楽しそうに言いながら、ベンチに腰を下ろす。楓も彼女の隣に座り、改めて桜の木を見上げた。


「夏だから花は咲いてないけど、この桜の木には思い出があるんだ」

「思い出……?」

「うん。何か落ち込んだり、一人になりたいときは、ここに来るの。木漏れ日を浴びながら自然を眺めてると、私の悩みなんてちっぽけだなぁって思えてくるんだ」


 咲良の穏やかな声を聞きながら、楓はふと胸の奥に微かな痛みを感じた。この場所には自分も覚えがあるような気がする。それが曖昧な記憶の断片であることが、なおさらもどかしい。


「桜の木……」

 楓は呟くように言葉を漏らした。その様子に、咲良は優しく問いかける。

「霧島くん、何か思い出した?」

 彼女の声は驚きでもなく、ただ静かな期待を含んでいるように感じられた。


「いや……思い出したわけじゃないけど……。不思議と懐かしい感じがするんだ」

「ふふ、そうなんだ。自然が綺麗な場所って、本当に癒されるよね。お花とか木とか、そういう『自然の芸術』って……私の心をずっと支えてくれるの」

 咲良は桜の木を見上げながらそう話した。その横顔はどこか遠い過去を見ているようで、楓は思わず言葉を飲み込んだ。


「……欠席してたときも、ここに来てたりしてたの?」

 勇気を振り絞ってそう尋ねると、咲良は少し照れくさそうに笑った。

「ふふ、当たり。ここでぼーっとしてたの」

 その笑顔があまりにも楽しげで、楓は彼女が「死ぬ運命にある」なんてことが、どうしても信じられなかった。彼女はあと一ヶ月後に死ぬ───そう、彼女自身が結末を知っているのに、無理して笑顔を作っているのか。あるいは、その結末を彼女は知らないのか───。どちらが答えなのかは分からないまま。

 欠席の理由は聞けなくても、何かの理由で悩み、この場所に来たのだろう。咲良の欠席については、後々に話が聞けると、そう思っていた。

 今の段階なら、欠席の理由が大きく楓に関与するものだと分かっていた。

 

「水瀬さんが欠席してたのは……やっぱり体調不良とかじゃなくて、何か悩み事があったから、ってことなのかな?」

「うーん、まぁ、それもあるかもね。あとは───」

 咲良はそう言うと、ベンチから立ち上がり、大きな桜の木の幹にそっと手を触れながら周囲を見渡した。


「この言葉をどう受け取るかは霧島くん次第だけどね───なんとなく、霧島くんと一緒にいない方がいいのかなって思ったのも理由の一つ」

「……」

 不意に告げられたその言葉を、楓は反芻した。どういう意味なのだろう。

 彼女が欠席した日の前日、楓はあの夢を見た。あの、少女が車に跳ねられる悪夢を。そして咲良が、まるでそれを知っているかのようなタイミングで学校を休んでいたことを思い出す。もし、彼女が自分の夢を知っているのだとしたら……?そんな非現実的なことを、楓は頭の片隅で考えてしまう。


「霧島くん、この景色を見て何か感じることはある?」

「この景色……懐かしい気がする。でも、どうしてかはっきりしない。そういえば、夢の中で似た景色を見た気がするんだ」

「夢?」

「うん。夢って、過去の経験が影響してることが多いんだろうけど、僕の場合は……」

 楓は咲良の表情を伺いながら、言葉を選んだ。


「最近、妙な夢を見るんだ。内容が断片的で、どうも現実と繋がりがあるような、ないような……。その夢に、水瀬さんに似た人が出てくることがあって」

 咲良の表情がほんの一瞬変わったのを楓は見逃さなかった。


「……私に似た?」

「うん。だから、自分でもなんだか不思議で。でも話しても信じてもらえないかもしれないから、どうしようか迷ってたんだけど」

「そんなことないよ。話してくれるなら、ちゃんと聞くから」

 咲良の声は穏やかだった。楓は一瞬迷ったが、どこか咲良がこの夢について何か知っているのではないかと思い、言葉を続けた。また、これが自分自身の、モヤがかかったような事実に突破口を開けるかもしれないと思った。


「夢の中で出会う彼女……水瀬さんとよく似てるんだけど、僕が覚えているはずのないことを話すんだ。そしてそれが、どこか懐かしい感じがして───正直、どう解釈すればいいのかわからない」

「……」

 咲良は少し視線を落とし、木の幹を指先でなぞりながら呟くように言った。

「それって、夢の中で過去の記憶を辿ってるのかもね」

「……どういうこと?」


 咲良は顔を上げ、少し意味深な笑みを浮かべた。

「聞いた話だけど、昔の記憶が夢として甦ることもあるらしいよ。それが本当に自分の記憶かどうかは別としてね」

「本当に自分の記憶かどうか……」

「そう。夢って、不思議なものだよね。過去と未来、現実と非現実の間にあるみたいで……」

 咲良の言葉は曖昧だったが、その中には何かしらの真実が隠されているように感じられた。

 

「……水瀬さんは、その夢について、何か知ってる?」

「私?」

 咲良は軽く首を傾げた後、ふっと小さく笑った。その笑みにはどこか含みがあるようで、楓の胸に小さな違和感を生じさせた。


「うーん……。でも、夢ってただの夢じゃないこともあるかもしれないよ。例えば───こういう不思議な現象には、都市伝説みたいな話だけど、『死に戻り』なんて言葉も聞いたことがあるよ」

「……死に戻り?」

 楓はその言葉に息を呑んだ。咲良の声は柔らかいものだったが、その言葉には不思議な力が宿っているように感じた。


 「死に戻り」。耳慣れないその言葉は、どこか聞き覚えがある気がした。しばらく考えてから、楓は思い出す───前に高橋が話していた都市伝説の断片だ。確か、それは「過去に亡くなった人が後悔を抱えたまま現世に戻ってくる」という話だった気がする。ただ、詳細はよく覚えていない。


「過去に亡くなった人が、後悔を晴らすために現世に再び舞い降りる、っていう言い伝えだよ」

 咲良は桜の木の幹に手を触れながら、どこか遠くを見るような目で語った。その視線には、どことなく憂いが宿っているように見える。


「後悔……」

「そう。それで、その副産物として、夢を見ることがあるんだって。ただ、その夢の詳細については私も詳しくは知らないけどね」

「副産物に、夢を見る……?」


 楓はその言葉を噛み締めるように呟いた。彼女の話す内容は都市伝説の域を出ないはずなのに、どこか現実味を帯びている気がする。それが自分の夢と関係しているのか、それともただの偶然なのか、判断がつかない。ただ、胸の奥にわだかまりのようなものがじんわりと広がるのを感じた。


「それって……死に戻りした人が見る夢なのかな?」

 楓はおそるおそる尋ねた。自分でも突拍子もない質問だと思ったが、気になって仕方がなかった。


「どうだろうね。私もその辺は詳しくないから……でも、夢って、何かのメッセージみたいなこともあるのかもしれないね」

 咲良は曖昧に笑いながらそう答えた。はぐらかされたようにも思えるが、その微笑みにはどこか意味深なものが感じられる。


「夢のメッセージ……」

「うん。霧島くんの夢にも、何か大切な意味があるのかもしれないよ。たとえば、それが過去の記憶に繋がっているとか……ね」

「過去の記憶……」

 楓は咲良の言葉を繰り返しながら、ふと胸の奥に鈍い痛みを覚えた。何かを忘れているような気がする。いや、確かに忘れているのだ───ただ、それが何なのか、手がかりすら見つからないまま、霧の中を手探りで進んでいるような感覚。


「もし、夢がそうだとしたら……どうすればいいんだろう」

「それは……きっと、自分で見つけるものなんじゃないかな」

 咲良の答えは曖昧だったが、その声にはどこか優しさと強さが混じっていた。それ以上、楓は何も聞けなかった。ただ、咲良の横顔を見つめながら、彼女が自分以上に何かを知っているような気がしてならなかった。


 静けさの中、ふと楓は咲良の横顔に視線を向けた。彼女の瞳は遠くの景色を見つめているようでありながら、どこか懐かしい記憶に浸っているようにも見えた。


「……ねえ、水瀬さんって、小さい頃はどんなことしてたの?」

 咲良は楓の質問に少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに微笑みを浮かべた。

「小さい頃?そうだね……。うーん、何をしてたかな……。お花を集めるのが好きだったなぁ。たくさんの色と形の花を集めて、それをノートに挟んで押し花にしてたの」

「押し花?」

「うん。ノートを開くたびに、その花を集めた日のことを思い出せるのが嬉しかったんだ。それに、花って枯れても綺麗さが残るところが不思議だなって、子供の頃思ってたの」

 咲良は懐かしむように笑いながら話す。その表情を見ていると、楓の心に微かな記憶の断片が浮かんできた。


───夢の中で、少女が嬉しそうに花を拾い集めていた姿。そういえば、今まで見てきた夢の中に、この場所と似たような景色があった気がする。


「……他には?」

「そうだなぁ……秘密基地を作って、そこで友達と遊んでたことかな。特に四つ葉のクローバー探しが好きだったよ。見つけたらすごく嬉しくて、誰よりも早く見つけようって必死になってた」

「四つ葉のクローバー……」

 楓は小さく息を飲んだ。夢の中で、何を見つけたのかはぼやけていたが、何かを見つけたことに対して嬉しさを共有してくれたシーンがあったはずだ。あれは、四つ葉のクローバーの事だったのかもしれない。


「霧島くんは、子供の頃どんなことしてたの?」

「僕は……」

 楓は言葉に詰まった。記憶の中にあるべき小さい頃の光景が、どうしても明確には浮かんでこない。それでも、咲良の話を聞いていると、どこか懐かしい感覚が胸に広がっていく。


「なんだか、聞いてると……懐かしい気がするんだ。不思議なくらいに。僕にも似たようなことをしてたんじゃないかって思えるくらいに」

「ふふ、そうなの?」

「うん。でも、なんでだろう……。水瀬さんの話を聞いてると、ただの偶然って感じがしなくて」

 楓は夢の中で見た少女と咲良が重なっていく感覚を拭いきれなかった。けれど、それをそのまま口にするのはどこかためらわれた。


 咲良はそんな楓の戸惑いを察したように、ふっと目を細めた。

「もしかしたら、霧島くんと私の“懐かしい場所”や“好きだったこと”が、どこかで繋がってるのかもしれないね」

「繋がってる……?」

「うん。ほら、自然って、人と人を繋げる不思議な力があるって言うじゃない?私たちも、そんな“自然の力”に導かれてるのかも」

 咲良は冗談めかして笑ったが、その言葉にはどこか深い意味が込められているようにも感じられた。


 楓は言葉を失い、視線を桜の木へと向ける。その太い幹と高く伸びた枝葉が、自分の記憶の奥底に触れるような感覚を与えてくれる。


「霧島くんが、もっと何かを思い出したくなったら、またここに来ようよ。私も一緒にいるから」

 咲良の声は優しく、楓の心にそっと寄り添ってくれるようだった。彼女の言葉に頷きながら、楓の中で小さな決意が芽生え始めていた。


 ───失った記憶を、自分の手で取り戻してみよう、と。


 もう完全に確信に至った。

 間違いない。自分は記憶を失っている。しかも、失った記憶は自分の過去全体ではなく、「咲良」に関するものだけを、意図的に切り取られたかのように。


 今日一日で得た情報は、思い返すほどに強烈だった。咲良の何気ない発言や、夢との共通点。まるで一枚ずつ剥がされる古い壁紙のように、真実が少しずつ顔を覗かせている。だが、その壁紙の下に隠されているものを見るのが、怖くてたまらない。


 ───夢の中の事故で命を落とした少女。

 ───夢の中の、事故に巻き込まれ少女に助けられた少年。


 あれは紛れもなく自分自身だ。そして、事故に遭ったという事実もまた、自分の過去に違いない。


 「もし、あの夢が現実の過去だとしたら……僕は……」

 楓は無意識に拳を握りしめた。胸が締め付けられるような恐怖感が押し寄せてくる。

 それは、単に「過去の事故」の記憶を思い出すことが怖いのではない。それ以上に怖いのは、その事故に咲良が関わっている可能性が濃厚だということ だだった。


 彼女の言葉、夢の中で見た少女の姿、咲良自身が持つ得体の知れない雰囲気。それらが繋がり、一つの絵を描き始めている。

 「死に戻り」という言葉も、妙に頭に引っかかる。まるでそれが、咲良と自分を繋ぐ鍵であるかのように。


「……僕は、何を思い出してしまうんだろう」

 楓は歩きながら自問する。思い出したい。真実を知りたい。けれど、その真実があまりにも残酷なものだったらどうする?夢の中での事故が、もし咲良の運命をも左右していたとしたら───自分はその現実を受け止められるのだろうか。


 恐怖と希望の狭間で揺れる楓の心。それでも、彼は足を止めることはなかった。

「高橋に聞いてみよう……。死に戻りって、一体なんなのかを」

 咲良と共に歩いてきた道を戻りながら、楓は次の行動を決めていた。


 夢と現実、記憶と真実。それらが少しずつ重なり合い、楓を次の段階へと進ませようとしている。だが、それは同時に、彼がこれまで抱えてきた「平穏な日常」を大きく揺るがす第一歩になることも、楓は本能的に感じていた。


 咲良と別れ、家に戻った楓は、そのまま自室に入ると、ベッドに腰を下ろした。無意識にスマホを取り出し、高橋の連絡先を開く。画面に表示された名前をじっと見つめる。

 咲良との会話が頭の中で何度も反響していた。「高橋もかなり大事なキーワード」という夢の中の少女の言葉が、やけに耳に残っている。

 確かめるべきだ。今ならきっと、高橋が何かを知っているはずだ。


 そう自分に言い聞かせるが───手が動かない。

 画面に触れようとする指先が、なぜか止まってしまう。恐怖がじわじわと胸の内から湧き上がり、体を硬直させているようだった。


 無意識的に抵抗している……。

 そう感じた瞬間、楓は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。自分の過去から、無意識に逃げようとしている───そんな気がしてならない。心の奥底で感じる重苦しい圧力は、先ほどまで咲良と話していたときにはなかったものだ。


「……くそ……」

 小さく吐き出した声も、ひどく震えていた。脈打つ心臓の鼓動が、まるで耳元で大きく響くかのように感じる。咲良の正体、死に戻り、そして自分の過去……。すべてが繋がりつつある気がするのに、同時に恐ろしくてならなかった。

 もし、あの夢が本当に過去の記憶だったとしたら?

 記憶を失うほどの出来事とは、一体何だったのか?

 楓はふと、夢の中の事故の場面を思い出す。赤い光、車の轟音、誰かの必死な声、悲鳴、泣き声───。

 その瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。


「うっ……!!」

 楓は頭を押さえ、反射的に身体を縮める。耳鳴りが激しくなり、視界がぐらりと揺れる。頭の内側を誰かに無理やりこじ開けられるような感覚に襲われた。


 逃げてはダメだ。逃げたくない……でも───

 思考が断ち切られる。圧倒的な痛みが楓を床に叩きつけるようにして、彼はその場に膝をついた。過去を思い出そうとするたび、身体がそれを拒絶しているのがわかる。呼吸は荒くなり、汗が滲む額を冷たい空気が滑り落ちていく。


「……くっ……!」

 耐えがたい痛みの中で、楓は僅かに浮かび上がる記憶の断片を掴もうとした。鮮明ではないが、何かが見える───暗い夜道、赤く点滅する信号機、引かれるように伸ばされた手。


「あの夢が真実だったら……」

 震える声が漏れる。頭痛の波は徐々に弱まりつつあったが、恐怖はむしろ深まっていく。過去に何が起きたのか───その全貌が明らかになるのが怖い。もし、自分が何か取り返しのつかないことをしていたのだとしたら……。

 自分の過去かと考察してもそれを信じてこなかった理由が……ようやくわかった気がした。


 楓は膝をついたまま、息を整えた。動悸は少しずつ落ち着いてきたが、胸に残る不安の重さは消えない。

 ───それでも、向き合わなければならない。咲良の正体、夢の中の少女、高橋の言葉……すべての答えは、自分の過去にある。

 楓は震える手で再びスマホを手に取った。画面に表示された高橋の名前が、まるで目の前で彼を試しているかのように揺れて見えた。


「……思い出さなきゃ……。頼む……持ちこたえてくれ…」

 唇を噛み締めると、楓は意を決して指を動かした。


 高橋に聞きたいことがある。───それは、死に戻りについて。それだけだ。それさえ聞ければいい。


『高橋、今空いてる?』

 なんとか送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。

『空いてるよ。どした?』

 高橋からの返信を見た楓は、数秒間息を飲む。心の中に残っていたわずかな抵抗感を振り払い、意を決して文字を打つ。


『前に話してくれた、死に戻りの件について、もう少し探りを入れてほしい』

『あー、死に戻り?それなら、前に教えた日、家帰って詳しく調べてあるよ』

『本当か?』

 思いがけない返答に、楓は驚くと同時に期待を抱いた。高橋は、すでに死に戻りについて詳細な情報を掴んでいるらしい。

 数分かけて心にわだかまる抵抗を振り切り、楓はさらに深く尋ねることにした。


『だいたいな。どの点について疑問が?あ、待った。こういう話は電話でするべきか?文字打つの面倒やし』

『そうだな。そっちからかけてくれる?』

『了解』


 着信が鳴り、楓が電話に出ると、「もしもし」の挨拶もなく高橋はすぐに本題に入った。

 楓が知りたいことは山ほどあった。そして彼の中には、咲良の存在が死に戻りと深く関与しているのではないかという仮説が生まれていた。その仮説を確かめるためにも、この会話は重要だった。


「高橋、まずは死に戻りの定義について、もう一度まとめてくれないか?」

「いいよ。死に戻りってのはな───」

 高橋は、調べた内容をわかりやすく説明してくれた。


 高橋によると、「死に戻り」とは、一度現世で命を落とした人が、特定の未練や目的を果たすために再びこの世に戻るという伝承だという。それは、以前咲良が話していたことと一致していた。

 しかし、ここから先は高橋が独自に調べた内容だった。


 まず、死に戻りの目的は多くの場合、「未練の解消」や「果たせなかった約束」を果たすことだという。そして、死に戻りを果たした人物は、現世に溶け込むために自然と周囲になじむ特性を持っているらしい。その際、溶け込む手段として『偽名』が使われるケースもあると言う。


「死に戻りは、かなりややこしい話らしい。どうやら二度目の人生で未練の対象が気づいてくれなかったりして、後悔を晴らせずに終わった事例もあるらしい。これは諸説あるけどな」

「……偽名……」

 高橋の言葉に、楓は心の中に引っかかっていた違和感の正体がわかった気がした。なぜ夢の中で「はる──」と呟かれた名前が、水瀬咲良とは一致しなかったのか。もしかすると、水瀬咲良という名前自体が『偽名』なのではないか───。


「あと、これはとある文献に書いてあったものだかど、死に戻りって夢とも関係あるらしい」

「……夢……やっぱりか」

「予想通りだった感じか」

 高橋の言葉に、楓の中で再び一つの仮説が浮かび上がる。


 高橋によれば、死に戻りに関与する現象の一つが「夢」だという。夢そのものが何かを思い出すきっかけを作る役割を果たすことが多いらしい。また、夢だけでなく、特定の場所や物に対して既視感を覚えることもあるという。咲良の言っていた、副産物という言い方と繋げられそうだ。

 こうした現象が「きっかけ」となり、死に戻りの当事者と未練の対象者が過去を復元していくとされている。ただし、それが上手くいった例は少ないらしい。きっかけがあまりに抽象的すぎることが、解決を妨げる原因だという。


「何かほかに聞きたいことはあるか?」

「そうだな…。未練を解消できなかったら、死に戻りした人はどうなる?」

 それは、楓にとって避けて通れない疑問だった。もし咲良が死に戻りを経験した人間だとしたら、彼女の未練の対象は間違いなく自分───楓だろう。これまでの行動や言動がそれを裏付けている。

 だが、あの夢の中で現れた少女は、彼女が一ヶ月後に死ぬ運命だと告げた。

 なぜそう言ったのか。未練が解消されていないからなのか。それとも、もっと別の理由があるのか。その点に関連する情報を探れば、彼女の本当の目的に近づけるはずだ。


「あー、そこまではさすがに詳しくは分からんかなぁ。ただ、タイムリミットがあるんじゃないかって噂は書いてあったな。けど、それ書いてたの、なんか信憑性に欠けるサイトでさ……有力な説とは言えん」

「……そうか」

 楓は肩を落としながらも、高橋の言葉にわずかな光を見いだした。

 タイムリミット───それがただの噂だったとしても、死に戻りには何らかの期限がある可能性が示唆された。彼女が一ヶ月後に死ぬとされる運命と、このタイムリミットの話が結びつくならば、その期間内に未練を果たせば、彼女の「死」という運命を変えられるかもしれない。


 死に戻りの目的は───未練を果たすこと。後悔を晴らすこと。もしその条件を満たせば、夢で語られた運命が覆る可能性はある。そんな希望が頭の片隅に芽生える。

 一刻も早く、彼女が抱える未練を理解し、それを晴らす方法を見つけなければならない。それが楓自身の使命であり、彼女を救う鍵だと信じた。


 夢の少女は彼女の死を告げた。だが、夢は夢でしかない。現実はそれに縛られるものではないはずだ───少なくともそう信じたい。もし咲良が死に戻りの人間だとしたら、その使命が果たされることで運命は変わるかもしれない。

 彼女を救う道があるとすれば、それは夢の外、現実の中に存在するはずだ。

「他には何か聞きたいことはあるか?」

「うーん、とりあえず大丈夫かな」

「そうか。にしても……黙ってたけど、こんなに楓が真剣になるってことは、また水瀬の件か?」

「察しがいいね。……僕の仮説だけど、水瀬さんが死に戻りをして、二度目の人生を生きている可能性が高いんだ」

「えっ!? マジかよ……!」

「そう。それで、電話して死に戻りについて詳しく聞きたかったんだ。彼女の行動と共通点があるかもしれないと思ってね」

「なるほどな。それで、手がかりは掴めそうか?」

「まだ確証はないけど、なんとかなる気がするよ。……ごめんな、テスト期間中なのにこんな話をして」

「えっ? 全然気にすんなって! 俺なんてテスト勉強してないし!」

「やっぱり高橋はいつも通りだな」

「なんだよその言い方! すっごい失望された声に聞こえたんですけど!」

「いや、高橋らしいなって意味だよ。……ありがとう、助かった」

「いやいや、ほんと気にすんなってば。また何かあれば、いつでも聞けよ」

「ありがとう。じゃあまた」

「おう、またな」

 電話を切った楓は、深く息を吐きながら、記憶の中にぽっかりと空いた穴を埋めるように思考を巡らせた。

 夢の中で見た情景は───きっと真実だ。夢が過去の経験に基づくものならば、あの少年のように自分もまた事故に遭ったはずだ。その記憶が封じられているだけで。


 思い返せば、夢に現れたのは夏祭りの日の風景。この街の夏祭りは毎年七月末から八月初めにかけて行われる。もし夢が過去の記憶だとしたら、事故の日も特定できるはずだ。さらに、夢の中の二人は成長していた───少なくとも高校生の姿だった。

 そう考えると、今高校二年生である自分が事故に遭ったのは、一年前の夏祭りの日───そう結論付けられる。


 楓の中で、点と点が少しずつ繋がり始めていた。事故の真相、夢の少女の言葉、そして水瀬咲良の正体。それらを確かめるための材料は揃いつつある。残るは、真実に手を伸ばす勇気だけだった。

 楓はスマホを手に取ったまま、画面を見つめて動けずにいた。

 指先はすぐにでも検索窓に触れられる距離にあるのに、なぜか手が震える。胸の奥に、言いようのない重圧がのしかかっている。


「……本当に、調べるべきなのか?」

 独り言のように呟いた声は、どこか遠くで響いているようだった。検索すれば、確実に何かが変わる。それが過去の真実であれ、ただの偶然であれ、もう元には戻れない気がした。


 見たくない。見たら、全てが崩れてしまうかもしれない。

 けれど───ここで逃げたら、彼女のことも、夢のことも、そして自分自身すら理解できないままで終わる。


 「知りたいんだ……本当のことを」

 意を決してスマホの検索窓に指を置く。そして、ゆっくりと文字を打ち始めた。

 「xx県 高校生 車両事故 20xx年 8月」


 文字を入力し終えると、楓は深呼吸をして画面をタップした。検索結果が表示されるまでのわずかな時間が、永遠に思えるほど長く感じられた。

 そして、ついに───。


 その事故の真相を記した、ひとつの記事に辿り着いた。


**

 

【事故】高校生二名が車両事故に巻き込まれ、一名死亡 もう一名は重体 20XX年8月1日 午前8時00分配信


 〇〇県△△市 — 7月31日夜、△△市の交差点で発生した車両衝突事故により、高校生二名が巻き込まれました。現場では、乗用車と歩行者が衝突し、被害者のうち一名が死亡、もう一名が重体となっています。


 警察による発表によると、亡くなったのは市内に住む高校一年生の桜井春香さん(16歳)。もう一名の被害者は、同じ高校に通う霧島楓さん(16歳)で、現在意識不明の重体で市内の病院に搬送されています。


 事故が発生したのは、△△市中心部の国道沿いに位置する交差点です。当時、付近では地元の夏祭りが行われており、多くの歩行者で混雑していました。目撃者の証言によると、「桜井さんと霧島さんが隣り合わせに横断歩道を歩いていると、突然猛スピードで車が突進してくるのが見え、咄嗟に桜井さんが庇おうと肩を押した」との事らしく、直進してきた乗用車と衝突したとのことです。


 衝突した乗用車を運転していたのは、△△市に住む会社員の男性(32歳)で、警察は過失運転致死傷の疑いで現行犯逮捕しました。調べによると、男性は制限速度を超えるスピードで運転していた可能性があり、信号無視も疑われています。

 事故現場には献花台が設置され、多くの人々が犠牲者を悼んでいます。桜井さんの知人は「明るくて優しい子だった。なぜこんなことに」と声を詰まらせました。また、霧島さんの無事を祈る声も多く、SNSでは「#衝突事故」「#霧島楓」のハッシュタグが拡散しています。


 警察は現在、現場の防犯カメラ映像や目撃者の証言を基に、事故の詳細な状況を調査中です。


**


 ニュースを読み終わる頃には、心臓が早鐘のように打ち、気づけば涙が頬を伝っていた。信じられない内容だった。

 庇うように肩を押した───その文面は、夢で見たあの事故の光景と全く同じだった。

 そして目に飛び込んできたのは、記事の中に記されていた名前。


 ───桜井 春香(さくらい はるか)


「……はる……か……?」

 その名前を口にした瞬間、胸の奥から溢れ出す感情が理性を圧倒する。

 「うぅっ……!!」

 頭痛が容赦なく襲いかかり、視界が揺らいだ。次の瞬間、これまで断片的だった記憶の破片が一気に結びつき、過去の出来事が鮮明に蘇っていく。


 ───夏祭りの夜、響き渡るブレーキ音。突き飛ばされる感覚、そして車とぶつかる音。

 肩を押した春香の表情。その目に映ったのは、自分を庇う彼女の決死の覚悟。

「……あの時の……!」

 映像のように脳内で再生される記憶の数々。そのどれもが楓の心を切り裂くように苦しいもので、生々しいほどの痛みを伴っていた。

 記憶を塞いでいた壁が完全に崩壊したとき、楓は全てを悟った。


「春香……!」

 涙が止まらない。その名前がすべての謎を解き明かしていく。

 転校生、水瀬咲良。あの穏やかな微笑みや、どこか懐かしい仕草。彼女が水瀬咲良ではなく、桜井春香であることを確信した。

 春香は自分の命を犠牲にして楓を守った命の恩人だったんだ。そして、彼女はその未練を抱えたまま───死に戻りをしてここにいる。


 思考がまとまり始めた矢先、視界が急激に揺れた。頭痛と吐き気、そして全身の力が抜けるような感覚に襲われる。

「……くそ……っ」

 楓は倒れそうになる体を必死に支えた。ここで倒れてはいけない。目を背けてはいけない。これは自分自身の過去だ。


 ───現実から逃げるな。

 彼女の犠牲があったから今の自分がある。それを曖昧な記憶のまま放置してきた自分を、彼は心の底から責めた。なぜ、今までそれを放ってきたのかと。

 涙でかすむ視界の中で、楓はようやく言葉を絞り出した。


「……だから……記憶が無かったのか。春香に助けられて……重傷を負った僕は……助かった代わりに記憶を失ったんだ」

 今なら全てのピースが繋がる。事故の後に訪れた空白の時間、自分の中にあった漠然とした罪悪感。そして、咲良の正体。


 彼女が戻ってきたのは、楓のためだった。

 だが、それならなぜ何も言わないのか?どうしてその真実を隠しているのか?

 胸を締め付ける疑問が、楓の中でますます膨らんでいく。


 彼は深く息を吐き、涙を袖で拭った。震える手でスマホを握りしめながら、決意を固める。

「春香に……会わなきゃ」

 目の前の霧が晴れつつある。これ以上迷うわけにはいかない。彼女の想いを知り、そして彼女を救うために、楓は動き出す準備を始めた。

 

 そのためには、現実の「咲良」ではなく、夢の中のあの少女───桜井春香に逢いに行くべきだと、そう自然に思った。


**


 夜になり、彼女に会いに行くと強く心に誓い、眠りに落ちると、再びあの場所にたどり着いていた。何度も繰り返し見てきた、あの夢の中の風景───しかし、今はもう、どこか遠くから聞こえる音や香りが現実と繋がっているように感じる。


 自分が夢の中だと気づいたとき、楓は足元を見つめながらも、何かしらの決意が心に沸き上がってくるのを感じた。小走り気味に、あの大きな桜の木の元へ向かう。いつもより足取りが軽い。だけどその胸の中には、なぜか重いものがひしひしと圧し掛かっている。


 夢の中での彼女との再会が、いよいよ明確なものとして近づいてきたからだろうか。春香───その名前を知った今、もう何も迷うことはない。


「……答え合わせをしないといけないんだ」


 楓の声は、夢の中の空気に溶け込むように消えていった。彼女にその真実のすべてを話してもらわなければならない。そして、自分が抱えている疑問の答えも。春香が何故、転校生として現れ、そして死に戻りの人間だと知ったのか。あの時感じた違和感、その理由もすべて。


 今まで、あの夢の中では何も知らないフリをしていた。しかし、もうその役割は終わりだ。自分が記憶を取り戻した今、彼女に真実を問い直さなければならない。


 桜の木が近づくにつれて、風がそっと楓の髪を揺らす。もうすぐ、あの場所にたどり着く。そして、彼女がそこにいるのだろう。そう信じて、楓はゆっくりと歩を進める。


 そして、ついに桜の大木の下にたどり着いたとき───


 彼女の姿が、ぼんやりと見え始めた。


 その後ろには、少し遅れて花びらが舞い落ち、まるで彼女を迎えるように桜の花が揺れている。どこか不思議な、幻想的な空気が漂っていた。

 目の前に立つ少女。髪を少し風になびかせ、静かに楓を見つめている。


「───春香、か?」

 その名前を、楓は震える声で呼んだ。彼女は少しだけ微笑んで、何も言わずに頷いた。

 

「早かったのね。その顔は……全てを理解した、と解釈していいかな?」

「……あぁ。答え合わせをしたいんだ。」

 楓の声は落ち着いているようでいて、内心では波立っている。ついにこの瞬間が来た。すべてを知り、受け入れなければならない時が。


「いいよ。楓がどれだけ現状を理解してるか、聞かせてもらおうかな。」

 春香は穏やかな笑顔を浮かべながら、楓の目を見つめる。その目には、どこか遠くを見つめるような深さがあり、言葉一つ一つが楓の胸に響く。


「分かった。」

 楓は力強くうなずき、目を閉じる。少しの間沈黙が流れ、心の中で何度も決意を新たにした。逃げるわけにはいかない。この瞬間を乗り越えなければ、前に進むことはできない。

 そして、ゆっくりと口を開く。


「あなたは死に戻りをした人。過去のあの交通事故の後命を失い、未練を抱えたまま二度目の現世に降臨した。そして、水瀬咲良という偽名を使い転校生として……僕の記憶を復元するヒントを、要所要所で与えていた。」

 言葉が一つ一つ、ゆっくりと明確に紡がれていく。楓の声は震えを帯びることなく、しかしその中には重い決意が込められていた。春香は一度、目を細めてその言葉を噛みしめるように聞いていた。


「うん、正解。じゃあ、なぜ私が死に戻りしたと、確信できたの?」

 春香の問いは、楓の心の奥にある疑念をさらけ出すような鋭さがあった。けれど、楓はその目をしっかりと見据えた。


「それは……高橋のヒントからだった。」

 高橋。楓にとっては、すべての糸の絡まりを解いた人物だ。夢の中で感じた違和感、そして高橋から得た情報。それがすべてを繋ぎ合わせた。


「高橋が言っていたこと、それは夢との関連性や偽名などだ。」

 楓は続けて語る。春香の表情が少し変わる。興味深そうに、でもどこか穏やかな笑みを浮かべている。


「夢であなたの名前を呼んだ時、はる、としか聞こえなくて、名前の輪郭が分からないままだった。だけど、高橋から、死に戻りをした人間は、その世界に馴染みやすく偽名が使われることも多いと知った。だから、現実で噛み合わなかった違和感が結びついた」

 楓が言い終えると、春香は少し黙り込み、目を伏せた。その沈黙は長く感じられたが、やがて彼女はゆっくりと顔を上げ、満足げに微笑んだ。


「……なるほど。完璧よ。」

 その言葉に、楓はほっと胸を撫で下ろすような感覚を覚えた。


「これが僕の結論」

 春香はその言葉に少しの間静かに頷くと、再び楓に目を向け、真摯な表情で言葉を続けた。


「やっと気づいてくれたんだね、楓。認めるよ。」

 春香のその一言に、楓は全身が震えるのを感じた。彼女がここで全てを認めるということは、もう後戻りはできないということだ。今、彼女は全てを明かし、楓にその真実を伝えようとしている。だが、それと同時に楓は、この瞬間を待ち望んでいた自分にも気づく。


───私は、桜井春香。過去に事故であなたを助けた代償に、命を亡くした。そして、死に戻りによって現世に戻ってきた人間だよ。


 その言葉は、楓の胸を打つ。全ての謎が解け、心の中で渦巻いていた答えが、やっと形を成した瞬間だった。楓の目の前に立つ春香。彼女の優しい表情に、過去の苦しみや悲しみが見え隠れするように思えて、楓は思わず口を閉ざす。


 春香は少し間をおいてから、静かに話し続けた。


「でも、楓。あなただって、事故の時に何かを失ったんだよね?」

 その問いは、楓の心を再び痛ませる。あの事故で何を失ったのか。もう一度、心の中でその答えを探し始める。しかし、答えはすぐには出てこない。思い出そうとすればするほど、心の奥に沈んだ記憶が蘇る。


「……記憶だ。僕は事故のショックで、記憶を失ったんだ。」

 春香はゆっくりと頷き、優しくその言葉を受け入れた。


「それが、あなたがこの世界を生きる上での代償だった。記憶を失うこと、それが一番辛かったことでしょう?」

 楓は黙ってうなずく。その痛みは言葉では言い表せない。全てを失ったように感じたあの日。今となれば思い出すのにここまで痛みを感じるとは思っていなかった。それでも、今こうして春香と向き合うことで、その過去を受け入れる準備が少しずつ整っていく。


「……そうだ。失ったのは記憶だけじゃない、感情も、過去の一部も。あの日、あの瞬間に全てを失った気がして。」

「でも、それはもう過去のこと。あなたが今、立ち向かおうとしていることが、これからのあなたを作るんだよ。」

 春香のその言葉には、強い意志が込められている。楓はその言葉に励まされ、少しずつ自分の内面を見つめ直すことができるようになった。

 春香は微笑みながら続けた。

「だから、私はもうあなたに答えを渡した。あなたが過去を乗り越え、前に進むことが私の願いだから。」

 春香は言葉を終えると、ゆっくりと歩み寄り、楓の目をしっかりと見つめた。その瞳の奥には、穏やかな決意と深い悲しみが混じっている。


「全ての現状に楓が気づいた今、私の運命は定まった。私は、楓の失った記憶の全てを知っているんだ。あなたが望むのであれば、あの後どんなことがあったのか、なぜ私だけの記憶が消えたのか……全てを答えることができるし、過去を補填することができる。」


 春香の言葉は、まるで楓が抱えていた空白を埋める鍵そのもののように響いた。それでも、その内容がどれほど重いものなのか、楓にはまだ想像がつかなかった。


「……春香は…全てを知ってるのか…?」

 楓は震える声でそう問いかけた。彼の胸の中で、希望と恐れが交錯している。もし本当に全てを知っているなら、彼はその真実にどう向き合えばいいのか。


「うん、だけど、正直に言うとあなたの穴の空いた過去は……形容しがたいほど良いものとは言えない。もし、それを聞くのなら、覚悟は必要になる。」

 春香の言葉は、楓の心に重くのしかかる。過去の真実には、どれほどの痛みが隠されているのだろうか。彼はその覚悟を決めなければならないと、心の中で確信した。


「……」

「違和感は残ってると思うの。事故に遭って記憶を失ったのなら、なぜ高橋を初めとする他の生徒たちは記憶が戻り、私だけ言及されなかったのか。なぜみんな、私のことが前世の桜井春香と気づけないのか……とかね。」

 春香の言葉は、楓がこれまで抱えてきた疑問を、まるで引き出すように口にした。それは彼がずっと心の中で感じていた不安、そのものだった。


「……僕は、もう逃げたりしたくないんだ。教えて欲しい。」

 楓はその言葉を絞り出すように告げる。心の中で、もはや後戻りはできないと覚悟を決めた。過去の謎に向き合い、真実を知ることでしか、先に進むことはできない。


「……。本当に?」

 春香は少し驚いたように、しかしどこか優しさを込めて問いかけた。彼女の目には少しの不安が浮かんでいたが、楓の決意は揺るがなかった。


「もちろん。」

 楓はその一言を力強く返した。どんなに辛い話が待っていようと、もう逃げるわけにはいかない。


「……分かった。あなたが望むのなら、楓が過去に経験した一年の空白について明確に語ってあげるね。それと、断片的だった夢の中で見た、過去の記憶についても、全て答えを教えてあげる。」

 春香の言葉に、楓はうなずく。それが、彼にとって最も必要な答えであり、過去を乗り越えるための第一歩であることを理解していた。


「……」

「これから話すことは、何度も言うけど、かなり重い話になる。心して聞いてね。」

 春香は静かに息をつくと、ゆっくりと楓の前に座った。その姿勢には、これから語るべき重い真実に対する覚悟が感じられた。


「……分かった。」

 楓は目を閉じ、心を落ち着けようとする。これから聞くことがどれほど辛いものか、分かっている。しかし、楓はそれを受け入れる準備ができていた。過去を知り、受け入れることで、初めて自分を取り戻すことができるのだ。

 春香は、楓が自分に向き合おうとするその姿を見守りながら、再び口を開く。


「楓……これから話すことは、あなただけでなく、私にとっても辛いことになる。けれど、もう逃げないで。私も逃げないから。あなたがその真実を知りたいと思ってくれたから、私は答えるよ。」

 その言葉に、楓は深く頷いた。覚悟を決めた目で春香を見つめる。その瞬間、時間が少しだけ静止したように感じた。

 春香は静かに、だが確かな決意を持って、話し始めた。

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